罪と罰
三章 1 焚き火がぱちぱちとはぜている。 ルドルフはそれを無言で眺めながら、手に持ったカップでワインをちびちびと飲んでいた。 焚き火を挟んでルドルフの対面には、ロッテが座っている。彼女の手にもカップが握られているが、彼女はそれを口につけたりせず、ルドルフと同様に焚き火を眺めていた。 昼過ぎの戦闘が終わった後、ルドルフとロッテは旅を再開した。予定でなら、街の宿で休むところだったが、今晩からルドルフは野営を選択した。焔魔衆だかの夜襲の可能性を考慮したからだ。 宿では戦闘するには手狭すぎ、自由な行動がとりにくい。そして何より、別部屋をとるロッテとは距離が離れすぎて、事に対応するのが遅れてしまう。それなら、モンスターなどの突発的な襲撃の可能性を入れても、野営の方がルドルフには都合が良かった。 日は落ちて久しい。 月は明るく輝き、星影はまばらだった。夜風は昼と比べて格段に冷たい。 「飲まないのか?」 しばらく無言だったためだろうか。少し掠れた声でルドルフは、そう尋ねた。 「いえ、そんなことは」 語尾が消え入りそうな否定をして、ロッテがカップに口をつける。 直後、眉をひそめた。 「少し濃いですね、これ」 「そうか。安酒だからな。口にあわなきゃ捨てればいいさ」 「いえ、大丈夫です」 少し強めに答えて、ロッテが再びカップに口をつけた。ただ、どうしても口にあわないのか、眉はひそめたままだ。 それに苦笑しつつ、ルドルフは言葉を続けた。 「この季節とはいえ、夜はまだ冷える。一口ぐらいは飲んでいた方が暖まる」 カップを口につけたままのロッテから返答はなかったが、視線で頷いたのがわかった。その後、こくこくと喉が動いて飲んだのがわかる。 はふっ、とロッテが息をついた。 「無理して全部飲まなくてもよかったんだがな」 「いえ、大丈夫です」 「そうか」 あえてそれ以上ルドルフは口にせず、ロッテからカップを受け取った。 「そろそろ、横になるか?」 「あっ、それは……」 ロッテが言い淀んで、ルドルフを見る。 「魔法かけているから寝なくて済む、か?」 「気づいてらしたんですか?」 一応な、とルドルフは肩をすくめて見せる。 そうですか、とロッテがルドルフを見返した。 「戦士専業なのに、魔力を感知したりできる方ですものね。気づかれないと考えていた方がおかしいですね」 「魔力の感知つーのは、そう難しいもんでもないんだな、これが。普段から魔力に接してる奴にはあまりぴんとこないだろうが。ま、よーするに、殺気を感じるのと似たようなもんだ。普段感じることのない感覚の一つとでも言うのか。魔術師やら何やらを相手にした経験がものをいうもので、魔法を使うやつの魔力感知とはちょっと違う。だから、感じるだけで、分析なんかはできんよ」 「そんなものなんですか」 「正直なところ、さっきまでは防御系だとは思っていたが、何の魔法がかかってるかわからなかったし」 ロッテの先ほどの言動で、それとわかったのだ。 そうですか、とロッテがもう一度応じて、視線を少し逸らした。 「気に……障りましたか?」 「気に障るようなことをしてたつもりがあるのか?」 「それは……」 再びロッテが言い淀んだ。 そのとき。 「デイジースペシャルデラックスウルトラキィーック!」 その意味不明な声を聞いた瞬間、ルドルフは側頭部に衝撃を喰らった。 ルドルフに蹴りを放った人物は、倒れたルドルフの傍に立ち、腰に手を当てて、ルドルフの頭上に滔々と説教する。 「ルドルフさまの、大馬鹿者! ロッテ様を傷つけたらいけないと、あれほど申しましたでしょう。傷というものは、身体だけにつくものではありません。心にもつくものなのですわ。ロッテ様は初めての旅、それも危険を伴う旅です。不意の襲撃に備えて、不眠不休の魔法をご自身にかけるのは、それほど変ではないでありましょう。むしろ、それが出来るなら当たり前のことです。そして、それをルドルフさまに言わないのは、ルドルフさまを護衛として信頼していないと思われるのが嫌という、ロッテ様のお優しい心遣いですわ。その辺りのことは、察して差し上げて下さいませ。まったく、オトメゴコロを少しは理解してほしいものですわ! そもそも、ルドルフさまは――」 「あ、あの、デイジーさん」 ロッテがおそるおそる声をかける。 「はい?」 「ルドルフさん、聞いていないようですけど……。気絶してますし」 ロッテの指摘通り、ルドルフは白目を剥いて気絶していた。 「あら、ルドルフさま。なんて脆いのでしょう! これが敵襲だったら、どうするのですか?」 デイジーが、ルドルフの肩を掴んで、がくがくと揺さぶる。意識を飛ばしているルドルフからは、当然ながら反応はない。 「あたしも全く気づかなかったから、どうしようもなかったと思いますけど」 「なるほど、そうですか。では、ロッテ様に免じて、今回だけは許して差し上げます」 「それで、今回ここに来られた訳って言うのは……?」 ロッテは、デイジーが横たわるルドルフの上にちょこんと座るのを止めようもなく眺めながら、そう問いかけた。 「陣中見舞いといったところですわ」 「はあ」 「いかがですか、旅は?」 改めてという感じで、デイジーが尋ねた。 「そうですね。やっぱり緊張してます」 「それはそうですわね。このような野営も、普段なら経験することはないことですし。ルドルフさまも、その辺のところ、もう少し考慮してもいいと思いますですわ」 ぷんぷんと言いながら、デイジーがルドルフの後頭部を指でつつく。 「あ、いえ、これは襲撃に備えてのことだと思うんで、傭兵の感覚としたら、こうするのは自然かなと思いますし、あたしも従うのは当然ですし」 ペンドア教団の襲撃が本格化し始めた以上、いつ襲撃を受けるかわからない。そのときに対処しやすい状況をルドルフが選択したということは、ロッテにも推測できていた。 「それが正解かどうかは、わからないですけど」 「聞いたら、答えてくれると思いますですわ」 「そう、かもしれませんね」 ロッテは視線をそらす。 「相変わらずのご様子で」 デイジーが苦笑を漏らした。 「すみません」 「別に責めているわけではございませんですわ。ロッテ様が、どうしてそうなったかも、少しは知っているつもりですし」 「…………」 「強力な力は、時として他者と自分を隔てる厚い壁になります」 少しデイジーの声色が変わった気がした。 それに気づいてロッテがデイジーの方を見ると、デイジーは目を閉じていた。口許には微笑があったが、いつものような愛らしいものではなかった。強いて言うなら、何かを懐かしんでいるような、少し寂しげなものだった。 ややあって。 デイジーの目が開いた。そのときには、いつものデイジーの雰囲気に戻っていた。 「ですが、それも含めて自分。他人がどう言おうが、知ったこっちゃねーのですわ。せっかく力があるなら、それを有効活用しなきゃ! ですわ」 「それで、いいんでしょうか?」 ロッテは、デイジーの瞳を見つめた。 「いいと思いますですわ」 優しくデイジーが微笑む。 そう思える境地に達するのは、自分にはまだ無理だ。ロッテはそう思った。だが、いつも肩にのっていた重みが少し軽くなったような、そんな気はした。 「ありがとうございます」 ロッテの礼の意図を知ってか知らずか、デイジーはかぶりを振った。 「お礼を言うのは、こちらの方ですわ」 「え?」 「本当に感謝いたしていますですわ。あたくしの身勝手な依頼をお受けしていただいて。今更言うのもおかしな話ですが、フィオラの教団にとっても大事なお身体を、危険な目に晒すことになってしまいまして、申し訳ございませんですわ」 「あ、いえ、それは全然。〈祭壇〉をどうにか出来るなら、それは教団にとっても望むところですから」 「そう言ってもらえると、救われますですわ」 「いえ」 「本来であれば、こんな危険なこと、全部ルドルフさまにさせるのですけれど、今回ばかりは、そういうわけにもいきませんでした」 そう語りつつ、デイジーがルドルフの頭を小突いた。 「そうですね。あれは、多分、あたしじゃないと」 「そろそろ、魔神教団の方も本気を出してくる頃でしょう。危険度は今まで以上に増しますが、大丈夫ですか?」 「ええ。覚悟の上です」 「まあ、あまり肩の力を入れすぎずにいて下さいですわ。ご自分の身の安全を第一に考えて下さいまし。あたくしも、サポートいたしますですわ」 その言葉に、不意にロッテは最初の戦闘を思い出す。 「そういえば、最初に崇魔平衆が襲ってきたとき、助けてくれたのはデイジーさんですか?」 いえ、とデイジーが首を横に振った。 そうと思っていたロッテにとっては意外で、渋い表情に変わったデイジーを見返してしまう。 「あの解呪は、残念ながらあたくしではございません」 「では誰が?」 あれがデイジーの助けではないとすると、話は少し複雑になる。相当な力を持った魔術師が関わろうとしていることになるからだ。味方であればいいが、敵に回るとなれば厄介すぎる。 「あの方は、あたくしにとっては敵ですわ」 デイジーが明確に答えた。 「敵、ですか」 ロッテの声が、少し深刻なものになる。 そのまま口を噤んで考え始めたロッテに、デイジーが、ですが、と続けながら微笑を送った。 「ルドルフさまの敵に回ることはありません」 「えと、それは?」 「ルドルフさまの味方ということですわ」 「えと……」 単純な話だが、理解するのに少し整理が必要だった。 うふふ、とデイジーがおもしろそうに笑う。 「あの方とあたくしとは、少々因縁がありまして。それを説明すると長くなるので省きますが、これだけは確実に言えます。あの方が、ルドルフさまの敵にまわることなどあり得ませんですわ。ご安心下さい」 「ですが、デイジーさんの敵というなら、今回の件の邪魔をするかも知れないのでは?」 「それは、あり得ますですわ」 「では、やはり、敵に回る可能性も……」 「ロッテ様が今回関わっていらっしゃる部分に関して言えば、実はあの方も、深く関係があります。ただ、その立場というのは、ロッテ様と同じ側に立つものですから、意図を察せばロッテ様にやっていただくことに、介入はなさいますまい」 「邪魔をする部分というのは?」 「あたくしが、今回の件で、一番やりたいことですわ」 「一番やりたいこと?」 ロッテは聞き返す。 それは、とデイジーが答えかけたとき、地の底から響いてくるような不気味な声が、下から聞こえてきた。 「そいつは、俺も聞きてえなあ」 「あら、ルドルフさま。やっと目を覚ましましたですか。護衛のくせに怠慢ですわ」 全く動じることもなく、デイジーが下方を見やる。 「お前が気絶させたんだろうが!」 「そんな気はなかったですわ」 「いきなり側頭部に蹴りを喰らわせておいて、よくもまあそんなことが言えるな」 「ルドルフさまを、試したのですわ。見事に不合格ですけれど」 「んな、試し方はいらん!」 「まぁーったく、これがあたくしだったから良かったようなものの、もし敵の攻撃だったらどうするおつもりだったのですか?」 「んなもん、どーしようもねえだろが」 「どうしようもない、で済む問題ではないですわ。ああ、嘆かわしい!」 「うるせえ! とりあえず、そこをどけ、眼鏡。重いんだよ」 ルドルフは、腕を上げてデイジーをどかす。 はいはい、と応じながらデイジーが、ルドルフの上から腰を上げた。 「それで?」 立ち上がったルドルフは、憎しを込めた視線をデイジーに送る。 「何ですか?」 「何がじゃねえよ。お前が一番したいことってのは何だと聞いている」 んー、とデイジーが難しい顔をして、額に指を当てた。 「難しい問題ですわ」 「どこがだ」 「いえ。ルドルフさまがいつ頃お目覚めになられて、どの辺りから話を聞いていたかが、大きな問題になります。つまり、ルドルフさまが、乙女の会話を盗み聞きする変態かどうかが重要になりますですわ」 「あのな。俺がどこまで話を聞いていたのかと、お前がしたいことを聞くのと、どういう関連があるんだよ?」 「あたくしの解答する意欲に関わるですわ。ほんの少しでも聞かれていたら、恥ずかしいではありませんか」 「知るか、そんなこと!」 「と、申されましても、そう思うのが乙女の恥じらいというやつですわ。ああ、なんて可憐なんでしょう!」 「うるせえよ、ハバア。二千年近くも生きていやがるくせに、何が乙女だ。片腹痛いわ」 「幾つ年を重ねても、女性の心はいつだって乙女なのですわ。その辺のところ、心のど真ん中に置いておかないと、将来女性問題で苦労いたしますですわ。現に、質問の解答が得られないわけですから」 「答える気があったのかよ」 「聞いてもどうしようもないことを、お聞きになられるからですわ」 「どうしようもあるわ!」 ルドルフにしてみれば、デイジーの思惑がどこにあるかを探るのは、仕事を遂行する上でとても重要になる。デイジーの行動でとばっちりを受けるのは、いつもルドルフなのだから。 仕方がありませんですわねえ、とデイジーが大袈裟に溜息をついた。 「あたくしが一番やりたいこと。それは、いつもと同じことですわ」 「意味がわからねえ」 「では、しっかり考えあそばせ〜」 「って、おい!」 ルドルフはデイジーの変化に気づいて、右手を伸ばす。 だが、半瞬遅かったようだ。デイジーの姿は既にそこになく、消えてしまっていた。転移してしまったようだ。ごきげんよう、という声が嫌味ったらしく後から聞こえた。 「くそっ、逃げやがった」 ルドルフは、デイジーを掴み損ねた手を握り、左の掌に打ちつける。 「ったく、あの眼鏡、前回といい今回といい、一体何しに来やがったんだ」 「陣中見舞い、とおっしゃってましたけど」 ロッテが立ち上がりながら、答えた。 「陣中見舞い? 単に遊びに来ただけのような気がするぞ」 「そうかもしれませんね」 「って、どこへ行く?」 火の側から少し離れ始めたロッテに、ルドルフは尋ねる。 「毛布を取りに。まだ夜明けまで時間があるようですし、少し横にならせていただこうかと」 言葉通りに、ロッテが近くに置いてあったリュックから毛布を取りだした。 ルドルフは、眉をひそめる。 「お前、寝なくていいんじゃなかったのか?」 「そうですけれども、ずっと起きているのも精神的に堪えるので。ルドルフさんが護衛してくれるのに甘えることになりますが、ちゃんと休んで体調を整える方が、今後のためだと思いまして」 ルドルフに視線を合わせず、ロッテがそう答え、横になってしまった。 勿論、最初と違い、いきなりそんなことを言い出したロッテの言葉を、額面通りに受け取ったわけではない。だが、そこを突っ込んで聞き出すほど、ルドルフは野暮ではなかった。 ふん、とルドルフは鼻で息をつく。 「好きにしな」 2 ルドルフとロッテが、レイアナ王国とリオール王国の国境を越えたのが、一昨日。ラウエルまでは、あと二日ほどであった。 旅をしてきてちょうど一週間。本来なら、もう着いていてもおかしくない日数である。だが、実際はまだ到着していない。 これには、少し訳がある。 ペンドア教団の襲撃が激化するのが予想されて以来、ルドルフは夜を越すのに夜営を選択し、進む道も街道を逸れ、迂回路を使っている。勿論、ペンドア教団の襲撃を避けるためだが、その分だけ旅の日数が増えることになったのだ。 その甲斐あってか、エゼルスタンの襲撃以後、襲われることはなかった。 「このまま行けるかもな」 ただ、このまま行けたとしても、恐らくペンドア教団側はラウエルで待ち構えているだろうから、そこで戦闘になるのは必然だろう。細い山道を歩きながら、ルドルフはその時のことに思いを馳せていた。 そのルドルフに、後方からロッテが鋭い声をかけてきた。 「ルドルフさん、後ろですけど」 「んん?」 言われて振り返ると、ロッテが足を止めて後方を注視している。 視線が捉えるのは、ずっと続く山道である。別段変わったことは見受けられない。 刹那。 ルドルフの感覚が違和感を訴える。 その感覚は、魔力を感じたときの感覚とイコールだった。 結論はすぐに出る。 ルドルフはシャルロッテの肩口を掴み、自分の方へ引き寄せた。 「きゃっ!」 突然のことに、ロッテが短い悲鳴を上げる。それを気にせずルドルフは、ロッテを掴んだまま更に後方へと移動した。 直後、ロッテの立っていた場所が、土煙を上げて吹き上がる。 聞き覚えのある咆哮が響き、土煙の中に狼らしい影が見えた。 勿論、普通の狼は地面から現れるといった派手な出現方法をとったりしない。出現したものが何かを特定するのは容易だった。 「狼魔!」 ルドルフは、ロッテを自分の後方へ押しやると、腰のエルファルスに手をかけた。 土煙が燻る中、狼魔が低く構える。 来るか。 ルドルフは身構えたが、狼魔はルドルフには向かわず、ルドルフらの方を向いたまま、後方へ一飛びした。 狼魔の意図を読み切れず、ルドルフは攻勢へ移るのを一瞬躊躇った。 狼魔が一声吠える。 すると、その足下に魔法円が現れ、次々と狼魔が出現してきた。その数、十体。 「ルドルフさん!」 「多すぎだろ!」 ルドルフは唸った。 自分一人なら、狼魔とはいえ、十体くらいなら蹴散らす自信はあった。 しかし、今はロッテがいる。 彼女の護衛が今の仕事で、そこを忘れるわけにはいかなかった。 「お前が俺に声をかけるときは、襲撃されるときみたいだな。次からは心しておくよ」 「そんなことは――」 「とりあえず、行くぞ」 ロッテがどう答えるかに興味はあったが、残念ながらそれを悠長に待っている時間はない。ルドルフは、群れてから襲いかかってくる狼魔たちに向け、エルファルスを一閃して牽制し、ロッテの手を取りながら後方へ走り出した。 逃走する判断は正しいとルドルフは思う。だがそれほど楽なものでもないのも、安易に予想が出来た。ルドルフには、護衛対象に傷一つつけてはならないという制約がある以上、逃走ですら、難事といっても過言ではない。ルドルフは、襲いかかってくる狼魔たちとの距離を測りながら、時にはロッテを自分の前方に押しやり、近づいてくる狼魔をエルファルスで斬りつけたりしなければならなかった。 その上。 振り向いたとき、愕然としたことがある。 狼魔の数が、かなり増えているのだ。 「おいおい」 「恐らく、あの魔法円から出てきているんじゃないでしょうか」 「んなことは、わかってる」 「いえ。つまり、まだ増えるのではないかと思いますけど」 ロッテが、そう冷静に指摘した。 「冗談じゃねえ!」 ルドルフは、迫り来る狼魔の一匹を斬り払いながら喚いた。 視線を前方に向ける。山間の細い道は遙か先まで続いていた。 このままこの道を逃げ続けていても埒があかない。ルドルフは、左側の森林に突っ込んだ。 木々の間を抜け、奥へ奥へと進む。 森の中は、道が整備されているわけではない。当然、逃亡する速度は遅くなる。だが密集する木々が、牽制の役に立つ。近接されても数頭で、囲まれることはない。それが、ルドルフの計算だった。 その計算が正しかったのか、ルドルフが何度目かに振り返ったとき、狼魔たちの姿が見えなくなっていた。 「どうかしましたか?」 ルドルフの走る速度が緩まったことに、ロッテが疑問を呈する。 いや、と答えながら、ルドルフは完全に足を止めた。自然、手を引いていたロッテの足も止まる。 「奴ら、見えなくなったな」 後方をうかがいながら、ルドルフはそう口にした。 「撒いたんでしょうか?」 「相手は狼魔だ。そう上手くいくもんじゃないと思うが」 狼魔の嗅覚は、狼のそれより鋭い。その上、魔獣として当然ながら卓越した感知能力を備えている。 妙な違和感がルドルフを襲う。 「何か懸念でも?」 「引っかかる」 「何がでしょう?」 ロッテが更に問いかけてくる。 何か危険があれば結構喋るんだな、とルドルフは、ロッテを見返しながら頭の片隅で思う。変なものだが、それで違和感の正体に気がついた。 「ちっ、はめられたか」 「え?」 「来るぞ。心しろ」 ルドルフは、そう言い捨てて歩き始めた。 「よくわからないんですが?」 ルドルフの後に続きながら、ロッテが尋ねる。 「過去二回の襲撃を、俺は一応撃退したよな」 「ええ」 「当然、次の襲撃は、前回より強力な布陣でないと意味がない」 「そうですね」 「となると、今回の狼魔の集団ってのはおかしい」 「そうですか? あれだけの数の狼魔なら、何とかなると考えてもおかしくはないと思いますが」 「二人とも抹殺したいんならな」 「あっ」 ロッテも気づいたようだ。 「とりあえず、崇魔平衆の言葉を信じるんなら、ペンドア教団はお前を生かして確保したいわけだ。狼魔の知能は狼より高いとはいえ、所詮は魔獣。そこまで器用な真似は出来ない。それに、襲撃の仕方も奇妙だったしな。気づいていたか? あいつら、数の利を生かして、一斉に襲いかかってこなかったんだぜ」 「そう言われてみれば……」 じゃあ、とロッテが、ルドルフに視線を送る。 「ああ、誘い込まれたわけだな、俺たちは」 ルドルフは肩をすくめて見せた。 そうですか、とロッテが納得したような返事をよこした後、また問いかけてくる。 「こちらに行くと、それが避けられるんですか?」 いんや、とルドルフは首を横に振る。 「え? では?」 「こうなったら、どうせ相手からは逃げられないだろうから、とりあえず進んでいるだけ」 ルドルフの回答に、ロッテからの返答はすぐになかった。 「大丈夫なんですか?」 「罠に誘い込まれて、不意を打たれるよりはマシだろ」 不意をうたれても、何とか出来る自信はあったが、ロッテが怪我をする可能性は格段に高くなる。 「それはそうですけど」 「俺としては、お前に怪我されたり、あまつさえ死なれると非常に困るんだ」 「そんなことを不安視しているわけじゃありませんが……」 「ん? じゃあ何が心配なんだ?」 「いえ、別にいいです」 「訳がわからん」 やがて、少し開けた場所に出た。 そこに、予想通り人が立っていた。 一人である。 その長身で優美な顔立ちと、真っ赤なローブをまとった出で立ちに、即座にペンドア教団の者だということがわかる。そして、崇魔平衆だということも。 「なかなか優れた洞察力を持っている。こちらにわざわざ出向く賢明さも、下等種として正しい」 ルドルフの行動を把握していたのか、崇魔平衆がそう微笑する。 「お前一人か?」 ルドルフは、崇魔平衆の皮肉に構わず問うた。 「一人だとどうだと言うのだ?」 「やりやすい」 ルドルフは素直に答える。 くく、と崇魔平衆がおもしろそうに笑った。 「確かにアジャックスを討った男だ。その自信は見栄ではあるまい」 「滅亡に向かって一直線の種族に、見栄はってどうするよ? 馬鹿じゃねえの?」 「私は侮辱されることになれていない。その台詞を撤回するのは、今のうちだぞ」 崇魔平衆が、怒りを内心に押さえ込んだ声で、ルドルフに迫る。 「しねえよ」 ルドルフは更に挑発しようとしたが、その前に崇魔平衆が言葉を続けていた。 「まあいい。ともあれ、名を聞いておこうか」 「聞いてどうする?」 「焔魔衆の副長を討ったのだ。隊長として、その名を聞いておきたい。それに、交渉するのに、名を聞かないのも失礼ではないか」 「交渉する気があんのかよ?」 「無論。無用な殺生は、なるだけ避けたいと思うのは自然だろう?」 そう答える崇魔平衆には、既に余裕が戻っているようだった。 「自然ねえ。魔神教団員と殺生は、固くイコールで結ばれているかと思ってたが?」 今度はルドルフの挑発に乗ってこない。聞き流して先を進められた。 「私はオーモンド。ペンドア教団焔魔衆の隊長だ」 「ルドルフ・テユジャ。見ての通り傭兵だ」 「ふむ」 ルドルフの名を聞いて、オーモンドが少し考え込んだ。 「アジャックスを討ったほどの男だ。それなりに名が通っていると思っていたが。在野には、まだ表に出ぬ才人がいるということか」 「人間如きの傭兵に興味がねえんなら、知らないのも当然だろうさ。で、したい交渉って何だ? 過去二回の襲撃と、今回狼魔をけしかけて、俺たちに精神的苦痛を与えたことに対する謝罪と賠償の交渉なら、聞かなくもないぞ」 「その月の神官をこちらへ渡せば、交渉は円満に終わる」 「交渉は決裂だな。帰って貰おう」 ルドルフは即答する。 対して、ふふ、とオーモンドが思わせぶりに笑った。 「交渉の余地は、まだあると思うのだがな」 「ねえよ」 「考えてもみろ。お前と私の実力差。その上――」 オーモンドが右腕を上げる。 途端、周囲の雰囲気が変わった。穢れの魔力で、この辺り一帯が囲われたようだ。 「結界が張られました」 ロッテの厳しい声が、後方から聞こえた。 「今回は、前のような助けは期待できぬぞ」 「そうかい」 ルドルフは肩をすくめてみせる。 ここに誘い込まれた時点で、こうなることは予測の範囲内である。むしろ、こういうことをされそうだと読んでいたからこそ、逃げ切れないと考えたのだ。 オーモンドが余裕の笑みを浮かべる。 「それで同じ提案だ。フィオラの神官をこちらに渡せ」 「引導なら渡してやるよ」 「ほう? これでも尚、考えは変わらないか」 「変わると思ってんなら、崇魔平衆ってのも馬鹿な種族だよな」 「人間ほどではないさ」 今度はオーモンドが肩をすくめた。 刹那。 ルドルフは振り向きざまに、エルファルスを打ち下ろした。 甲高い金属音が響き渡る。 「ほう!」 感嘆の声が、前後から起こった。 一つはオーモンドで、もう一つは、ルドルフの打ち下ろしたエルファルスを、バトルアックスで防いでいる男だった。 ルドルフはその男に見覚えがあった。前回の相手、エゼルスタンである。 「完全に、気配は消していたつもりだったのだがな」 エゼルスタンはそう口にしながらバトルアックスを払い、ルドルフから距離をとる。 「い、いつの間に……」 ロッテが茫然と呟いた。 気がつけば、後方にはエゼルスタンを含め三人の男が立っていた。皆、崇魔平衆のようだ。 「エゼルスタン、フレアズ、デイリ。わが焔魔衆選りすぐりの者たちだ。エゼルスタンとは面識があるはずだったな」 「絶滅危惧種を、こんな死地に揃えていいのかよ? 絶滅を早めたいのか?」 「相も変わらず、口さがない男だ」 エゼルスタンが再び前へ出てきた。彼のバトルアックスが黒い炎をまとう。禍々しい黒蛇が、螺旋状に巻き付いているようだ。 ルドルフは、前方のオーモンドと後方の三人に、それぞれ視線をやった。 距離的には微妙だった。どちらに打ちかかっていっても、ロッテとは離れてしまう。素早い一撃で倒しきり戻らねば、ロッテは捕らわれてしまうだろう。 結局は今までと同じである。相手の攻撃に対応してそれを防ぎ、うち払うしかない。その後、隙を見て攻勢に移る。戦闘において行動が掣肘されるのは、慣れていることとはいえ、なかなか辛い。 ルドルフは、自身の攻撃衝動を押さえ込み、いつでも攻撃に対応できるように、身体に緊張を走らせた。 「ほう。やる気だよ、彼は」 フレアズが、感嘆とも嘲笑ともとれる言葉を発した。 「そうでなければ、つまらん」 エゼルスタンが答えて、応戦しようと前に出かけたフレアズを制する。 「獲物を独り占めする気か、エゼルスタン?」 エゼルスタンの意図を察したフレアズが、そう苦笑した。 「奴には貸しがある。それを返して貰わねばならぬのでな」 「そういえば、前回は逃がしてやったのだったな。だが今回は、見逃してやるわけにはいかないと?」 「そういうことだ」 エゼルスタンが頷くと同時に、その横にもう一人の崇魔平衆が並ぶ。 「話を聞いていなかったのか、デイリ?」 エゼルスタンが、不機嫌そうにデイリを睨んだ。 いや、とデイリが首を横に振る。 「出しゃばるつもりはない」 「では、何だ?」 「一度だ」 「どういう意味だ?」 「一度の攻撃で片づけなければ、動く」 「万全を期す、ということだな」 フレアズが、デイリの言葉を補足した。 ふん、とエゼルスタンが鼻で息をつく。 「好きにしろ」 「なんだ、仲間割れか? たいした結束だな」 崇魔平衆三人の会話に、ルドルフは茶々を入れた。 オーモンドが苦笑する。 「お前の倒し方に、意見の食い違いが出ただけだ。結果に変わりはない」 「予想と現実が違っても、後悔するなよ」 「違わないさ」 エゼルスタンのバトルアックスがまとう黒炎が、更に激しく燃え上がった。 「お前の剣ごと、砕いてやる」 「やってみろ」 応じて、ルドルフはエルファルスを抜き放つ。 ふっ、と気合いを入れたエゼルスタンが、間合いを詰めてきた。その速度は、前回の戦闘時よりも数段早い。気がつけば、バトルアックスが唸りを上げて頭のすぐそこまで迫っていた。 しかし、ルドルフはそれに反応して見せる。エルファルスは、刃こぼれ一つせず、エゼルスタンのバトルアックスを止めきった。 軽い? エゼルスタンの一撃を受けきったルドルフが、違和感を憶える。勿論、今まで受けてきた中でも、上位に位置する衝撃を感じたのは事実である。だが、エゼルスタンの打ち込みの速さやバトルアックスの勢い、まとう魔力と黒炎の強さを考えれば、想定していた衝撃よりも、明らかに軽い。 それが意味するところを、ルドルフは即座に理解した。 エルファルスが防いでいたはずのバトルアックスは、既にそこから消えていて、無防備になっている腹部に襲いかかっていた。相手のフェイントに気づくのがもう半瞬でも遅ければ、ルドルフは横から真っ二つにされていたかもしれない。 「くっ!」 恐らく、エゼルスタン渾身の一撃であろうその衝撃は、尋常なものではなかった。半瞬とはいえ、それに対応する時間を作れたのは、ルドルフにとっては幸いだった。満足に防御姿勢がとれなければ、例えエルファルスで防げたとしても、ルドルフは横に吹っ飛ばされ、ロッテを敵の前に晒すことになっただろう。 「むう」 渾身の一撃を防がれたエゼルスタンが、憮然とした表情を浮かべながら、ルドルフの反撃に備えて距離をとった。 ルドルフは、追撃しない。否、出来なかった。エゼルスタンの一撃を受けきるのが精一杯で、それ以上行動力の余裕はなかった。 「お前の一撃を受けて、ひび一つないか。どうやらあの剣、不壊の剣のようだ」 フレアズが、そう感想を口にする。 「普段より、決め焦ったようだ」 デイリが淡々と指摘した。 「ふん」 不機嫌そうにエゼルスタンは息をついたが、反論しなかった。 「その辺の棒きれ持った程度の、倒せる相手としかやってこなかったってか?」 「そうかもしれぬな」 青筋を浮かべてルドルフに反論しかけたエゼルスタンより先に、フレアズが肯定の言葉を発する。 「ほう?」 「我々と同等以上の者など、そうはおらぬ。大抵は倒せる相手となるのは必定」 「知らないだけだろう。現に、お前らは人間に滅ぼされかけているじゃねえか」 「私は魔帝国戦争時には、生まれてはおらぬよ。あの頃とは違う」 「先人が間抜けみたいな言い方は、内輪で揉める元だぜ」 「違うな。魔帝国戦争敗戦を機に、我々は更に進歩したのだ」 フレアズが、涼しげにルドルフの挑発に答えた。 「退化かもしれねえぜ」 「それは、将来が証明してくれるだろう。魔帝国再興によって」 「何千年後の話だよ?」 呆れた口調でルドルフは返す。 「そう遠くない未来だ」 フレアズの視線が、ロッテに向けられた。 「約束だ」 デイリの声が割って入った。言った相手はエゼルスタンで、彼は苦々しい表情を作っていたが、先ほどと同じように反論はしなかった。 「さて。そろそろ仕事を済ましてしまおうと思う」 フレアズが、曲刀を抜いた。 次いで、デイリが印を組んで、眼前に巨大な魔法陣を展開させた。 「エゼルスタン」 「わかっている」 フレアズの呼びかけに、渋々といった声でエゼルスタンが答える。彼のバトルアックスが、再び黒炎をまとう。 「我ら三人が同時にいくのは、フォルテノ以来だな」 フレアズが場違いな懐かしそうな声で、感想を述べた。 「魔龍フォルテノ!」 その名を知っていたのか、ロッテが驚愕の声を上げた。 ルドルフは、その名を聞いたことはなかったが、龍というだけで、その強さがわかるというものである。 「魔龍の次が人間だとは、あまり威張れないがな」 皮肉たっぷりに、エゼルスタンが応じた。 「彼には、誇りに思って貰えばいいではないか」 「思うかよ」 ルドルフはエルファルスを構え直す。 「参る」 デイリの魔法陣から、数えるのが馬鹿らしくなるほどの黒い炎弾が、矢のように撃ち込まれた。狙いは全てルドルフである。 そして、同時にエゼルスタンとフレアズが動いた。 「縮こまってろ!」 ルドルフは後背のロッテに言い置いて、エルファルスを薙いだ。 エルファルスが光芒を発しながら、迫り来る炎弾を一掃する。 だが、一瞬の猶予もなく、エゼルスタンのバトルアックスが唸りを上げて襲いかかってきた。その威圧感は、先ほどの一撃よりも勝る。 「はあーっ!」 「!」 鮮血が舞う。 ルドルフは、フレアズの曲刀を防いでいた。 「見事だな」 フレアズが感嘆の声を上げる。 「デイリの炎弾を一掃し、更にエゼルスタンの一撃をかわす。何より、それらを囮と見抜いたその識見」 エゼルスタンが攻撃をしかけてくる際、ルドルフはフレアズの半瞬遅らされた動きも見落とさなかった。 もともとは、後ろで戦闘を観戦しているオーモンドが、隙を見てその動きをするかと予想していた。だが彼は動かず、その意図を持った動きをしたのがフレアズだった。 彼らの目的は、ルドルフ討伐ではない。ロッテの捕獲である。フレアズの動きは、ロッテに向けられていた。 その動きを察知したルドルフは、エゼルスタンの一撃をかわしながら、フレアズが自分を突破していくのを防いだのだ。 しかし、不完全だったようである。 「だが残念ながら、一手足らなかったな。私がこの娘を狙えば、お前は娘を守るために必ず、こちらに注意を払う。私こそが真の囮だよ」 そうフレアズが笑った。 ルドルフの脇腹には、鎧ごとぶち抜いたバトルアックスがめり込んでいた。黒い炎が現在進行形で傷口を焼いている。 エゼルスタンがバトルアックスをルドルフから抜き、フレアズが曲刀を鞘に収めた。勝負はついたということだろう。 一手足らないと言われても、ルドルフとしては憮然とするしかない。一人では行動に限界がある。その上、その行動すら掣肘を受けている。ロッテを守らなければいけない以上、エゼルスタンの攻撃をかわすのが不十分になるとわかってはいても、ルドルフにしてみれば、選択の余地なくこうするしかなかった。 「だ、大丈夫ですか!」 悲鳴に近い声を上げながら、ロッテがルドルフの傷口に手をかざす。だが、ここはオーモンドの結界内である。ロッテの魔力は稼動してくれなかった。 「くっ」 悔しそうに、ロッテが唇を噛む。 「大丈夫。まだ死なねえ」 ルドルフはロッテに声をかけた。 「でも、その傷じゃ……」 「致命傷じゃない」 一歩手前だがな。それはさすがに飲み込んだ。 斬られたというより抉られた脇腹からは、激痛が全身に迸っている。出血も酷く、ルドルフの下半身を血の色で染め上げ、更に足下に血の池を作っていた。 「でも――」 「とりあえず、話は後だ」 ルドルフは、崇魔平衆三人に視線をやった。 さすがに致命傷一歩手前の傷を負って、崇魔平衆三人に勝てる気はしない。その上、まだオーモンドがいるのだ。戦闘の継続は死に直結する。 ルドルフは、逃亡することを決断していた。 勿論、逃げるにしても、相手から隙を見つけなければならないが、彼らは崇魔平衆だ。人間如きと根底で考えているのは、今までの会話でわかっている。今の戦闘でも追い打ちをかけずに余裕を見せているのが、その証拠といえよう。その辺を上手くつけば、隙は見つけられそうだ。結界はエルファルスで破壊する。 問題は、それらをこなしている間に、大量出血や痛みで身体が思うように動かなくなってしまう点である。時間をかけすぎれば、それだけであの世行きだ。 とにかく、まず結界を破壊する。その後なら、ロッテの治癒呪文で出血と痛みはマシになるはずだ。 ルドルフがそう考えて、エルファルスを握る手に力を込めたとき、背後で観戦していたオーモンドの様子が変わった。 「来たな」 オーモンドが、待っていたと言わんばかりの口調で呟いた。 刹那、右方向から衝撃音が響く。次いで、何かがひび割れたような音がした。 たちこめていた穢れの魔力が、晴れていく。 「結界が破れました!」 ロッテが声を上げた。 「どういうことだ?」 ルドルフも疑問の声を上げる。 「くくく。そろそろ来る頃と思っていた」 オーモンドが、鋭い視線を衝撃音がした方向に向けた。 その先には、二つの人影が見える。 「結界の外に、更に感知魔法陣を敷くなんて、相変わらず器用なことね」 「そのおかげで、捕らわれずにすんだようだ」 魔術士風の小さな少女と、戦士風の長身な女性である。 「リエージュにコスマーか。貴様らを派遣してくるとは、崇神派も相当に焦っていると見える」 「あんたたちほどじゃないわ」 リエージュが、自分の長い髪を指で弄びながら微笑した。 「オーモンド殿、彼女らが?」 フレアズが、オーモンドに確認を取った。 「そう。崇神派が派遣してきた者たちだ」 「ほう?」 焔魔衆三人の視線が、値踏みするように崇神派の二人に注がれた。 「んで、フィオラの神官はどれ? ん、あれか。ありゃりゃあ。護衛はやられる寸前じゃないの」 自分たちに注がれている視線など全く気にもとめず、リエージュがルドルフとロッテの方を眺める。 でもまあ、とリエージュが言葉を続けた。 「よくもった方ね。下っ端三人とはいえ、一応平衆だし」 「何だと!」 下っ端という言葉に反応したエゼルスタンが、激昂する。 「わたしたちにとっちゃあ、ラッキーだったわね」 エゼルスタンを無視して、リエージュがコスマーに笑いかけた。 「結界の外に感知魔法陣を維持させておくのは、なかなか骨が折れる」 コスマーが、無表情に答える。 そっか、とリエージュがうんうんと頷いた。 「オーモンドは、それにかかり切っていたから、戦闘参加しなかったというわけか。うんうん。わたしたちはついてるわね」 「そう思うか?」 オーモンドが、挑発気味に聞く。 「あったりまえじゃない。さすがにわたしたちだって、焔魔衆を全部を壊滅させるのは一苦労だし」 それもやれば出来るけど。口調が露骨にそう言っていた。 「今ならば、簡単にフィオラの神官を捕らえられる。そう言いたいのか?」 自分たちを軽視する発言に、フレアズは憤りを隠さず問う。 「だって、あんたたちが相手でしょ? なら楽勝じゃない」 「では、やってみせろ」 フレアズが、曲刀を抜いた。 エゼルスタンとデイリも、戦闘態勢に入る。 「前回はうまく不意をついたようだが、今回はそうはいかぬぞ」 オーモンドが印を組み始めた。 「前回? わけわかんないわね。でも、やる気なのね?」 リエージュが不敵に笑う。 その眼前に、七つの魔法陣が展開された。その一つ一つが、デイリが展開している魔法陣と同じ大きさである。 「な、なに……?」 デイリが驚愕した声を上げた。 その魔法陣の一つが、どれだけの魔力を必要とするかを知悉しているデイリは、それを七つも同時に展開されては、彼我の実力差を痛感せざるを得ない。 「言うだけのことは、あるのか」 フレアズが、リエージュの発する魔力に気圧され数歩引いた。 「リエージュ」 コスマーが、リエージュに注意を喚起した。 わかってる、と短く答えたリエージュが、魔法を放つ。 七つの魔法陣から、雷霆がそれぞれ轟音とともに発せられた。 「その程度か!」 オーモンドの魔法が発動する。 巨大な黒炎が、焔魔衆の前で壁状にせり上がった。 七つの雷霆は、黒炎の壁に飲み込まれる。 「来るぞ!」 鋭い声で、オーモンドが部下に注意を促す。 ややあって、荒れ狂う雷霆が黒炎の壁を崩壊させた。だが、雷霆もその力を失い四散する。 視界が開けた。 「いない?」 フレアズが茫然と呟く。 「まさか!」 オーモンドは驚くが、確かに崇神派の二人はいない。その上、月の神官と護衛の姿も見えない。 「逃げたのか?」 エゼルスタンが、周囲を見回した。 「崇神派が、我々を前にして逃げるなどとはな」 それは想像の外だった。 オーモンドの計画は、後半まで計画通りだった。後は、崇神派を倒すだけだった。そのために、色々用意をしてあった。 「余程、あのフィオラの神官が大事なのでしょう」 フレアズの言葉に、オーモンドは頷かざるを得ない。 「私の方も、崇神派を意識しすぎたらしい」 無意識的に、本来の任務である月の神官確保より、崇神派討伐の方に比重を置いてしまっていたようだ。 何にせよ、フィオラの神官を逃し、崇神派を打ち損なった。 「いかがなさいますか?」 「決まっている。後を追う」 3 気づいたら、そこは森の中だった。 「転移したみたいです」 ロッテが、周囲を見回しつつそう口にした。 みたいだな、と答え、ルドルフは、自分たちを転移させた二人を見た。 「礼くらい、言ったらどう? あたんたたちを助けてあげたんだし」 そうリエージュが言う。 「助けてくれと言った訳じゃねえ」 「そんな状態で、よくそんなことが言えるわね」 「この程度なら、何とか出来た」 「子供みたいな強がりね。ま、痛みに泣き喚かないのは、褒めてあげてもいいけど」 揶揄するようなリエージュの口調だった。 「誰が泣くか」 けっ、とルドルフは吐き出すように応じる。 「動かないで下さい」 ロッテが、ルドルフの傷口に手をかざした。 瞬時に、傷が癒えていく。 「ふうん」 感嘆したような声を、リエージュがあげた。 「その傷を完治できるんだ。あんた、よっぽと高位の神官らしいわね」 「ご想像にお任せします」 リエージュの方に視線をやることもなく、ロッテが答えた。 「ありがとさん。助かった」 ルドルフは、ロッテに礼を言う。 「いえ。あたしのせいですから」 「ん? お前を守るのは仕事だし、そんなに気を使うことじゃないぞ」 「そうではなくて――。いえ、いいです」 「ふむ?」 ルドルフはロッテの考えがわからず、彼女を見返した。だが、ロッテは既に視線をリエージュとコスマーに向けている。 「背の高い方が崇魔平衆ですね。もう一人は、……恐らく人造魔的生命体」 「また崇魔平衆かよ」 ルドルフはうんざりした。しかし、すぐに変なことに気づく。 「崇魔平衆ってのは、魔神教団じゃないのか?」 「そうです」 「仲間割れでもしてたのか?」 「わたしたちは崇神派なのよ」 リエージュが、会話に割り込んだ。 「崇神派?」 「魔神教団は、魔帝派と崇神派の二派に別れて、争っているんです」 ロッテが簡単に説明する。 「ふむ。つまり、こいつらが崇神派ということは、焔魔衆の奴らは魔帝派ということだな」 「そういうことみたいですね」 「で、崇神派とかいうのが、何で俺たちを助ける?」 ルドルフは、リエージュを見た。 「その娘が、魔帝派に渡ると困るのよ」 「どうして?」 「こっちの質問もいいかしら?」 リエージュが、ロッテに笑いかける。 ロッテは答えず、リエージュを見返すだけだった。 「あんたは、何しにラウエル大神殿に行くわけ?」 「答えるつもりはありません」 「場合によっては、わたしたちがあんたを守ってあげるわ。こんなポンコツより余程役に立つわよ」 「必要ありません」 ロッテの声が冷たく響く。 そう、とリエージュが苦笑した。 「しょうがないわね。じゃ、実力行使でいくしかないか」 リエージュの右手の先に、ぼうっと魔力の光が灯る。 「そんなことさせるかよ」 ルドルフは、ロッテを後背に庇った。 「別に傷つけるつもりはないわ。頭に直接聞くだけよ」 にやり、とリエージュが笑う。 しかし。 何かが黒い軌跡を描いて飛んできて、リエージュの手の魔力を四散させた。 「な?」 そこには黒猫がいて、リエージュを見上げていた。 「こいつ、何てことするのよ!」 「リエージュ!」 今まで一言も喋らなかったコスマーが、厳しい声を飛ばした。 コスマーの視線の先には、少女が一人立っている。 くすくす、と少女が笑う。 「奇遇ね。こんな所で会うなんて」 少女がルドルフに声をかけた。 「あっ、お前、ファーンで会った」 「今度は憶えてくれてたのね。嬉しい限りだわ」 エリーゼが右手を伸べると、ジャッキーが駆け寄り、その肩に飛び乗った。 「いつからそこに?」 リエージュが、厳しい声でエリーゼに問う。 だがエリーゼは、リエージュの問いかけを無視して、ルドルフの側に歩み寄った。 「だいぶ苦労をしているようね」 「お前、ただのガキじゃねえな?」 ルドルフは、警戒しながら声をかける。 その警戒を苦笑しつつ、エリーゼが意味ありげな視線でルドルフを見上げた。 「お前の依頼主と知り合いだと言ったら、少しは納得してくれるかしら?」 「な、なんだって?」 ルドルフは耳を疑った。 「お前、デイジーの野郎と知り合いなのか?」 「腐れ縁というやつね」 エリーゼが肩をすくめる。 デイジーは、二千年前から生きている不老不死の化け物だ。それと腐れ縁と言うからには、彼女も見かけ通りの年齢ではなさそうだ。道理で、喋り方が大人びているわけだ。 もしかしてと思い、ルドルフはロッテの方を見る。 「あたしは、見かけ通りです」 ルドルフの思考を読んだのか、ロッテが聞く前に答えた。 「そうか」 ルドルフは、安堵の吐息を忍ばせる。 「あんた、何者よ?」 リエージュが不機嫌な声で、エリーゼに詰問した。だがエリーゼは、全くリエージュを気にすることなく、ルドルフと会話を続ける。 「ラウエルに行くのだろう? つきあってあげる」 「きーっ、無視すんなーっ!」 「え? いやしかしだな」 「心配いらない。私は何かあろうとお前の味方よ」 エリーゼが、ルドルフの瞳をのぞき込んだ。 その視線と言葉に、ルドルフは妙な既視感を感じた。昔、そういう言葉を聞いたような、聞かないような。どちらにしろ、敵対されるという危険な感覚は、何故かわかなかった。 「どうする?」 ルドルフは、ロッテの方を見る。 ずっとエリーゼを見ていたロッテが、答えようとしたとき、突然声が割り込んできた。 「いけませんですわー!」 唐突にルドルフとシャルロッテの間に出現したのは、フェルスアトラの近衛服を着た少女だった。 「デイジー!」 「また、変なのが出た。何よあんた!」 デイジーも、リエージュとコスマーに視線すらやらず、エリーゼにくってかかり始めた。 「駄目ですわ、そんなこと。あたくしが許しませんですわ!」 「むきーっ! また無視?」 「どうして?」 「ルドルフさまが、エリーゼ様になびいたら、大問題になりますですわ!」 「それも、一興じゃない?」 「俺はロリコンじゃねえ」 「くす、お前より年上だっていうのに?」 「そういう問題じゃねえだろ」 「お前のために、この格好でいるのに。冷たい奴ね」 「すげえ誤解を招く発言はよせ。それに、前も言った通り、俺はお前とは会ったこともない」 「ほら、諦めあそばせ」 「ところで、デイジー。お前は何でここにいるんだ? 聞きたいことと、言いたいことが山ほどある」 「ルドルフさまをいじめようと――あ、いえ、助けようと、陰から見守っておりましたら、この何かに媚びたような格好の魔女が、ルドルフさまと接触しに現れたからですわ」 「私に、この件に関われと言ったのは、お前じゃない?」 「こんな関わり方は、ナンセンスですわ! 大物なら大物らしく、陰から関わるべきですわ!」 「気が変わったと言ったろう。くすくす」 「ずるいですわ」 「お前にはやることがあるんじゃない? その間のために、私を関わらせたのだろう」 「それはそうですけれども」 「なら、これでも問題ないじゃない? お前の望む関わり方はしないと、言っておいたはずよ?」 むー、とデイジーが唸った。 それで会話が途切れたとき、リエージュの声が割って入ってくる。 「くだらないコントは、それでお終い?」 その声で、やっとデイジーとエリーゼの視線がそちらに向かう。 こんな屈辱は初めてよ、とリエージュが、怒りを露わにしていた。 「あんたたち、殺してあげるわ」 リエージュの魔力が稼動するのが、傍目からもわかった。だがデイジーは、しばしリエージュとコスマーを眺めてから言う。 「先ほどの焔魔衆との戦闘を見るに、そこのお二方は、なかなかのお力を持っていると思いますですわ」 「当たり前よ。それがどうした?」 「ですから、お二方もラウエルまでご同行いたしませんか?」 「え?」 「はあ?」 デイジーの台詞には、リエージュもルドルフも驚いてしまった。 「おい、正気かよ?」 ルドルフは、デイジーに問う。 「大丈夫ですわ。ルドルフさまもエリーゼ様もいらっしゃることですし、ロッテ様の安全面に関しては問題ありません。崇神派のお二方も、弾よけくらいにはなるでしょうし」 「そういう問題じゃねえだろ」 「敵の敵は味方ということですわ。そちらはいかが致します?」 デイジーが、崇神派の二人に問いかけた。 リエージュは拒否しようとしていたが、その前にコスマーが頷いていた。 「よかろう」 「コスマー!」 「こちらも、その方が都合がいい。無用な戦闘は、避けたい」 「あんな奴ら、瞬殺できるわよ!」 「なら、いつでもいいじゃないか」 コスマーの言葉に、リエージュは不満そうに沈黙していたが、やがてわかったと頷く。 「なら決まりですわね」 うふふ、とデイジーが笑った。 |