第八話 素顔の条件
「今日も結城は休みか」
そう担任の先生が、ホームルームの時に言った。 結城さんの欠席は今日で三日目だ。 あの飲み会以来、なんとなく学校では彼女とすごす時間が多くなっていた。というのは、休み時間にせよ、昼休みにせよ、下校時にせよ、いつの間にか彼女がそばにいるのだ。それも、ごく当たり前のようにいるのだ。 そのせいか知らないけれど、最近、休み時間などにちょっと違和感を感じていたのも、事実である。 「岩沙」 不意に、担任に呼びかけられる。 「はい」 「お前、結城と親しかったよな。ここ数日のプリント、彼女の家に届けてくれるか」 「はい」 あんまり気が進まなかったが、それを表情に出さずにあたしは頷いた。 しかし、そういうことなら、アルバイトへ行く時間が遅れるな。そう思ったあたしは、昼休みに、事務所に電話をかけた。 事情を告げると加藤さんは、諒承した。 「そんなに遅くはならないと思うんですけど」 『そういうことなら、別に今日は休んでも構わないよ』 「はあ」 『結局、放課後ずっと出ずっぱりだからね。たまには友達の所に行くのもいい』 とても理解のありそうな言葉だが、実際はどうだろう。多分、あたしがいてもいなくても、業務の効率は一緒なのだろう。別に悔しくはない。だけど、嬉しくもない気がしてきているのも事実だった。まあ、どうでもいいことなんだけど。 『あ、そうだそうだ』 加藤さんが、思い出したように話題を変える。 「何でしょう?」 『もし、帰りにホームセンターに寄れるようなら、トイレットペーパーを買ってきてくれないかな。持ってくるのは明日でいいから』 昨日、確かめたときには既になかった気がしたけど。おっさんは、今日はどうするつもりだろう。いや、それ以前に今までどうしてたのだろう。奴はあそこに住んでいるようなもんだし。 『さすがに、頻繁に下にトイレを借りに行くのも問題だしな』 苦笑する声が、電話の向こうから聞こえた。 そんなことしてたのか、あんた。あたしの方が苦笑するわ。 ちなみに、事務所の階下は、喫茶店『珈琲荘』である。馴染みとはいえ、迷惑すぎだと思うぞ。 「はい、わかりました」 『じゃ、よろしく頼む』 それでは、とあたしは電話を切った。 さて、結城さんの家の近くにホームセンターはあるのかな。あたしは、そう彼女の家の住所を思い浮かべる。 実のところ、あたしは結城さんの家を知らない。ただ住所からだいたいの所がわかるだけだ。あと、彼女はニューフロンティア・マンションというマンション暮らしらしいので、それらしき建物を目印に探せば何とかなるだろう。そう思っていた。 授業が全て終わり、あたしは結城さんの家へ向かった。 ちゃんとした場所はわからなかったけど、迷わずに行けた。あたしも結構やるもんだ。 で、見たところ。 ニューフロンティア・マンションというのは、どう見てもアパートだ。言っちゃなんだが、ぼろっちい。学生とか、そういう貧乏なイメージがある個人が住むような感じがする。一世帯が入居できるような雰囲気ではない。 しかし、住所はここの206号室であっている。とりあえず、あたしは階段を上がってみることにした。 手すりもなく吹きさらしの階段を上がり、二階に着く。部屋は一列で六室あって、手前が201で、206は一番奥だ。 進んでドアの前に立つ。 表札には手書きで『結城』とある。どうやら、ここで間違いではなさそう。 あたしは、呼び鈴に手をかけた。 ピンボーン、という音が響いて、すぐに中からドアが開いた。 顔を出したのは、結城さん本人。 「あら。岩沙さん」 そう答えた結城さんは、血色の良い普通の顔をしているように思えた。 「どうしたの? 珍しい」 「ここ数日休んでいたでしょう。その間のプリントを持っていくように、担任の先生から頼まれたから」 答えながら、あたしは鞄から預かっていたプリントを出す。 「ああ、そうなの。ありがと」 「それじゃあ、あたしはこれで」 「上がっていきなさいよ。お茶くらい出すわよ」 踵を返しかけたあたしに、そう結城さんが声をかけた。 でも、とあたしは一瞬逡巡する。でも、結城さんはそれを無視してドアを開けたまま部屋に入っていった。もうあたしが入るものと決めつけている。というより、そうしたら、あたしが入らざるを得ないことを知っているようで、ちょっと嫌な気分だ。 仕方なくあたしも結城さんの後に続いて、結城さんちに入っていった。 入ってすぐ横にキッチンがあり、正面には八畳ほどの居間があった。その中央に四角いテーブルが置いてある。部屋の端には衣装ダンスが一つあった。その横にハンガーで済陽学園の女性用の制服が吊ってあった。なんというか、とても一人暮らしっぽい気がする部屋だ。 「汚いけど、そこ座って。座布団はそこのを適当にとってね」 「ええ」 言われたとおり、あたしはテーブルの所に座った。 畳の上は結城さんが言うほどに汚くはない。あえて言えば、古さから感じる畳の具合でしかなく、それはアパートの年数の問題で、仕方がないと思われる。 「コーヒーでいいかしら」 「ええ、ありがとう」 「驚いた?」 座るなり、結城さんがそう尋ねてきた。目が少し笑っている。 何について聞いているのだろう。わからないから、あたしは黙ったままでいた。そうしていると、待つほどもなく結城さんが続きを口にした。 「ちょっと、びっくりするぐらい貧乏そうな家でしょ」 確かに。 でも、当然ながらあたしは言葉を選ぶ。 「そんなことはないと思うけど」 「そこで気を使ってもらわなくてもいいわ。貧乏なのは事実だから」 結城さんが、からからと笑った。 「でも、元気そうで何よりだわ」 あたしは話題を変えた。本題と言っても差し支えはないだろう。あたしはこの人が休んでいたために、ここに足を運ぶ羽目になったのだ。 でも、結城さんは一瞬だけ虚をつかれた表情をした。その後すぐに、ああそれね、と微笑した。 「別にあたしは何もなかったわよ」 「え?」 「うちの父親がね、ちょっと数日風邪で伏せってたから。その看病をしてたの。うち、父子家庭だから」 「そうなんだ」 あたしはそう答えるが、多少疑問に思ったことも事実だ。 いくら父子家庭だからといっても、父親の風邪程度で学校を三日も休んだりするものだろうか。それほど重い風邪だったのだろうか。それとも、それを口実に学校をさぼっていただけなのだろうか。そういうことをする人には見えないのだが。 勿論、その疑問を、あたしは口にすることはない。疑問に思ったといっても、一瞬だけで、この人が看病で学校を休もうが、たださぼろうが、そんなのはあたしには関係がない話なのだ。 「いつ頃、学校へは出てこれるの?」 一応、聞いておかなければまずいだろうと思い、聞いてみる。 「明日には出られると思うわ。父親も、今日は治ったと言い張って仕事に行ったし」 仕事に行った、と結城さんが言ったとき、彼女の唇が一瞬だけ尖った。 ん。 彼女にしては珍しい表情だわ。 でも、本当に一瞬だったので、気のせいかもしれない。 そう思っていると、玄関のドアが開いた。 「あれ、お客さんか?」 そんな声とともに入ってきたのは、四十代くらいのひょろりとした男の人だ。何かの作業服を着ているが、明らかにミスマッチ。悪いけど、肉体作業をするような感じの人ではない。めっちゃくちゃ線の細い人である。 恐らく、この人が今話題に上った、結城父なのだろう。 「お邪魔してます」 あたしは頭を下げた。 その頭が上がりきらないうちに、結城さんの声が響く。 「何しに帰ってきたのよ」 責めている口調。でも、怒っているわけではない。微妙だな。 結城父は、頭をかいて苦笑した。 「いや、やっぱり身体がだるくて。早退させてもらった」 「だから言ったでしょ。今日はまだ休めって。人の言うことを聞かないからよ」 まったく、と結城さんが溜息をつく。 「そんなこと言うなよう。あまり休むと大変なんだよう」 「情けない声を出さない。風邪を引いたお父さんが悪いんでしょ」 「風邪ぐらいひいたっていいだろう。減るもんじゃなし」 「減ります。だいたいちゃんと栄養のある物食べさせてるんだから、風邪をひくのがおかしいのよ」 「そ、それは、あの日は寒かったから」 「お酒の飲み過ぎで、身体が火照って、薄着で寝ちゃうのは、寒かった言い訳にはならないの。それに何よ。今、手に持ってる物は」 「ビール……」 「お酒のせいで風邪をひいたっていうのに、それがまだ治りきってないうちに飲む、普通?」 「そ、それはやっぱり仕事帰りだから、飲みたいじゃないか」 「半分しか働いてないくせに、何言ってるんだか」 「うう、飲ませてくれよ、暁子〜」 「知りません」 つん、と結城さんが、結城父からそっぽを向いた。 ちなみに、親娘間の心暖まる会話の中、あたしは茫然としていた。 あの結城さんがだぞ。 あたしの中では、結城さんはクールな美人という印象が強かったし、周囲の人間もそう見ているだろう。冷静で怜悧で、ある種、人を寄せ付けない所さえある人なのだ。 それが、父親の世話女房やってて、あまつさえ、つんと拗ねたようにそっぽを向くんだぞ。印象が百八十度違いすぎる。 あたしは、知らず吹き出していた。悪いけど笑っちゃうよ。 それで、あたしの存在を思い出したのだろう。結城さんが照れたように、ああ、と髪をいじった。その仕草すらいつもと感じが違う。 「これ、あたしの父親」 照れたまま結城さんが、あたしに父親を紹介した。 結城父が、柔らかく微笑んで頭を下げる。 「どうも。いつも娘がお世話になってます」 「いえ、こちらこそ、お世話になっています」 「何もないところだけど、ゆっくりしていって下さい」 「すみません。お言葉に甘えます」 そうは言うものの、そろそろここから出ていきたいなと思う。結城父が帰ってきたのはいいきっかけだ。あたしは、もうしばらくしてから、そろそろ、と言って立ち上がった。今度は結城さんも止めなかった。 結城さんは、アパートの階下まで一緒に降りてきた。 「びっくりしたでしょう?」 結城さんも、自分の変わり様を自覚しているのか、そう苦笑した。 その苦笑する様子は、既にいつもの彼女で、室内での可愛い感じはない。 「まあ」 頷いていいものか悪いものか判断がつかないので、曖昧に濁す。 「あれが本当のあたしよ」 結城さんは、今度は照れもせず言い切った。 あたしは、思わず彼女を見返す。 「本当の……?」 「そう。父親の前だけは、素のあたしでいられる」 他は外面を作ってるということか。 ま、家族の前で飾っても仕方あるまい。それにしても、ファザコンかいな、こいつ。 「ファザコンかと思ったでしょう。違うわよ。父親として好きなだけよ」 そう、結城さんは淡々と語りだした。 「昔、あたしを産んだ女は、男を作って出ていったのよ。家の財産をほとんど持ってね。当時、お父さんは会社の幹部候補で、重要なポストにいたから、その社内秘の書類とか持ってたわけ。あの女は、それごと持っていったの。愛人がライバル会社の人だったから。当然お父さんは、クビ。社宅も追い出されて、幼子一人抱えて路頭に迷わされたのよ。後はお決まりのパターン。あたしを育てるために、職を転々として今にいたるわけ。あたしを手放せば楽だったのに、絶対に手放そうとはしなかった。そんなお父さんを見てるから、あたしはあの人の元を離れないし、素直でいられるの」 人の人生には色々あるということなのだろうか。 重要な部分は語ってないから想像に任せるしかないけど、幼子一人抱えて実家にも帰れないのは、多分相当な事情があったのだろう。子供、つまり結城さんだが、の親権問題もあったようだ。もしかしたら、裁判沙汰になっていたのかもしれない。 そういう辺りが、彼女が外面を作り、内面を隠す理由なのかもしれない。わかんないけれど。 でも。 「そんなことを、あたしが聞いてもいいの?」 多分、これは、誰にも喋ったことのない身の上話というやつなのだろう。それを聞いていいのかという気がする。 いいのよ、と結城さんが微笑する。 「あなたは、こういうことを他人にぺらぺら喋るような人じゃないから。それに、あなたには聞いて欲しかったからね」 「それは、どうして……?」 「あなたも、あたしと一緒でしょ。その綺麗な澄ました顔の下に、違う顔を持ってる」 「…………」 「別にそれを責めるわけではないわ。そうならざるを得ない事があることは、知ってるつもりだから。ただ、素直になれる場所があなたにはあるのかな、と思うの」 結城さんの目が、あたしを捕らえて放さない。 鋭く怜悧な、あの瞳だ。 あたしは警戒する。 「……何が言いたいのか、よくわからない」 「わからないなら、わからないで聞いていて。ずっと自分を隠したままだと、いつかおかしくなる。空気を吹き込んでる風船みたいなものよ。許容量を越えたら破裂する。あなたの許容量は大きそうだけど、それでも、もうだいぶ大きくなっているはず。どこかで空気を抜く場所がいる」 「…………」 「そういう場所って普通、家族のいる場所なんだけど。あなたの家はどうなのかな」 こいつは、あたしに家族がいないことを知らないらしい。ま、言うつもりもないけれど。 「どこか、そういう場所を一つ二つ作った方がいいわ」 言いたいのは、そういうこと。結城さんがそう締めくくる。唇に貼り付いた微笑が、あたしを見透かしているぞ、と言っているようでとても嫌。 「どうもありがと。他人のあたしにまで余計な気を使っていただいて」 嫌味のようにあたしは言った。 だが結城さんには通じない。 「そう。そんな風にね」 にやりと笑う。 しまった。 あたしは、内心で舌打ちしたがもう後の祭。仕方なく、あたしはさよなら、と言い残して、その場を足早に後にした。 背中越しに、結城さんがまだ笑っている気がした。 結城さんちから、だいぶ離れても、まだ結城さんの声が脳裏に響く。 『ずっと自分を隠したままだと、いつかおかしくなる』 おかしくなるというのはどういうことだろう。 心当たりは、ある。 最近、変な風に他人のことを気にしたりすることがある。結城さんのことにしてもそうだし、加藤さんのことにしてもそうだ。それはアルバイトで調査業務を少し携わるようになったからだったり生理の影響だったりと思っていたが、そうではないのかもしれない。加藤さんには、何度か素で喋ってしまったことすらある。 そもそも、結城さんに、こんな風に簡単に見透かされてしまうのは、おかしい証拠なのではないだろうか。結城さんは、あの飲み会の時に近づいてきたときからあたしのことを見切ってた節があるが、そんな簡単に見透かされるはずがないと思う。あたしにしても、伊達に何年間もこんな風に生きてきたわけではない。だから、あたしの方に何かあったと考えるのが自然ではないだろうか。 確かにあたし、おかしくなってきているのかもしれない。 だからといって、どうしていいのかはわからない。結城さんの言うように、素直でいられる場所を作ろうという気にはとてもならない。今さらと思う。 そんな風なことを考えながらしばらく歩いていたら、不意に加藤さんにホームセンターに寄っておいてくれと言われたことを思い出した。 幸い結城さんのアパートの近くにホームセンターはあったので、方向転換してそこに向かう。 ホームセンター内は混んでいた。 あたしは、上を見上げて商品のカテゴリーを記してあるプレートを見て、目的の場所へ向かった。 その時、不意に視界の斜め横の方に、見覚えのある人物が飛び込んできた。 あれは、ストーカー野郎。 なんで、こんな所に。 どうやら、あたしには気づいていないようだ。文具品のコーナーで、品物を選んでいるみたい。万引きする気じゃあるまいな。 なんとなく、あたしはそのストーカー野郎を観察してみる。普段観察されているのだから、これくらいは構わないはずだ。どんな奴があたしなんかをつけているか、多少の興味はある。 そいつは、同世代な感じで思っていたけど、思ったより年下っぽい。線が細く整った顔立ちをしている。あの顔だったら、あたしなんかをつけなくても、寄ってくる娘がいるだろうに。ま、ストーカーなんかをしてしまうような暗い性格だから、寄ってこないのかもしれないけど。 ややあって、ストーカー野郎に近づく男の姿が目に入った。五十代くらいで、何かに疲れたような感じのする人だ。 二人の話す様子からして、どうも親子のようだ。 そして。 あたしは、その男の人にも見覚えがあった。確か、大昇とかいう会社の社員の人だ。 |