序章

   1

 雪が降っていた。

 窓から見える給水塔の中には、男女が一組立っていた。

 リボンは緩慢に流れ落ち、視界から消えていった。


 給水塔の中では、未だ二人は口づけていた。


 ――ピピピピピ、ピピピピピ、ピピピピピ、……。


   2

 耳から入ってくるのは金子の声で、六百七十年前に書かれた随筆を朗読していた。
 古文担当の老教師が、自ら教科書を読んで聞かせるのは、いつも授業の終わり頃だ。してみると、六限目はもうすぐ終わるのだろう。中谷裕介は、そう授業に見切りをつけ、教科書を閉じた。
 待つほどもなくチャイムが鳴り、六限目は終わりを告げた。終了の礼が終わると、教室はあっという間に喧噪に包まれた。
 裕介は手早く教科書を鞄に詰め込んでから、ふと窓の方に視線をやる。
 窓の外は、いつの間にか雪が降っていた。
 白い雪が、こんこんと天から落ちてくる。この勢いでは、積もるのは時間の問題のようだ。裕介は眉をひそめて、しばし雪を睨んだ。
「雪は嫌いかな?」
 不意にそう声をかけられて、裕介は視線を戻した。
 机の前には、同じクラスの落合が立っていて、興味深そうに裕介を見下ろしていた。
 いきなり変な目で見下ろされて、気分のいいわけがない。裕介は、つっけんどんに聞き返した。
「どうして、そう思う?」
「そういう態度で雪を見ていたから」
 落合は薄く笑みを浮かべ、そう答えた。
 落合和規。一週間前に、裕介のクラスにきた転校生だ。痩身で、整った顔立ちをしている。だが得体の知れない雰囲気をまとっていて、近寄りがたい男だった。
 裕介は転校生に興味はなかったし、落合の方でもクラスに馴染もうという意志は端からなかったようで、二人は会話はおろか、視線すら交わしたことのない関係だった。正真正銘、最初の接触がこれである。良い印象は持てなかった。
「雪に嫌な思い出でもあるのかい?」
「そんなもの、ないよ」
「本当に?」
「嘘じゃない」
 事実である。裕介には、雪で嫌な思いをした記憶はない。
 それがどうした、と裕介は落合を睨め付けた。
「そう思っているなら、それでいい。しかし、雪が嫌いなのは事実なんだ」
「そんなこと、お前に何の関係もないだろ」
「今はね」
 落合は微笑した。
「わけがわからんな。何が、今はね、だ」
 裕介はそう吐き捨てるように言うと、立ち上がった。鞄を持って、出入り口に向かう。
「帰るのかい?」
「帰宅部の俺が、他にどこに行けと言うんだ」
「寄るところはないのかい?」
 ないよ、と裕介は振り向かずに答えた。
 続けて、落合が言う。
「一組には行かないのかい?」
 その思わせぶりな言い方に、裕介は足を止めた。
 振り返り、落合の表情をうかがう。
 落合は、平然と裕介の視線を受け流し、もう一度、同じ言葉を繰り返した。
「一組には行かないのかい?」
「一組に何があるって言うんだ」
 裕介は友人が少ない。片手で数えて、指がまだ余る程度しかいない。その数少ない友人は、皆、三組。つまりクラスメイトである。当然、一組には友人はおろか、知り合いもいない。
「さあ」
 落合が軽く笑った。
「お前、俺をからかってんのか?」
「いや」
「じゃあ、なんなんだよ」
「それは、君が考えることだ。僕には、それを教える権利がない」
「権利がないだと?」
 裕介の口調が険悪になる。目を細めて、落合を睨んだ。
「一体何なんだ、お前」
「いずれわかるさ」
 落合が意味ありげな視線を返した。
「ただの転校生ではない、と言いたげだな」
「ただの転校生が、いきなりこういう風に君に絡むかい?」
 落合の視線が妖しく光る。
 ふん、と裕介は落合から視線をそらした。今度はもう立ち止まらないという決意をして、歩き出す。
 背中からは、もう声がかからなかい。代わりに、落合の視線を感じた。
 興味深く裕介を観察している視線だ。それは裕介の不快指数を跳ね上げたが、決意通りに、彼は振り返らず教室を出た。
 二年の教室があるのは、西校舎の三階である。そこには五クラスあって、北側から順に並んでいる。階段は両端にある。三組はちょうど真ん中に位置し、どちらの階段へも、ほぼ同じ距離だ。
 普段、裕介は北側の階段から帰っていた。
 北側には一組がある。
 裕介は、わざと南側の階段から下りた。
 下駄箱にたどり着き、玄関口から外を見る。
 外の通路も、花壇も、飼育小屋の屋根も白い雪化粧をしていた。いつの間にやら、雪が積もったようだ。
 下校する生徒たちが、白い靄の中に吸い込まれていくように見える。雪の勢いは、それだけ強かった。色とりどりの傘が、見る見る白く染まっていくのがわかる。
 裕介は傘を持ってきていなかった。仕方なく、玄関口まで歩を進めて、空を見上げる。
 だが雪が降り止む気配はなさそうである。
 ため息一つ、裕介はガラス戸に手をかけた。
 その時。
「雪が積もっているな。いい眺めだ」
 そういう声が背後から聞こえた。
 それは、別に裕介に向けられた言葉ではないし、それだけが後背から聞こえる言葉ではなかった。それなのに、何故その言葉だけが祐介の耳に入ったのかは、本人にもわからなかった。
 わからないまま、裕介は声のした方を振り返った。
 視線の先には、二人の男女が立っていた。長身痩躯の男性と、それに寄り添うように立つ、髪の長い女性だ。二人の視線は、言葉通りガラス戸の外の景色に向けられていた。
 裕介はその二人を見て、今の言葉が耳についたわけを知った。
 黒木舜と南一葉。
 彼らは二年一組の生徒である。落合との不愉快な会話の中で、思わせぶりに言われた一組である。耳に入ったのは、そのせいだろう。
 黒木と南は、際立つほどの美貌と特異な関係で校内でも有名な二人だった。何しろ、南という女生徒は、黒木以外とは口をきかないのだ。そして、いつも黒木に従うように寄り添っている。特異、というよりは異様といった方がニュアンスが伝わるのかもしれない。
 裕介も二人を知っていた。勿論、彼らが有名だから知っているだけで、その知識は一方通行である。
「あの日も、こんな雪の日だったな」
 黒木が南に視線を向けた。
 南は答えず、目を伏せた。
 黒木が微笑した。冷たい笑みである。不意に、その視線が裕介の方を向いた。
「なにか?」
 裕介が見ていたのに気がついたのだろうか。黒木が冷たい微笑のまま問うた。
「べつに」
「そうか。ならいい」
 そう言いつつも、黒木はまだ裕介の方を見ていた。その表情には満足感と優越感が浮かんでいるように見えた。
 勿論、裕介は不愉快に思った。知り合いでも何でもない相手に、そのような表情で眺められる筋合いはないはずである。反発心の命じるまま黒木を一睨みして、視線をそらす。
 その時、偶然だろうか、伏せていた瞳を上げた南と、裕介の視線が一瞬だけ交差した。
 南は哀しげな目をしていた。そのように見えた。ほんの短い間ではあったが、その視線が裕介の肺腑を貫いた。
 南を見たのはこれが最初ではなかった。何度か廊下ですれ違ったことがあった。その時と瞳は変わらないのだが、そのような印象を受けることはなかった。
 何故だろうか、と肺腑を貫かれた痛みに戸惑いながら、裕介はもう一度二人の方を見やる。だが二人の視線はもう裕介には向けられておらず、彼らは玄関口を開けて外に出ていた。
 彼らは一つの傘に二人で入っていた。雪の白に、南の長い黒髪が妙に映えている。裕介はその後ろ姿をしばらく眺めていたが、すぐに自分も帰るために外に出た。
 雪をかぶりながら、いつもの通学路をとぼとぼ歩く。
 学校から裕介の自宅までは、徒歩で二十分ほど。そう離れてはいない。それでも、雪をかぶって帰るには長い距離だ。裕介は、少し遠回りして屋根のある商店街を抜けて帰ることにした。
 商店街に入ると、見知った顔を見つけた。ポニーテールの可愛らしい少女だ。近くの中学の制服を着ている。裕介の昔馴染みで、三つ年下だ。名を美波二葉といった。
 二葉の方も裕介に気がついたのか、明るい笑顔を向けた。
「裕ちゃん。今、帰り?」
 裕介は頷き、軽く会釈した。
「二葉ちゃんは?」
「あたしも、今帰るとこ」
 二葉が裕介の横に並んだ。
 裕介は人見知りをする。特に異性関係は絶望的だ。同じクラスの女子にさえ、事務的なこと以外は話さない。二葉は、そういう彼が、唯一話せる稀有な女子だった。
「友達は?」
 二葉はおっとりとしてはいるが、、裕介と違い社交性があって友人も多い。だから、帰宅時に一人というのは珍しいことだった。
「さっきまでいたよ」
 つい先ほど別れた、と口調が言っている。
「じゃあ、いつも、ここから家まで一人なんだ」
「いつもってわけじゃないけどね。今日だって裕ちゃんがいるじゃない」
 二葉が裕介を見上げた。
 そうだな、と裕介は笑う。
「でも裕ちゃん、今日はどうしてこっちに? 通学路は違うはずじゃあ。商店街に何か用事でもあるの?」
「用事はないな。ただこの雪だからなあ。傘を忘れたんだ。それで雪をかぶって凍死したくなかったからな」
 裕介は商店街の高い屋根を見上げた。とりあえず今は、それのおかげで雪をかぶることなく歩くことができる。
「それで遠回りをしたの。でも天気予報ぐらい見たらいいのに。今日はばっちり雪の予報だったよ」
 二葉が呆れた声を出した。勿論、彼女の手にも赤い傘が握られている。
「なかなか見る暇がないんだ。一人だと、それなりに毎日忙しい」
「テレビは時間が合わないかもしれないけど、新聞をちらっと見るぐらい一分もかからないよ。凍死したくなかったら、見るようにしたらどうかな」
「次からは見るようにするよ」
「裕ちゃんがそう言うときは、やらないって決まってるけどね」
 二葉が昔馴染みらしく、裕介の性格を読んで言う。当たっているだけに、裕介としては苦笑するしかない。
 二人が、他愛のない会話を交わしながら歩いていると、いつの間にか商店街の端に来ていた。
「まだ降ってる。いい加減、降り止めばいいのにな」
 二葉が鬱陶しそうに、空を見上げた。
 裕介もつられて空を見上げる。
 薄暗い空。分厚い雲。そこから白い雪が、とめどなく降りていた。
 雪は何故だか裕介の心をざわめかせる。正確にそれがどういう感情なのかはわからないけれど、負の感情であることは確かだ。ともかく愉快ではない。
 一つため息をついて、裕介は空から視線をおろした。それから、行こうか、と二葉を促した。
 二葉は頷いて、傘をさした。
「裕ちゃん、入ったら」
「いや。いいよ」
「なにを遠慮してるのかな。あたしに遠慮しても仕方がないよ」
「遠慮しているわけじゃないけど、高校生には世間の目というものがあってだな」
 裕介は視線で周囲を見回した。それだけでも、何人か同じ制服の生徒を見かける。全て知り合いではないが、中学生の女生徒と同じ傘に入っているのは、彼らの視線を引きつける可能性は高い。裕介は、そのような好奇の視線に耐えられるほど神経は太くなかった。
「ようするに恥ずかしいんだね?」
 二葉が不満そうに裕介を見上げた。
「べつに二葉ちゃんが恥ずかしいと言っているわけじゃないんだ」
 裕介は、二葉の非難めいた口調を察して、フォローを入れる。
「俺はそういう状況の似合う男じゃないから」
 情けない話だが、自分に似合うのは、一人で背を丸めてとぼとぼ歩くという姿だろうと、裕介はなんとなく思う。
「美男美女しか、一緒の傘に入っちゃいけないの?」
「いけないとは言わないが」
 裕介の脳裏に、黒木と南の姿が映った。彼らなら似合うだろう。特に、雪の中では。彼らの美貌は際立ちすぎて冷たさを併せ持つ。それが背景の雪によく映えるはず。
 そういえばさ、と不意に思い至ったように、二葉が裕介に問いかける。
「裕ちゃんとあたしって、子供の頃からのつきあいだよね」
「そうだが」
 裕介は、赤ん坊の二葉の姿を、おぼろげながら覚えていた。苦労してあやしたものだ。それを思い出して、裕介は苦笑した。
 その苦笑に二葉は少しだけ非難の視線を向けたが、その時だけで、すぐに元に戻って続きを話す。
「それなのにさ、あたしと裕ちゃんて、一回もないよね。一緒の傘に入ったこと」
「そう言われてみれば……」
 裕介は記憶を手繰った。そう言われてみれば、二葉の言う通り、子供の頃も含めてない。
「結構あったよね、裕ちゃんが傘忘れること。雨の日でも、雪の日でも」
 二葉も記憶の引き出しを開けているのだろう。口調がスローテンポになっている。
 そうだな、と裕介は答える。
「その時は、裕ちゃん、どうしてた?」
「いや、どうしてたって、そりゃあ……」
 濡れて帰ったと言おうとして、言葉に詰まった。
 確かに、濡れて帰った日もあった。しかし、ほとんどはそうでなかった気がする。濡れた、という記憶がほとんどない。
「どうしてたんだろ?」
 裕介は、自分でも馬鹿な質問をしてると思った。
「裕ちゃんを濡れ鼠にして帰したってことはないと思うのよ。でも、あたしが傘にいれてあげたということもない……」
 あれば、慣れで今も入ったはずだし。そう独り言のように二葉が口にする。最後に裕介と同じように、どうしてたんだろ、と付け加えた。
「傘を買ってたんじゃないか」
 裕介は、自信のない口調で言った。二葉の傘に入らず、濡れずに帰ったとなれば、もう残るはそれぐらいだろう。
 しかし、二葉が明快にそれを否定した。
「それはないよ。裕ちゃん、そんなことで、お金を使う人じゃないもの」
 その通りである。裕介はどちらかといえば吝嗇で、そのことは昔馴染みの二葉はよく知っていることだ。だから、傘を買ったということは、あり得ないと彼女は言い切れた。
「じゃあ、一体どうしてたんだ?」
 裕介と二葉は、お互いに顔を見合わせて首をひねった。
 しばらく、視線を絡ませながらお互いに記憶を手繰った。しかし、靄がかかったように、その部分が欠落している。まるで、雪の降りしきる向こうの景色が、こちらからよく見えないように。
「なんか、最近多くない? こういうこと」
 二葉が裕介をうかがった。
 というと? と裕介は視線で先を促す。思考はまだ、記憶の中の自分を具現化しようとあがいていた。
「言葉ではちょっと言い難いんだけど。その何て言うのかな。何か抜けてるのよ。全てにおいて」
「何か抜けてる?」
 裕介は無個性に問い返した。
「だから、ちょっと言い難いんだけどね」
 二葉が苦笑する。自分でも、先ほどの言葉で意味が通じるとは、思っていないみたいである。
「でも、変だよね。二人して思い出せないのは」
「まあな」
 裕介は憮然と頷いた。
 それを見て、二葉が苦笑を微笑に変え、肩をすくめた。
「実はさ、人に言われて気になってたんだけどね。少し変なことはないかい、て」
 裕介は眉をひそめる。
「誰に?」
「裕ちゃんの高校の男の人。綺麗な顔をしていて、転校生だと言ってた。裕ちゃんのこと、たくさん質問されたよ」
 その言葉を聞いて、裕介の目が鋭くなった。口がへの字に曲がり、あからさまに不機嫌な表情をとる。
「そいつ、落合とかいう名前じゃなかったか?」
 確かめるまでもないような気がしたが、それでも聞かずにいられなかった。
 そうそう、と二葉が頷く。
「そんな名前を名乗ってたよ。知り合い?」
「違う」
 裕介は吐き捨てるように否定した。視線を二葉から外し、学校のある方向に向ける。
「あの男……」
 商店街の屋根に隠れて校舎は何一つ見えないけれども、すぐそこに見えるように裕介は睨んだ。そして、その前には落合が悠然と立ち、笑っている。
 二葉は裕介の態度から、二人が知り合いで、良い関係でないことを確信した。
「嫌いなの? その人のこと」
 裕介は視線を二葉に戻す。
 昔馴染みの彼女に、嘘はつけない。何を言っても心中を見透かされてしまう。仕方なく、裕介は頷いた。
「クラスメイトだ」
 あっさり前言を否定する。
「それで、俺のことは答えたのか?」
「答えてないよ」
 二葉が裕介を安心させるように答えた。しかし、ただ、と表情を少し曇らせる。
「裕ちゃんの性格を、それなりにわかってるみたいだった。確認、て感じの質問だったから。正しかったよ。その人が聞いてきたこと。頷かなかったけど。見透かされている気はしたな」
 裕介は、不愉快さが加速度的に膨張していくのを感じた。人が自分のことをあれこれ聞き回っているといるというのは、心地の良いものではない。自分の部屋に土足で上がられた気分である。
「あの男」
 裕介はもう一度呟いた。
「なんかあったの?」
 二葉が不安げな眼差しをした。
 裕介は首を横に振った。
「ないな。俺には」
 事実、裕介と落合は、会話を交わしただけである。それもむこうから絡んできたもので、裕介の方からではない。
「でも、悪い人には見えなかったよ」
「顔が良かったからじゃないのか?」
 裕介は揶揄する口調で言った。
 違うよ、と二葉が不満げに口をとがらせる。
「顔がいいだけでいい人なら、黒木とかいう人だっていい人になっちゃう。落合って人は、黒木君みたいに冷酷な感じは受けなかったわ」
 二葉も黒木を見たことがあった。その時に感じたのは、冷酷さであったらしい。そのことを何度か聞いたことがあった。それが落合からは感じられなかったようだ。
 裕介は苦笑する。
「冷酷さが感じられなかったから、悪い人じゃないというわけか」
「あら。冷酷なのは悪い人だと思うけど」
「それはそうかもしれないけど。もっとも、俺はいい人が好きで、悪い人が嫌いというわけじゃない」
「つまり、単に好きになれないだけってこと?」
 二葉がわかったような顔をした。
「第一印象で嫌いということなんだ?」
「まあ、そういうことだ」
 第一印象以上の感情を得るには、接触が短すぎた。ただし、裕介はそれを得ようとも、得たいとも思わなかった。そして、そのことをここで口にする気もないのである。
 なるほどね、と二葉が自分の耳朶をつまんだ。そして、その話をこれで終わりにする。
「で、結局の所は、どうするの?」
 二葉が開いた傘に裕介も入れた。口では問いかけだが、昔馴染みを雪まみれにさせる気は、毛頭ないのである。自分の役ではないが、入れる人がいないのだから仕方がない。
 裕介は、周囲の視線が自分たちに集まったのを感じた。
「案外、強引だな」
「勿論、あたしはあの人の血を引いていますから」
 二葉がにっこり笑う。
「なるほどね」
 裕介は納得させられ、入れさせてもらいます、と苦笑とともに彼女に告げた。

   3

 中谷家は、学校から徒歩で二十分ほどの住宅街にある。
 敷地面積は広い方であろう。庭も裏庭もそれなりの広さで存在した。実際中谷家は裕福で、屋内の装飾品や調度品は高価なものが使用してあった。
 ただ、あちこち埃まみれである。
 裕介の両親は二年前から海外で暮らしていて、日本にはいない。中谷家の中で、唯一裕介だけがこの家で暮らしているのだ。裕介は掃除には無頓着なので、埃は溜まる一方であった。
 裕介は鞄をソファに放って、台所に向かう。冷蔵庫から烏龍茶のペットボトルを取り出し、口につけた。
 その瞬間、思い出したように腕が止まった。
「おっと」
 裕介はペットボトルをテーブルの上に置き、洗面所へ向かった。手洗いとうがいをするためだ。幼いときからきつく言われていたことの一つ。誰もいないのに律儀に実行してしまう。そんな自分に裕介は苦笑した。
「さんざん言われたもんな」
 キッチンに帰って、やっと烏龍茶を口にする。
 しかし、一口飲んだところで、愕然として飲むのをやめた。
「誰に言われてたんだっけ……?」
 おふくろだっただろうか。裕介はそう思い出してみる。だが妙にしっくりこない。
 確かに、おふくろにもそういうことを言われていた。それは覚えている。しかし、今身体が反応したのは、違う理由な気がする。
 おふくろに言われていたことと、今の条件反射は一本線で繋がらない。どこからか違う線が伸びていて、それと本線が絡まってよくわからなくなっている感じだ。
 二葉に言われていたのだろうか。そう考える方が、おふくろに言われていたと考えるよりしっくりくる。だがぴったりとははまらない。かえって、近い故に違うと確信が持ててしまう。
「おいおい」
 裕介は、自分の記憶力のなさに失笑してしまう。
「なんか今日、こんなのばっかりだな」
 裕介は頭をかきながら居間に向かった。
 入る直前で足を止める。
 居間は綺麗とは言い難い。片づいていないし、いろんな場所に埃が溜まっている。最近掃除をしていないのだから、当たり前の現状ではある。
 裕介は家事全般が壊滅的に苦手である。掃除、洗濯、炊事、どれも駄目。よくこれで、一人暮らしができるものだ。
 そう、よく親が許したものだ。何故、許したのだろう。
 いや違う。
 どうして、日本に一人残ったのだろう。
 思い出せない記憶に苛ついているのか、裕介は妙につまらないことが気になった。
 それでなくても、高校生の一人暮らしである。両親のかなり強硬な反対があったことは覚えている。その上、裕介は友人が多いわけでもないし、日本にそれほどの未練があるわけでもない。
 それらを押し切って残ったのだから、よっぽどの理由があったはずだ。
 裕介はソファに腰を落ち着けながら、その理由を考えてみた。
 しかし、しばらく考えてみても思い出せない。喉元すぎれば熱さを忘れるということなのだろうか。
 両親に国際電話をかけてみようか。裕介は一瞬そう思った。だが瞬時にそれを否定する。そんなことは決して訊けない。
「俺、どうして日本に残ったんだっけ?」
「あんたは、そんなすぐに忘れるほどつまらない理由で残ったというの! それなら、さっさと荷物をまとめてこっちに来なさい!」
 こうなることは、簡単に予想できる。
 妙なことだが、裕介は日本に残っていなければいけないと考えていた。
 理由はわからないが、そうすることはすごく大事なことに思える。今日本を離れれば、全てを失うことになる……。
「全てってなんだ?」
 裕介は自分で考え始めたことに、自分で疑問を呈してしまった。
 どうも、心の奥底の思いと自分が制御している意識の間に、微妙な齟齬が存在するようだった。今まで疑問もなく平穏無事に暮らしてきたと考えている意識に、心の奥底がそうじゃないと言っているよう。少なくとも、疑問はあるようだ。
 裕介は不意に二葉の言葉を思い出した。
「何か抜けてるのよ。全てにおいて」
 二葉はそう言っていた。
 言い得て妙である。確かに、そんな感じである。それが何かはわからないが、とにかく何かがない気がする。
 裕介は頭を振った。
 心の奥底が妙にざわついていた。興奮しているのか恐怖しているのか、そのどれもか、そのどちらでもないか。よくわからない感情が、焦燥感をかりたてていた。
 裕介は焦燥感に煽られる身体を落ち着かせ、冷静になろうと大きく息を吐いた。
 このような感情に悩まされたことは、今までになかったことである。
 そこが変だ。昨日も一昨日もその前の日も、そんなことを思い悩むことはなかった。何故、今になってという思いがある。特に、手洗いとうがいは毎日のことで、今日に限って気がつかなければならない理由はない。気がつくのは、別に昨日でも一昨日でも一年前でも、一人暮らしが始まった時以降ならいつでもいいわけだ。
「まったく」
 裕介は腹立たしげに呟き、ソファから立ち上がった。
 窓側に寄り、窓の外を眺める。
 雪はまだ降っていた。それを見ていると、何故だか焦燥感に拍車がかかる。胸奥の中心を焦点に、身体全体へ広がり、理由も正体もわからない負的感情が全身を支配する。
 何かを思い出しそうな感覚があった。だが理性がそれを抑えつけていた。思い出すのは、どうもよろしくないようである。
 それなら無理に思い出す必要はない。裕介はそう自分を納得させるよう努めた。多分、傷つくだけ。そういう風に。
「…………」
 裕介はため息をついて、もう一度降る雪を眺めた。
 雪の勢いは明らかに弱まっている。帰宅時ほどの強さはない。いずれやむだろう。
 裕介はカーテンを閉め、窓の外の景色を自分の視界から断絶させる。
 雪なんて早くやんでしまえばいい。裕介はそう思った。

「もうすぐ、降りやむな」
 黒木は上空に視線をやりながら呟いた。
 その後、視線を部屋の中に戻す。
 明かり一つついていない暗い部屋であった。街灯を雪が反射して、部屋に飛び込んでくるのが唯一の光源である。窓の雪は、ぼうっとほのかに部屋の中を照らす。
 部屋の中には、家具調度品といった類が全くなかった。閑寂な部屋である。部屋の温度は、外とほとんど変わらないだろう。
 その中央に、南が制服姿のまま座っていた。寒そうな素振りは欠片も見せず、ただ座っていた。視線は黒木の横を通り過ぎ、外の世界に注がれたままである。
 黒木はゆっくりと南に近付き、その前に膝を折る。
「どこを見ている?」
 南の顎下に指をやり、ゆっくりと訊ねた。その顔には氷の微笑が張り付いていた。
「外」
 小さく南が答えた。その表情からは何の感情も読みとれない。
 黒木は、ふふっと笑う。
「毎日見続けて、よくも飽きないものだな」
 南は答えない。
「それほどまでにご執着か」
 南は答えない。
「強情なのだな」
 南は答えない。
 黒木は微笑を嘲笑に変えると貌を南に近づけ、唇をつけた。だが彼女は、その行為に何の反応も示さない。
 つけていた唇をわずかに離し、黒木が微笑する。
「一葉、お前は美しいな」
 黒木は、指を顎から南の後頭部へやる。
 彼女の長い黒髪にそっと触れ、指を絡ませた。その指を水平に移動させる。髪は指にそって広がり、指から離れるとぱらぱらと元に戻っていった。
 そのまま指を戻し、頬を伝わせ南の目元にやった。
「もう少しだ。もう少しで、全てが元に戻る」
 黒木は嬉しげに呟く。その冷たい視線は、南の瞳を真正面から捕らえていた。
 南の視線も、黒木を捕らえていた。
 相変わらずの、哀しげな瞳。
 黒木は薄く笑い、再び南の唇を貪った。    


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