1 床のワックスがけを終え、千尋は一息ついた。モップを自分にもたせかけ、今磨いたばかりの床を眺める。新品同様の光沢を放つ床に、千尋は満足げに頷いた。 「ちーちゃん、お疲れさま。一休みしましょう」 カウンターの向こう側にいる香織から声がかかった。香織はコーヒーカップを二つ並べて、沸きたてのコーヒーを注いでいるところだった。 ありがとうございます、と千尋は答えて、モップをしまい、手を洗ってからカウンター席に腰かけた。 「お疲れさま」 「へへ、どうも」 千尋は、ひよこの形をした方のカップを手に取った。それは千尋専用のカップで、去年の誕生日に香織からもらったものである。 「それにしても、今日は全然お客さんが入りませんねえ」 千尋は出入り口の方に視線をやりながら、カップに口をつけた。ガラス越しに見える表通りには、人の姿がほとんど見られない。 「まあ、こんな日もあるわよ。毎日これじゃあ困るけどね」 香織は苦笑した。 実際のところ、店はそれほど繁盛しているとは言い難い。それでも、固定客がついていて、普通程度にはやっていけているらしい。少なくとも、アルバイトを一人雇っていても経営が成り立つぐらいには。 千尋は、視線を外から手元のコーヒーに戻した。 「うちのコーヒーは、こんなにおいしいのに。どうして、繁盛しないのかな」 「あらあら。ちょっと前まで、お砂糖とミルクなしではコーヒーを飲めなかった人の言葉とは思えないわね」 香織が笑った。 「それは言いっこなしですよ、香織さん」 千尋は羞恥に照れて、肩をすくめた。 確かに千尋は、喫茶「つわぶき」でアルバイトを始めた当時は、大量に砂糖とミルクを入れなければコーヒーを飲めなかった。それがいつの間にか、当たり前のようにブラックで飲んで、香りや味を楽しむまでになっていた。理由はいろいろあるが、ノーカロリーでダイエットにもなると考え始めたことが最大のきっかけだった。 「そういえば、もうすぐバレンタインね」 香織が、壁にかかっているカレンダーを眺めながら、何気なく呟いた。 そうですね、と千尋も視線をカレンダーにやった。今日は十日だから、バレンタインまであと四日だ。 行事は店の経営に直接の影響を与える。二人が考えたことは、そういう風なことだが、口にしたのは一般的なことだった。 「ちーちゃんは、誰かにあげるの?」 「マスターにあげますよ。おっきいハート型のやつ」 からかう口調で、千尋は答えた。 香織とマスターは夫婦である。それも、大変仲睦まじい。千尋はそれをからかったのだ。 しかし、香織は全く動じない。 「それは、祐ちゃん喜ぶわね。ちーちゃん、祐ちゃんのお気に入りだから」 「あーあ。大人の余裕って嫌いだな。少しぐらい、焦ってくれてもいいと思うんだけどなあ」 千尋は拗ねてみせた。 そうね、と香織は微笑む。 「ちーちゃんが、あたしより先に祐ちゃんに出会ってたら、焦ってたかもね」 「うそばっかり。その顔は、マスターを完全に信頼しきってる顔ですよ。あーあ、あついあつい」 相好を崩して、千尋は右手をひらひらさせた。その後、ところで、と前から聞きたかった疑問をぶつけた。 「マスターとは、いつ頃つきあい始めたんです?」 「正式につきあい始めたのは、高校一年の時よ」 「長いつきあいですね」 千尋は素直な感想を口にした。香織は二十五歳の時に結婚しているから、約十年のつきあいだ。長いと言っても差し支えはないだろう。 「素敵だなあ」 「そう?」 香織が遠い目をした。千尋の言葉に触発されて、いろいろ思い出しているのだろう。その表情に幸福感が溢れているのを、千尋は見逃さなかった。 「何か、すごくいい出来事があったんですね」 「え? どうして?」 「香織さん、今、すごく幸せそうな顔してましたよ。それを思い出してたんでしょう?」 「ふふ。そうね、その通りよ」 「どんなことがあったんですか?」 千尋は身を乗り出して尋ねた。 「祐ちゃんが、あたしを救い出してくれたのよ」 「へえ。何か、危険なことでもあったんですか?」 「そういうのじゃないのよ」 「うん? じゃあ、マスターは何から香織さんを救ったんですか?」 千尋は、わけがわからない、といった表情をつくった。 その顔を見て、香織は微笑する。 「そうね、順を追って話してあげる」 そう言うと、ゆっくりと語りだした。 「あたしと祐ちゃんね、一度、取り返しのつかないぐらいの大喧嘩をしたことがあったの。些細な喧嘩はしょっちゅうだったけど、あれだけの大喧嘩は初めてだったな。さっき、高校時代から祐ちゃんとつきあってるって言ったけど、実はそれが理由で、あたしたち一度だけ別れてるのよ」 「そうなんですか?」 千尋は目を丸くした。二人の仲睦まじい姿しか目にしたことがない千尋は、二人が喧嘩をしているシーンがどうしても想像できない。喧嘩のシーンだけでそうなのだから、別れた二人なんていうのは、思考の外である。 「そんなの、ぜんぜん信じられませんけど」 「ふふ、そう? でも本当のことよ。あたし、一年近く、別の男の人とつきあっていたもの」 「うそっ!」 千尋は驚愕した声をあげた。思わずコーヒーをこぼしそうになったぐらいだ。 それを見て、香織が苦笑する。 「そんなに、驚くことかな」 「驚きますよ」 これを驚かずに、いつ驚くのだ。そういった体で、千尋は思い切り頷いた。 「じゃあ、あたしが、その別の彼氏と結婚寸前までいったって言ったら、もっと驚く?」 「驚くに決まってるじゃないですか。――って、それ、本当なんですか?」 「本当よ」 香織は頷いた。そして、間を少し置いてから再び語り始める。 「祐ちゃんと喧嘩別れしてすぐに、その人から告白されたの。その時、あたし、こう思ったの。自分を一番好きでいてくれる人と一緒にいた方が幸せだって。別れた直後で、祐ちゃんへの意地もあったのね、その告白を受けてしまったの。でもね、やっぱり駄目だった。そう思ったのは事実だったんだけど、それは自分のごまかしにすぎなかったの。自分の気持ちに目をそらしていただけなのよ。誰があたしを好きかということより、あたしは誰が好きなのかっていう、自分の素直な気持ちを抑え込んでしまっていたのね。でも、それに気がついた時、あたしは、彼のプロポーズを受けた後だった」 「受けちゃったんですか?」 千尋は意外な展開に戸惑いながら、尋ねた。 ええ、と香織は答え、コーヒーを一口飲む。その後、でも、と話を続ける。その時、香織の表情が今まで以上に輝いていた。それで千尋は、今から語られることが、先ほど香織が思い出していた、いい出来事だとわかった。 香織が語る。 「結婚式の日、あたしが一人でホテルの部屋にこもっていた時、祐ちゃんが来てね。あたしに気持ちをうちあけたのよ。それで、嫁くな、て言うの。そんなの今さら遅いわ、てあたしは答えた。あたし、今日結婚するのよって。でも祐ちゃん、そんなのわからない、て言って、あたしに聞くのよ。香織はあいつが好きなのか、それとも俺が好きなのか? って」 「どう答えたんですか?」 「その時、二人とも興奮してたから、喧嘩腰でね。あたしは怒鳴ってやったのよ。祐ちゃんに決まってるじゃない! てね。そしたら、ならまだ遅くない、って祐ちゃんがあたしを半ば強引に連れてってくれたのよ」 「うそ……。そんな、ドラマチックなことが本当にあったんですか?」 疑ったわけではない。香織は嘘をつくような人間でないことはよく知っているし、何より、香織の表情が素敵に輝いているところを見ると、作り話ではないことが確信できる。ただ呆気にとられ聞いてみた。その程度のことだ。 「本当よ。で、そのまま新幹線に乗って、祐ちゃんの実家へ行ったの。それで結婚式を挙げて――。でも、その後大変だったんだから。あたしの両親は怒り心頭だし、その他にもいろいろ迷惑をかけたし。その後始末とか。二人で方々に頭を下げて回って、結局、許してもらうのに二年もかかったのよ」 香織が、そう話を締めた。話の中に、嬉しかったとか幸せだったとかいう言葉は聞かれなかったが、当時そう思っていたことが表情から容易に知れる。苦労した謝罪も、今となってはいい思い出。そんな感じ。 へえ、と千尋は答えて、うっとりした。 「いいなあ、そんなに想われていて。素敵だなあ」 カップを両手で持ち、掌の熱さを楽しみながら、香織の話を頭の中で反芻していた。 結婚式直前に、自分を救い出してくれる好きな人。なんか、いい。 「あたしにも、そんないいことが起こってほしいなあ」 そう自分の中に入りかけた千尋を、今度は香織が目ざとく見つけた。 「その顔は、そうしてほしい彼氏がいるな」 えっ、と現実に引き戻された千尋は、香織を見返した。図星だっただけに、頬が熱くなっていくのがわかる。照れ隠しに、慌ててコーヒーを口にした。 「図星?」 「まだ片思いなんですけどね」 千尋は、そう肩をすくめた。言ってしまうと、少し気が楽になった。 「同じ大学の人?」 「違います。年上の人で、工場の作業員です。その人のアパートが、あたしの帰宅する道筋にあって、よく会っているうちになんとなく……」 「へえ、そうなんだ」 「でも、結構、期待薄なんですけどね」 「どうして?」 「あたし、これでも結構、積極的にアプローチしてるんですよ。帰る途中にほぼ確実に会えるから。これであたしの気持ちはわかるだろうっていうくらい、露骨に。でも、全然駄目なんです。まったく相手にされてないんですよ。最近では、嫌われてるのかなあ、って思い始めてます」 千尋は少し寂しげに笑った。視線はカップの中のコーヒーに注がれていたが、それを認識してはいなかった。 「大丈夫よ」 香織が少し明るめの口調で言う。 「男の人って、照れ屋が多いから。無視されてない限り、希望はありよ。帰り道で、ほとんど毎日会ってるんでしょ?」 千尋は頷いた。 「じゃあ、脈ありよ。本当にちーちゃんのこと嫌いなら、避けるはずでしょう。そうしなくて会うんだから、その人もまんざらではないのよ。ちーちゃん、まだ若いんだから、気長に攻めてみたら?」 ウインク一つ、香織が千尋を励ました。 そうですね、と千尋は微笑する。 その時、出入り口が開いて、二人連れの客が入ってきた。それは休憩時間の終わりでもある。 「いらっしゃいませ」 二人は声を揃えて言い、接客に入った。 |