3

 昼時の混雑が終わると、「つわぶき」はいったん平穏な時間を迎える。現在は完全に客足が途切れ、店内には千尋と香織だけだった。
 店内に客がいなくても、従業員には仕事がある。むしろ、客がいないときの方が仕事は多い。補充、清掃など、やることには事欠かない。
 千尋は、砂糖の補充をしながら深々と溜息をついた。
「どうしたの、ちーちゃん。大きな溜息ついて」
 洗い物をしていた香織が手を止めて、心配そうな表情で千尋を見ていた。
 一度や二度の溜息でそれほど心配になるはずがない。今日の千尋は、何度となく溜息をついていたのだ。
 ぼうっとしていた千尋は我に返る。
「あ、す、すみません。すぐやります」
 千尋は慌てて仕事を続けようとして、香織がそういうことを言ったのではないことに気がついた。戸惑い気味に立ちつくす。
 明らかにおかしい態度に、香織は眉をひそめた。
「何かあったの?」
「え、いや、そういうわけではなくて……」
 千尋は香織を見た。
「マスターはまだ帰ってこないんですよね?」
「ええ。今月末ぐらいだけど。祐ちゃんに何か用でもあるの?」
 マスターは、研修のため海外に飛んでいた。
「少し、尋ねたいことがあって」
「急用なの?」
「そういうわけじゃないんですけど」
「なんなら、あたしが聞いておいてあげようか。ちーちゃん次第だけど」
 そうですね、と千尋は少し逡巡した。香織に言うべきかどうかを迷ったわけではない。本当にマスターに聞いていいものかを迷っていた。
 しかし、確かめたいという気持ちが勝って、そのことを口にした。
「マスターは、香織さんでもいいんですけど、深見雅人っていう人を知ってますか?」
「――!」
 瞬間、香織の表情が一変した。驚愕に凍りついたといった風。気を取り直すのに数秒の時間を要した。
「……その人とちーちゃんは、知り合いなのかしら?」
 そう聞いた香織の声はかすれていた。
 千尋は香織の様に戸惑いながらも頷く。
「昨日言った、工場で働いてる人です」
 その後、昨日、深見と交わした会話をかいつまんで話した。深見がマスターを知っている風だったことも含めて。
「そう……。深見さん、全くの他人って言ったの……」
「――えと、知り合いですか?」
 そうね、と答えた香織の表情は青ざめていた。
「知り合いよ」
 それきり、香織は黙ってしまった。
 仕方なく、千尋も黙った。もう少し詳しく聞きたかったが、聞き出せるような雰囲気ではなかった。最初は香織が心配していたのだが、今は千尋の方が香織を心配している有様である。
 香織の様子は、忘れていた恐怖を思い出したよう。怯えているように見えた。カウンターに腕をついて、身体を支えている。カウンターがなければ、よろけて倒れそうだ。
 氷川夫婦と深見との間に、何かあったのだろうか。千尋は、そう疑問に思った。
 あったとしたら、その出来事は決していいものではないだろう。深見の態度と香織の様子は、そう思わせるのに十分である。
 やぶへびだったかもしれない。そういう不安が、千尋の胸中に渦巻き始めた。
「ちーちゃん」
 不意に香織が千尋を呼んだ。
「はい」
「今日、深見さんの所へ連れていってほしいの。お願いできるかしら」
 千尋は逡巡した。ここまで不安な様子を見せる香織を深見に会わせてもいいものかどうか。深見の方は、氷川夫婦を他人と言い切るほどに、関わりを否定しているのだ。会わせるのは、とてもまずい気がする。
 しかし、香織の表情は真剣である。千尋は頷いてしまった。
「ありがとう」
「あの、深見さんとは――」
「事情はその時にね」
 呟くように言うと、香織はカウンターから離れ、仕事に戻った。
 それ以降、香織は接客以外には声を出さず、それも元気のあるものではなかった。千尋もそうで、胸中の不安と後悔、そして様々な憶測と戦っていた。
 重苦しい雰囲気は、店が終わり、香織を連れて歩いている間も続いた。
 コンビニを通り過ぎてすぐに、千尋は深見の背中を見つけた。しかし、いつも通りに声をかけるのは躊躇われた。
 横を歩いていた香織の方に視線をやると、彼女も深見に気がついたようである。足を止め、両手をぎゅっと握りしめていた。
 香織は、深見に声をかけるのを逡巡しているようである。立ち止まっているので、深見との距離は開く一方だ。やがて、深見の背中は雑踏に紛れ消えていった。
「行っちゃいましたね」
「家へ帰ったのかしら」
「多分そうだと思いますけど」
 千尋は香織の表情をうかがった。
 香織は千尋を見ずに、深見の消えていった先を見ている。
 おそるおそる千尋は尋ねる。
「行きますか?」
「お願い」
 短く香織が答えた。
 千尋は、香織を連れて「サンハウス三条」に向かった。
「ここです」
 そう、と答え、香織がアパートを見上げた。
 深見の住む「サンハウス三条」は古いアパートである。ボロと言いきってしまってもいいほどだ。その代わり、家賃は驚くほど安いという話を、千尋は深見から聞いていた。俺の稼ぎではここが精一杯なんだ、という自嘲が印象的だったのを憶えている。
 千尋は階段を昇った。
 208号室は二階の最奥の部屋である。通路は狭く、手摺りは錆がひどかった。壁にはひびが多く、色は落ちていた。
 ドアの前に立ち、千尋は香織の方を見た。
 香織はドアを見ている。ドアには紙で「深見」という表札が貼ってあった。手書きらしいその文字は、恐らく深見が書いたものだろう。
「どうしますか?」
 そういう千尋の問いに、香織は頷くだけだった。
 千尋は少し躊躇ってから、チャイムを押した。
 チャイムの音は、澄んでいて大きかった。次いで、部屋の中から人が向かってくる音が聞こえた。
 待つほどもなくドアが開き、深見が顔を出した。帰ってからまだ間もないせいか、作業服のままである。
「なんだ、お前か。どうした?」
 口調はいつもの口調である。昨日、追い出された時のような感じはない。千尋は安堵の溜息をついた。
 しかし、問題はこれからである。千尋が視線を横に向けると、深見もそちらの方を見た。そこには香織が立っていて、深見の方を見ていた。
 深見の表情が一変した。一瞬驚愕した後に、峻厳な表情に変わった。
「深見さん」
 香織が声をかけた。
 深見はそれを無視して、千尋の方を向いた。
「どういうことだ?」
 え、と千尋は言い淀んだ。答えたのは香織である。
「あたしがちーちゃんに、長森さんに頼んで連れてきてもらったの」
「そうか」
 深見が、視線だけ香織の方へ向けた。視線はきつく、睨んでいるようである。
 香織は、その視線に怯みながらも言葉を続けた。
「少し、話をしたいの。いいかしら」
「何の話だ?」
「あの時のこと……。謝りたいの」
 深見が鼻で笑う。
「勝手にしてくれ」
 素っ気なく言うと、ドアを閉めた。
 千尋は反射的に手をのばした。理由もわからず、ドアが閉まるのを阻んでいた。
「長森」
 気がつくと、深見が千尋を見下ろしていた。
「あ、……あの、えと、話くらい聞いてあげてもいいと思うんですけど」
「聞いてどうするんだ?」
「それは……」
 千尋は、香織が深見に何を話したいかを知らない。言い淀むのは当然であった。
 深見は息を一つついた。
「お前には関係ないことだろう。余計なことに口を突っ込むな」
「でも――」
「それと、ついでだから言っておく。今後一切、俺につきまとうな。迷惑だ」
 そう言われた瞬間に、ドアを持つ千尋の手から完全に力が抜けた。
 音をたててドアが閉まり、次いで鍵をかける音が聞こえた。その間も千尋は固まったままでいた。
 ぞっとするほど冷たい視線だった。昨日、部屋から追い出されたときよりも、ずっと冷たかった。
 その目で、とても辛いことを宣告された。
 やっぱり、嫌われてたのかなあ。千尋は、なんとなくそんなことを考えた。失恋か、と考えると、とても悲しくなった。
「ちーちゃん」
 香織が声をかけてきた。とてもすまなさそうな顔をしている。彼女はバッグからハンカチを取り出し、千尋の目元を拭った。どうやら、涙を流していたらしい。千尋は、慌てて涙を拭った。
「ちーちゃん、ごめんね。あたしのせいで」
「え、いや、香織さんのせいじゃありませんよ。あたしがしつこくつきまとったのがいけなかったみたい」
 千尋は笑顔を作って見せたが、成功したとは言い難かった。仕方なく、顔を逸らした。
「すみません、先帰ります」
 言い捨てて、その場を走り去った。


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