四章

   1
 メイヤルに、フェゼンの戦士たちとラルフは入った。
 この街の近くにグルフィ・ロウがいる。そこは恐らく大神殿があり、彼の野望のための準備が着々と進められているのだろう。
「さて、どこかな?」
 ミリアが、額に手を当て遠くを見る仕草をした。そんなものでわかるはずはないのであるが、気分の問題だろう。
「邪神を降臨させようっていうんだ。大規模な施設があるに決まってるよ」
 カートが断言した。
 結局、すぐに神殿の在処はわかった。メイヤルの西の外れである。
 街では有名なものらしい。酒場で、二・三探りを入れただけで、すぐに特定できた。
 メイヤルの西、半日程度の距離に神殿はあった。
 気配を気取られる危険があるので、近くまでは見に行けなかったが、格好の山林が近隣にあったので、そこから偵察をする。
 神殿の規模は、いくつもの神々を束ねる神統の主神クラスを祀っているような規模だった。
「あそこにいるのね」
 カートが呟きながら、巨大な神殿とそれを囲む長大な城壁を見下ろした。
 恐らく、邪神統降臨が目の前に迫っている今、神殿は邪神統神域となっているだろう。
「とりあえず、私は一旦、フェリシア様の所に帰るわ。ラルフの件とか報告があるし」
 ミリアが言う。
 そうだな、とジェインが頷いた。
「そうしてくれ。俺たちは明朝、出る」
「無理はしないでね」
 そう言うと、ミリアの姿が消えた。泉精は、フェゼンの戦士達のそばとフェゼンの泉へは、どこからでも瞬間移動できるのである。
 残りの者たちは、メイヤルへ帰り、宿を取って部屋で作戦会議に入った。最後の作戦会議だ。
「まず、神域効果を破壊する。全てはそれからだ」
 ジェインが最初にそう宣言した。
 反論はない。特にカートには、前回それができずにアセルを失った悔しさがある。反対などしようはずがない。
 神域効果を破壊する手段は、聖契にある。神域の外からだと、それを破壊できるはずである。前回はすでに神域の中にいたから、聖契そのものが制限されてできなかったのだ。
「そこら辺にいる信徒たちや司祭などは、できる限り無視する。敵の本拠地だ。相手をしていたら数が多すぎてきりがなかろう。狙うは、グルフィ・ロウただ一人。奴さえ倒せれば、邪神降臨などという真似は起こらないはずだ」
 ジェインが、ゆっくりと全員に視線を配りながら言った。
 ヒエラルキーの頂点にいるグルフィ・ロウは、被った害悪効果を下位の者に移すことができる。しかし、それも神域さえ破壊できれば、聖契の転禍阻止能力で封じることができる。
 つまり、神域さえ破壊できて、グルフィ・ロウと対峙できれば勝算はかなりあるということだ。
「グルフィ・ロウが、前のようにこっちの動きを把握している可能性は?」
 カートが訊ねた。
「高いと思う」
 あっさりジェインは答えた。
「なら、逃げられる可能性もあるわね」
「そうなんだが、逃げるとしても、俺たちが行く直前にならないと逃げないと思うんだ」
「どうして?」
「奴は邪神降臨の計画実行者として、その祭祀を完成させなければならないからだ。恐らく、それができるのは、邪神統内では祭主のグルフィ・ロウのみだろう」
 説得力のある言葉だった。
 なるほどね、とカートが納得したように頷いた。
「でも恐らく、グルフィ・ロウは、自身の保全のための用意はしてあると思うわ」
「ああ。だから、聖契の封印術を使う」
 ジェインが静かに言った。前から考えていたことなのだろう。
「そうね。あたしもそう思ってた」
 聖契の封印術というのは、その名の通り、聖契の力で敵を封印してしまう技だ。不滅存在のような強力な存在を封じてしまうためのもので、聖契契約者による三段階の術式が必要である。
 不意に、カートが視線をラルフに向けた。
「ラルフはどうするの?」
 カートの質問の意図はすぐにわかった。
 ラルフは正直に答える。
「俺は既に、普通の傭兵だからな。行っても足手まといになるだけだろうし、死にたくはないから、行かないつもりだ」
「そう」
 いいとも悪いとも、カートは言わなかった。ただ頷いただけである。
「仕方がないな。確かに、ラルフの言う通りでもあるし」
 ジェインが苦笑した。
 例え、ラルフがアセルの力が入った長剣を持っていても、生きていられる保証はない。武器は所詮武器で、真実の実力ではないからだ。
 グルフィ・ロウと対峙したとき誰もラルフを守っている余裕などありはしない。ならば、結論は一つだ。
「じゃあ悪いが長剣を」
 ああ、と答え、ラルフは腰に佩いていた長剣を外して、ジェインに渡す。
「これからどうするんだ?」
 ジェインが長剣を受け取りながら、ラルフに訊ねた。
「とりあえず、明日の朝は見送るよ。それから帰るさ」
 それが最後の義務だとラルフは思った。
「そうか。じゃあ明日でお別れだな」
「ああ」
 ラルフとジェインはしばらく目を合わせていた。
 ややあってお互いに微笑する。
「どこかで魔禍鎮圧の朗報が耳に入るのを祈っているよ」
「任しておけ」
「じゃ」
 ラルフは立ち上がる。二人に会釈してから部屋を出た。

 錯乱はもう襲ってこない。
 だから、安心して、眠れるはずだった。
 しかし、眠気は一向に近寄ってこない。ラルフは苛立ちながら寝返りを繰り返していた。
 夜の静寂も今夜は何故だか、眠れなさに拍車を掛けている。いっそのこと酒でも飲もうか、と上体を上げたとき、ノックの音がした。
「誰だ?」
 疑わしげにラルフは問う。
「あたしよ」
 そうドアの向こうから女性の声がする。
 カートだ。
「スイートか」
 何の用だ、と問いながら、ラルフはドアを開けた。
 ん、とカートは返答するまでに、一拍間を置いた。
「ちょっと話があってね」
 今さら何の話だろう。ラルフはそう訝しげに思ったが、とりあえずカートを部屋に招き入れた。
「まだ起きてたのね」
 部屋に入りながら、カートはラルフに視線をやった。
「なんか寝付けなくてな」
「錯乱の時の癖がまだ直ってないんじゃない?」
 かもな、とラルフは苦笑する。
「で、話ってなんだ?」
「たいしたことじゃないんだけど。あたしたちにまた今度はないでしょ。だから、今夜のうちに話とかなきゃならないと思って」
「ま、確かに」
 恐らく、明朝、グルフィ・ロウの討伐に行くフェゼンの戦士達二人を見送った後、もう彼らと会うことはないだろう。ラルフはそう思った。
 フェゼンの戦士達は、英雄的な実力を有する傭兵として今後の活躍も嘱望される。世界的な魔禍鎮圧などに力を揮う使命がある。グルフィ・ロウを倒せれば。
 一方、ラルフはこれからも、平凡な一傭兵として過ごす。商隊の護衛などが主な仕事になるだろう。そこに接点などありはしない。
「ラルフがもう寝てたんなら、言わないでおこうと思ったんだけど、起きてたしね」
 カートが微笑して肩をすくめた。
「で、何なんだ?」
 ラルフは、改めて尋ねる。
 ええとね、とカートが指を一度自分の唇に当ててから、ラルフに向き直った。
「謝ろうと思って。いろいろ辛く当たってしまって。ラルフも巻き込まれてひどい目にあってたのに、気がつかずにいたこと。まだ向き合ってちゃんと謝ってなかったから。ごめんね」
 翠の瞳が、真っ直ぐにラルフを見つめていた。照れもあるのだろう、頬が心なしか紅潮している。それでも、瞳の真摯さは全く損なわれていなかった。
 ラルフは思わずカートを見返していた。
「なに、その顔は」
 カートが呆れた声を出す。
「い、いや、ちょっとびっくりしてな」
「そんなに驚くことかな」
「そりゃな、お前だからな」
 顔を見れば反発しあっていた仲だった。カートに対するラルフの印象は、勝ち気な女以上のものになり得なかったのだ。
「あら、失礼ね。これでも素直なところがあるのよ」
 カートが、腰に手を当てて唇を尖らせた。
「はいはい、そうですか」
 ラルフは手をひらひらとさせて見せた。
 カートはもう一度、失礼ね、と言ってから微笑した。
「でも、ごめんね。本当に」
 ラルフは、鼻で息をつく。
「気にすんな。仕方なかった」
 今なら、カートの気持ちもわからないではない。ラルフはそう思う。アセルに対するカートの気持ちを考えれば、カートの激情も少しは理解できた。勿論、もう過ぎたことだからではあるが。
「しかし、改まって言うことでもない気がするけどな」
 ラルフはテーブルの上に置いてある、酒の瓶を手に取った。部屋に入る前に購入しておいたものだ。
 備え付けのグラスを二つとり、注ぐ。よどんだ赤い色の液体が、二つのグラスに入っていく。ラルフは一方のグラスを、飲むか、とカートに差し出した。
「こういうのは気持ちのものだからね。――いただくわ」
 カートは受け取ると、乾杯というようにグラスを目線に上げた。
 ラルフもそれに答えて、グラスを上げる。
「なにこれ、強いわね」
 一口飲んだカートが、眉を寄せてグラスの中の液体を見た。
「安酒だからな」
「あんまり、変なお酒だと、翌日にこたえるわよ」
「こたえるほど飲むか。自分の酒量ぐらい心得てる。お前こそ、明日に残ったら大変なんじゃないのか?」
「そんなに飲まないわよ。強いわけでもないしね」
 カートが、またグラスに口をつけた。その後、そういえば、とちらりとラルフの方を見る。
「こんな風に話をするのって初めてね」
「そりゃそうだ。もともと、接点があるわけじゃなし。今回のことがなければ、面識を得ることもなかったはずだ」
 そして、今回のことで最初に芽生えたのはどうしようもないほどの反発だった。和気藹々とした会話などうまれようもない。
「ということは、今はとっても貴重な体験なわけね」
「貴重ね。それがいいのか悪いのか」
「いいに決まってるじゃない。あたしと話が出来るのよ。今生の思い出にしなきゃね」
「そっちが今生の思い出にならなきゃいいけどな」
「それはあたし達が、グルフィ・ロウに倒されると言いたいわけ?」
 カートが挑発的な目でラルフを見る。
「えらく自信満々だな」
「ふふ。そう?」
「その自信があれば、大丈夫だろうよ。だいたい勝ってくれなきゃ、困るしな。巻き込まれて死ぬのはもうごめんだ」
「まあ、任せなさい」
 カートが笑ってから、グラスの残りの酒を一気に飲み干した。
 ふう、と長い息をついてから、立ち上がる。
「じゃ、あたしはこれで」
「ああ」
「おやすみ」
 出ていくとき、カートはもう一度ラルフに笑顔を見せた。
 ああ、とラルフは頷きながら、閉じられたドアを眺める。
「そういえば、ああやって俺に笑顔を見せたのは初めてだな」
 心中の思いを呟いてみる。単純にそう思っていたから、カートの笑顔が、出ていく寸前に、ちょっとだけ翳ったのには全く気がつかなかった。

 翌朝、フェゼンの戦士達は出ていった。ラルフはそれを見送ってから、メイヤルを出た。

   2
 執務室のドアがノックされる。
「入れ」
 グルフィ・ロウがドアに視線をやらずに答える。
 入ってきたのは、新しく取り次ぎ係に任命された男だった。彼は見向きもしない祭主に一礼してから、儀式の時間が近づいてきたことを報告した。
「そろそろ、お時間です」
 そうか、と答えながら、グルフィ・ロウは、机の上に並べられた招来儀式に使う道具を見た。
 紫水晶が柄に埋め込まれた宝剣。
 黄金の燭台。
 黒い祭祀書。
 これら三つ全てが、強力な魔力を放っていた。グルフィ・ロウが少なくない量の魔力を付与していたもので、この日のために用意しておいたものだ。
 放たれる魔力のオーラに満足げな笑みを浮かべると、それらを手に取った。宝剣を腰の鞘に収め、祭祀書を脇に抱え、燭台を持つ。強い魔力を付与した故に、彼以外の者が手に取れる代物ではなくなっていたのだ。
 取り次ぎ係が、続けて報告する。
「フェゼンの戦士達が、メイヤルに入ったようです」
「知っている」
 グルフィ・ロウは地下の祭壇の間へと歩きながら答える。
 廊下を進むに連れて、彼に一礼して彼の後を歩く幹部達が一人、また一人と増えていった。
「討伐隊を差し向けますか?」
「無駄だ」
「と言いますと?」
「倒しうる人物がいない」
 フェゼンの戦士達の実力は、世に隠れ得ないほどである。それを倒しうる人物は、そう多くない。少なくとも、今まで差し向けた幹部クラスの者でも相手にならなかった。
 そうなると、もう祭主グルフィ・ロウ自身か、副祭主クラスの者を差し向けなければならないのだが、降臨儀式からそれらの人員を外すわけにはいかない。
「いかが致しますか?」
「捨てておけ」
「しかし、奴らが儀式の邪魔でもしたら……、あ、いや、その、ご命令に逆らうものではありませんが、せっかくここまできて奴らに邪魔されるのは、どうかと……」
 グルフィ・ロウは慌てた調子になった取り次ぎ係をちらりと見やった。今日の彼はすこぶる機嫌が良かったようで、取り次ぎ係は一命を取り留めた。
「するだろうな、そのために奴らはここに来たのだから」
 だが、とくつくつと笑う。
「もう遅い」
 降臨儀式は、もはや留められない所に来ている。どのような邪魔が入ろうとも、〈黒き焔の魔神〉は降臨してしまうだろう。
「もうすぐ奴らはここへやってくるだろう。その時に絶望を味わうことになる」
 陰湿な笑みを浮かべながら、グルフィ・ロウは祭壇の間へと向かう歩みを早めた。
 祭壇の間には、既に十人ほどの幹部達が儀式の用意を万端にしてグルフィ・ロウらを待っていた。グルフィ・ロウらが入ると深々と一礼する。
 祭壇の上には、聖別の儀式を完了していた裸の青年が横たわっていた。
 一般信者を集めての儀式の段階はもう終えている。〈黒き焔の魔神〉降臨に必要な魔力も器も全て揃った。後はもう、魔神に招来を懇願するだけだ。
「始める」
 グルフィ・ロウが宣言して、祭壇の前に立つ。後ろに控える者たちがその場で両膝を地面につけて、頭を下げた。
 グルフィ・ロウが青年の胸部に黄金の燭台を置いた。それに反応して、燭台はその先端に黒い火を灯す。
 右手で宝剣を抜き、左手に黒い祭祀書を開いて持つ。
 剣を高く掲げ、祈りを上げる。
「焔よ、焔! 我らが黒き焔よ!
 ぬばたまの黒き深淵に眠りし、汝、偉大なる闇の焔王!
 汝 狂気を齎す者よ!
 汝、混乱を齎す者よ!
 汝、世に永劫の闇を齎す者よ!」
 グルフィ・ロウの呼びかけに、祭壇が黒い闇の光を放った。
 この祭壇こそ、黒焔教団の全ての信者と〈黒き焔の魔神〉とを繋ぐ、信仰と契約の柱である。
 祭壇の覚醒に呼応したかのように、宝剣も同じ色の光を放ち、燭台の黒い火は、炎と呼べる量にまで火力を増した。
 グルフィ・ロウは祈りを唱えながら、宝剣をゆっくりと下ろし、青年の胸部に剣の切っ先をつけた。その場所は燭台のすぐ下である。
 そこから、剣を動かし青年の上で五芒星を描いた。血の色をした五芒星が青年の胸部に浮かび上がる。
 その時。
 神殿全体を覆っていた、神域効果が破壊された。
 グルフィ・ロウの背後で祈りを唱えていた者たちに動揺が走る。
 しかし、グルフィ・ロウの表情に焦慮の色はなかった。それどころか、口の端を上げて笑みさえ浮かべていた。
「来たな」
 小さく呟く。
 彼が執り行っている儀式に、神域効果の破壊は関係がない。祈りは既に最終節に入っていたのだ。
 それを唱え終えた瞬間だった。
 広間のドアが大きく音をたてて開いた。
 扉の向こう側から何人かの武装した信者が、倒れて込む。
 その向こうに、フェゼンの戦士達はいた。
「思ったよりも遅かったな」
 くつくつと笑いながら、グルフィ・ロウは振り返った。わざとらしく、おや、と眉を上げて、こちらを睨む二人の男女を見た。
「一人足らないようだが。確か、当代のフェゼンの戦士達は三人ではなかったかな?」
 カートとジェインの二人は、グルフィ・ロウの嘲笑に怒りを覚えたが、それを口には出さず、行動で表した。
 一直線に、グルフィ・ロウに突っ込む。
 頭を垂れて祈りを唱えていた者たちが、慌てて立ち上がり、その間に入る。
「邪魔よ!」
 カートは剣を薙ぐ。
 だが相手は避けた。
 さすがにに最高幹部級が集まっているだけあって、今までの一般信者とは訳が違う。
 ちっ、と舌打ちして、カートは剣を避けた相手と向き合った。すぐに三人ほどに囲まれたことを感じ取る。
 ちらりと視線をジェインにやると、彼も四人に囲まれ、思うようにグルフィ・ロウに近寄れないようだ。
「やっぱり、あんたたちを先に倒してかないと、グルフィ・ロウを倒させてくれないようね」
 カートは取り囲む三人だけではなく、グルフィ・ロウや他の幹部達にも注意を払いながら吐き捨てた。
 じりじりと間合いをはかる三人を視線で牽制しながら、突き破る隙をうかがう。
「今さら、何をしてももう遅いのだよ」
 グルフィ・ロウが、憐れむような嘲弄するような口調で言った。
 刹那。
 祭壇から闇が広がり、あっという間に広間を覆った。それと同時に、広間に破壊したはずの神域効果が蘇る。
「な、なんだ?」
 ジェインが視線を巡らすが、辺りは真闇に覆われてしまって、何も視界に捉えられない。
 ただ桁外れに強力な力が、祭壇の方向に収斂していた。
 神々しさと、禍々しさと。
 ぽうっと、祭壇が光る。
 その前に立つ男は、祭壇に横たわっていた青年であった。
 ただし。
 今の青年には、明らかに強い意志があった。妖しい黒色の瞳が、彼の前にある全ての者を睥睨していた。
 カートとジェインが愕然とその青年を見た。
 魔神が降臨したことは、頭で理解していた。その驚きも少しはあった。
 しかし、それ以上に二人を驚かしたことがある。
 祭壇の前に立ち、光に照らされて浮かび上がった青年の姿に、だ。
 一糸もまとわず、傲然と立つ青年。抑えきれないというばかりに、放たれる強大な魔力。胸部には五芒星の傷がある。右手には黄金の燭台を持っていた。
 いや、そんなことよりも。
 その長身。その黒い髪。その顔。その姿。
「ア、アセル……」
 カートが、茫然と青年の名前を呟いた。
「ど、どうして……?」
 誰に問うたのか、自分でもよくわからない。
 ふははははっ、とグルフィ・ロウの嘲笑が広間に響いた。それと同時に、広間に光が戻る。広間の壁に掛かっていた燭架に火がともったのだ。勿論、魔法の黒い炎である。
「礼を言わねばな、フェゼン。なかなか良い器だよ。神を降臨させるのだ。なかなか良い器が見つからなかったのだが、ちょうど良いときにフェゼンの一人の死体が手に入ったものでな」
「ば、馬鹿な……! アセルの死体はばらばらに砕け散ったはず……」
「再構成したのだよ。それくらい、造作もないこと」
「冒涜を!」
「誉め言葉として、受け取っておこう」
 グルフィ・ロウが会心に満ちた笑い声を上げた。
 アセルの姿をした魔神は、左手を横に伸ばす。ローブを恭しく渡す幹部を一顧だにせず、それをまとった。
〈黒き焔の魔神〉。古い神で強力な神性である。紛うことなき邪神である。
 元々彼への信仰は、禍を鎮めてもらうための懇願であった。恭順を示すことで神を慰めようとするものであった。彼の属性を以て崇めるの真に邪悪な輩だけで、それはごく少数の者たちだけで執り行われてきた。その中から黒焔教団が生まれたのだ。
「久しいな、祭主よ。こちらの世界では初めてであるな」
 魔神がアセルの声でグルフィ・ロウに呼びかける。
「はっ。念願かないまして」
「余を人界に呼び出した功を認める。何が望みか?」
「今まで通り、祭主の地位にありとう存じます」
「祭主の執り行ってきた祭祀に不満はない。よって、これからもその地位にいることを許す」
「ありがたき幸せ」
「うむ」
 頷いた魔神が、そして、と居並ぶフェゼンの戦士達と幹部達に視線をやった。
「異質な者がいるようだな」
 黒く強い瞳がカートとジェインを射差す。それだけで、足が地面に縫いつけられたような威圧感を感じた。
「フェリシアの下僕か。ちょうど良い。お前たちを喰らって、復活の足しにしよう」
 そう言うと、魔神が燭台を右から左へと軽く薙いだ。
 再び、闇が周囲を覆う。
「なっ!」
「きゃっ!」
 声を上げたのはフェゼンの戦士達だけではなかった。
「う、うわっ!」
「ぎゃああ!」
 周囲はすぐに元の明るさを取り戻す。だが力をごっそり持って行かれた感じ。グルフィ・ロウと最初に対峙したとき、彼が放った呪文を何倍も強力にしたもののようだ。カートとジェインの二人は何とか耐えたが、巻き込まれた他の幹部達は、ひからびて倒れていた。
 魔神が笑う。
「まだ立てるか。フェゼンもなかなか精強な者を選んだものだ。神代より、あの女は強い者が好きだからな。好みは変わっていないらしい」
「くそっ!」
 ジェインがよろけながらも剣を構えた。
 カート、と呼びかける。
「辛いだろうが……」
 わかってる、とカートは小さく頷いた。
「あれはアセルじゃない。あれはアセルの姿をした魔神。あたし達の敵よ」
 ジェインへの返答ではあるが、むしろ、自分に言い聞かせている部分もあった。思ったより、アセルのことは心中で整理がついていないよう。乱れる心を抑えるのに必死だった。
「そう。アセルはここにいる」
 ジェインが長剣を強く握りしめた。その長剣こそ、アセルの魂が入ったラルフの長剣である。
 聖契は切れていない。それはカート、ジェイン、アセルの三人が揃っている証拠である。そのことを強く思って、カートは乱れる心をなんとか抑えていた。
「封印術、行くぞ。魔神もろとも封印する」
「うん」
 カートは頷いてから、短く呪文を唱えた。回復の呪文だ。神域効果で呪文の力が制限されているが、ジェインともども少し回復させた。
「無駄なことを」
 グルフィ・ロウが呪文を放った。
 二匹の黒い炎の蛇が、二人を襲う。
「行くぞ!」
「うん」
 二人は左右に飛んだ。

   3
 ラルフは、街道を一人とぼとぼと歩いていた。
 何故だか足取りが重い。
 理由はわかっていた。
 気になるのだ。フェゼンの戦士達とグルフィ・ロウの戦いが。
 溜息をついて、ラルフは足を止める。首だけ背後に向けて、後方に視線をやった。
 既にメイヤルの街はほとんど見えない。メイヤルの向こうにある神殿は見えるはずもない。
 行っても仕方がないとは思う。アセルと分割されて元に戻った以上、グルフィ・ロウと対峙するのはラルフの手に余りすぎる。
 しかし、そう理解していることと、気になることは別だった。
「情が移っちまったのかな」
 舌打ちしながら、頭をかく。
 最早、関わり合いになることがない二人である。気にしても仕方がない。そう思いこもうとする。
「はあ」
 もう一度溜息をついて、ラルフはまた歩き出した。
 その時。
 不意に目の前の空間が歪んで、一人の少女が現れた。青い髪でとがった耳、泉精のミリアである。
「お、お前は……」
「間に合ったようね」
 ミリアが笑顔を見せた。
 ラルフは瞬きを二回する。
「出てくる場所が違うだろ」
「あってるわ」
 あっさりとミリアが言って、怒ったように腰に手を当てる。
「やっぱり帰ってるんじゃないかと思ったわよ」
 わけがわからない。ラルフは訝しげにミリアを見やった。
「帰って何が悪い?」
「どうして、あの二人をほっぼって行くのよ」
 人差し指を立てて、それを前後に振りながら、ミリアが責める。
 ますますわけがわからない。ラルフは胡散臭そうに、眉根を寄せた。
「ついていってどうしろと言うんだよ?」
「協力してグルフィ・ロウを退治するに決まってるでしょ」
「無茶言うな! あいつらと俺とどれだけの実力差があると思ってるんだ!」
 ラルフは思わず怒鳴ってしまった。
「実力差?」
「行ってもすぐに殺されるだけだ。それどころか、フェゼンの足手まといになる。行くだけ無駄だ」
「足手まといになんかならないわよ」
「お前、フェゼンの乙女だろ。奴らの実力は知ってるはずだ。それに最初に俺に言ったよな。俺程度の実力なら、すぐに刺客に殺されてしまうって。そもそも、それだけの実力差があるんだ」
 刺客を返り討ちに出来る者と、やられてしまう者。その差は大きい。
「あの時のあなたと、今のあなたじゃ違うわ」
「そんな簡単に力が増えるか」
 ラルフは吐き捨てた。
「実力のことじゃないわ。今のあなたの位置づけよ」
 ミリアがラルフを指差した。
「わけがわからないな」
「どうやら、あなたはフェゼンと一線を引いて、自分と峻別して考えているようだけど。それが今は違うということよ。少なくともフェゼンとあたし達にとってはね」
「何が言いたいんだ。全くわからねえ」
「あなたはあたし達に必要なのよ」
「俺が必要なんじゃなくて、アセルの魂が必要だったんだろ。わけられた今、そんな理屈が通用するか」
 話にならないと、ラルフは首を横に振った。
「それは今までの理屈。これからの理屈とは違う」
 ミリアの表情が不意に変わる。童顔な感じが消え失せ、深い知性と気品を備えた大人の表情になった。
「あの子たちは、確かに傭兵としての実力は飛び抜けて強い。だけど、人としてはまだ完成されていないの。恋もするし、そのことで思い悩んだり。それで実力を出せないときもある」
「スイートのことか」
「ジェインもそうよ。彼もまだ二十代。大人びてはいても、アセルを失ったことを完全に整理していない」
「つまり必要なのはアセルなんだろ」
「あなたがアセルの穴を埋め得る人材なのよ」
 ミリアが言葉を切って、ラルフを見つめた。
 ラルフが呆れたように溜息をつく。
「だから、何度も言うが、俺は剣聖のアセルの足下に及ばないんだ。残念ながらな。スカウトするんなら、もっと有為な人材を選べ」
「実力じゃないって言ったでしょう」
 ミリアが静かにラルフの手を取った。
「今のフェゼンの戦士達にとっては、あなたの存在が必要なの。彼らは、まだそのことを自覚していないでしょうけどね」
「そんな馬鹿なことがあってたまるか」
 今まで、カートにさんざん必要ないと言われ続けてきたラルフである。ミリアの言葉を、にわかに信じろと言われても無理な話だ。
「カートの反発はアセルのことがあったからで、そのことはもうわかってるでしょ」
 ラルフは視線をそらした。
「フェゼンであるとかないとか、実力があるとかないとか、そんなのは関係ないの。ラルフの存在が必要なの」
「……俺が行ったところで、状況が変わるとは思えない」
 ラルフは呟くように言った。
「あなたが行っても負けるかもしれない。勝てるかもしれない。でも、あなたが行かなければ、確実に負けるわ」
「…………」
 ラルフは押し黙った。
 しばらくの沈黙の後、視線をミリアに向ける。
「いろいろ言われたが、考えてみれば、ずいぶん虫のいい話だよな」
 そう無表情に呟いた。
 あらそう、と小首を傾げて微笑するミリアの顔は、既にいつもの愛らしい顔だった。
「なんだかんだ言って、結局、フェゼンの都合じゃないか」
「そりゃあね。あたしはフェゼンの乙女ですもの。フェゼンの戦士達のことから物事を考えるわ」
 ふん、とラルフは鼻で息をついて、ミリアの手を振り払った。
「もし、これで俺が死んだら、とんだお笑いぐさだな」
 わざわざ死地に舞い戻った馬鹿な傭兵。もしそれを伝え聞く立場なら、そう笑い飛ばしたことだろう。その想像に苦笑しながら、ラルフは踵を返した。

 フェゼンの戦士達は、魔神に三度波状攻撃をかけ、三度とも防がれた。
 防ぐ、といっても、防御行動をとられたわけではない。魔神は、ただ攻撃を身体で受けるだけ。ダメージは全て移されていた。
「駄目っ! やっぱり転禍されてる!」
 間髪入れずに魔神に魔弾の呪文を放ちながら、カートが叫んだ。魔弾は間違いなく、魔神に命中したが、ダメージは全く与えられていない。
「くそっ!」
 ジェインが絶望が混じった呻きを上げた。
 聖契封印術を使う。それはフェゼンの戦士達にとっては既定のことである。
 だが、封印術を使うには、三段階の術式が必要である。恐らく、術式が完遂するのを黙って見ていてくれるほど、魔神もグルフィ・ロウも甘くはないだろう。攻撃は術式を行う隙を作るために行っていた。
 ダメージが与えられれば、隙もできただろう。
 しかし、魔神にもグルフィ・ロウにもダメージは一切与えられなかった。
 隙が出来なければ封印術を使うことが出来ず、封印術を使えなければ二人を倒せない。ダメージは全て移される。
 魔神が降臨してしまった以上、次回はない。今封印してしまわないと、魔神による大規模な禍がおこるだろう。それを防ぐために来たのだ。それに、例え逃げる意志があったとしても、それを相手が看過してくれるとも思えない。
「憐れよな」
 グルフィ・ロウがフェゼンの戦士達を見下ろした。
「打つべき手が何一つ無く、ただ討たれるのを待つだけとは」
 そう言うと、呪文を唱える。
 掌の上に現れる黒い蛇。呪文の源となる神がすぐそばにいるため、蛇の大きさも禍々しさも前のと比べて倍増している。
 蛇が鎌首をもたげ、宝剣に巻き付く。身体が伸びきったところで、姿はいつの間にか剣になっていた。
 グルフィ・ロウはその剣を掴み、ゆっくりとフェゼンに近づいていった。
「引導を渡してやろう」
「馬鹿言わないで!」
 カートが叫び、グルフィ・ロウに飛びかかった。
 グルフィ・ロウは無造作にカートの剣を身体で受けると、剣をカートに振り下ろした。
 カートは、それを横に身体を移動させて避ける。体勢の崩れたグルフィ・ロウに、カートの後方から忍び寄っていたジェインが剣を突き刺す。
 その攻撃も転禍される。
「無駄なことがわからないのか」
「うるさい!」
 叫びながら、カートは膝をグルフィ・ロウの腰に叩きつけた。その直後に剣を反転させて、グルフィ・ロウの足の甲に突き刺した。剣先は足の甲を突き抜け、地面に突き刺さった。
「今よ!」
 カートは剣から手を放すと、後方へ飛び退いた。
 ダメージがなくとも、隙さえ作れればいい。グルフィ・ロウはこれで動けないはずである。
「なるほど、考えたな」
 むしろ、嬉しそうにグルフィ・ロウが呟く。
 構わず、カートとジェインは封印術の術式に入った。
 まずジェインが唱える。
「フェゼンの戦士、ジェイン・ハルスが請う
 清き泉フェゼンの主フェリシアよ
 邪悪を破り、世界を守護する聖なる女神よ
 フェゼンの契約により、
 今、聖なる御印を我が前に示せ
 破邪、破魔を顕わしたるその御印
 聖印リヴリアをもて、我、邪を封ぜん!」
 続いて、カート。
「フェゼンの戦士、シャーロット・スウィートが請う
 清き泉フェゼンの主フェリシアよ
 邪悪を破り、世界を守護する聖なる女神よ
 フェゼンの契約により、
 今、聖なる御印を我が前に示せ
 破邪、破魔を顕わしたるその御印
 聖印リヴリアをもて、我、邪を封ぜん!」
 再びジェイン。今度はアセルの魂が入った長剣を掲げる。
「フェゼンの戦士、アセルスタン・ロイドが請う
 清き泉フェゼンの主フェリシアよ
 邪悪を破り、世界を守護する聖なる女神よ
 フェゼンの契約により、
 今、聖なる御印を我が前に示せ
 破邪、破魔を顕わしたるその御印
 聖印リヴリアをもて、我、邪を封ぜん!」
 すると、グルフィ・ロウを中心とした地面に、真円の中に文字と模様が描かれている印が浮かび上がった。フェリシアの力を顕わす印リヴリアである。
 リヴリアはまぶしいくらいの光を放っていた。
「ほう、これが噂に名高いリヴリアか」
 興味深げにグルフィ・ロウが、頷く。
「強気もそこまでだ!」
 ジェインが言う。
 それと同じくして、リヴリアの光がその中心へと収束した。
 光がはれると、その場にはリヴリアの印が刻まれた地面しか見えない。グルフィ・ロウの姿はどこにもなかった。
「次は、奴だ」
 ジェインが、魔神に視線を移す。
「そう考えるのは、まだ早いのではないか」
 淡々と魔神が口にする。
 なんだと、とジェインが、答えた瞬間だった。
 聖印が刻まれた地面が割れる。そこから黒い光がわき出てきた。その光が人の姿を形作る。
「ま、まさか……」
「……嘘でしょ」
 ジェインとカートが茫然と、聖印をうち破って出てきた人物を見た。
 グルフィ・ロウは笑っていた。
「ここは我が神域内だ。他神の力ではどうにもなるまい」
「効果が完全ではなかったかっ」
 くそっ、とジェインが呻いた。
 カートは、足から力がぬけてよろめいたことを自覚した。
「万策尽きたか」
 グルフィ・ロウが剣を振りかぶった。
 茫然としたまま、カートはそれを見上げる。
「アセル……」
 無意識に呟く。

   4
 その瞬間。
 広間を黒く覆っていた闇が晴れた。邪神統系の魔力が消え失せ、素の空間となる。
「……なっ?」
 グルフィ・ロウが初めて驚いた声を出した。次いで、雷撃がグルフィ・ロウを襲い、後方へ吹き飛ばす。
「ぐはっ!」
 グルフィ・ロウが初めて痛みに声を上げた。
 魔神が、不機嫌そうな表情をして、広間の扉の方を見る。
 そこには二人の人影があった。
「ラルフ!」
 カートが男の方の名を呼ぶ。
「あたしもいるわよ」
 ラルフの横にいたミリアが手を振った。
「ど、どうして……?」
「こいつにそそのかされてな」
 ラルフはちらりとミリアに視線をやってから、カートとジェインの方に歩み寄った。
「フェゼンのくせにえらくピンチだったじゃないか」
「そんなこと……!」
「諦めるのはお前らしくないな」
「あ、諦めてなんか……!」
「じゃあ、仕切直しをするんだな」
「当たり前よ。勝負はこれからよ!」
「その通りだ」
 ジェインが微笑を浮かべて、ラルフを見た。
「よく来てくれた。助かった」
「フェゼンに恩を売れたなら、それだけで上出来だ」
 ラルフはそう答えてから、グルフィ・ロウと魔神の方を見る。
「それも生きて帰れればの話だがな。魔神が既に降臨してるなんて聞いてない」
 グルフィ・ロウと魔神は表情を消して、ラルフとフェゼン達を睨んでいた。
「再会を喜ぶのは早いのではないか。神域はすぐにでも張ることができる」
 魔神が言うや否や、再度、広間が闇に覆われる。
 しかし、すぐに元の空間に戻る。
「なにっ?」
 魔神が驚愕した声を上げた。
 ミリアが得意気に笑う。彼女は両手を広げて立っていた。彼女の両手には放たれたばかりの魔力が揺らめいている。その魔力が闇の魔力を遮ったのだ。
「もう神域は張らさないわ」
「フェリシアの下僕如きが何をほざく。分をわきまえよ!」
「そう言うなら、やってみてご覧なさい」
「ほざいたな!」
 魔神が、もう一度神域を張ろうとするが、ミリアの力に遮られて張れない。
 大きく舌打ちして、グルフィ・ロウに命令する。
「祭主よ、あの小娘をやれ」
 はっ、と頷いてグルフィ・ロウが、ミリアに襲いかかる。
「させるか!」
 ジェインが、その前に立ちはだかる。
 剣と剣がぶつかり合い、大きな音をたてた。
 均衡は一瞬だった。ジェインがグルフィ・ロウの体勢を押し崩し、肩口に斬りつける。
「くっ!」
 グルフィ・ロウの肩口から血飛沫が上がる。聖契が制限されない以上、転禍阻止能力が働いて、転禍ができない。ダメージは本来通り直接受けるのだ。
「人間どもが!」
 魔神が怒りの声を上げて、剣を横に薙いだ。
「させない!」
 ミリアがそれに呼応して、魔神に立ち向かった。いつの間にか、彼女の前に魔力の盾ができあがっており、それが魔神の攻撃を防ぐ。
「貴様……!」
 忌々しげに魔神が呻いた。
「あたしが魔神を止めてるから、あなた達は先にグルフィ・ロウを封じちゃって!」
 ミリアがそう言い残し、魔神に挑みかかった。
 わかった、とカートが答えて、彼女もグルフィ・ロウに対峙する。
「ラルフ!」
 ジェインが呼ぶと同時に、持っていた長剣をラルフに放った。
 元々ラルフの長剣だったものだ。中にはアセルの魂が入っている。
「お、おい……?」
 受け取りながら、戸惑いの声をラルフは上げる。
「協力してくれ」
 自分の剣を抜きながら、ジェインが言った。視線はグルフィ・ロウから外さず、牽制している。
「そんなこと言われても……」
「あたし達がフォローするから」
 カートがラルフに視線をやって、頷いた。
 頷かれても、とラルフは思ったが、結局ここに来た時点で、こうなることはわかっていたから、覚悟を決めるのにそれほどの時間はとらなかった。
「やってみる」
 長剣を構え、ラルフも戦線に参加した。
「小僧!」
 グルフィ・ロウが吠え、ラルフに呪文を放った。黒い蛇がラルフを襲う。
 一番弱い者から倒していくのは、判断として正しい。そのことはラルフもわかっているから、最初に攻撃を受けることは予想していた。
「やっぱり来たか!」
 ラルフは腰を落として、長剣で防御態勢に入る。
「三人いるのよ!」
 カートがラルフとの間に割って入り、その蛇を叩き落とした。蛇の力は明らかに先ほどより弱い。
「おのれぇぇぇ、フェゼンどもが!」
 グルフィ・ロウが呪詛の入り交じった呻きを放つ。
 その刹那、後方に迫っていたジェインが、グルフィ・ロウを縦に斬った。
「がああぁぁ!」
 叫びを上げたグルフィ・ロウの身体から、血が飛び散る。
「結局は囮だったわけか」
 ラルフは一人呟く。
「囮も立派な協力よ」
 カートがウインクを一つ残して、さらにグルフィ・ロウに飛びかかる。剣を胸部に突き刺して、手を放し、飛び離れながら雷撃の呪文を放つ。
 剣が避雷針の役割を果たし、雷撃の与える威力が倍増して、内部で爆発する。グルフィ・ロウは胸部の右側から向こう、右肩や右腕を失った。
「おのれ、おのれ、おのれ、おのれ……!」
 グルフィ・ロウの身体が、黒く光り出す。
 再生を始めているのだ。
 しかし、それはフェゼンにとっては大きな隙だった。
「今だ!」
 ジェインが封印術の術式を開始する。
「フェゼンの戦士、ジェイン・ハルスが請う
 清き泉フェゼンの主フェリシアよ
 邪悪を破り、世界を守護する聖なる女神よ
 フェゼンの契約により、
 今、聖なる御印を我が前に示せ
 破邪、破魔を顕わしたるその御印
 聖印リヴリアをもて、我、邪を封ぜん!」
 続いて、カート。
「フェゼンの戦士、シャーロット・スウィートが請う
 清き泉フェゼンの主フェリシアよ
 邪悪を破り、世界を守護する聖なる女神よ
 フェゼンの契約により、
 今、聖なる御印を我が前に示せ
 破邪、破魔を顕わしたるその御印
 聖印リヴリアをもて、我、邪を封ぜん!」
 そして、ラルフ。長剣を掲げて、生まれて初めて秘蹟を唱えた。
「フェゼンの戦士、アセルスタン・ロイドが請う
 清き泉フェゼンの主フェリシアよ
 邪悪を破り、世界を守護する聖なる女神よ
 フェゼンの契約により、
 今、聖なる御印を我が前に示せ
 破邪、破魔を顕わしたるその御印
 聖印リヴリアをもて、我、邪を封ぜん!」
 術式が完了すると同時に、グルフィ・ロウを中心に再び聖印リヴリアが顕れる。
 リヴリアの放つ聖光は、神域によって阻まれていたときとは比べものにならないほどの光と魔力を放っている。その力が、グルフィ・ロウの存在を抑え込む。
「うわっ! うわっ! うわああっ!」
 先ほどと違い、グルフィ・ロウが叫び声を上げる。その声に余裕はない。
 聖光は網の目のようにグルフィ・ロウをとり囲み、中心へと収束する。
 その間、一瞬だった。
 地面に刻まれたリヴリアの上に、グルフィ・ロウの姿はない。
「やった!」
 ラルフが小さく呟いた。
「まだよ。まだ終わってない」
 カートがラルフの気を引き締めるように、肩を叩いた。
 ラルフが視線を向けると、カートの視線はミリアと魔神の戦いに向いていた。
 ミリアと魔神の戦いは、ラルフにとっては考えられないほどの高次元の代物だった。
 お互いに、相手の魔力を制限しているのにも関わらず、膨大な量の魔力がぶつかり合っていた。さらに、その合間に激しい肉弾戦が行われていた。
 いつの間にやら、ミリアは剣と盾を武装していた。魔神の方も、握る燭台から黒い炎をまとった刃が現れており、それを剣として扱っていた。それぞれ強力な魔力で作り上げた武具だ。
「貴様っ! ただの泉精ではないな」
 鍔迫り合いで押し合いながら魔神が吠えた。
「今頃気づいたの? 遅すぎるわね」
 力を込めて押し返しながら、ミリアが不敵に笑う。
 お互いに飛び離れ、間合いを取る。その間にも、二人を覆う魔力はぶつかり合っていた。
「ジェイン、カート、ラルフ」
 ミリアが魔神を見据えたまま、呼びかける。
「奴ほどの神性は、まだ完全に力を取り戻していないとはいえ、封印術でも封印することはできないわ」
「じゃあ、どうすればいい?」
 ジェインが問うた。
「退去させるしかない」
「つまり、神界にかえってもらうというわけね」
「そう」
「それにはどうすれば?」
「器を滅ぼす」
 ミリアが、ちらりとカートの方を見た。
 え、とカートが絶句する。
「器には、奴が人界で自由に力を揮うためと、人界に留める役割があるの」
 人が人界に縛られているように、神性も神界に縛られているのだ。
「だから、器を滅ぼさなければならないの」
「カート」
 ジェインが、カートを気遣うように声をかける。
「大丈夫よ。アセルの姿をした魔神なんて、いらない。アセルが可哀想よ」
 カートが魔神を睨んだ。
「じゃあ、行くぞ!」
「うん!」
 ジェインとカートが、魔神に向かった。
「小賢しいわ!」
 魔神が魔力を直接ぶつけてくる。
 だが、ミリアの魔力を防ぎながらのことで、たいした威力はない。
「はああああっ!」
 気合一閃、ジェインが剣を振り下ろし、魔力の塊を叩き斬った。
「アセルを返してもらうわよ!」
 カートが、魔神に剣を叩き込む。
「舐めるな! 小娘!」
 魔神が剣で防ぐ。甲高い金属音が響き渡った。
「ラルフ、お願い」
 ミリアが、茫然とフェゼンと魔神の戦闘を見ているラルフに声をかけた。
 え、と驚くラルフに構わず、ミリアは言葉を続ける。
「秘蹟はアセルが教えてくれる。それを唱えて器を滅ぼして」
 ラルフは答えず、長剣を見た。
 数瞬の躊躇いの後、ラルフも魔神に向かっていった。
「ええい、忌々しい!」
 魔神が叫び、カートを弾き飛ばした。
「大丈夫か?」
 ラルフはカートを助け起こす。
 大丈夫よ、と答えながらカートが苦笑する。
「まさかラルフに二度も助け起こされるなんてね。あたしもやきがまわったもんだわ」
「それだけ言えたら大丈夫だな」
 ラルフは言って、魔神を見た。
 握る長剣から、思考が流れてくる。
「一瞬でいい。隙を作ってくれ」
 ラルフは、カートとジェインに言った。
「え?」
 カートが驚いた顔をする。
 ラルフは長剣をカートに示した。
「ロイドが、あれを滅ぼしてくれる」
 そうか、とカートが納得した。
「わかったわ。ジェイン!」
「オーケー。最後は任せる」
 ジェインが言うや否や、再び魔神に挑みかかった。カートも続く。
 ラルフは流れてくる思考のままに、秘蹟を唱えた。
「清き泉フェゼンの主フェリシアよ
 邪悪を破り、世界を守護する聖なる女神よ
 汝が顕わす破邪と破魔の力を
 我に与えたまえ
 印に汝が聖印リヴリアを
 剣に汝が聖剣プリンスローズを
 その力もて
 我は汝の敵を滅ぼさん!」
 秘蹟を唱えると同時に、長剣が淡い光を放つ。
 ラルフは、魔神を見やる。
 ちょうど、カートとジェインが魔神に攻撃を叩き込んだ後だった。
 二人がラルフを見る。
「うおおおおおおっ!」
 ラルフは魔神に突っ込んだ。
「小僧!」
 魔神が吠え、魔力がラルフを襲う。
 脇腹に強い衝撃を感じるが、構わず突っ込んだ。間合いにはいると、長剣を振り下ろす。
 魔神が剣を構えて防ぐ。
 しかし、長剣はその剣を軽く叩き降った。勢いは衰えない。
 そして。
「ぎゃああああああ!」
 魔神の咆哮が響き渡る。
 長剣が触れていくところから、魔神の身体が滅していった。ラルフが完全に長剣を振り下ろしきったとき、魔神の身体はその存在を消していた。
「アセル」
 カートがぽつりと呟いた。
 ちらりとそちらを見たラルフだが、その呟きが長剣に対してなのか、滅びた身体に対してなのか、判断がつかなかった。
 心が少し痛かった。


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