一章
1
雪が降っていた。 分厚い雲と降り続く雪に遮られ、月も星も全く見ることができなかった。 窓から見える給水塔の中には、男女が一組立っていた。 男は長身で痩せていた。瞳が鋭く冷たい。 ややあって、男はゆっくりと女の後頭部に右手を伸ばした。リボンを解かれた髪は緩やかにひろがっていった。 リボンは緩慢に流れ落ち、視界から消えていった。 男は満足げに唇の端を上げた。 男の唇が女の唇に軽く触れ、離れる。 給水塔の中では、未だ二人は口づけていた。 ――ピピピピピ、ピピピピピ、ピピピピピ、……。 2 昨晩に降り止んだ雪は、夜と早朝の冷気によって凍らされ、簡易アイスバーンとなっていた。陽光の暖かさと雲の少なさからして、昼前までには溶けるだろうとは思われるが、登校時には、靴で疑似アイススケートを楽しむ子供たちの様子が見て取れた。 落合はその風景を横目でちらりと見やり、軽く微笑する。だがすぐに視線と表情を戻し、廊下を歩いた。 校舎は生徒たちの喧噪で溢れていた。始業のベルはまだ先だというのに、校内にはもうたくさんの生徒が登校を完了していた。 落合はその間を悠然と歩き、屋上へ向かう。本来、三階から上は生徒の立入は禁止なのだが、そんなことを気にする素振りは、全くなかった。 屋上は一面雪化粧をしていた。誰の足跡も付いておらず、白い絨毯を敷き詰めたような錯覚を覚える。それが朝日に照らされ、きらきらと輝いていた。 その絨毯は、一歩進むたびに靴を飲み込む。それでも落合は普段と変わらない足取りで、給水塔へと向かった。 給水塔の前には、男が一人立っていた。 落合にはその人物が意外であったようで、軽く眉を上げ、歩みを止めた。 「お前だったのか」 そう言って、男が落合の視線を受けた。 黒木舜である。彼は冷たい瞳で落合を見ている。 なにが、とは落合も問い返さない。黒木がここにいるのだ。そのような不粋な質問をするまでもなく、わかりきったことである。 「なかなか、気がつくのが早いね」 落合は微笑した。 「当然だ」 黒木も微笑を浮かべる。 二人はお互いに笑みを浮かべているが、穏やかにはほど遠い雰囲気だった。むしろ、冷たい張りつめた空気が、時がたつにつれて充満していった。 ややあって、黒木が落合に問う。 「お前は何者だ?」 「転校生さ」 至極当然のことにように、落合は答えた。 「ただの転校生ではあるまい」 「さあ」 落合は韜晦の笑みを浮かべた。 ほう、と黒木が目を細める。それで、明らかに周囲の雰囲気の温度が下がった。 「何を企んでいる?」 「たいしたことじゃない」 韜晦した笑みのまま落合は答えた。 「事を正道に戻す手伝いをするだけさ」 「正道?」 黒木が嘲笑する。彼の場合、その笑みさえも、凍てつくほど冷たい。 「なるほど。そういうことか」 そう続け、黒木の嘲笑は深まる。 「つまり、私と相対するわけだな」 「まあ、そういうことになるね」 落合は、それでも韜晦の笑みを崩さない。 黒木が、その笑みに向かって鼻で笑った。 「無駄なことを」 「そうかな? 現に僕はここにいるし、もうしばらくしたら、彼もここに来るだろう」 「部外者のお前は、私たちに関われない。そういう契約だ」 言葉で相手との間に溝を引くということがあるのなら、今の黒木の言葉がそうだろう。完全に他者を寄せ付けない口調だった。 契約か、と落合が感情の読めない口調で繰り返す。 「確かにそうだろうね」 含みのある口調である。それに気づいた黒木が視線で先を促す。 「残念だけど、僕は部外者じゃない。少なくとも、君に関われるぐらいは、関係者さ。協力者もできたしね」 落合はあっさり答えた。 それを聞いて、黒木は笑みを収める。 急速に周囲の温度が下がった。それは、今までの雰囲気による寒気ではなく、実際に気温が下がっているようである。 さしていた陽が急に翳った。冷たい物が頬に触れ、それが雪だと知れるのに、しばらく思考の時間を要した。ちらちらと降る雪は、学生服の黒と相まって、黒木の白皙を際立たせた。 美しいな。落合は正直にそう思う。だがその美しさは、完全に暖かみを欠いている。生あるものの持つ美しさではない。 黒木は、閉じていた唇を再び開く。 「気づいたのか、奴は?」 重く暗い口調だった。視線には、先ほどあった余裕が消えている。ただその変わり、突き刺すように厳しい眼光である。 しかし、落合はそれに全く動じた様子を見せない。 「さあ。君の敵である僕に、そこまで答える義務はないと思うけど」 髪に手をやり、絡まった雪を払った。 なるほど、と黒木が答える。 「おまえも奪いに来たのだな」 その言葉は、落合にとって少し意外だった。へえ、と少し驚いた表情になった。 「誰にも渡さない」 黒木が言葉を続ける。眼光に殺傷力があれば、確実に落合は殺されているであろう。それほどきついものだった。そして、その色は憎しみに染まっている。 雪の勢いが目に見えて強まった。いつの間にか、周囲は夕方のように暗くなっていた。 校門を通り抜けたとき、頭上に冷たいものを感じた裕介が上空を見上げると、いつの間にやら雪がちらついていた。先ほどまで晴れていたのにな、と思いつつ、裕介はコートの襟を締めた。 「また雪かよ」 自然、嫌な気分が倍増する。裕介は学校に積極的に行きたいタイプではなく、半ば義務的に通っているだけにすぎないから、登校中はそれほど良い気分ではない。そこに、やんだと思われていた雪である。気分が沈むこと甚だしい。 まったく、とため息をついて、裕介が視線を上空から戻そうとしたとき、ふと気になるものが目についた。 学校の屋上に、二人の男が立っているのである。給水塔の前で相対する二人は、遠目でもわかる。 黒木と落合だ。 あまりにも奇妙な取り合わせに、裕介は少し興味をひかれた。立ち止まり、何をしているのだろうか、と屋上を注視した。 勿論、ここからでは二人が何を話しているのかは、聞こえるはずがない。だがあまり仲良く話している風には見えなかった。お互いに悠然と立っているだけだが、雰囲気は悪い。もっとも、この二人が仲良くじゃれあっている姿というのも、想像の限界を超えるのであるが。 しばらくして、ここからでは何もわかるはずがないということに気づき、裕介は急速に二人から興味が失せていった。視線を戻し、校舎へと向かう。 歩くとき、裕介の視線は、前方ではなく下方である。俯き加減に進むのだ。堂々と歩く性格ではない。校舎へ向かう今も、俯き加減で歩いていた。 校舎前の石段は、登校中の生徒でごった返している。たくさんの男女が行き来していた。その中で、ガラス戸前でこちらを向いて立っている人間に、裕介は気がついた。 視線は下方なので、まず足が目に入る。ぶつかるわけにもいかないので、避けながら視線を起こし、そいつが誰だか初めてわかった。 立っていたのは、南一葉だった。登校後にここに来たのだろうか、コートも鞄も持っておらず、その冷たいような哀しいような視線で裕介を見ていた。 知らず、裕介は足を止めていた。 妙な違和感を感じた。それがなんなのか、裕介はすぐに思いつく。南は一人なのだ。横に黒木はいない。 一人の彼女を見たのは初めてではなかろうか。裕介はそうぼんやりと思う。 やがて、南が口を開いた。 「――――」 何かを言ったようだが、それが音となって裕介の耳に届かない。 そもそも、裕介に話しかけたのか、それとも他の奴に話しかけたのか、あるいは呟いただけなのか、全くわからない。そんな風に考え、裕介は反問するのを逡巡した。 「―――け」 南は、もう一度同じように口を開いた。 今度は、最後の方だけが微かに聞こえた。それでも、相変わらず何を言っているのかはわからない。 裕介は、とりあえず自分を指差し、自分に用があるのかを問い質した。 しかし、南は首を横にも縦にも振らない。冷たい瞳のまま裕介を見つめていた。 わけがわからない。裕介は一息ついて、視線をそらした。すると、じゃりと靴の音がする。南を見直すと、彼女は踵を返し、校舎内に入っていった。 「なんなんだ、いったい……」 裕介は戸惑いを隠さず、去っていく南の後背を眺めてしまった。 南は一度も振り返らず、廊下の向こうに消えていく。裕介が我に返ったのは、それからしばらくして、冷たい風が吹いた後だった。 教室に入ると、ストーブの熱気が身体を包み、頬が熱くなった。窓の方に視線をやると、いつの間にやら雪がやんだようで、登校時のように陽が射していた。とりあえずほっとした裕介は自分の席に座り、始業のベルを何をするでもなく待つ。 寒暖差による暑さが、しばらくすると身体から去った。それは眠気を誘う心地よさで、裕介はそれに逆らわず、机の上に突っ伏した。 すぐにうとうととする。夜遊びをしているわけでもなく、きっちりと七時間ほどの睡眠をとっているが、眠いものは眠い。裕介の意識は次第に遠ざかっていった。 しかし、すぐに始業のベルが鳴り、裕介は叩き起こされる。鬱陶しげに上体を起こすと、教室の扉が開いて担任教諭が入室してきたのが見えた。 これから、また平凡な一日が始まる。 そのはずであった。 3 三限目の古典が終了する。 しかし、古典担当教諭の金子は、すぐには教室を去らなかった。あー、とゆっくりした口調で裕介を呼ぶ。 「中谷君、放課後私の所まで来てくれるかな」 裕介は眉を上げた。 呼ばれる理由が思いつかない。クラス委員でも古典担当係でもないから、手伝いというわけでもなさそうだ。だからといって、不祥事を起こしたわけでもない。知らず、何故だという表情をつくっていた。 金子は理由を語らなかった。 「必ず来てくれたまえ」 そう念を押して、教室を去っていった。 裕介は、少し茫然とする。そもそも金子という老教師は、春風駘蕩とした為人で、それほど物事に執着しない。宿題を忘れても怒らないし、授業中に騒がなければ、寝ていても注意もされないという教師である。念を押す、というタイプではない。 その金子が、必ず来るようにと念を押したのだ。裕介ならずとも、茫然とするだろう。その証拠に、友人未満のクラスメイトたちが集まってきて、口々に尋ねてきた。 「おい、中谷。いったい何をやったんだ?」 「金やんから呼び出しくらうなんて、よっぽどだぜ」 皆説教を喰らうものだと決めつけている。皆にそう言われると、裕介自身に心当たりがないとしても不安になってくる。それをとりあえず心中に押し込め、知らない、と野次馬たちに首を横に振った。 土曜の放課後は四限目終了後である。残りの一時間を裕介は、呼び出しの心当たりを探ってすごした。 結局、思い当たることなく金子の部屋に向かうことになった。 金子は、普段職員室にはいない。図書館事務室にいるのだ。この老教師がそこにいるのは、裕介たちが生まれる前からの習慣なので、この学校の生徒なら誰でも知っていることである。 勿論、裕介も図書館事務室の方に向かう。 ここの学校では、図書館は校舎内にはない。少し離れた旧校舎跡に、大きい図書館があるのだ。蔵書量は目を見張るものがあって、読書家にとっては垂涎の的である。ただし、学内では読書の風潮が無く、宝の持ち腐れではあった。 校舎から旧校舎跡の図書館までは、一旦靴を履いて外に出なければならない。もう一度、教室に戻るのも面倒なので、裕介は帰り支度も万端にして向かった。 準備室に入ると、中には二人の人物がいた。 一人は、当然金子である。 もう一人は、学生服を着た生徒であった。それもクラスメイトである。 「落合」 裕介は吐き捨てるように呟いた。 ああ、と金子が裕介の入室に気がついた。 「よく来たね。こっちに来て座りなさい」 穏やかな口調だった。これから説教をする、という感じではない。 ではいったいなんなんだ。そう疑問に思いながら、裕介は金子の言葉に従い、指し示された椅子に座った。そして、金子の横に立っている落合を見る。 その視線に気がついたのだろう。金子がその答を言う。 「落合君も呼んだんだ」 「はあ」 裕介としては、そう頷くしかない。心中は嫌なのだが、そう露骨に言うわけにはいかないのである。 「外は寒いだろう」 穏やかな口調で言いながら、金子は裕介にお茶を出した。そうですね、と答えながら裕介は頭を下げる。裕介としては、お茶なんかはいらないから、早く用を済ませてもらって帰りたいのだが、それを自分から切り出さないところに裕介の裕介たる所以があった。 出されたお茶を啜りながら、金子の言葉を待つ。 しばらくして、中谷君、と金子が呼びかけてきた。 「はい」 裕介は湯飲みを置いて、少し身構える。説教ではないと推測したものの、所詮は推測でしかない。実際は、どうかわからない。 「最近、君に変わったことはないだろうか?」 金子が、そう問うた。視線も口調もいつも通り穏やかなのだが、少しだけ違和感を感じる。 「変わったこと、ですか?」 「そう。何でもいいんだ。ここ一週間ほどで、何かあるんじゃないかな?」 金子の視線が裕介の瞳を捕らえた。 裕介は少し黙る。 金子の言葉は質問だが、実際は確認のような気がする。そこが違和感の正体だろう。裕介はそう判断した。 「何があったか、知っておられるんですか?」 裕介は、逆に問い返す。口調がぶっきらぼうになったのは仕方がないことだろう。他人に自分の知らないことを先に知られているというのは、不愉快なことである。 金子が、ふっと笑う。落合などがすると、不快感を煽っただけだが、そこは年の功というのだろうか。そういうことはなかった。 「実際のところは知らないんだよ。君に変わったことがあったことを推測できる。その程度なんだ。君が不愉快になるのもわかるけれど、君にとっても大事なことなんだ。少し協力してくれないかね」 ゆっくりと金子が語った。その後、喉が渇いたのか、自分のお茶を啜った。 裕介は、まだ黙ったままである。頷きもしない。ただ視線を金子に返しているだけである。 何かが、自分の知らないところで進行している。そういう懸念が裕介にはあった。それは、裕介自身も関わっていることらしく、その点がとても不満であった。 「その推測したことっていうのを、聞きたいですね。ちょっと自分では判断しかねます」 裕介は、自分の過去を振り返ることなくそう言った。 金子が、そういう裕介を見抜いたかのように、疑うのもわかるけれどもねえ、と笑い、湯飲みを置いた。 「そうだねえ、何か違和感を感じたことがないかい?」 「違和感?」 裕介は無個性に問い返す。 「そう、いつもとかわらないのに、何かが違う。何かが足りない。そう思ったことはないかい?」 金子が、湯飲みに新しいお茶を入れた。自分の分と、裕介の分と。 気がつけば、いつの間にか落合も近くの席に座っている。彼は関係者なのだろうか。そういえば、落合と最初に交わした会話も、似たような感じだった。特に何か知っているという点において。 裕介は視線を下に落とし、考え込んだ。 確かに、感じたかと問われれば、感じたと答えても差し支えない経験があった。傘の件、手洗いとうがいの件、一人暮らしの件。恐らくそれのことだろう。他に思い当たる節はない。 しかし、何故その違和感を知っているのだろうか。例え推測したにせよ、推測できるに足る情報が必要なはずだ。 裕介は警戒心を強めた。 「なくはないですが、それが?」 きわめて冷淡に答えた。それは突き放す効果を持つだろう。そう考えた。 「それは何かおかしいと、そう思わないかな?」 裕介の警戒心を知ってか知らずか、金子が話を進める。穏やかな口調はまるで変わらない。とてもゆっくりである。子供に話を聞かせるような、そんな感じ。 「と、いいますと?」 「単純な話だよ。普通であれば、違和感を感じることはないんじゃないかな」 「まあ、そうですが」 それで何が言いたいんだ。裕介は視線でそう問うた。警戒心が高まっている上に、そう問うたのだ。自然、視線は鋭いものになっていた。 金子は、その視線を微笑でさらりとかわす。 「まあ、なんだ。実は、その違和感を私も感じたことがあってね。だから、そう推測できたわけだが。勿論、昔の話なんだけれども」 裕介は答えない。 金子は、構わず話を続けた。 「そして、大事なものを失った。本当に大事なものを……」 不意に裕介は、金子が自分を見ていないことに気がついた。目の前の老人は、遠い目をして、過去の映像を見ているのがわかった。 だがそれはすぐに元に戻り、現実を見る目になっていた。 「君は、私と似ているんだよ」 「は?」 「いや、性格とかそういうんじゃなくてね。今までに君に起こったことがね」 「……話がよく見えないのですが」 裕介は、金子を訝った。さすがにここまで至ると、金子にも落合に感じたような不快感を感じるようになる。 そうだろうね、と金子が頷きながら、机の引き出しを開けた。老教師が取り出したのは、何かの本だった。 表紙を見ると、それが卒業アルバムだということがわかった。それも相当古いものであることも。 金子は、その表紙を懐かしむかのように撫でた。 「ちょっとこれを見てくれないかな」 はあ、と頷きながら、裕介は卒業アルバムを受け取った。 何気なくアルバムを開くと、そこはクラスの集合写真であった。そのページには普通の写真が二・三枚挟んであって、開きやすくなっていた。 四十人ほどの男女が並んでいる。背後には、校舎とおぼしき建物の姿が確認できる。周囲の風景こそ、今とは違うが、桜の木やグラウンドに面影が残っている。この学校の卒業生だろう。 「これが?」 裕介は金子を見た。 「私のクラスだよ。ほら、ここに私がいる」 金子が写真の一部分を指差した。 そこには学生帽をかぶり、立っている男子学生がいた。確かに言われてみると、金子の面影が残っている。若き日の金子は凛々しいが、目が暗く沈んでいる。そのため、陰気な感じは拭えない。 「そして、ここにいるのは誰だと思う?」 金子が指を横にずらしていく。男子の最奥、端の生徒で止まる。その学生を見たとき、裕介は目を疑った。 長身痩躯で白皙の青年。冷たい瞳と冷笑を張り付かせた男性。 そんな馬鹿な、という思いが脳裏をかすめる。だが写真に写っているのは、そいつ自身にしか見えない。血縁とかいうレベルではない。明らかに本人だ。 「君の知っている人に似てはいないかね?」 金子が尋ねる。だが確認だろう。金子もそいつを知っているはずだから。学内の人間で、そいつを知らない奴はいないと思われる。 「黒木舜……」 裕介はその名を呟いた。顔を上げると、金子が頷いた。 「そんな馬鹿な」 もう一度見る。 黒木は変わらず立っている。 裕介はページを進め、住所録を見た。クラスを確かめ、まず金子の名前を見つける。そこから下り、黒木舜の名を探す。 ない。 裕介は息を一つ吐いた。 「合成ですか」 タネがわかりましたよ、という口調で言った。 しかし、金子は首を横に振る。 「いや」 「でも、住所録の方に名前はありません」 「そうだね。この写真にも、昔は彼の姿は写っていなかったよ」 金子がとんちんかんなことを言い出した。 「だったら――」 「しかし、私が思いだしたとき、見えるようになったんだ。私がここに赴任したときの話で、四十年くらい前になるかな」 「話が見えませんけど」 「そうかもしれないね。でも、全部真実として聞いてくれないかね」 裕介は鼻で息を吐いた。 「写った当初は黒木の姿はなくて、先生がここに赴任して、何か思い出したとき、黒木の姿が映った、と。まるであぶり出しのように。それが四十年くらい前の話だと。そういうことですか?」 揶揄した口調になった。老教師に対して失礼なのかもしれないが、馬鹿なことを口走っているのだ。構わないだろう、という気分になっていた。 しかし、金子はそれを全く気にした態度を見せない。 「その通りだよ」 そう頷いた。 「で、何を思い出したんです?」 裕介は何気なく問うた。大した意味のある質問ではない。もともと、話自体を嘘だと思っているので、質問にも返答にも意義を感じないのだ。 「大事な人の存在だよ」 金子の口調が変わった。いや、穏やかさとスローなテンポは変わらないのだが、雰囲気が急変した。重くなったのだ。 「大事な人?」 そう、と頷きながら、金子がアルバムに挟まっていた写真を取り出す。 写っているのは女性で、柔らかく微笑していた。とても美しい人で、どことなく南に感じが似ている。 「誰ですか?」 「原田令子という人だ。私のクラスメイトで、親しかった女性さ」 「親しかった……」 この場合の親しさという意味を取り違えるほど、裕介は鈍感ではない。そういえば、金子は老齢でありながら独身だったはず。結婚していたという話も聞いたことがない。 裕介は、アルバムの方で原田令子を探そうとした。その試みに気がついたのか、金子が首を横に振る。 「いないよ」 言われた通り、原田令子は写っていなかった。 では他のクラスに写っているのだろうか、とページをめくっていく。 「どこを探しても写っていない」 金子の声が降りかかった。 「えと……?」 金子はクラスメイトだと言った。だから、最初は同じクラスの集合写真にいると思った。だがいない。次に、じゃあ違うクラスにいると思った。クラスメイトであったのは、三年の時だとは限らないからだ。それもいないと言う。 じゃあ、転校したか、それとも生別したか。この二つぐらいしか思いつかない。そういえば、金子は大事なものを失ったと言っていた。してみるならば、生別か。 「囚われたんだよ、彼女は」 金子がそう言った。 「誘拐されたということですか?」 裕介は、言葉を単純に判断してそう尋ねた。 「似てはいるが、違う」 「じゃあ……?」 「文字通り、囚われたんだよ」 金子がそう答えながら、アルバムに写っている一人を指差した。 「彼に、ね」 そこには、黒木が写っていた。 「彼が令子に目を付けて、捕らえ、そして消した」 信じられない、という顔を裕介はした。普通に考えれば、信じられる話ではない。 「荒唐無稽な話だということは承知している。しかし、君にとっても大事なことなんだ。君もその時の私と同じようにされている」 「俺が?」 裕介は声を上げた。 そう、と金子が頷く。 「だから、彼を呼んだんだ。君まで手遅れにならないように」 金子が視線を落合にやった。 落合は頷き、ポケットから何かを取り出した。 名刺のようである。落合がそれを裕介に渡す。 受け取って見てみると、そこには、 『国際心霊調査協会日本支部局員 落合和規』 とあった。 あまりにあやしげな肩書きに、裕介は名詞をまじまじと見つめてしまう。 国際心霊調査協会なる組織を、裕介は見たことも聞いたこともなかった。それならまだ、国際捕鯨促進委員会の方がありそうな感じである。あまりにも、嘘っぽい。 「信じる信じないは君の自由だけどね」 そう笑い、ここで初めて落合は口を開いた。 「ただ金子先生が言っておられることが事実なら、黒木は、人ならざるものだと思わないかい? 普通、人は老いる」 確かにそうだ。だから、それ故に信じ難いのだ。人の姿をした人ならざるものの存在を、通常人は認めない。 「事実ならな」 「写真がある。証拠にならないかい?」 「写真なんて、いくらでも合成できる」 「合成してどうするんだい? 僕や金子先生が君を騙す理由はないはずだけど」 「それは……」 裕介は口ごもった。 そういわれると、そうなのだ。裕介をかついだところで、彼らに何の利益があるというのだ。裕介は目立つ生徒ではなく、金子と対で話したことは、今が初めてだし、落合は転校生である。昨日会話を交わしたのが最初の接触なのだ。裕介を騙して利益があると考えるには、あまりに裕介と縁がなさすぎる。 考え込む裕介に、再び金子が声をかける。 「黒木はね、恐ろしい術を使う。捕らえた者に関する記憶を全て消してしまう呪いだ。親・兄弟を含めた関係者全てからね。それは、写真やそういった記憶保管装置にも及ぶ。だから、私は令子の記憶を失っていた。令子の存在を忘れ、のうのうと暮らしていた。ここに赴任してきてしばらくたつまでは。最初はちょっとした違和感だった。校舎横に立つ桜の木を見て、誰かとそれを見ながら語らった気がした。それが誰なのかどうしても思い出せない。そういったことが、五年ほど続いた。気づいた時には、全て終わった後だった。令子は永久に失われた」 金子が、そこで話を切って目を閉じる。過去を思い出しているのか、悔いているのか、あるいはその両方か。裕介には判断がつかない。再び目を開けた時には、そのような色はどこにも見えなくなった。 「その術が君にもかかっている。それをつきとめたのは落合君だ。誰にかかっているか、素人の私ではわからないからね。彼は私の依頼で、来てもらった。最初に君に質問した時、一週間と限定したのは、彼が調査と解呪を開始した時から、ということなのだよ」 「つまり、落合が調査・解呪したから、俺が違和感を感じたということですか?」 「その通りだよ」 「ほう」 裕介は落合の方を見る。 落合は、相変わらずの微笑を浮かべたままである。 「解呪は完全ではないよ。完全には解けないものでもあるし。しかも、僕の存在に黒木はもう気づいている。彼はそれだけ強力だよ」 「そして、急がなければならない。もう時間はそれほど残されていないだろう。君には、私と同じ轍を踏んでほしくない」 金子がそう言葉を続けた。 「俺にも、黒木に奪われた大事なものがあるわけですか?」 裕介は金子の方に向き直る。 「つまり、俺にも先生の原田さんと同じ様な人がいて、今はその存在すら忘れているというわけなんですか?」 「ああ」 「それは誰なんです?」 「それは言えない」 答えたのは、落合だった。 どうして、と裕介は落合を睨む。 「部外者が教えた瞬間、それは事実として確定する。この術、いや呪詛といった方が的確かな、はそういう契約のもとに発せられている」 「何言ってんだか、全くわからない」 「今は仮定の状態なんだ」 「だから、何が言いたいんだ」 「つまり、僕が君に答を教えた時、君は永久にそれを失う」 落合が断言した。言葉の調子はいつもと変わらない。ただ妙な重みがあった。 「自分でそれを探せと言うのか?」 険悪な口調で裕介は問う。 存在を知らない相手を、どうやって探せというのだ。まったく馬鹿げている。 ああ、と落合は頷いた。 「僕は、金子先生の依頼という形で、この件に関われた。先生の依頼は、原田令子さん消失の原因究明。その過程で、君にかかっている呪詛を発見できた。そういうことになっている」 「なっている……?」 「そう。これは建前なんだ。そうしなければ、契約違反として確定されてしまう。そうならないためなんだ。しかし、これが限界の線。君の件に対して関われるのは君だけだ。だから、君が探さなければならない」 「納得はできないけど、言いたいことはわかった」 裕介はそう答えた。 話自体の辻褄は合っている気がする。だが言葉通り、納得はしていない。 「それじゃあ、俺がお前を雇う、と言えばいいんだな。そしたら、お前は正面切って関われるんだろ」 「残念ながら無理だ」 落合は首を横に振る。 「どうして? 俺には雇われたくないってか?」 「そうじゃない。金子先生の依頼に応じられたのは、それが、原因究明だったからなんだよ。もう原田令子さんは失われた後だった。だから関われたんだ。黒木の呪詛は強力なんだよ。契約者がいる間は、契約者以外の手出しは不可能だ」 「契約、契約っていうけど、俺はそんな契約をした覚えなんぞないぞ」 「知らないだけだと思うけど。君たちは普通、神社の賽銭箱にお金を入れる時、契約したという意識はないだろう。それと一緒なのじゃないかな。意識なくかわしてしまったかじゃないかな」 「ハメられたってことか?」 裕介はそう訊く。 「かもしれないね」 あっさりと落合は頷いた。 そうかよ、と裕介は、不快げに落合から視線をそらした。事実かどうかは別としても、騙されたと言われると、不愉快なものである。裕介はそれを隠さなかった。 中谷君、と金子が呼びかける。 「辛いよ。大事な人を失うのは」 そう老教師は締めくくった。 4 天井は、いつもと変わらない模様である。それは、裕介が二時間前にベッドに寝転んでからも変わらない。 当然である。 変えていないのだから、変わるわけがないのだ。 人間関係にしてもそう。変えていない以上、変わっていないはずである。 しかし。 変わっているという記憶がなかったら。 その記憶が失われているとしたら。 変わっている状態が、前と同じだと錯覚していたら。 そのような状態に、裕介は置かれているらしい。 金子と落合の言によれば。 二人の話を信じたわけではなかったが、どうも引っかかるところがあるのは否めない事実であった。 最近、違和感を感じるようになった。 その違和感は、二葉が言ったように、何かが抜けているという感覚を催させる。その抜けているものが、裕介にとって大事な何かだとしたら、彼らの言葉は間違っていない気もするのだ。 「呪詛か……」 裕介は声に出して呟いてみた。 あまりに現実味のない言葉だ。呪われるというのは、ありそうでないことだと思う。恨むことはあっても、呪うことは少ないんじゃないだろうか。世間知らずなだけかもしれないが。裕介はそう自嘲した。 裕介を呪っているのは、黒木だという。 裕介が黒木を知っているのは、彼が高校の有名人なだけであって、知り合いでも何でもない。そういう関係の薄い人物が、いきなり呪うだろうか。その辺が現実味のわかない所でもある。 黒木に対する感情は、あまりない。好きになれない男ではあるが、それ以下に感情が落ちることはなかった。冷酷な感じがして、美人をはべらせているが、それだけだ。何をされたわけでもない。 裕介は身体を転がし、横を向いた。 結局、金子と落合の話を気にかけている自分に苦笑する。 「馬鹿じゃないか、俺」 そう声に出して言ってみるが、気にかけた思いは消えそうもない。裕介は大きく溜息をついた。 目を閉じ、眠ろうとする。眠るには早い時間だが、何をする気も起こらないのだ。 その時、部屋の電話音が鳴り響いた。 裕介は鬱陶しげに電話の子機を睨む。 裕介の家に電話をかけてくるのは限られている。両親か、二葉の二種類。あとは、全くの無関係な勧誘とかしかない。だから、かかってくる回数は僅少である。 勧誘はともかくとして、その二種類の人間は出ないとうるさいので、裕介は少ない電話にはなるだけ出るようにしている。 「はい、もしもし」 『裕ちゃん? あたし』 あたしで通じると思っているのだろうか。電話の向こうの女性は、名乗ることをしなかった。仕方がないので、裕介の方から訊いてやる。 「二葉ちゃんか?」 『そう』 「なんだ、こんな夜遅くに」 裕介は時計を見ながら言う。時計の針は、午後八時を回っていたが、遅いといえる時間ではない。それにも関わらず、遅いと言ったのは、単純に言葉の文である。 『ちょっと家に来てほしいの』 二葉の声は、少し焦っている調子に聞こえた。 「こんな時間にか?」 うん、と二葉が頷く。 さすがに今から女性の家に行くには、考えてしまう時間帯だ。裕介は少し逡巡した。 『ちょっと裕ちゃんに見てもらいたいものがあるの』 二葉が言葉を続ける。 焦慮の気配が強い彼女に、裕介は仕方なく頷く。 「じゃあ、今から行くから」 『お願い』 そして、電話が切れた。 息を一つ吐いて、裕介は押入からコートを取り出し羽織った。 中谷家から美波家までは、徒歩で五分くらいの距離である。大した距離ではなく、行くと決意すれば、すぐにも着ける場所だ。 門扉前に立ち、チャイムを鳴らす。待つほどのこともなく、二葉が玄関から出てきた。 「いらっしゃい。上がって」 二葉が裕介を中に入れる。 美波家は中谷家と同じくらいの広さである。内装は、一人暮らしになって朽ちていく一方の中谷家とは、比べるべくもなく立派で豪勢だ。手入れはしっかりと行き届いている。 裕介は、美波家の中には何度も入ったことがあった。それは、本当に数えきれないくらいで、幼い頃から無数に入っていた。この年齢になると、さすがにめっきり減ったが、両親と離れて暮らす裕介を不憫に思ってか、二葉の両親が夕飯をご馳走してくれたりすることが、時々ある。そういうわけで、ここは入り慣れた家であった。 「おじさんとおばさんは?」 「仕事で、火曜日までいない」 「そうか。相変わらず忙しいんだな」 「裕ちゃん家に比べればましだけどね」 「かもな」 裕介は苦笑した。 少なくとも、二葉の両親は火曜日になったら帰ってくるが、裕介の両親はいつ帰ってくるのか見当もつかない。どちらも仕事のためではあるが、端から見れば予定の立たない中谷夫妻の方が忙しそうに見られるだろう。 「で、見せたいものって何だ?」 裕介は、前を歩く二葉に訊いた。 「これなの」 二葉が、二階の廊下の突き当たりで足を止める。 そこはある部屋の前だった。隣には二葉の私室があり、その隣には美波夫妻の私室がある。 何度もこの家に入ったことのある裕介は、その部屋が何なのか知っていた。 「物置部屋がどうかしたのか?」 「物置部屋、……ね」 意味ありげに、二葉が繰り返した。 その声の調子に、裕介は眉をひそめた。 「中に何かあったのか?」 そうね、と二葉は曖昧に頷く。そして、ドアノブに手をかけた。 「ここはね、ずっと物置部屋だったのよ。あたしの記憶では」 そう言いながら、扉を開く。 ドアが押し開かれ、中の様子が裕介の視界にも入った。 その瞬間、うっと、裕介は驚愕の声を上げた。 大きさは、十畳ぐらいの大きな部屋。フローリングの中央には六畳ほどの絨毯が敷いてあり、その上にはガラス製と思われる丸テーブルが置かれてあった。その側にはふわふわの座椅子に大きめのクッションがある。壁に面しては整理された机があって、その反対側には本棚があった。本棚の上や空いているスペースには、犬や熊などのぬいぐるみが、センスよく配置されてある。 明らかに、物置部屋ではない。どう考えてみても、誰かの私室である。それも女性の。 ねえ、と二葉が裕介に問う。 「誰の部屋なんだろう、ここ?」 裕介は答えられない。 二葉も解答を期待していなかったのか、返事を待たずにその部屋に入っていく。 「この部屋、ここ一年くらい開けたことなかったのよ。だから、わからなかったんだけど、それもよく考えてみれば、おかしいわよね」 普通は、例え普段から開けたりはしなくとも、季節の変わり目や模様替えの時期にでる荷物を、出し入れするために開けるだろう。物置部屋なのだから、そういう荷物が入れてあると考える。 「考えてみればね、物置部屋に入れるような荷物は、他の所に全部あるのよ。おこたも、扇風機も、そんな荷物全部。だからいらないのよ、物置部屋なんて。入れるものがないんだから。不意にね、そんなことを思って、開けてみたのよ。さっき……」 「そしたら、こうだったわけか」 裕介も、その部屋に足を踏み入れた。 一歩入った瞬間、心臓が重く感じた。雪を見た時に感じる感覚を何倍にもしたものが、裕介を捕らえた。 足が止まり、その場に立ちつくす。 「どうしたの裕ちゃん? 顔色が悪いよ」 裕介の様子に気づいた二葉が、心配そうな表情をした。 「いや、何でもない」 裕介は、その感覚を無理矢理心中に押し込め、なんでもない表情を作った。 部屋の中は埃が薄く溜まっている。だが家具や装飾品は整理されて置いてあり、この部屋の主の人柄をうかがわせた。 「さっき入って調べてみたんだけど、何も手がかりになるような物は見つからなかったんだ」 二葉が机に視線をやりながら言った。恐らく、机の引き出しを開けてみて、漁ったりしたのだろう。 そうか、と裕介は答え、部屋を見渡してみた。 丸テーブル。座椅子。クッション。机。本棚。ぬいぐるみ。一つずつ、ゆっくりと見回す。どれもこれも、見覚えのないものばかりである。 そのはずである。 しかし、妙な既視感を感じるのも否めない事実だった。どれもこれも、見覚えのある物にも感じられてしまう。そしてこの既視感は、今まで感じてきた違和感と根を同じにするものだった。 裕介の感じる違和感は、どれもこれも心を重くするものばかりだ。この既視感も例外ではない。焦慮。後悔。憐憫。憎悪。嫉妬。そういった負の感情がごちゃ混ぜになって、全身を駆け巡る。当然、愉快な気分ではいられない。 裕介は大きく息を吐いた。 「とりあえず、別の場所で話さないか」 そう二葉に言う。 「いいけど」 幸いにも二葉は頷いてくれた。 「じゃあ、あたしの部屋で」 「ああ」 裕介は二葉の後について、その部屋を出た。ドアを閉める時、強烈に後ろ髪を引かれる感覚が襲いかかってきたが、それを無視して、ドアを閉じた。 「やっぱり出ない。電源を切ってるみたい」 二葉が珍しく苛ついた声を出して、電話を切った。 二葉がかけていたのは、彼女の両親、つまり美波夫妻の携帯電話である。あの部屋のことを聞いてみたらどうだろう、と裕介が提案し、二葉がそれに従ったのだ。 しかし、三度かけてみたが、一度も繋がらなかった。聞こえてくるのは電源を切っているというアナウンスばかり。今のところは、夫妻に聞くのは諦めるほかなかった。 「仕方ないな」 裕介は一つ溜息をついて、ソファの上で二葉が淹れてくれた紅茶を啜った。 「でも、あたしや裕ちゃんが知らないことを、お父さんやお母さんが知っているとも思えないけど」 二葉が自分の椅子に腰掛けて、紅茶の入ったティーカップを手に取った。 「それはわからないぞ。おじさんかおばさんに隠し子がいて、そいつを二葉ちゃんに内緒で住まわせてたのかも」 裕介は茶化した調子で言った。 二葉が、言下に否定する。 「そんなことできるわけないよ。だってあの部屋鍵がないし、開けようと思えばいつでも開けられたんだよ。入るなとも言われてないし。隠しようがないよ」 「そりゃそうだ」 裕介は苦笑する。 「それに物置部屋って言うのも、隠すにはおかしな名前だしな」 「そうだね」 「そして、多分、それが深刻な所でもあると思う」 裕介は、表情を引き締めた。 二葉もそれに倣う。 「どうしてそう思ってたか……だよね?」 うん、と裕介は頷いた。 「裕ちゃん。これってさあ、昨日言った、何か抜けてるってことに関係あるのかな?」 二葉の声に不安が混じっていた。 「そうだな。多分、関係あるだろうな」 裕介はゆっくり答え、ソファにもたれかかって天井を向いた。 「どうしちゃったんだろうね、あたしたち」 「さあな」 裕介はぶっきらぼうに答えた。だが台詞とは裏腹に思い当たる節はあった。落合と金子の言葉だ。 黒木の呪詛。 彼らはそう言った。 しかし、それを語る気にはならなかった。嘘臭さが呪詛という言葉に感じられた。実際にそんなことはあり得ない。そう思う。少なくとも常識では考えられない。心霊現象を語るほどに、堕ちてはいないつもりである。裕介は口を噤んだ。 「二人一緒に記憶喪失になっちゃったのかな」 「そんなこと、あり得るのか?」 ないと思うよ、と二葉が首を横に振る。だが、でも、と言葉を続けた。 「現実にあり得ないことが起こってる。それは確かだと思う」 裕介は言葉を失って、二葉を見つめた。 「だって、あの部屋、あたしも裕ちゃんも、お父さんもお母さんだって多分、物置部屋だったと思ってたのよ」 それが誰かの部屋だったんだもの。二葉がそう続けて、裕介を見返した。 裕介は視線をそらした。 確かにそれが現実である。あり得ないと泣き喚いても、現実は変わらない。だが裕介はどうしても、それを認めたくなかった。 「いろいろ考えてみるとね。おかしなことが多いのよ。物置部屋もそうだけど」 二葉が考え込む表情をした。 裕介は、二葉に視線を戻した。 「あたしと裕ちゃんの関係からして変だと思うの」 「……言っている意味がよくわからない」 んん、と二葉が難しそうな顔をする。 「ちょっと、あたしも思いついたばかりでまとまってないんだけど、あたしと裕ちゃんて、昔からの知り合いだよね」 「ああ」 「それはどうして?」 「そんなの、家が近かったからだろう」 今さら何を言っているんだ。裕介はそういう視線で二葉を見た。 そうかな、と二葉が首を傾げる。 「あたしと裕ちゃんて三つ年が離れているんだよ。裕ちゃん、あたしと同年代の友達とか、裕ちゃんより三つ年上の親友っている?」 そりゃあ、と言いかけて、裕介は虚をつかれたように、きょとんとなった。 考えるまでもない。そんな友人は、二葉の他に存在しない。 「いないでしょ。裕ちゃんて、そんなに友人を作れるような性格をしてないもの」 二葉が裕介の目を見た。 考えてみれば失礼な言い種である。だが真実ではあった。それに関して、裕介は反論ができない。 「あたしと裕ちゃんてさ。そう考えると、接点がなかったんだよ。でも、あたしは裕ちゃんを兄のように思ってる……」 二葉は淡々と語る。 「それでね、決定的なことを言うよ。裕ちゃん、よく冗談で赤ん坊のあたしをあやしたと言ってたわよね。そんな頃から、あたしたちは知り合いなのよ。親戚でもないのに、ね。親同士が知り合いってだけで、ここまでにはならないよね」 裕介は何も答えられない。ただ茫然と二葉の言葉を聞いていた。 「赤ん坊だったあたしが、裕ちゃんと知り合えるわけがないと思う。誰かが間に入らないと……」 「誰か……?」 そう、と二葉が頷いて、視線を壁の方に向けた。その向こうには、物置部屋だと思いこんでいた部屋がある。 裕介もその方向に目を向けた。 「……二葉ちゃんは、あの部屋の主がそうだと言いたいのか?」 「言い切ることはできないんだけど」 二葉がそう肯定した。 裕介は何か言おうとして、口を開いた。だが何も答えられず、また口を閉じた。 まさか、と切って捨てたかった。そんなことあるわけないだろう、と。 しかし、そうできないほどの説得力が二葉の言葉にはあった。少なくとも、反論するための材料を裕介は持っていない。 胸の奥が妙にざわついた。恐怖に似た感情が、それ以上の推理を聞くことを拒絶していた。どくどくと心臓が早鐘を打っている。それがとても苦しかった。 裕介はよろよろと立ち上がる。 「裕ちゃん……?」 二葉が心配そうに声をかけた。 「今日はもう帰る。……少し頭を冷やしたい」 かすれて音になっているか自分でも判別つかない声で、裕介は答えた。そして、返答も聞かず歩き出した。 二葉が心配そうに玄関まで着いてきたが、何か言葉をかける余裕はなかった。とにかく、この苦しみから逃れたくて、裕介は挨拶もそこそこに美波邸を辞した。 外気は刺すような冷たさである。ただし、裕介は寒さを感じなかった。二葉の言った言葉がぐるぐると脳裏で渦巻き、それが理由のわからない焦燥感をかき立てていた。 来なければよかった。そんな後悔が溢れた。そして、その後悔に既視感を抱き、また心を重くした。 裕介は立ち止まり、近くの電柱に手をついて身体を支えた。 どうしようもないぐらい、様々な負の感情が裕介を苛んでいた。それは、寒さより厳しく裕介を傷つける。 「どうしたっていうんだ、いったい……」 荒く息を吐きながら裕介は呟いた。自宅はすぐそこなのに、身体が目に見えない痛みによって、動けなくなっていた。裕介は仕方なく、身体を支えている手の甲に額を押し当てて、しばらく自分の足先を眺めて過ごした。 落ち着くまでに、どれぐらいの時間を要しただろう。顔を上げた時、両手と両足の指先の感覚がなかった。寒さで麻痺したらしい。そう考えると、思ったよりは長い時間、その場で過ごしていたようだ。 裕介は手を擦り、息を吐きかける。そして、ポケットに手を突っ込み、自宅方向に身体を向けた。 その時、視界に、立っている人の姿が飛び込んできた。 この寒空に制服を着ただけの女性。その女性が街灯の下に立って、じっと裕介を見ていた。 息を飲むほどの美しい女性である。スカートと黒く長い髪が、風に吹かれてゆらゆらと揺れていた。 街灯がぽうっと彼女を照らしている。それは、明度の違いという完全な区切りでもって、他の景色から彼女を浮かび上がらせていて、その美貌をさらに際立たせていた。 彼女の瞳は冷たく、暗い。 「南……」 裕介は彼女の名を呟いた。 しかし、南はぴくりとも反応せず、暗い瞳のまま裕介を見続けていた。 不意に、南を照らす光の中に白い物が見えた。それはちらちらと上空から落ちてくる。 細かな雪は光の空間に入ると、美しく煌めいているようだった。雪そのものが蛍のように光を発しているように感じられる。それがまた、南の姿を幻想的なまでに美しく映えさせていた。 再び、裕介の心臓が早鐘を打つ。 裕介は、得体の知れない焦燥感に包まれた。その感覚の命じるまま、一歩南の方に踏み出す。 その時。 「一葉」 そう南を呼ぶ声がした。 その声で裕介は我に返る。歩き出しかけた足をその場に押しとどめ、声の主が現れるのを待った。 すぐに黒木が現れた。黒木も学生服だけなのに、寒さを全く感じていないようである。 黒木が南の傍に立つ。 その情景はいつもの情景である。はまるべき所にはまるべきものがはまった。そんな風にすら裕介は思う。 南は視線を裕介から外し、黒木を見上げた。 「どこに行ったかと思った。心配した」 黒木の言葉は、内容に反して冷たく感じられる。南はそれに何も反応を示さず、黒木を見つめ続けた。 黒木はふっと笑い、視線を裕介の方に向けた。 裕介はどう反応していいかわからず、その場に立ちつくしていた。 黒木が冷笑を張り付けたまま、裕介を見続ける。だが何も言わない。 南は視線を黒木から外し、俯いた。前髪が目元を覆い、どんな表情をしているのかはわからない。 やがて、黒木が裕介から視線を外した。 「いこうか」 そう南に声をかけ、彼女の肩を抱いて寄せた。南は為されるまま黒木に身体を寄せる。 二人はゆっくりと裕介の方に歩いてきた。 裕介は動けない。 黒木は裕介を見ているのか、前方を見ているのかわからない目をしていた。南は俯いたままである。 やがて二人はすれ違っていった。 「…………」 裕介は茫然と立ちつくしたままである。振り返ることもせずに、ただ前方を見ていた。 惨めさが全身を覆う。何故惨めになるのか判断がつかなかったが、どうにもその感覚を止めることができない。 裕介は惨めな気分を抱えたまま、重い足を引きずって自宅へと歩き出した。 |