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「つわぶき」が閉店するのは、午後七時である。それから、後片づけをして家に帰る頃には八時近い。
 千尋の部屋から「つわぶき」までは、近道をすると、徒歩で十五分ほどの距離だ。
 しかし、千尋は近道をしない。あえて、二十分かかる回り道をして帰る。
 当初は、回り道の方にコンビニがあり、そこへ寄るために遠回りをしていたのだが、今の理由は違う。コンビニより先にあるアパート「サンハウス三条」の208号室に住む男性に、道でばったり会うためだ。
 今日も目論見通り、コンビニからアパートの間で、その男の背中を見つけた。
「深見さん」
 千尋は、男の背に声をかけた。そして、急ぎ足で男の横に並ぶ。
「長森か」
 深見は、ちらっと千尋の方を見たが、歩みを止めようとはしなかった。ずっと同じ調子で歩き続けている。
 千尋は、少しの間、深見の表情を眺めていた。香織は脈ありと言ったが、はたしてどうだろう。無精髭の目立つ表情からは、千尋に対する好意など全く読みとれなかった。
 深見が、千尋の想いに気がついてないはずはない。
 と、思う。
 千尋は、はあ、と溜息をついて視線を落とす。
 すると、深見の右手がコンビニの袋を提げているのが目についた。微かに透けて見える中身は、弁当と何かのペットボトルである。
「また、晩御飯にコンビニ弁当ですか?」
「ああ」
「そう毎日コンビニ弁当じゃ、栄養偏りますよ。自炊しろとは言いませんけど、せめて外食を混ぜたらどうです? なんなら、あたしがごちそうしてあげましょうか?」
 千尋は深見を見上げた。
 しかし、深見は表情を変えない。
「いらない」
 と、ぶっきらぼうに答えた。
 毎度同じリアクションである。二年近く、そう言われ続けている千尋は、さすがに落ち込んでしまう。
 それでもへこまないのは、あきらめきれない想いが強いのかもしれない。
 すぐにも香織の言葉を思い出し、自分を慰めた。深見はコンビニから帰るのに、違う道もあるのにこの道を通る。もっと言えば、工場から帰るのに違う道があって、そこに違うコンビニがあるのに、この道を使っている。千尋が嫌なら、この道を使うはずがない。そういう風に。
 すると、不意に深見が足を止めた。
 不思議に思って、千尋が視線をあげると、何のことはない、「サンハウス三条」についた所だった。自分を慰めている時間が、思いのほか長かったらしい。
 今日はほとんど喋らなかったな。そう千尋が寂しげな気分になっていると、深見が意外な言葉を吐いた。
「遅いけど、お茶でも飲んでいくか?」
 えっ、と千尋は驚いて、深見を見返した。どうして、という表情をしたのだろう。深見が、その訳を話した。
「お前、昨日俺に、お前を部屋に招待するよう、約束させただろう」
「あ、ああ、そういえば……」
 千尋は、昨日別れ間際に、半ば強引にそういう約束をしたのを思い出した。
「嫌ならいいけど」
「そ、そんなことありません。勿論、招待されます」
 慌てて言って、深見より先にアパートの階段を昇った。
 千尋が深見の部屋に入るのは、三回目である。二年近くアプローチを続けていて、入ったのが三回というのは、多いのか少ないのか、判断がつかない。
 深見の部屋は、あいかわらず何もない部屋だった。八畳の畳の上には、丸いテーブルとストーブが置いてある。その他は冷蔵庫があるぐらいで、あとは何もない。着替えや布団は押し入れにしまってあると想像がつくが、この生活感のなさはどうだろう。テレビもステレオもなく、初めて入った時は驚愕したものだ。
 深見は押入を開けて座布団をとりだし、千尋の前に敷いた。
「何を飲む?」
「あ、コーヒーを」
 ややあって、深見がコーヒーの入ったマグカップを二つ運んできた。インスタントだけど、と深見は断りながら、千尋の前に一つを置いた。
 確かに、コーヒーはインスタントで、味は「つわぶき」のコーヒーとは比べるべくもない。しかし、千尋は何だか嬉しかった。知らず知らずのうちに笑みを浮かべていた。
「おいしいです」
「嘘つけ」
「本当ですよ」
 千尋は微笑した。
 その表情にあえて反論する気を削がれたのか、深見はそれ以上何も言わなかった。
 その後、千尋と深見は他愛のない会話を交わした。ただ深見は自分のことを語りたがらないから、千尋が自分のことを話して聞かせるという具合ではあった。
「そうそう、あたしが勤めている喫茶店のマスターとその奥さん、とっても仲がいいんですよ。おしどり夫婦って言うんですか。もう熱いのなんのって。それもそのはずですよね、今日聞いたんですけど、お二人、結婚前に『卒業』を地でいくような出来事があったらしいんですよ。それ聞いて、いいなあって、すごくうらやましくなりましたよ。あたしもそこまで想われてみたいって」
 そう千尋はうっとりしつつ、思わせぶりな視線で深見を見つめ、彼の反応に期待した。
 反応はあった。
 しかし、思ったような反応ではなかった。深見は眉をひそめたのだ。一瞬だけだったが、千尋は見逃さなかった。
「どうかしたんですか?」
 何か変なことでも言ったのだろうか。そう不安になりながら、千尋は尋ねた。
「べつに」
 深見がぶっきらぼうに答えた。
「……そうですか」
「ところで、お前が勤めている喫茶店、「つわぶき」っていったか、の、マスターは何という名前なんだ?」
 深見の問いに、千尋は思わず彼を見返してしまった。普段、全く千尋のことを聞きたがらない人なのだ。興味がないというよりは、聞くのを避けているといった感じだった。それが、いきなりどうしたのだろう。
「氷川祐司さんですけど」
 戸惑いながらも、千尋は答えた。
「知り合いですか?」
「いや、全くの他人だ」
 そう答えた深見の声は、あらゆるものを突き放すような響きで、とても冷たかった。
 それ以降、千尋はほとんど深見に話しかけられず、コーヒーを飲み終えると、追い出されるように208号室をあとにした。


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