二章

   1
 宿を出た途端、陽の強さにくらっときて、ラルフは少しよろめいた。
「なにやってるの」
 カートの馬鹿にしたような声がとんだ。
 ラルフはカートを睨め付ける。彼女は、何か言い返したいことでもあるの、とでも言うように傲然とラルフを見返した。
 ふん、とラルフは鼻で息をついたが、反論はしなかった。
「でもホントに大丈夫? ここ数日顔色が悪いよ」
 ミリアが少し心配そうな表情になる。
「大丈夫だ」
 ラルフは強い口調で断言した。
 しかし実際は、全く大丈夫ではなかった。確かに顔色は悪いだろう。ここ四日間、ラルフはまともに寝ていないのだから。
 理由は単純である。眠るのが怖いから。
 フェゼンの戦士たちと、グルフィ・ロウの討伐参加を了承した夜に起こった錯乱が、夜眠ろうとすると襲ってくるのだ。
 その時に感じる不快感と恐怖感は、今までに感じたこともないぐらい強烈なものだった。そして、それは日に日に強くなっていった。
 身体の揺れも、光の強さも。
 最初は悪夢かもしれないと思って、深刻には考えていなかった。だがこう毎日同じことが続くと、悪夢と捨てておけない。現実に起こっていることなのだ。
 錯乱が急に起こった理由は、簡単に推測できる。
 アセルと魂が融合したからだ。推測というよりは、可能性としてそれしか考えられないといった方が正しい。今までと今で違う点は、唯一そこだけだから。
 錯乱が、眠る時に起こる理由もだいたいわかる。
 精神が緩まるからだ。
 起きている時は、精神もそれなりに緊張している。だが眠る時は力が抜ける。その隙を狙って錯乱が襲ってくるのだ。
 気をしっかり持たなくてはならない。少なくとも、眠ってはいけない。ラルフはそう思っていた。
 だから結局、毎夜眠らずにいるのだ。それでも旅の疲れは容赦なく睡魔を送ってきて、知らず知らずのうちにうとうととする。そうすると、錯乱が襲いかかり、容赦なくラルフを苦しめるのだ。
 傭兵の朝は早い。ラルフはそういった悪循環を繰り返しながら朝を迎え、旅をしているのだった。
「放っておきなさいよ」
 カートがラルフに視線をやったまま、ミリアに言う。
「旅の間の体調を整えるのも、傭兵に必要な能力よ」
 でも、とミリアが、カートとラルフを交互に見た。
 ラルフは視線をそらした。
「知ってるさ」
 できるだけ疲労が表に現れるのを隠しながら、ラルフはそう返答した。
「知ってても、実践しなきゃ意味がないわよ」
「それも、知っている」
「ならちゃんと実践してよね。足手まといなのよ、今のままじゃあ」
「じゃあ放っておけよ。俺は一向に構わんぞ」
「いいわよ、放っておいても。でも、グルフィ・ロウに狙われても知らないからね。あんた程度の実力なら、簡単に殺されてしまうわよ。それでいいならね」
 なんだと、とラルフはカートを睨み付ける。
 カートも真っ向からラルフの視線を受け、それよりも強い光でラルフを睨め付けた。
「カート! やめないか」
 ジェインが鋭い声を飛ばした。
 そうよ、とミリアも同調して、ラルフとカートの間に割って入った。
「こんなとこで仲間割れしてどうすんの」
「仲間?」
 偶然にも、ラルフとカートが同時に同じ台詞を吐いた。口調も一緒。冗談じゃない、と言外に言っている言い方である。
「仲間じゃない。三人は当代フェゼンの戦士たちなんだから」
 至極当然のことのようにミリアが答えた。
 これにはジェインが顔をしかめた。
 アセルのことを、ジェイン自身が完全に克服したわけではない。だが一応は融合された現実を見据え、それを受け入れているつもりだった。
 しかし、カートの心情は、まだそこまでの整理をつけてはいないだろう。彼女のアセルに対する気持ちを知っているだけに、ラルフを同じフェゼンの戦士たちだと認めることはできないだろう。
 その辺りの微妙な気持ちをミリアは理解できない。やはり泉精か、とジェインは苦々しく思う。泉精の楽天的な性格は、こういう時には恨めしい。
 実際にカートが敏感に反応した。
「なに言ってるの!」
 怒りも露わに、ミリアを睨み付ける。
「聖契を結んだのはあたしとジェインと、そしてアセルなの。こんな奴、必要ないの。必要なのはアセルの魂であって、こいつじゃないわ!」
 でも、と少しびっくりした表情でミリアが反論しようとする。
 それをジェインが抑えた。
「ミリア、もういい。カートもやめろ」
 そこにラルフが、また蒸し返すように馬鹿にしたような台詞を入れた。
「仲間割れか。フェゼンの結束もたいしたことないな」
 ジェインがむっとして、ラルフの方に視線をやる。
「お前は黙っていてもらおう」
 誰のせいでこんなにおかしくなったと思っているんだ。そう怒鳴ってやりたい気分が、ジェインの全身を覆った。
 はん、とラルフは鼻で笑い、視線をフェゼンたちからそらした。
 ぎくしゃくした雰囲気の中、次の場所へ向かう。
 彼らがここ数日使って行っているのは、情報収集だった。グルフィ・ロウの居場所を掴むため、あらゆるつてを手繰っているのだ。
 さすがにフェゼンの戦士たちは、つてを多く持っていて、数多くの情報屋に当たっていた。
 グルフィ・ロウが目論んでいる〈黒き炎の魔神〉を降臨させる計画は、数多い信仰者の力も、生贄収集とか、生贄そのものといった形で必要とされるので、それなりに知られている。故に、情報屋の世界にも、情報がある程度出回っていて、居場所の予測は簡単につけられるぐらいである。
 それでもフェゼンの戦士たちは慎重だった。一度、それで罠にはめられている。今度はしくじらないという決意が、慎重な姿勢に滲み出ていた。
「恐らく、グルフィ・ロウはマンフにいる。しかし、まだ推測の段階だ。もう一押し、確信に足る情報がほしい」
 ジェインの台詞である。そしてこれが、フェゼンの総意だった。

 その店は、カートたちの馴染みの店らしい。彼らが入った途端、久しぶりだな、というマスターの声が響いた。
 それに会釈して答えつつ、カートとジェイン、ミリアはカウンター席に腰掛けた。
 ラルフはカウンターにつかず、テーブルの方についた。
 店内は、がらんとしていた。客は誰一人としていない。寂しい店内である。
 しかし、寂れた雰囲気は欠片もなく、それどころか整えられた調度品や、綺麗に掃除された床などが、上級の店だと主張していた。
「あいかわらず客がいないな、この店には」
 ジェインが、軽く笑った。
「これからさ、来るのは」
 マスターはそう笑い返したが、すぐに真顔になる。
「アセルはどうした?」
「ちょっとね」
 カートが少し寂しげに答えた。
 何かあったのか、とマスターが沈んだ声で答える。
「そうだな、ミリアがいるんだからな。やばいことが起こってるのか?」
 世間では知らないことなのだが、フェゼンの戦士たちにフェゼンの乙女がついて行動する時は、緊急事態ということである。一敗地にまみれ、アセルの魂がラルフの魂と融合している現況は、緊急事態以外の何者でもない。
「そのことで、ここを訊ねたんだ」
 ジェインが答えた。
 どうやら、このマスターが情報屋のようだ。それも、フェゼンたちが結構信頼を置いている情報屋らしい。ラルフはそう認識した。
 その時、ラルフは不意に、マスターが先代のフェゼンの戦士たちの一員だったと思い当たった。不快感が同時に湧いて出たところからすると、アセルの記憶槽から引き出したようだ。
「実は、グルフィ・ロウのことなんだ」
 そうジェインが話をきりだした。
「グルフィ・ロウ。黒焔教団の祭主か。強敵だな」
「奴の居場所を知りたい」
「居場所か。予測はつけてあるのだろう」
 まあね、とカートが答える。
「奴はマンフにいるらしい。これがあたしたちの予測」
「いい線はついてるよ」
 マスターが微笑した。
「正確なところが知りたいの。この前はそれで失敗して、それでアセルを……」
 カートの声が沈んでいく。
 そうか、とマスターが憐憫のこもった視線でカートを見やった。
「しかし、まだ聖契は切れていないようじゃないか。どういうことだ?」
 マスターは、アセルが亡くなったものと思っているようだ。当代契約者であるアセルが亡くなれば、当然聖契も切れるはず。それが切れていないということは、一体どういうことだろう。そう表情が語っている。
「実はな」
 そうジェインが、ちらりとラルフに視線を送った。ラルフはそれに何の反応も示さず、カウンター席の様子を眺めているだけである。ジェインはすぐにマスターに向き直り、今までのことを簡潔に説明した。
「まさか。そんな馬鹿な」
 マスターの第一声はそれだった。
 驚愕した表情でジェイン、カート、ミリアの順に視線をやり、最後にラルフを見やった。
「まさか」
 もう一度呟いた。
 事実だ、とジェインが頷く。
「聖契が続いているのが、その証明になろう」
「そうか。信じざるを得ないようだな」
 マスターが大きく息をついた。冷静さを取り戻そうとしている。
 数秒後、落ち着いた表情になった。
「次で倒さなきゃ、もう取り返しがつかないことになる。それも早くに。だから、奴の居場所を教えてほしいの」
 カートが声を大きくして頼み込んだ。
 マスターが優しげな表情を見せた。
「私がお前たちの頼みを断るわけないだろう」
「それじゃあ」
「当然だ」
 答えてマスターは、一度奥へ消えていった。しばらくして出てきた時には、手に数枚の手紙を持っていた。
 カウンターに手紙を置き、フェゼンの三人に見せる。
 三人は、それに目を通す。
 これは? とミリアがマスターに訪ねる。
「見た通り。ある青年が、マンフにいるその母親に宛てた手紙だ」
「内容から察するに、この青年は何かの団体に所属しているようだな」
 ジェインが全ての手紙に目を通してから、慎重に言葉を選んだ。結論は言わなかった。
 結論を言ったのはカートである。
「黒焔教団かしら?」
 マスターは頷いて、教師が生徒に質問するような口調で訊く。
「それで、その送り主のいる場所は?」
「メイヤル」
 カートがゆっくりと答えた。

 その日は、マスターの店で泊まることになった。明朝早くから、メイヤルに向けて出発することになる。
 ここからメイヤルまでは、五日ほど。グルフィ・ロウの計画を頓挫させて、それを討つには、ぎりぎりの時間であると思われる。
 それにラルフには深刻な問題があった。
 あと五日、錯乱に堪え切れるだろうか。そして、身体はもつのだろうか。その不安が、胸中を渦巻いていた。
 その上、例えグルフィ・ロウを討ったとしても、この苦しみから逃れられる保証はない。
 ラルフは大きく、ため息をついた。
 今いるのは、宿の個室である。そこで、椅子に腰掛けて、テーブルに足を投げ出しながら、無為に時間を過ごしていた。
 視線を窓に巡らせると、陽が落ちかかっている。
 また夜が始まるのだ。辛く苦しい夜が。その不安と恐怖に苛まれながら、ラルフは陽が沈むのを見守っていた。
 眠らない夜はとても長い。それをここ数日、嫌というほど実感していた。結局、緊張の糸が緩んだ瞬間に錯乱が襲ってきて、恐怖と不快感の渦に飲み込まれてしまう。
 その時、どうしても叫び出しそうになるのだが、必死に枕に顔を埋めて、外に漏れないようにしていた。枕を強く抱いて、身体を丸くしながら、錯乱が去るのを必死で待っているのだ。
 錯乱が起こっていることを、他の奴には知られたくなかった。特にカートには、絶対に知られたくない。
 理由は単純である。反発だ。
 あそこまで言われて、どうして助けてくれと言えるだろう。ラルフの意地が、そう叫んでいた。
 部屋が暗くなった。
 瞬間、ラルフの背筋が寒くなった。錯乱が来たのか、と恐怖した。
 しかし、違った。日が完全に沈んで、部屋を照らすものがなくなったのである。
 ラルフは苦笑した。まだ身体も精神も緊張している。錯乱は、まだ来ないはずだ。そう思う。
 部屋の明かりを点そうと、ラルフは立ち上がろうとした。
 だが立ち上がる気力が湧いてこなかった。
 緊張を持続させ続けるためと、この眠らず錯乱するという悪循環の中で、疲労が相当量溜まっているようである。見えない何者かが、肩を力一杯押さえ込んでいる感じ。
 だからといって暗いままは、錯乱状況と同じ感じがして怖かった。錯乱状態も、視界が暗くなるのだ。どうしても、明かりは必要である。
 それでも、立てなかった。身体がとても重い。ここ数日、ほとんどものを食べていないのに、どうして重いのだろう。不可解だ。
 ラルフは身体を前に投げ出し、その勢いで立つことにした。
 試みは半分成功した。ラルフは立ち上がれたが、よろめいて、ベッドに倒れ落ちた。
 そして、錯乱が襲ってきた。

   2
 街道は、森の中を突っ切るようにして走っていた。そこをジェイン、カート、ミリア、ラルフの順で進んでいた。
 全員、騎乗している。馬は、今朝、マスターが用意してくれたのだ。これで、少しは早くメイヤルに着くだろう。フェゼンたちは、マスターに感謝して宿を出ていった。
 疲労が限界値を超えかかっているラルフにとっても、馬はありがたいことであった。騎乗も技術が必要で楽というわけではないが、徒歩よりは数倍ましである。ラルフは、もはやいつ倒れてもおかしくないところまできていた。
 さすがに見かねたジェインが、カートの所まで馬の位置を下げた。
「なあカート。ラルフなんだが、疲労の色がとても濃い。回復呪文をかけてやってくれないか」
 回復呪文はミリアもできるが、彼女の場合、泉精にしか効果がないのだ。
 そうね、とカートは素直に答えた。
 実のところ、カートもそう考えていた。どう考えてみても、あの疲労はおかしいし、どうにかしなければならない。だがそうは思っていても、今まで反発しあっていたし、それは今でも変わらないのだけれど、そういう気恥ずかしさもあり、なかなかきっかけが掴めなかったのだ。
 カートは後方のラルフに視線を送った。
 ラルフは、カートの視線に気づかず、馬を歩かせている。馬の歩様にあわせて身体が揺れているが、それを抑える気力もないようで、揺れ方が激しかった。時々、うとうとするのか、頭がくらっと傾いた。だがすぐにはっとなり、頭を振って意識を戻そうとしていた。
 その時の表情が、妙にカートの目についた。その時、ラルフの表情には怯えが一杯に広がっていた。特に目。あれは完全に恐怖を感じている目だ。
「今、あいつに脱落されても困るし」
 そう言いわけしながら、カートはラルフの所まで馬を下げた。
 ラルフはカートが下がってきたのに気づいたようだが、何も言わずに、ちらりと一瞥しただけだった。何か言う力も残ってないようである。
 カートは改めてラルフの表情を観察した。
 前髪で目元が陰になっているが、明らかに隈ができている。顔色は悪く、頬も痩けていた。視線の焦点は合っている様子がなく、虚ろである。
「一体、どうやったらそんな風になるのよ」
 カートが呆れた口調で言った。
 ラルフは答えない。視線をやるのも億劫で、単純に馬の鬣を眺めていた。
「あんた傭兵でしょ? 旅の間の体調の整え方ぐらい知ってるでしょうに」
 まったく、と続けた後、カートが呪文を唱えた。精神疲労の回復呪文だ。
 それが耳に入ると、ラルフの意地と反発心が鎌首をもたげた。それは、少しだけ喋る気力を蘇らせた。
 いらねえよ、とかすれた声で言い、呪文を投射しようとしていた手を払った。
「なにすんのよ!」
 カートが怒りの声を上げた。親切心を仇で返されたのだ。怒りもするだろう。
「体調を整えんのも、傭兵に必要な能力なんだろ。なんとかするさ。呪文はお前たちのこれからのためにとっておけよ」
 虫の息に近い口調で、ラルフは憎まれ口を叩いた。
「あんたねえ。その体調で、どうやって何とかするのよ。今、あんたに倒れられたら、こっちが困るの。あんたのためなんかじゃないの。じっとしとけ!」
 カートが怒鳴りつけた。
 その声にびっくりしたのか、すぐ前のミリアが肩をすくめた。ジェインも、後方を振り返り、二人の様子を窺った。
 その刹那、森の中から殺気が放たれた。と同時に、茂みから黒ローブを着た者たちが数名躍り出て、四人を囲んだ。
 黒ローブの男たちは、総勢十人。全員が抜剣しており、明らかに敵意が見てとれる。
「ついに来たか」
 冷静な声でジェインが反応した。
 襲われるのは予定のうちであった。それがいつになるかの話で、予想より遅いぐらいである。
 黒ローブの敵たちは、一斉に打ちかかってきた。
 フェゼンたちはそれに完璧に反応し、敵の初撃を全て防御しきった。ジェインとカートは剣で、ミリアは防御魔法で。
 ただラルフ一人が狼狽していた。事のスピードに反応できず、意識を敵に向けたときには、刃が目前に迫っていた。
「やべっ」
 防御のしようもなくラルフは打たれそうになる。
 幸か不幸か、疲労がラルフを救う。身体がよろめいて、敵の攻撃が当たる前に後方へ落馬したからだ。
 背中に鈍痛が走る。息ができなくなり、目の前が真っ暗になった。何か考える間もなく、意識が消えていった。
「ラルフ!」
 カートは、すぐ横で落馬したラルフを呼んだ。彼には、敵がすぐに迫っていたからだ。だがラルフが動く気配はなく、とどめを刺されそうになっていた。
 カートは目の前の敵を斬り倒し、ラルフの敵に短剣を投げた。
 短剣は見事に突き刺さる。致命傷とはいかないが、ラルフにとどめをさせずに、数歩下がらせることはできた。
 その間にラルフが立ち上がった。彼は腰の長剣を抜き、ゆっくりと構えた。
 正眼に構えているのだが、切っ先が少し左に向いている。
 不意に懐かしさと愛おしさとせつなさが、カートの心臓を縛り付けた。その癖のある構え方は、アセルの構え方である。
 ラルフがその構えから、短剣を刺された敵に踏み込んだ。その踏み込みの迅さは、まさしく剣聖アセルのもの。そこから肩口を斬り、次いで新たな敵の胴を斬った。それらは一動作で為され、流れるような華麗さがあった。
 唯一の穴であったラルフがアセルの強さを持った以上、敵に勝ち目はなかった。彼らは、七人の犠牲者を出して、逃げていった。
「追いかけないの?」
 ミリアが訊く。
「いいだろう。あれを追っても仕方がない。先を急ぐ方が大事だ」
 ジェインが答えて、ラルフの方を向いた。
 ラルフは、剣を鞘に収めたところだった。
 その時、ラルフの意識が戻った。途端、今まで晴れていた疲労感が更に増してのしかかってきた。思わずよろめいて、近くの木にもたれて座り込んだ。
「おい、大丈夫か?」
「ラルフ!」
 慌ててジェインとカートとミリアが駆け寄ってきた。
「敵は……?」
 ラルフは、やっと取り戻した視界で周囲を見回す。
 そこには、先ほど倒したばかりの七人の黒ローブの敵が倒れていた。
「倒したよ。ラルフ、大活躍だったじゃない」
 ミリアがぽんぽんとラルフの肩を叩いた。
 しかしラルフは、俺が、と驚いて、もう一度倒れている黒ローブの敵たちを眺めた。
「アセルの力が出たようね。よかった、よかった」
 ミリアがにっこり笑った。
 ラルフの驚愕の表情は晴れない。それどころか、沈んだ表情になっていった。その表情のまま、沈んだ声で搾り出すように言う。
「そうか。アセルが出たか」
「しかし、この情報を受けたら、グルフィ・ロウも本気で我々を潰そうとするだろうな」
 ジェインが、そう予想する。融合させたアセルの力が出るのだ。フェゼンの戦士たちの力は減っていない。そう考えるだろう。
 次の刺客は心して構えなければ。ジェインは、そう決意を新たにした。
「大丈夫?」
 カートが、膝をついてラルフの表情を窺う。
 ラルフは、最初何かを考えるように空中に視線をやっていたが、すぐにカートの視線に気がつき、彼女を睨め付けた。
「大丈夫だよ」
 ぶっきらぼうに答える。だが唇が動いたのみで、それは音にならなかった。
 カートは、ラルフの視線と唇の動きから何を言ったのかわかったけれど、無視して回復呪文の詠唱に入った。
 またラルフの口が動いたが、それも無視する。
「アセルの力がいるのよ。あんたのためじゃないわ」
 言って、呪文を投射した。
 術は発動した。ラルフの身体を光芒が柔らかく包み、精神を癒していく。確かに、戦闘をした分のラルフの疲労は回復した。
 だがそれだけであった。
「ちょっと、どういうこと?」
 カートが戸惑いの声を上げる。術は効いているはずなのに、ラルフの表情は一向に変わらなかった。
「わからん」
 ジェインも首を横に振り、ミリアに視線をやった。
「私にもわかるわけないよ」
 ミリアが、心配そうな表情でラルフを見た。
「ただの疲労じゃないってことか」
 カートは術を中断し、理由は何か思考する。
 しかし、ラルフが立ち上がろうとして、思考が中断した。
「ちょっと、なに立ってんのよ」
 ラルフは無視して、木にもたれかかるようにして立った。戦闘時の疲労がなくなったおかげで、立てるぐらいにはなったようだ。
「回復した」
 今度はちゃんと音になった。
 カートが眉を上げる。
「嘘」
「回復した」
 ラルフは同じ言葉を繰り返す。そして、よろめきながら馬の方に歩いていった。
「弱いくせに、何で意地張るの。何度も言うようだけど、あんたのためじゃない。あんたの中にあるアセルの力が必要なの。だから、あんたのつまらない意地で、倒れられたら困るのよ」
「どうせ、治らないんだろ」
 ラルフは馬に寄りかかりながら言った。
「なにを!」
「ふん。心配しなくても、ちゃんとグルフィ・ロウの所まで行ってやるよ。それで、問題はないはずだ。だから、俺に構うな」
 完璧に拒む口調でラルフは言い捨て、馬に乗った。

   3
 祭壇の上には、一人の青年が裸で横たわっていた。その青年が生きているのか死んでいるのか、全く判断がつかない。ただ魂が抜けたような、そんな感じだった。
 その祭壇を囲むようにして、多くの人々がいた。老若男女全ての種類の人間がいて、彼らは地に頭を擦り付け祈りの声を上げていた。
 口のすぐ下に床があるのだから、当然ながら祈りの声はくぐもったものになる。それに妙な抑揚がついて、信者たちが唱和するものだから、相当不気味だった。地獄の歌のよう。聴いただけで気が狂いそうである。
 それを少しの間満足げに眺めていたグルフィ・ロウが、中央道を傲然と歩いて、祭壇の側に立った。
 ややあって、グルフィ・ロウも祈りの詠唱を始める。ただし、彼の詠唱は強く、大きく、そして魔力がこもっていた。
 すると、信者たちが一斉に頭をあげた。目には妖しい光が宿っており、明らかに通常状態ではない。やがて信者たちは、グルフィ・ロウの祈りに唱和しながら立ち上がった。
 一人の信者が、詠唱しながら祭壇の前に歩いてくる。手には短剣を持っていた。
 その信者は、グルフィ・ロウの前で跪き、黒焔教団の主神である〈黒き焔の魔神〉への賛美の言葉を唱えた。
 その後立ち上がり、衣服を脱ぎ捨てた。
 そのまま祭壇の前に歩み寄る。身を屈め青年の唇と、心臓部と、性器に口づけをした。それから手に持っていた短剣で、自らの喉をためらいなく切った。
 鮮血が吹き出し、青年の身体を赤く染める。だがすぐに血が皮膚の中に吸い込まれ、肌の色が元に戻った。
 喉を切った信者は、恍惚の表情で青年に覆い被さるように倒れ込んだ。するとあろうことか、青年の身体は、信者の身体をも飲み込んでいった。
 やがて、信者の身体は何一つ残らず青年の身体に飲み込まれていった。
 続いて、次の信者が立ち上がり、グルフィ・ロウの前に跪く。その信者も、前の信者と全く同じ行動をとっていった。
 その次の信者も。またその次の信者も。ずっと、ずっと。
 その間中、不気味な祈りの詠唱は消えることはなかった。

 グルフィ・ロウが私室に入ると、すぐにドアがノックされた。
「入れ」
 短く言って、ソファに身体を沈めた。
 部屋に入ってきたのは、部下の一人で、フェゼンの戦士たちの情報を集めさせていたグループのリーダーである。
「何かあったのか?」
 意外そうにグルフィ・ロウが訊ねた。このグループからの報告を、もう聴くことはないと思っていたからだ。
 前回、フェゼンを敗北させ、その時にロイドの魂をそこら辺にいた傭兵の魂と融合させてやったのだ。当代フェゼンは一人欠け、もはや敵ではなくなっているはずであった。
 はい、と部下は頷いた。
「フェゼンの戦士たちにフェゼンの乙女がつきました」
「なるほど、フェリシアが緊急事態と認めたか。光栄と思うべきだろうな。フェリシアにそこまでさせたのだから」
 くっくっ、とグルフィ・ロウは笑った。
「そして、つまりそれは、まだフェゼンどもは性懲りもなく、私と私の計画を狙っているということだな」
 はい、と部下が頭を下げつつ、言葉を続ける。
「それにつきまして、もう一つ報告がございます」
「なんだ」
「今日、下部組織のグループがフェゼンの戦士たちを発見し急襲した時に、もう一人の男の存在がありました」
 ほう、とグルフィ・ロウが興味を引かれたような表情になった。
 少し考え、正解に突き当たる。
「そいつは、あの時の傭兵だろう。お前が術をかけてフェゼンに張り付けた」
「はい。そいつは、たいした実力ではなかったはずなのですが、急襲したグループの半分が、そいつにやられたそうです」
「ほう、それは一体どういうことだ? その襲ったグループというのは、それほどまでに弱いのか?」
 いえ、と部下は首を横に振る。
「フェゼンの戦士たちには敵わないでしょうが、その傭兵には勝てるはずです。傭兵は私自身が直接見知っておりますので、実力の判断は間違っていないはずです」
「つまり、その傭兵が短期間の間に、フェゼン並の実力をつけたと。そう言いたいわけか?」
 馬鹿にしたような口調で部下に尋ね、そして自身でそれを否定する。
「そんなことがありえるか。そんな急激な実力変動があってたまるか。あの傭兵は木っ端クラスから、超のつく一流クラスにまで実力を成り上げたということになるぞ」
 そんな急激な成長などあり得るはずがない。常識とかいう以前の問題である。例え魔術か何かで改造されたとしても、それほどの実力変動はあり得ないのだ。別人だとしか思えない。
 そこまで考えて、グルフィ・ロウは一つの可能性に思い当たる。
「別人か……」
「そう思われますか?」
「いや。だが私はそいつとロイドの魂を融合してやった。もしその傭兵が何かのわけでロイドの実力を揮えるなら、その結果も頷けるのではないか?」
 グルフィ・ロウは唇の端を歪めた。表情は確信に満ちている。
 確かに、と驚愕した表情で部下が肯定した。
「ですが、そのようなことがあり得るのでしょうか?」
「知らんな」
 グルフィ・ロウは素っ気なく答える。
「魂が融合した場合どうなるかなど、誰も知らないと思うがな」
 史上、誰もそのようなことをしたことはなかった。いや、しているのかもしれないが、その情報はグルフィ・ロウの耳には入っていなかった。
「それはそうですが……」
「融合させてやった時は、主におもしろいからという趣向でやったのだがな」
 グルフィ・ロウが嬉しそうに首を振った。
 自らがやったことなのだが、思わぬ結果が、彼の琴線に触れた。
「なかなか興味深い事例であるな。捕らえて、研究してみたい」
 グルフィ・ロウは、捕らえろ、とは命令しない。このように希望を言い、部下を動かすのだ。
「はっ」
 部下は最敬礼した後、グルフィ・ロウの私室を出ていった。
「魂の融合か」
 嬉しそうにグルフィ・ロウは呟く。
 もし、それで望む方の力を使えたなら、おもしろいではないか。いい戦士も、いい魔術師も、いい生贄も、また、それら全てを組み合わせた、オールマイティな人間も創造可能になる。どうしても、違う方の力を使えるメカニズムを解明してみたくなった。
「ふむ。〈黒き焔の魔神〉様降臨後に、その解明をやってみよう」
 とりあえず今は〈黒き焔の魔神〉降臨計画の方が先である。それに、いずれ向こうの方からやってくるのだ。手ぐすね引いて待っていればいいのである。

   4
 その日、宿に着くと、ラルフはいつもの通りさっさと自分の部屋にこもってしまった。
 さすがに心配していたフェゼンの三人が、何度か部屋に様子を見に行ったが、ラルフはフェゼンたちの入室を拒否した。
 その声からして弱々しく、意識してまともな声に聴かせようとしているのが、ありありとわかった。
 どうして、ラルフがそこまでして、介入を拒むのかわからない。そして、そこまで拒否されると、呆れと反発が出てくるのは当然である。
「もういいよ、放っておけば」
 カートは言い捨てて、彼女もさっさと部屋に入っていった。
 ラルフはベッドに倒れ込んでいた。
 睡魔が、もうどうしようもないほど全身を支配しており、疲労がどうしようもないほどに、立つのを億劫にさせていた。
 それでもやはり錯乱は怖く、目を開け、眠らないようにしていた。
 しかし、それでも錯乱は来るという確信が何故だかあった。
 単純に考えてみて、毎晩襲われているのだ。今日だけに限って来ないということは、あまり考えられない。そして、それ以上に感覚的な部分が、錯乱の来襲を予告していた。
 いつまでそうしていただろう。不意に心音が乱れだした。
 来た、という確信があった。
 途端、視界が揺れる。悪寒が脊髄を駆け登ってきて、不快感が全身に広がる。
 やがて、視界がぼんやりと暗くなり、神々しく輝く巨大な光が眼前に現れた。その光はいつもにも増して大きく輝いていた。
 恐怖がラルフの心臓を握りつぶそうとする。もう駄目だという感情が脳裏をよぎる。
 光はゆらゆらと揺れながら、ラルフに近付く。
 揺れる。揺れる。
 その神々しさの前には、太刀打ちは不可能に思われた。その中でラルフは自分の叫び声を聴いた。
 いけない、と反射的に思う。無意識的にラルフは枕に頭を押さえ込み、声を押しつぶした。
 嘔吐感が体内で暴れるが、出てくるのは胃液ばかり。口内に苦い味が広がる。
 目をぎゅっと閉じているのだが、身体は揺れを感じているし、何より、眼前から光は消えなかった。
 そしてついに、光がラルフを捕らえる。渦に巻き込まれるようにぐるぐると回転し、光の中に飲み込まれていく。
 不快感、恐怖感、嘔吐感の全てが倍増し、光の中で押しつぶされてしまうような圧迫感を感じた。もう、自分がどうなったのか、どうなっていくのか考える余裕はない。ただ迫りくるいろいろな感覚に堪えているだけだった。

 カートは隣の部屋から叫び声を聴いた。その声は大きく、宿中に響き渡るほどであった。
 隣の部屋にはラルフが入っており、その叫び声は明らかにラルフのものである。
 カートは急いで部屋を飛び出し、ラルフの部屋の前に行った。叫び声はやんでいたが、今の叫び声は異常だった。ものすごい恐怖を感じた時のような叫びだった。
 カートがまず思ったのは、黒焔教団一派に襲われたのだろうかということである。
「ラルフ、開けるわよ」
 言いながらドアを開け、部屋にはいる。
 しかし部屋には、ラルフ以外の人間はいなかった。
 そのラルフは異常な状態でベッドにいた。枕を顔に押しつけ、必死に目をつぶっていた。がたがたと震える身体を押さえるように、無理に身体を丸めていた。
 何より、ラルフの全身から、異様なオーラが出ていた。
「ラルフ! 一体、どうしたの?」
 カートはベッドの側に行って、ラルフを呼ぶが、反応はない。仕方なく、ラルフの身体を揺する。
「ねえ、大丈夫?」
 ゆっくりとラルフが顔を上げた。目には涙が溜まっている。鼻からは鼻水が垂れ、涎もこぼれていた。
 ラルフの目はカートを見ていないようだった。あらぬ何かを見て、恐怖しているようである。
「うわあああーっ!」
 顔を上げるなり、ラルフは再び叫び出した。強烈に身体が揺れ、その中でもがいている。
 カートは力を込めてラルフを抱え込み、揺れを収めようとした。
「あああああああああ!」
「ラルフ! ラルフ! 大丈夫? 落ち着いて。目を覚まして!」
 カートは必死になだめようとするが、ラルフは叫びもがいているだけだった。
 もしかして、これが毎晩続いていたのだろうか。不意にカートは、その考えに行き着いた。こんな状況が続けば、そりゃあ憔悴する。
 カートは、彼に体調を整えろと言ったことを後悔した。これは、そんなレベルで何とかなるようなものではない。
 カートは沈静の呪文を唱えた。
 しかし、効かない。
「どういうことよ?」
 思わず声を上げた。
 そういえば、疲労回復の呪文も効かなかった。そのことをカートは思い出した。ラルフに、何かあるのだろうか。
 あるじゃないの、とカートは呟いた。気がつかないのが迂闊なぐらいに、簡単なことである。
 ラルフは、アセルと魂が融合しているのだ。
 それがどんな不都合を引き起こすかを考えていなかった。グルフィ・ロウを討つことを考え、それが引き起こすであろうことに頭が回らなかった。明らかに、ミスである。
 突然、ラルフが放っていたオーラが爆発的に膨れた。
 そのオーラをカートは知っていた。
 アセルがまとっていたオーラである。
 アセルはいるのだ。ラルフの中で。
 聖契の魂認知で、それは確認してきた。それで見る限り、アセルの魂は異常はなかった。だから、それに融合しているラルフの魂に異常があるとは思いつきもしなかった。
 考えてみれば、単純な話である。ラルフの魂よりアセルの魂の方が強いのだ。強い方が弱い方を飲み込もうとするのは、あり得る話である。そして、ラルフの魂はあまりにも無防備すぎた。
 一般レベルの傭兵に魂の防御を要求するのは酷である。当然、不可能な話だ。その負荷が、ラルフの魂を負傷させていたのだ。魂の負傷は、通常の回復呪文では治らない。それ専用の特殊な呪文がいる。
「ぎゃあああああっ!」
 ラルフが一際大きな叫び声を上げた。
 そして、目に焦点が戻った。視線がカートを捉えていた。
 カートはぞっとした。その表情と視線の印象が、明らかにラルフと違うことに気づいたからだ。
「……アセル……」
 思わず、カートはその名を呼ぶ。腕の中の青年がそれに反応した。目で頷いたのだ。
 カートの胸中に、アセルに対する想いが膨らんだ。せつなさが全身を支配する。
 カートはぎゅっと青年を抱きしめた。そして、ゆっくりと、言葉を搾り出すように青年に言った。
「アセル……、ごめん。もう出てこないで……。ラルフが苦しむから……。この身体はラルフのもので、あなたのものじゃないの……。あなたの身体はもうないの。本当にごめん。出てこないで……」
 そして、青年を抱きかかえたまま、魂治療の呪文を唱える。
「あ、ああああ……」
 青年の表情が変わる。ラルフの視線が、カートを捉えていた。
「ラルフ」
 カートは優しく呼びかけた。指でラルフの涙を拭ってやる。
 ラルフは茫然と、カートを見ていた。今までの疲労が嘘のように消えていた。
「……苦しかったよね。……辛かったよね。気づかずにいて、ごめん」
「…………」
 ラルフは何も答えない。何がどうなったのかわからない表情をしていた。
「あたし、自分のことばっかり考えてた。あなただって、被害者なんだもんね。好きこのんで、グルフィ・ロウにそそのかされたわけでも、魂を融合されたわけでもなかったもんね。気づくべきだったよ、もっと最初に。そしたら、もっと早くに何とかできたのに。本当に、ごめん」
 カートは言って、もう一度、腕の中のラルフを抱きしめた。


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