罪と罰
一章 1 「おや、久しいわね」 ルドルフが、そう後背から声をかけられたのは、ファーンの中央広場だった。ここから更に南下した路地の一角にグリーンウッド亭がある。ルドルフはそこに向かう途中だった。 ところが、振り返ってみても、それらしき人物の姿は見当たらない。気のせいかと思い、再び歩き始めると、また声がかかった。 「こんな所で会うなんて、奇遇ね。あれから何年ぶりになるかしら」 感慨深そうな声は、下方からしていた。それに気づいてルドルフが視線を下げると、そこには、右肩に黒猫をのせた年端もいかない少女が立っていた。地面に届きそうなほどの見事な黒髪を風に揺らしながら、ルドルフを見上げている。 「あー、誰だ、お前?」 突然声をかけてきた見知らぬ少女に対する、それは当然すぎる疑問だった。 「憶えていないのか。冷たいわね」 「知らんものは知らん」 「くす。懐かしいわ、その言い様」 少女がルドルフの言葉を無視して、感慨に耽っている。 「誰と間違えているのかは知らんが、俺はお前を知らん」 ルドルフには、子供の知り合いはいなかった。それ以上に、この少女のような容貌の者を忘れるとはとても思えない。それくらい、一目で脳裏に刻み込まれてしまうほどの美少女だった。 「くす、完全に忘れてしまっているようね」 少女が微苦笑した。 その大人ぶった態度と話し方は、昨今の流行だろうか。そんなことを何となく考えつつ、ルドルフは言葉を返す。 「出会ってもいないものを、忘れたと言われても困るんだが」 そう、と微笑を崩さず、少女が黒猫の顎を指で撫でた。 「お前にとっては、その程度の女だったと嘆いておくわ。なあ、ジャッキー」 「あのなあ」 どうにも、ストーカー女に絡まれているような気分である。十年後ぐらいなら、喜んで話にのるところだが、残念ながらルドルフには幼女趣味はなかった。少し憂鬱になりながら、ルドルフは仕方なく問う。 「とりあえず、名前を聞いておこうか。思い出すかもしれん」 「エリーゼ」 ルドルフの一挙手一投足に興味深そうな視線を投げかけながら、少女が答えた。 「エリーゼね」 その名前に聞き覚えはあった。だがそれは、奇抜な名前ではないからだ。その名をした有名人を三人くらいなら、今すぐにでも答えられる。その程度のものだ。当然ながら、この少女とイコールで結びつくものではない。 「やっぱ知らんわ」 「そう。残念ね」 エリーゼが肩をすくめて見せた。 「まあ、もともと会ったことがないんだから、しゃあないわな。世の中には、三人は似た奴がいるって言うから、多分、他の二人のうち、どちらかが正解だろうぜ」 「他を当たれとは、なかなか酷い言い種だわ」 口許は微笑しているものの、エリーゼの視線が鋭くなったのは、気のせいではあるまい。これほどの美少女の厳しい視線は、なかなか迫力があった。ルドルフは、何かとんでもない失言をしてしまった気にさせられる。 「いや、そう言われてもだな」 現況は、単純に子供に絡まれているだけである。それなのに、ルドルフは何故だか気圧されていた。言葉遣いが、子供のそれと違うからだろうか。ガキの戯言に対し、真面目に答えようとしている自分に、ルドルフは改めて気がついた。 「まあいい」 くすくす、とエリーゼが笑い、視線が柔らかくなる。 ルドルフは、知らず安堵の息をついていた。 「しかし、お前が動き回っているということは――」 エリーゼが軽く周囲を見渡した。 その視線が、一点で止まる。 「なんだ?」 ルドルフもそちらに視線を向けるが、人通りが見えるだけで、これといった誰かがいるわけではなかった。 しかし。 「くすっ、やっぱりね」 さもおもしろそうにエリーゼが笑った。 「は?」 「これは、おもしろくなってきたわね」 「訳がわからんのだが?」 「くすくす、鈍感も罪だわ。まあ今回は、奴に免じて許してあげる。本来なら、再会を祝して、一晩くらいはつきあって貰うところだけど」 「はあ」 どう返していいか、まったくもって困る台詞だった。 「もっとも、それはそれで、奴がうるさいだろうが、な」 エリーゼが、挑発気味な視線を先程見ていた先に送る。 「誰かいるのか?」 ルドルフも、もう一度そちらの方を見るが、やはり、それらしき人物は見当たらない。 訳がわからなすぎると思いつつ、ルドルフは視線を戻すと、エリーゼは既に後ろ姿を向けて歩き出していた。 ルドルフの視線が戻るのをはかったようなタイミングで、手を軽く上げ、雑踏の中に消えていく。 「なんだったんだ、いったい」 去っていくエリーゼを止める気にもならず、ルドルフはしばらくその場にたたずんでしまった。 しばらくして、考えても仕方がないと悟り、ルドルフも目的地へ向かって歩き出した。 2 ファーンの街は、ルドルフの活動域の中心だったから、よく知っている。それでも、一万人超の人口を抱えるこの街の宿屋を、完全に知り尽くしているわけではなかった。グリーンウッド亭も詳しくない宿の一つで、場所ぐらいは分かるが、あまり馴染みのある店ではなかった。 宿屋もそうだが、店というのは、建っている場所でだいたいの客層が分かる。南門近くにあるグリーンウッド亭は、ルドルフが馴染みにしていないだけで、行商人や傭兵などの旅人が多く利用する宿屋らしい。その意味では、依頼の場所に相応しいといえた。 店内に入り、カウンターに進む。 デイジーはこの宿の一室としか言ってなかったから、どの部屋に依頼の物品があるか分からない。とりあえず、ルドルフは店主に自分の名を告げてみた。これで通じないなら、デイジーの名を出そうと思っていたが、どうやら部屋は、ルドルフの名でとってあるらしい。すぐに、二階の西側真ん中の部屋だと告げられた。 部屋に向かいながら、ルドルフは依頼の物品が何かを考る。 何せデイジーからの依頼である。どんな物を運ばされるかわかったものではない。それなりの覚悟が必要だろう。 「ここか」 ルドルフは、依頼物のことを考えながら、部屋のドアを開けた。 ドアを開けてまず目についたのは、椅子に腰掛けている少女である。 年の頃は、十五・六だろうか。見事な金髪をセミロングに整えていた。黒を基調とした半袖短パンという格好で、首から下だけをみれば少年のようである。 その少女が、不審者を見る目つきでルドルフを見ていた。 「誰ですか?」 ルドルフがまず思ったことは、部屋を間違えたかということである。そういえば、ドアに鍵がかかっておらず、店主にも鍵を渡されなかったと振り返る。 その後、部屋を確認するために、首だけ部屋の外に出して確認をとっていると、もう一度声がかかった。 「もしかして、ルドルフ・テユジャさんですか?」 「そうだが?」 ルドルフが頷くと、少女が短く息をつく。 「遅かったですね」 「ん?」 「それに、人の部屋に入るときは、ノックぐらいするものじゃありませんか?」 「ちょっと待て」 まだ何か言おうとしている少女を、ルドルフは手を上げて制する。 「お前、誰だ?」 当然の質問をルドルフがすると、少女が不信感しか入っていない双眸で、ルドルフを見返した。その蒼い瞳が、厳しくルドルフを改める。 「ルドルフ・テユジャさんですよね?」 「そうだが、だから、お前は誰だと問うている」 「デイジーさんから依頼を受けたんですよね?」 「ああ、なるほど」 ルドルフは納得した。 恐らく、この少女がデイジーの依頼物を持ってきたのだ。年齢から見て、運び屋なり同業なりかどうかの判断は迷うところだが、依頼物をルドルフに渡すところまでが務めなのだろう。 「お前が持って来たんだな」 「は?」 今度は、少女が分からない顔をする。 「いや、デイジーからの依頼だろ?」 「そうですけど」 「それを、お前が持って来たんだろ?」 「……持って来た?」 「違うのか?」 「ルドルフ・テユジャさんですよね?」 少女が顎をひいて、ゆっくりと確認した。 「何度も確認しなくても、俺がルドルフ・テユジャだ。なんなら、傭兵鑑札でも見せようか?」 「あなたが、あたしをラウエル大神殿まで護衛してくれるんですよね?」 「あー……」 少女の言葉で、ルドルフはデイジーの依頼物を悟った。 「あんの野郎っ……! 人なら人って最初から言いやがれ!」 ルドルフは唸る。 「は?」 「何故、そこを隠す? 意味がねえじゃねえか! そうまでして、俺に仕事を失敗させて、エルファルスを奪いたいか? そうはいくか、あの眼鏡! 絶対渡さねえぞ!」 狙われている人物を運ぶのは、確かに運搬の範疇に入るかもしれないが、仕事としては対人護衛になり、物品運搬とは別物である。そして、対人護衛の方が、明らかに難易度が高い。 「違いましたか?」 突然握り拳を震わせ自分の世界に入ってしまったルドルフに、そう少女が声をかけた。 その言葉で、こちらの世界に帰ってきたルドルフは、大きく息をついて、沸点にいきかけた精神を落ち着ける。 「違わない。その通りだ」 「何か問題でも?」 「ちょっと、聞いた情報に齟齬があっただけだ」 ルドルフは吐き捨てるように答えた。 仕事の内容が依頼と違うのだ。本来なら、ここで依頼を破棄してもいいはずである。だが契約上、ルドルフにはそれが出来ない。 「そうですか。それでは、お願いします」 儀礼的に少女が頭を下げた。 「ああ」 「では、いつ出発しますか?」 「用意は?」 ルドルフは問い返す。 「出来ています」 テーブルに置いてあったリュックを引き寄せながら、少女が頷いた。 そうか、と答えて、ルドルフは視線を窓に向ける。 陽はまだ高い。 「期日もある。半日遊んでいても、しゃあねえだろう。今から出るか」 「わかりました」 少女が立ち上がり、リュックを背負う。 「とりあえず、名前を聞いていいか?」 「聞いてないんですか?」 「情報に齟齬があったと言ってるじゃないか」 「シャルロッテです」 「シャルロッテね。わかった。じゃあ、行くか」 「はい」 シャルロッテが歩き出したのを見てから、ルドルフは部屋から出た。 3 目的地であるラウエル大神殿は、リオール王国の北部の都市ラウエルにある。 ファーンはレイアナ王国東部の都市で、リオール王国はレイアナ王国の北東部と境を接していた。従って、ルドルフたちの旅は、北東に向かって進む旅となる。 ファーンからラウエルまでは、徒歩でだいたい一週間程度ではあるが、六日午後現在からすると、期日の十五日までそれほど余裕はない。 このくらいの移動距離となると、本来なら馬を調達して時間の短縮をはかるのが普通であるが、ルドルフはそれを避けた。直接的近接的な攻撃からならなんとかなるとしても、間接的遠距離的な攻撃に対処するのは難しいからだ。遠方から弓や魔法などを打たれた場合、シャルロッテを傷一つなく守るのは、相当な苦労と運が必要だろうから。 「めんどくさいったりゃありゃしねえ」 ルドルフは呟いて、足下の石を蹴っ飛ばした。 横を歩くシャルロッテが、視線だけその石に向けたが、何も言わなかった。 「旅は初めてか?」 ルドルフは聞いてみる。 「はい」 シャルロッテが前方を向いたまま、頷いた。 「道理でな」 ルドルフのそんな感想に、シャルロッテがちらりとルドルフを見やる。 「装備が全部新品だ」 シャルロッテの身につけているリュックやポーチは真新しく、履いているブーツにいたっては、皮がまだ光っていた。 「あまり、出歩くのは許されなかったものですから」 シャルロッテの視線が再び前方を向く。 「別に責めてるわけじゃねえよ。シロウト連れて旅するのは、何も今回が初めてじゃねえしよ」 「そうですか」 「それで質問だが、旅が初めてのお前さんが、わざわざラウエルまで行かねばならない理由ってやつを教えてもらえるか? ラウエルは、旅の初心者が目指すには、ハードルが高すぎると思うんだがな」 ラウエルというのは、一般人が行きたくなるような場所では決してない。むしろ、一生行きたくない場所だろう。 シャルロッテは、しばらく無言だった。 答えたくないか。ルドルフがそう聞くのを諦めかけたとき、シャルロッテの口が開く。 「魔帝国は、ご存知ですよね?」 「一応な」 やはりなと思いながら、ルドルフは応じた。 ラウエルと聞いて、まず連想するのは魔帝国である。何故ならば、ラウエルは魔帝国の首都だった場所だからだ。そして、ラウエル大神殿というのは、魔帝国の主神にして、魔神の王〈混沌の主〉ポテイトウズを祀る神殿だった。 ルドルフの返答に、シャルロッテは言葉を返さない。仕方なく、ルドルフは返答を補足した。 「神代の終わりに、崇魔王統のアヴルサックが建国した、魔神に代わり地上支配を目的とした帝国。魔神皇国ってのが、正式名称だったか? 二千年くらい前、『死の蔓延』の後遺症で疲弊している諸国に対して、大規模な戦争をしかけたが、結局は連合軍に敗北、滅亡した。こんなところか」 そうですね、とシャルロッテが頷く。 「〈魔帝〉アヴルサックを始め主要な幹部は、ほとんど封印されたり討ち取られたりしました。主神殿のラウエル大神殿も厳重に封印されています」 「だが、ラウエルは今もなお穢れの場となっている」 そのため、穢れの環境に耐えられない普通の人間は、近寄ることすら出来ない。 「魔帝国戦争終結から二千年。自然浄化してもおかしくない時を経ているのに、どうして、その穢れは晴れなかったと思いますか?」 「さあてねえ。あまり考えたことはなかったな」 ラウエルは、ルドルフの主な活動域からは少し離れていた。ルドルフは、傭兵としてラウエルがどういう状況かの知識は有していたが、その原因までの興味はなかった。 ただ、シャルロッテが何を言いたいのかは、おぼろげながらわかってきた。 「ようするに、ラウエル大神殿に、封印されてなおラウエルを、現在進行形で穢し続けている何かがあるわけだな?」 「魔帝国を魔的に支えてきた〈祭壇〉。それが、ラウエルを穢し続けている正体です」 「お前は、それをどうにかするために、ラウエル大神殿に行く?」 普通に導き出される答えを、ルドルフはぶつけてみる。 だが、シャルロッテは頷き返しただけだった。 その微妙な答え方に、まだ何かあると推測したが、これ以上は答えてくれなさそうなので、目的に対する質問をルドルフはやめる。 「お前さ。もしかして、どこぞの魔神教団員ということはないよな?」 「違います」 「となれば、とりあえずお前を狙ってくるのは、魔神教団だな」 魔帝国を魔的に支えてきた〈祭壇〉をどうにかしようというのだ。魔帝国の残滓である魔神教団が、指をくわえて見ていることはないだろう。 「そうなりますね」 「お前の目的がわからんから、その影響がどの程度かは判断がつかないが、魔帝国を魔的に支えてきた物とかが絡んでくるとなりゃあ、魔神教団の方も、結構本腰入れてくるかもな。問題は、どこまでこっちの情報が知れているかだが」 「あたしたちがラウエル大神殿に向かうという情報は、知っていると思います」 ルドルフは、シャルロッテの方を向いて続きを促した。 シャルロッテは、相変わらず視線を前方にやったまま答える。 「そういう情報を、デイジーさんが流したそうですから」 「おい、ちょっと待て。そりゃあ、どういうことだよ?」 「言葉通りです」 素っ気なく、シャルロッテが応じた。 「何考えてんだ、あの眼鏡! わざわざ敵に情報を渡してどうする気だ?」 「あの方は、あの方で動かれているようです」 「この件に関してか?」 「そう聞いてます」 「嫌な予感がするな」 ルドルフは、眉根を寄せて考え込む。 「あいつが裏で動いていて、俺にいいことがあったためしがない。いや、裏でなくてもいいことなんぞなかったが」 デイジーが動いたために、ルドルフが被った被害は枚挙に暇がなかった。一度、彼女の行動原理を考えたことがあったが、どう考えても自分をイジめるためという結論しかでてこなくて、嫌な気分を味わったことがある。 「俺が失敗できないのをいいことに、色々やってくれたからな、あの眼鏡。地下迷宮の底に強制転移だの、俺もいた吸血鬼の館に放火だの、龍の財宝を奪ってその罪を俺になすりつけるだの。今度は何をする気だ?」 「それはわかりませんけど、今は他に考えることがありそうですよ」 変な物言いをしたシャルロッテは、足を止めていた。鋭い目線で、前方を睨んでいる。 何かと思ってルドルフもそちらに注意を払うと、空間が歪んでいるのが目に入った。 「げっ」 こんな風に空間が歪むのが何かを、ルドルフは知っていた。 誰かがそこへ、転移してきたのだ。 刹那、歪んだ所から穢れの力が、その場を汚染していく。 「ちっ」 ルドルフは舌打ち一つ、シャルロッテの前に移動し、エルファルスを抜いた。そして、エルファルスを地面に突き刺す。 エルファルスが光芒を放つと、たちまち穢れの場が消え去っていった。 ほう、という感嘆の声が、前方から聞こえる。 「穢れの場を消し去ったか。なかなかの力だな」 見ると、赤いマントを羽織った長身で優美な男が一人と、その両横に戦士風の大男が二人が、ルドルフたちを見据えていた。 「混沌転移か。迷惑な出方をしやがって」 ルドルフは吐き捨てるように言いながら、エルファルスを地面から抜いた。 「それで、何か用か? まさか、場を穢しに来ただけじゃねえだろ?」 「その女を渡して貰いたい」 簡潔に赤マントの優男が要求する。 「断る」 明瞭にルドルフは拒否した。 「ならば、死んで貰う」 優男がそう宣言するや否や、両横の男がルドルフに襲いかかってきた。 彼らは、腰の剣を抜くと何事か唱える。すると、彼らの剣が黒い炎をまとった。明らかに、魔的な炎である。 「死ぬ気もねえな」 ルドルフはエルファルスを構え直し、応戦した。 白刃が二度煌めく。 息を飲む声が、後方から聞こえてきた。 次の瞬間、二人の男が倒れ落ちた。 ほう、と優男が、もう一度感嘆の声を上げる。 「彼らも相当の手練れ。それを一瞬で切り伏せるとはな」 「俺も傭兵生活が長いんでな。これくらいの芸当は身につけてるさ」 「鎧ごと切り裂くその力。貴様の腕か? それとも、その甚大な魔力を放っている魔剣の力か?」 優男の視線が、エルファルスを興味深げに捉えていた。 「どうせ、この後、お前が身をもって知ることになるんだ。今気にすることじゃねえさ」 「くくっ、人間はすぐに大口を叩く」 おかしそうに優男が笑った。 「あの人、崇魔平衆です。気をつけて下さい」 後背から、シャルロッテが声をかけてきた。 「あれがか」 ルドルフは、改めて優男を眺めた。 確かに、あまりに優美すぎる容貌も、華奢そうな身体も、人間とは少々雰囲気を異にしていた。 史代開闢のとき、つまり神代の終わりに、神々は地上から去らねばならなくなった。その理由は教義によって様々で、定説を得ない。それはともかく、そのとき魔神群は、自分たちに変わり、地上支配を遂行する種族を創生した。それが崇魔王統と、その下部の崇魔平衆だった。 魔神が直接創生した種族なだけに、崇魔平衆の身体能力は、人間とは比べものにならないぐらい高い。特に魔力に秀で、生まれついての優秀な魔術師である。それ故、魔帝国では支配者階級で、能力に劣る人間たちを使役していた。 ルドルフの知識の中に、崇魔平衆という種族名は記されていた。ただ、実際に見たのは、これが初めてだった。そもそも崇魔二種は、魔帝国戦争のときに大半が死んだり封印されたりして、現在ではほとんどいないのだ。 「ようするに、魔神教団の幹部クラスが、いきなりおでましということだな」 魔帝国時代、人間を支配使役していた崇魔平衆である。その命脈を受け継ぐ、魔神教団においても、その階級は適用されていると簡単に推測できる。 「さっきの黒炎の刃は、ペンドア教団の秘蹟です」 「なるほど、ペンドア教団か。なら、炎を操るのはお手の物か」 ペンドアは〈荒ぶる炎の魔神〉と呼ばれる、強力な魔神の一柱だ。神話では、黒炎に包まれたスピアをもち、〈狼魔王〉クレイヤンを駆り、多く法神や霊神を打ち倒したという。 「私の所属がわかったからといって、どうなるわけでもあるまい。いやむしろ、恐れおののいて、その女を渡してくれるのなら、ちょうど良い」 尊大な笑みを浮かべて、優男が口を挟んでくる。 「記憶力ねえのか? 断ると言ったろう」 「今なら、まだ間に合う」 優男が目を細めた。彼の魔力が稼動し始めているのが、ルドルフにもわかる。 「本当に記憶力ねえんだな」 「そうか」 優男の口許が動いた。何か呪文を唱えたようだ。次いで、右手を差し出す。 すると、右手を中心とした虚空に、大きな魔法円が現れた。 「!」 獣の遠吠えが聞こえる。 刹那、魔法円から三つの影が矢のように飛び出し、ルドルフに突進してくる。 「くっ!」 ルドルフはエルファルスを構えて防御するが、一つ抜けてきたようだ。右肩に鋭い痛みが走った。 三つの影はそのまま空中に留まり、ルドルフとの間合いを計っている。 その姿は狼に似ていた。ただし、野生の狼より黒く禍々しい毛皮をまとっており、その上、二回りぐらい大きい。そして、その背にはコウモリの羽のような翼が生えていた。 「狼魔か」 魔王クレイヤンが生み出した魔獣である。魔獣としては比較的ポピュラーだが、それは、多くの人々を死に追いやったからである。一般的なモンスターとは違う、歴とした魔神の眷属だった。それ故に、通常の武器では、傷をつけることすら出来ない。 ルドルフは右肩に視線をやる。そこは、ブレストプレートの肩当てが食いちぎられ、血が流れだしていた。 「大丈夫ですか?」 「心配するな。ちゃんと守るから」 「そうではなくて」 「ん?」 「その傷が――」 シャルロッテが、ルドルフの右肩に手を伸ばす。 「ああ、これか」 ルドルフは、シャルロッテの手が傷に触れる前に、ぽんぽんとそこを叩いた。 「こんなの、傷のうちに入らねえよ。これくらいなら、無傷と変わらん」 別段強がったわけではない。ルドルフにとっては、そういう認識だった。実際問題として、これくらいの傷で動揺していたら、傭兵などやっていられない。 でも、と反論しかけるシャルロッテの手は、まだ虚空にあった。 「なんていうかさ。このくらいの傷で心配されたら、俺はものすごく弱いんじゃないかと錯覚してしまうから、よしてくれ」 「べ、別に、心配しているわけでは……」 「じゃあ、いいじゃないか。それと、少し下がっていてくれると助かるんだが」 「……わかりました」 シャルロッテが数歩後退する。それを背で確認してから、ルドルフは再び意識を狼魔と優男に向けた。 狼魔たちは唸り声を上げながら、襲いかかる隙をうかがっている。 その隙を作ろうというのか、優男が印を組んで呪文を唱えていた。 優男の手に、黒い炎が出現する。先ほど、戦士たちの剣がまとっていた炎と同種のものだ。ただ、それより圧倒的に魔力が強い。 「それくらいの魔力でなけりゃ、狼魔を一度に三匹も召喚出来ないよな」 ルドルフは舌なめずりをした。 常のルドルフであれば、相手の攻撃を待たず、どれかに打ちかかって機先を制するのであるが、後ろにシャルロッテを立たせている以上、そうもいかない。今回の依頼は、彼女を無事にラウエル大神殿に送ることだ。 ルドルフは両脚を広げ、重心を低くとる。 そして。 優男の黒炎が、一挙に高い火柱を上げたかと思うと、渦を巻いてルドルフに襲いかかってきた。次いで、狼魔たちが牙を剥いて、一斉に飛びかかってくる。 轟音とともに炎の顎が、ルドルフを飲み込んだ。 そこに、狼魔たちが突進してくる。 「!」 シャルロッテが息を飲んだ。 ややあって。 霧が晴れるように、ゆっくりと黒炎が四散する。 その中央で、ルドルフが空中の狼魔に、エルファルスを突き刺していた。 「なに……?」 優男が目を剥く。 ルドルフの足下には、首と胴の離れた狼魔が息絶えていた。それから、ゆっくりと落ちてくるもう一匹の狼魔が視界に映る。その狼魔も胴が真っ二つに斬られていて、地面に落ちたときには、二つに別れていた。 「持ちネタは、これで終わりか?」 ルドルフは挑発気味に言葉をかけながら、狼魔からエルファルスを抜いた。既に絶命していた狼魔は、羽ばたくこともなく地に落ちた。 「魔力を断ち、魔獣を斬るか。その魔剣の力にしろ、それを振るう所有主の実力も評価した方がよさそうだな」 「鳥頭なんだな。お前が身をもって知ることになるから、気にする必要はねえと言ったろう?」 「少しやるからといって、人間如きがいきがらない方がいい」 「ふん。お前は、その人間如きのために淘汰されかけている絶滅危惧種じゃねえか。滅びたくねえなら、大人しく保護されてる巣に帰れよ」 「貴様!」 ルドルフの台詞の何かが、優男の逆鱗に触れたようだ。平静な顔が、憤怒といっていい表情に変わった。 「下等種の分際で、身の程を知れ!」 優男が呪文を詠唱しながら、大仰な印を結ぶ。 中空には、先ほどより大きな魔法円が浮かび上がっていた。 何をしようとしているのかはわからなかったが、それが効果を発現するまで待っている気は、ルドルフにはない。狼魔を蹴散らした以上、行動を掣肘するものは何もなかった。ルドルフは地を蹴り、優男に飛びかかっていく。 「遅い!」 ルドルフの突進より先に、優男が呪文を唱え終わる。 刹那。 魔法円が、弾けて消えた。 「――!」 優男の顔に動揺が走る。反射的に周囲を見回しかけ、眼前に迫ったルドルフへの対応が遅れた。 ルドルフは、エルファルスを一閃させる。 刃は光の軌跡を残しながら、優男の胴を斬り払った。 「ぐぁああーっ!」 悲鳴とともに、優男が後方へ吹っ飛ぶ。 「よっ!」 ルドルフは踏み込んで、二撃目を打ち込んだ。 決まれば絶命させる一撃になっていたであろう攻撃は、優男が身を横に投げるようにして回避したので、かろうじて肩先をかすめる程度に終わった。 ルドルフは更に踏み込んで追撃するが、優男の伸ばした手から短剣が放たれ、それをかわしたために、優男が間合いから遠ざかるのを許してしまう。 「ちっ」 舌打ちを一つして、ルドルフはエルファルスを構えなおした。 「おのれっ、おのれっ、おのれぇぇっ!」 蒼白な顔面に憤怒の表情を浮かべながら、優男が上体を起こす。左手で身体を支え、右手で腹の傷を押さえている。そのざっくりと割れた傷からは、勢いよく鮮血が流れ出していた。致命傷である。 「崇魔平衆っていっても、血は赤いんだな」 とどめを刺すべく、ルドルフは優男に近づいた。 「おのれぇぃっ!」 優男が吠える。 その瞬間。 優男の姿が忽然と消えた。 ちっ、とルドルフはもう一度舌打ちする。 「条件発動か」 ある条件になれば、自動的に発動するよう仕込まれた魔術のことである。戦闘になれば防御フィールドを自動的に張る、武器を強化する等。傷を負えば自動的に治療する、転移して難を逃れる等々。なかなか便利な魔法なので、数多くの魔術師が使用している。傭兵生活の長いルドルフも、その魔術の存在を知っていた。 今の優男の場合、どのような条件付けをしていたかはわからないが、発動したのは転移系の魔術だろう。魔神教団系がよく使用する混沌転移でないのが、優男が置かれていたぎりぎりの状態を示しているようだった。 「逃したな」 ルドルフはエルファルスを鞘になおしつつ、呟いた。 「いいんじゃないんですか? あたしは無事でしたし」 背後から声がかかる。 ルドルフが振り向くと、シャルロッテがすぐ後ろまで来ていた。彼女は、右手をルドルフの右手にかざしている。 シャルロッテの掌に淡い光が浮かび上がる。その光がルドルフの傷に触れると、みるみるうちにルドルフの傷が治っていった。 「治癒呪文か。お前、そんなもん使えたのか」 「余計なお世話でしたか?」 無愛想にシャルロッテが問い返す。 「いや、助かった」 正直にルドルフは答えた。応急手当ては出来るにしても、それ以上のことは自分では出来ない。だから、この先のどこか大きめの街で、治療の魔法サービスでも受けようと考えていたのだ。魔法サービスは結構な値が張るので、助かったと言わざるを得ない。 「別に、貴方のためだけというわけではありませんから。貴方が怪我で満足に動けなくなって、護衛に支障が出ると、困るのはあたしですから」 淡々とシャルロッテが答える。 「そーですか」 「終わりました」 シャルロッテの言葉を受けて、ルドルフは自分の右肩を見る。 完全に傷はふさがっており、痛みもない。完治である。 肩当てが潰されたのはもうどうしようもないが、腕を動かすのには何の支障もないだろう。ルドルフは腕をぐるぐる回して、それを確認した。 「それにしても」 シャルロッテが周囲を見回している。 「ん?」 「さっきの魔法ですが、誰がやったんでしょうね?」 「んー、あれか」 先ほどの戦闘中、優男が発現させた魔法円が、突然弾けて消えたことだろう。 「解呪だと思うんですが、相当強力な術師がやったんだと思います」 だろうな、とルドルフも同意する。 「あんなでかい魔法円を見たのも初めてだが、あれを一瞬で消したとなると、余程の魔力が必要になる」 解呪というのは、目標の魔法を解除して消失させる、ある意味無節操な効果を持つが、それが成功するかどうかまでは無節操ではない。成功させるには、目標とする魔法の魔力を超える魔力が必要となる。 崇魔平衆が自信を持って発現させた何かの魔法を、魔力の分析もなしに、しかも何処からか放って消し去るのは、考えるまでもなく超人的な力である。 「何者でしょうか?」 「さあな。とりあえずは、敵じゃねえんじゃねえの?」 ルドルフは、肩をすくめてみせた。 「では、味方?」 「そんな単純なもんでもないと思うが」 「それはそうですが」 「ま、姿を現したときにでも、聞いてみればいいんじゃないか?」 「今考えていても仕方がないと、そういうことですか?」 「仕方がないというか、どうしようもない」 そうですね、とシャルロッテが頷く。 それでもまだ気になるのか、まだ周囲を見回しているシャルロッテを促して、ルドルフは歩き始めた。 4 「こんなものね」 街道から遠く外れた岩場に立って、エリーゼは右肩に乗せているジャッキーの顎下を指で撫でた。 ここから街道の様子を見ることは可能だが、人影はパン屑よりも小さい。それでもエリーゼの目には、ルドルフとシャルロッテの姿がはっきりと見えていた。 くすぐったそうに目を細めたジャッキーが、にゃあと一声鳴いた。 「そうね。こういうのは早い者勝ちね」 エリーゼがくすくすと笑いながら、目だけを横に動かした。 そこには誰もいないのだが、エリーゼはさもいるように言葉を続けていく。 「手柄を奪ってすまないわね。まさか、お前がいるとは思わなかったからな」 突然、エリーゼの横にデイジーが姿を現した。不機嫌そうに、頬を膨らませている。 「気づいていたくせに、白々しいですわ。それに、こういうのは、あたくしに譲るというのが、筋というものですわ」 「そんな筋は知らないな」 「何度も何度も何度も、なーんども言いましたですわ!」 「年のせいか、物覚えが悪くてね」 エリーゼは肩をすくめた。 「そんな悪趣味な幼女の外見をしているくせに、説得力なさ過ぎですわ」 「くす。どちらにしろ、お前はああいうのは苦手だろうに」 「解呪以外にも、方法は幾らでもあります」 「お前が直接やってどうする?」 「ルドルフさまに感謝されます」 「奴がそんな風に思うたまか。どうせお前のことだから、お前がやって貸し一つとか言う気だったのだろう?」 「そ、そんなことは、あ、ありませんですわ」 デイジーがわざとらしく眼鏡をかけなおす。 相変わらずこすいな、とエリーゼは苦笑して、デイジーの方を向いた。 「で、お前がここに来たということは、お前の企みに私も巻き込むつもりなのか?」 エリーゼは挑発的な視線をデイジーに送る。 「そんなつもりはございませんですわ」 「空々しいな」 いえいえ、とデイジーが大仰に首を横に振った。 「ルドルフさまと会われて、エリーゼ様がまさか傍観なさるとは、全く思いもしませんので。先ほどの解呪がいい証拠ですわ」 「くすっ、これは一本取られたわね」 エリーゼは思わず苦笑する。 「では、話を聞こうか?」 「ルドルフさまのお連れになっている方、ご存知ですか?」 「いや」 「シャルロッテ・ヴィーク様ですわ。向かう先は、ラウエル大神殿。なかなか面白いことになりますですわ」 その名前と行き先が示す意味を充分に知っていながら、デイジーがとても愉快そうに、うふふと笑った。 ほう、とエリーゼは眉根を寄せる。 「お前、何を企んでいる?」 「たいしたことではありませんですわ。過去の清算と申しますか、まあ、そんなところですわ」 「過去の清算ね」 エリーゼは、デイジーを冷淡な目で見上げた。 「今更、と言いたそうですわね?」 内心の読めない笑顔でエリーゼの視線を受け止めながら、デイジーが問う。 「言う権利くらいは、あると思うが?」 「勿論、ございますですわ」 「どう精算するつもりだ? 封印を一つ一つ解除して処分していくつもりか?」 「まさか。それにそちらは、あの時からエリーゼ様の管轄ですので、あたくしは興味ございませんですわ」 「あれも、本来ならば、お前がやるべきだったはず」 「それは、エリーゼ様が楽をしすぎというものですわ。あたくしとて、身体が二つあるわけではないですし、そもそも、とっくにエリーゼ様が解決なさったものを、せせるつもりは毛頭ございませんですわ」 「ふん。それでペンドア教団の方か」 エリーゼは、視線を再びルドルフたちの方に向けた。 「そういうことですわ」 「今度は、きっちりとするつもりだろうな?」 冷めた声でエリーゼは質す。 勿論ですわ、とデイジーが拳を握った。 「あの時とは状況が違います。後腐れなく、きっちりとやりますですわ! ――ルドルフさまが」 デイジーの言い様に、エリーゼは苦笑させられる。 「奴ではまだ荷が重いと思うけど? あのペンドア教団の崇魔平衆、恐らくは焔魔衆ね」 「大物が釣れて、嬉しい限りですわ」 「餌だけ喰い千切られるのではない? エルファルスも、まだ使い切れてないようだし」 「エルファルスは、所有主制限がかかっておりますからね。サウフィ様以外の者が扱える剣ではありませんですわ」 「それでも、奴に持たせているというのは、それなりの期待があるからなのだろう?」 「ええ。あれからおよそ二千年。やっと現れたのですから」 デイジーが遠い目をした。 彼女の見ている光景は、容易に想像がつく。エリーゼも、今同じ光景を脳裏に浮かべていたから。 まあ、と過去を断ち切るかのように強く呟いて、デイジーの意識が現実に帰ってきた。 「荷が重い部分は、優秀な〈魔女〉が一緒に背負って下さるでしょうから、まず大丈夫ですわ」 「ふん。この件に関しては、そそのかされなくても私は関わらざるを得まい。向こうも、私が出れば放ってはおかないだろうしね」 「向こうにとっては、超弩級の賞金首ですものね」 「ただ、お前が望むような関わり方をするかどうかは、別問題よ?」 エリーゼはくすくすと笑う。 デイジーが小首を傾げた。 「と、言いますと?」 「気が変わったということね」 「?」 「いずれわかるだろうさ。どのみち、この件には関わるのだから。その時を楽しみにしてればいい」 む、とデイジーが唇を尖らせた。 「何か企んでいますわね?」 「お前ほどではないさ」 「おっしゃらないのは、ずるいですわ」 「くすくす。自分も手の内をあかさないのに、人にそれを強要するのは、矛盾していると思うわね」 「むむ」 「話はそれで終わり?」 「エリーゼ様が何を考えているか、聞いていませんですわ」 「なるほど、終わりね。では、私は行くぞ」 エリーゼは言い捨てると、何か言いたそうにしているデイジーに一瞥をやった後、歩き始めた。 |