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 千尋は、学生マンションで一人暮らしをしている。
 アルバイトを始めたのは、お金がほしかったから。基本的に、仕送りだけで生活できるのだが、やはりそこは年頃の娘、身辺にいろいろお金がかかる。
 大学入学当初、マンションとキャンパス周辺を散策していた時、小さいが感じの良い喫茶店を発見した。それが「つわぶき」だった。丁度、アルバイト募集の貼り紙があり、千尋は応募し、受かったのだ。
 仕事は苦にならなかった。マスターと香織の人柄がよく、すぐに馴染めたからだ。良い職場だと思った。それに、帰りに深見に会えるという楽しみもあった。
 深見とは「つわぶき」で働き始めて、すぐに出会った。第一印象は怖そうな人だった。
 出会いは他愛のないものだったと思う。道を聞かれたのだ。引っ越してきて間もないせいで、帰り道がまだよくわからないらしかった。
 これだけで終われば、好きになることもなかっただったろう。だが次の日見かけた時、彼は間違った道を行くところだった。それで、今度は千尋から声をかけてやった。
「家に帰るのなら、道違いますよ」
「え、ああ、昨日の。そうなのか?」
「あなたのアパートは、あっちです」
 深見は方向音痴らしかった。目印にしていた看板から、右か左かを忘れていたというのだ。
 人に近寄りがたい印象を与える深見が、そのような子供っぽい短所を持っているのがおかしかった。その日、千尋は深見を彼のアパートまで送っていった。
 深見に好意を抱いたのは、正確にはこの時からだろう。
 それ以降、千尋は深見に対する好意を隠さなかった。会えるのは帰り道の、ごく短い間ではあったが、その間に徹底して深見に話しかけ、好意のサインを送り続けた。
 しかし、深見はそれには全く応えてくれなかった。彼はそのことに深入りするのを避けていた。それは徹底していて、深見から千尋のことに対する質問は、ほとんどなされなかったのだ。
 それでも、深見は二年近く千尋を遠ざけることをしなかった。だから、千尋はあきらめることをせずに、アプローチを続けていたのだ。
 しかし。
 今日、はっきりと千尋は拒否された。
 千尋は、ベッドに横になりながら、ぼーっと天井を見上げていた。部屋に帰ってきてから、ずっとそうしていた。
 部屋の電気はつけていない。カーテンも引いてあるので、部屋の中はほとんど真っ暗だった。
 千尋は、自分が思いのほか落ち込んでいることに気がつき、少し驚いていた。今まで失恋したことはあったが、泣くほどまでは落ち込んでいなかった。
 そうか、あたし泣いたんだ。
 そのことにふと思いいたり、千尋は溜息をついた。あの時は、知らず知らずのうちに涙を流していた。今はどうだろう。目元に指をやると、そこは乾いていた。どうやら泣いてはいないらしい。
 泣いているかどうかもわからないなんて、と千尋は苦笑した。それでも現実に、そうなのだからダメージは深刻である。心の再建は遠い気がした。
 いっそのこと、深見さんを嫌いになれれば、と思う。しかし、駄目。できない。嫌われたから、嫌いになれるわけじゃない。
「誰があたしを好きかということより、あたしは誰が好きなのかという、自分の素直な気持ち」
 と香織も言っていた。その通りだと思う。千尋は、今さらながら深見への想いの深さに、自身で呆れてしまった。
 そして、自分が今までアプローチはしていたが、肝心なことは伝えていなかったことに気がついた。基本的には深見から告白してくれることを思い描き、待っていたのだが、今ではそれがすごく後悔される。
 告げていたからといって、うまくいったとは思わないが、それでもここまで落ち込むことはなかったかもしれない。
 せめて、正直な想いだけでも伝えておきたい。
 そう考えると、いても立ってもいられなくなった。千尋は、身体に感覚が戻ってきたのを実感した。ベッドから跳ね起き、上着を羽織るのももどかしく、手に取っただけで部屋を飛び出した。
 深夜の通りに、駆ける足音が響くのも気にせず、千尋は「サンハウス三条」208号室に向かう。
 アパートの階段を一つ飛ばしで駆け上がり、深見の部屋の前に立った。
 大きく息を吐いて、呼吸を整える。心臓が激しく音をたてているのは、走ってきたせいだけではない。
 手をチャイムに伸ばし、躊躇うことなく押した。
 しばらく待つと扉が開き、深見が顔をのぞかせた。
「深見さん」
 千尋は自分から声をかけた。
 おまえか、と深見が不機嫌な表情で、口を開く。だが千尋が言葉を続けて、深見に喋らせない。
「言いたいことはわかっています。でも、あたしの言い分も聞いて下さい。あたしは、まだ深見さんに何も伝えていません。それを伝えたいんです。一言だけです。これが最後ですから、せめて、聞いて下さい」
 千尋は一気にまくしたてた。睨む深見にも怯まず、彼を見つめ返した。
 ややあって、深見は大きく息をついて視線をそらした。
「声が大きい。今、何時だと思ってるんだ。とりあえず、入れ。話は中で聞く」
 そう言うと、深見は千尋を部屋の中に入れた。
 部屋の中はストーブがついてあった。寝具は用意してなく、深見はまだ起きていたようである。
 座布団が敷かれ、コーヒーがテーブルの上に置かれた。
「で、こんな夜中になんだ?」
 千尋の向かいに座りながら、深見が尋ねた。
 千尋は視線をコーヒーに落とした。
「あたしの気持ちを伝えに来ました。あたし、今日、フラれたわけですけど、まだ肝心のことを伝えてないんですよね。伝えてフラれるのならともかく、伝えないでフラれるのは嫌だと思って」
 そう言ってから、深見をまっすぐに見る。
「深見さん。あたし、あなたのことがずっと好きでした。つきまとってたのは、そのためです。すみませんでした」
 千尋の台詞に、深見は目をそらす。そして、思いもかけない言葉を吐いた。
「嘘だろう」
 照れていったのではない。口調が本気である。
 え、と千尋は驚いて、深見を見返す。
「あまり人をからかうな」
「そんなっ、本気です!」
「信じられないな」
「本気なんです。だから、フラれてもまた来たんです!」
 千尋の力説にも、深見は首を横に振るばかりである。
 予想とは全く違う展開に、千尋は戸惑った。しかし、信じてもらわなければ困るのだ。必死の思いで叫ぶ。
「どうして、信じてくれないんですか?」
「どうしてだろうな」
 深見が自嘲を浮かべた。
 それを見て、千尋は激高が静まった。おそるおそる、聞いてみる。
「昔、何かあったんですか?」
 深見は答えなかったが、自嘲がやまないところから見て、何かあったのだろう。
 千尋は何が、と尋ねかけて、愕然とした。
 一つ、思い当たったのだ。
 氷川夫婦とのことである。
 深見は、氷川夫婦のエピソードを聞いたときに眉をひそめ、それ以来態度が硬化した。
 香織は、深見の存在を知ってから怯えだした。そして、あのことを謝りたい、と言った。
「まさか……」
 千尋は、深見を見た。
「香織さんがマスターと別れた後につきあったのって……」
 深見は頷かなかった。だが否定もしなかった。、それは肯定したのと同じである。
「うそ……」
 千尋は茫然と呟いた。
 深見が視線をそらし、立ち上がった。冷蔵庫に向かい、中から缶ビールを取り出す。
「飲むか?」
 聞くと、返事を待たずに缶ビールを千尋に放った。その後、自分の分を取り、その場に座り込んだ。缶を開け、ビールを飲む。
 深見は、一気にビールを飲み干すと、もう一本取り出した。
「深見さん」
「幻滅したか? 花嫁を奪われた男に」
 自嘲が激しい。
 千尋は首を横に振った。だが言葉は出ない。
「教えてやろうか。俺はこれでも大卒で、大企業の総合職に就いていたんだぜ」
 深見は、ちらりと千尋の方を見て立ち上がり、再び千尋の向かいに腰を下ろした。二本目の口を開け、それを一口飲む。
「業績も良かった。まあ、それでもこのなりだ。女には、てんでもてなかったよ。ただそれでも好きな人ができて、苦労した。同じ会社の女性で、告白の勇気を絞り出すのに半年かかった。でもまあ、告白したかいあって、その人とつきあうことができたよ。なかなに幸せな日々だった」
「その女性って――」
「だが世の中、そう甘くはない。噂で、その人の前の恋人の話が耳に入ってきたり、な。その人の心の中に、まだ前の恋人がいるのも薄々気づいていたし。しかし、俺はその人を手放したくなかったから、前の恋人のことについて、聞いたりしなかった。若かったんだろう、俺も。いつかは、俺に想いを寄せてくれると信じてたよ」
 深見が淡々と語っている。
 千尋は心が痛んだ。千尋は、この話の結末を知っている。香織にとってはハッピーエンドに向かうこの物語は、深見にとっては最悪な結末が待っている。
「半年後、また勇気を振り絞ってプロポーズした。彼女は頷いてくれたよ。有頂天になった俺は、すぐに結婚式をあげられるように手配した。式場になったホテルに、コネがあったんだ。そして、結婚式当日、俺は晴れ晴れとした気分で、花嫁を待っていたわけだ。だが花嫁はいつまでたってもあらわれない。心配した誰かが見に行くと、部屋はもぬけの殻だった。俺は最初、誘拐されたと思ったよ。誘拐事件が頻発していたから」
 深見が笑った。不健全な笑い声だった。
 むろん、千尋は笑えない。
「深見さん」
「世間は、駆け落ちというやつには好意的でな。青年に拍手が送られていたよ。なかなかに勇気のある行為なんだそうだ。ドラマチックな展開に、同僚の女性たちはうっとりしていたよ。そこまで想われてみたいとか、そんなことが起こらないかとか」
 深見の台詞が、千尋の胸に突き刺さった。千尋も話を聞いたとき、そううっとりしたのだ。身を切る思いに包まれ、千尋はうつむいた。
 深見は、二本目を飲み終えたようだ。缶を潰し、新しいのを取りに向かった。三本目は、ほとんど一気に飲み干し、続いて四本目を取り出した。飲むペースは明らかに早い。
 しかし、饒舌なのはアルコールのせいかもしれなかったが、酔っている様子は見られなかった。足下はしっかりしているし、呂律もおかしくない。表情にも酔いの影響は出ていない。酔いたいが酔えない。酩酊するために飲む。そんな感じだった。
 見かねて、千尋が口を挟む。
「深見さん、飲み過ぎたら、明日辛いですよ」
「いいんだ。もうやめるから」
「お酒ですか」
「工場」
「ちょっと……。どうしてです?」
「あいつらがいる街なんかに、住めるか。左遷される前にやめてやる」
 深見が吐き捨てるように言った。
 その言葉で、千尋は深見がここに辿り着いたわけがわかった気がした。
 香織の話を聞いた時、千尋の想像の中で花婿と周囲の人間は、個性のない人々だった。だから深見と結びつかなかったのだ。想像の中で生き生きと動いていたのは、香織とマスターだけだった。
 しかし、深見は個性ある人間である。
 周りの人間もそう。彼らが氷川夫婦の行為に対してどういう思いを抱いたか。
 世間は好意的だったのだ。それは裏返せば、深見に対する悪意である。深見は理不尽な誹謗中傷を受け、その上、上司の悪感情と円滑な業務遂行のために左遷させられた。
 左遷先にも、ついて回る噂と中傷。ついに仕事を辞めざるをえなくなる。職を変えて、軌道に乗りかけた時、どこからか噂が伝わる。そこでも同じ仕打ちを受ける。
 仕方なく、遠いところに引っ越し、そこで工場作業員になった。しかし、そこには深見から、花嫁も職も名誉も自信も根こそぎ奪った夫婦が住んでいたのだ。
 当事者が揃った以上、また噂が広がる。現に、氷川夫婦の喫茶店で働いている学生が、その話を本人から聞いている。噂が広がれば、また同じ仕打ちを受ける。そして何より、氷川夫婦の顔を二度と見たくない。
 そういうことなのだろう。
 推測ではあるが、真実からそう離れているとは思えない。
 千尋は立ち上がった。テーブルを回って、深見の横に座る。
「深見さん。やっぱりあたしの気持ちは信じられませんか?」
 深見は頷いた。
「そうですか。じゃあ、信じてくれるのを待ちます」
 そう言うと、千尋は深見に肩を寄せ、目を閉じた。
「なんのつもりだ?」
 不機嫌な深見の声が飛んだ。
 しかし、千尋は動じない。ただ一言、口にする。
「いいですよ」
 深見は、なにを、とは問い返さなかった。
 それから。
 千尋は無言だった。
 深見も無言だった。
 二人は微動だにせずに、同じ体勢のままで朝を迎えた。


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