5

 チャイムの音で、千尋は目を覚ました。
 いつの間にか、眠っていたらしい。千尋は、座布団の上に横になり、上から毛布がかぶさっているのに気がついた。頭には枕がある。
 頭だけを動かし、部屋の中をうかがう。
 日差しは高く、部屋の中は明るい。しかし、その中に深見の姿は見当たらなかった。狭い部屋である。押し入れに隠れているということでもない限り、深見はいないはずだ。それでも、千尋は口に出してみた。
「深見さん?」
 勿論、返答はない。
 千尋はゆっくりと上体を起こしながら、もう一度深見の名を呼ぶ。声が空しく響き、仕方なく呼びかけるのをあきらめた。
 チャイムが再び鳴り、千尋はドアの方に視線をやった。
 誰が来たのか、なんとなくわかった。千尋はそっと立ち上がり、玄関の方に向かった。ドアののぞき窓に目を寄せ、来訪者をうかがう。
 ドアの前に立っていたのは、予想通り香織だった。彼女は昨日と同じ硬い表情で立っていた。
 千尋は少し躊躇った後、ドアを開けた。千尋が顔をのぞかせると、香織は目を見張った。
「ち、ちーちゃん」
「おはようございます」
 千尋の声に冷たいものが混じったのは、香織と深見の関係を知ったからである。
「どうして、ここに?」
 香織が、驚きさめやらぬまま尋ねた。
「昨日、あれから、告白もせずにフラれたのが納得いかずに、押しかけたんです。それからずっとここにいました」
「そうなの」
 短く香織が答える。その表情から、深見の部屋に泊まり込んだことを誤解しているのがわかったが、あえて訂正する気にはならなかった。
「深見さんは?」
「いません」
「お仕事?」
「わかりません。ただ、やめるかもしれないようなことを言ってました」
 千尋はそう答えると、香織を見返した。
 その視線で香織は気づいたようだ。
「聞いたのね」
 千尋は頷いた。
 そう、と香織が視線をそらす。
「深見さんには、とても悪いことをしたと思ってる。謝りたいとずっと思ってたけど、その機会がなくて……」
「本当に、そう思ってたんですか?」
「えっ」
 千尋の厳しい口調に、香織が怯んだ。
「香織さん、言いましたよね。マスターがあたしを救い出してくれたって。救われたとまで言ったんですよ」
「それは……」
「香織さんが悪いと思うのは、今、自分が幸せだからですよ。うまくいってなかったら、そんなこと思ってないはずです」
 香織は、その話を語った時幸せそうに「救い出してくれた」とまで言ったのだ。「救い出」されていなかったら、彼女は幸せではなかったはず。深見に囚われたままであったはずだ。
 その状態で、香織が深見に心底悪いと思うとは考えにくい。罪悪感ぐらいは抱くかもしれないが、自分の境遇を嘆く方が強いだろう。
「香織さんとマスターが思いを貫いたのは素敵だと思いますけど、ことが済んだ後に、悪いと思ったから謝りたいじゃ、深見さんは納得しないと思います」
「ちーちゃん」
「だって、謝ってもらったからといって、深見さんの境遇は変わらないし、香織さん夫婦は幸せなままじゃないですか。知ってますか、あの後、深見さんが周囲から受けた仕打ちを?」
 香織が首を横に振った。顔は青ざめ、身体が小刻みに震えている。
「仕打ちって……?」
「深見さん、香織さんと同じ会社に勤めてたんですってね。でも、何故深見さんは、こんな所で工場作業員をやってるんだと思います?」
 香織は無言でうつむいた。香織にも、深見がたどった道筋を想像できたのだろう。ただそれに思いを馳せたのが今初めてだというのが、千尋には許せない。
 深見には、こうなるほどの罪はなかったはずだ。彼は好きな人に告白して、プロポーズして、結婚式をあげようとしただけだ。告白を受けたのは香織であり、プロポーズを受けたのも香織である。断る機会がなかったとは言わせない。
 つきあっている間に、香織の態度から心情を慮り、別れなかったのが悪いのか。
 そうは思わない。深見は香織が好きだったのだ。それを望むのは酷というものだし、虫が良すぎるだろう。
「あたし、部外者だし、口を挟むべきではないのかもしれません。でも納得できないんですよ。深見さんと香織さん夫婦の境遇の差に。だから、勝者の余裕で謝罪しようとするのが許せないんです」
「そんなつもりは……」
「香織さんにはないと思います。でも、あたしはそう感じちゃうんです」
 そう言って、千尋はいったん言葉を切った。しばし、香織を見つめる。
「だから、もう深見さんに会いに来てほしくないんです。幸せな香織さんに謝罪とかしてほしくないです。あたしのわがままですけど」
「ちーちゃん……」
 香織が、千尋を見つめた。瞳が揺れている。口を開きかけたが、首を横に振ってやめた。
「わかったわ」
 そう小声だが、はっきりと答えた。そして、ゆっくりとアパートを去っていく。
 千尋は香織を見送ってから、深見の部屋に返った。毛布の上に腰を下ろし、テーブルの上を眺める。
 千尋は、こうしたのが正解だとは思わない。香織が深見に謝罪しつづければ、いずれ形だけでも深見は折れる時が来るだろう。それでも良かったのではないかとも思う。
 しかし、そうなって氷川夫婦が全てに決着がついたと思うのが、千尋は嫌だった。
 恐らく氷川夫婦は、これ以降心中に影を背負うだろう。自分たちの行為で、一人確実に不幸になったのだ。せめて、それくらいは背負っていって貰いたい。
 千尋は溜息をついた。
 ここまで香織に言った以上、今までの良好な関係は望めまい。香織やマスターは好きだが、この件を知った今、以前のままの感情で二人に接することはもうできない。「つわぶき」はやめることになるだろう。
 そして、深見とのことである。
 昨夜、深見は千尋に何もしなかった。拒否されているのか、信じてもらえなかったのかは、判断がつかない。
 それでも、今まで以上につきまとうつもりだ。時期と条件さえ揃えば、自分からプロポーズしようと思う。プロポーズの言葉は「幸せにしてあげる」。そして、結婚式の日まで一緒に過ごすのだ。そうやって、信じてもらえるのを待つつもり。
 深見の傷を癒すには、そんな方法しか思いつかないが、それでもやっていこうと思う。千尋が、ずっと深見を想い続けられるという保証はどこにもないが、その辺は楽観している。多分、いや、絶対に大丈夫。怖いのは、それでも深見に拒否されることだ。
 千尋は、とりあえずは、この部屋で深見が帰ってくるのを待とうと思った。

                                                 〈了〉


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