第七話 探偵の条件


 夢を見た。
 夢を見るのは久しぶりだと思う。
 少なくとも、それなりに長い間、記憶に残るような夢を見たのは、久しぶりだ。多分、子供の頃以来。
 親戚の間を転々としていた時は、見ていなかった。家族に棄てられた当初は、見てたかもしれないが、どんな夢を見てたかは、もう忘れた。それから後は、夢を見るほどの睡眠はとれなかった。寝込みを襲ってくる馬鹿が、何人かいたから。
 ここは、誰もいない家。誰もいない部屋。とても安心できる。
 だから、久しぶりに夢を見たのだろう。
 もっとも、久方ぶりに見た夢は、とてもいい夢といえるものではなかったけれど。
 それは、ストーカー野郎と尾行男と露出狂に、ひたすら行動を監視される夢だ。見ていて気持ちのいい夢ではなかった。
 久しぶりに見た夢がこれでは、とれる疲れもとれない気がする。
 結局、あたしは夢なんか見ない方がいいのだろう。
 重い頭を無理矢理引き起こして、あたしはベッドから降りた。
 時計の針は六時十分。いつもより十分ほど目覚めるのが遅かったよう。恐らく、夢を見たせいだ。
 洗面所へ向かう。
 身体が重い。そういえば、そういう日だ。あたしは、今日の日付を思い出して、うんざりする。どうりで、精神が不安定なわけだ。夢を見たのも不思議ではない。こんなもの、早くあがってしまえばいいのに。
 鏡に映る自分の顔。
 今までの人生で、ずっとつきあってきた顔だが、それほど愛着のある顔ではない。それどころか、誰か他の人の顔ではないかという感じすらする。
 あたしは溜息を一つついてから、顔を洗った。

 学校生活はいつもと変わらない。
 それを平凡と言う人は多いけれど、いつもと変わるようなら、必死で抵抗する人も多いのも事実だと思う。そして、その両者は大抵同じ人間だ。
 あたしは平凡を望んでる。他人とは適当に適度につきあって、深く干渉せず、干渉させず。他人とは、約一人分ほど空けたような距離が望ましい。その距離を保っている限り、他人はあたしに敵意を持ったり、好意を抱いたりはしない。他人は他人のまま存在してくれる。
 昼休み頃、携帯電話にメールが入っていた。
 差出人は加藤さん。この携帯電話のアドレスを知っているのは加藤さんだけなのだから、当然といえば当然である。
 内容は、今日は事務所に寄らずに、『倫敦』という喫茶店に来て欲しいとのことで、その住所と地図が添付されていた。
 住所と地図を見る限り、学校からはちょっと離れている。電車で二駅ほどいき、更にバスで五つほど停留所を経なければならない。
 待ち合わせ時間を見ると、学校が終わればすぐに向かわなければ間に合わない時間である。マンションに帰って着替える猶予はなさそうだ。あたしは、学校からそのまま『倫敦』に向かうことにした。
『倫敦』に着いたのは、待ち合わせ時間から五分ほど遅れた時間だった。電車に乗り遅れたわけでもなく、バスとの接続が悪かったわけではなく、道路が混んでいたわけではなかったから、これ以上早い時間に着くのは無理である。
『倫敦』は小さくて古そうな喫茶店だった。ドアは洋風の観音開きで、開けるとカウベルが鳴った。いらっしゃいませ、というお決まりの台詞を聞き流しながら、あたしは店内を見渡した。
 いた。
 加藤さんは、店の奥の席に座っており、あたしに軽く手を上げる。勿論、その人差し指と中指の間には、吸いかけの煙草がはさまれている。
「遅くなりました」
「いや、ほとんど待ってないよ」
 加藤さんはそう答えながら、近寄るあたしを奇妙な目で上から下まで眺めた。
 何のつもりだ、おっさん。
「どうかしましたか?」
「いや。着替えてこなかったんだ」
 意外そうな口調で、加藤のおっさんは言った。
 ちょっと待て、おっさん……。
「着替えていたら、待ち合わせの時間に間に合わないと思いましたから」
 実際、間に合ってないし。
 そもそも、この時間を設定したのはあんただろう。
 ああ、と加藤のおっさんは、納得したように頷いた。
「そういえば、岩沙君の学校からここまで、結構かかるなあ」
 今気づいたのか、おっさん。じゃあ、待ち合わせ時間も適当に決めやがったな。
「このくらいかなあ、と思って適当に決めたんだけど」
 やっぱり。
「しかし、制服じゃ困るな」
 加藤さんが左手で頭をかきながら、煙草の煙とともに呟いた。
 そりゃあ、調査活動に制服姿じゃ、目立って困るだろうよ。
「昨日来た中年の親父、覚えてるかな?」
「ええ、一応は。あたしが事務所に行ったときにすれ違った人ですよね」
「そう。あの人の依頼を手伝って欲しいわけだけど」
「着替えてきましょうか?」
「そんな時間はないな」
 加藤さんが、煙草を灰皿で揉み消した。
 その煙草を見たところ、まだ長さは半分ぐらいだった。普段ならフィルター寸前の所まで吸いきるおっさんである。それを途中で揉み消したとなると、もう立つ気だろう。
 予想通り、加藤さんは立ち上がった。
「行こう」
 あたしは頷いて、加藤さんの後に続く。
 加藤さんは車で来ていたみたいで、それに乗って移動した。
 着いたところは、ブティックだった。
「とりあえず、ここで適当に服を買っといで」
「は?」
 思わず、聞き返してしまう。
「いや、制服姿じゃまずいんだけど、着替えに帰ってもらう時間もないしな」
「でも」
「気にするな。経費だ。確定申告で返ってくる」
 ほんまかいな。
 でも、ちょっとは気が楽になった気がするのは確かだ。
「そうですか」
「でも、あんまり高いのは勘弁な。持ち合わせが少ないんで」
「わかっています。それで、どんな感じなのが良いですか?」
「目立ちすぎないで、若すぎない格好かな」
 制服じゃ目立つから服を買えと言うのだ。買った服が目立つ服なら、買う意味がないだろう。
「若すぎないっていうのは?」
「年相応だとまずいかな。ああ、それから外出着ということで」
「はあ」
 案外、注文は厳しいらしい。
 とりあえず、あたしはブティックの中に入り、服を選ぶ。
 あたしは、あまり服飾には興味がない。興味を持てない環境にいた時間が長すぎたのだろう。持てない環境にいた期間というのも大きいかもしれない。お洒落などに目覚めて、自分を飾る期間全て、そういう環境だったのだ。
 ただ、安く長く着る術は、それなりに発達したとは思う。
 あたしの服を買うポイントは安さと丈夫さの兼ね合いだ。もっとも、これは服だけには限らないけれどね。
 加藤さんが車を駐車場に停めて店内に入ってきたときには、あたしはもう服を選び終えていた。店員があたしに付いて、口出しする暇は全く与えない。
「えらく早いな」
「そうですかね」
「まあ、何時間も迷われるよりはマシだけどな。で、それでいいのかいな?」
「いいです」
「じゃ、買って着替えてきて」
 加藤さんが尻ポケットから財布を取り出し、あたしに渡した。
 何か重くて分厚いぞ、この財布。
 その訳は、会計のとき、財布を開けて判明した。
 たくさんお金が入っているわけではなかった。小銭がじゃらじゃらと。いや、小銭だけじゃない。よくわからない偽造コインが入っていた。これ、やばいんじゃないの。あたしはそう思い、間違えて偽造の方を出さないように、お札だけで会計を済ませた。ちゃんと領収書ももらう。
 着替えて出てきて、ふと気づく。
 店内の視線を結構浴びている。
 変な服の着方をしているわけではないけど。
 ああ、そうか。
 あたしは、すぐにその理由に思い当たる。あたしは制服で来店して、買った服に着替えて出ていく女なのだ。何かあると思って、好奇の目で見られる可能性は高いだろう。しかし、そうだからといって、そんなに見ることはないと思うけど。そんなに、珍しいかな。
 加藤さんは、短い溜息を一つついた。仕方ないな、と呟いたように思う。目立ってしまったことについてだろうか。確かに、仕方がないと言えば仕方がないが、制服のまま連れてきたあんたにも責任があると思う。
「とりあえず行こうか」
 加藤さんがあたしを促した。
 車内で、加藤さんから依頼の内容を聞かされる。
「ま、奥さんの素行調査だ」
 探偵の仕事というのは、だいたい他人の素行調査かペット捜索か、というところ。殺人事件や迷宮入りの事件みたいな、所謂派手な事件に関わることなど基本的にはない。探偵に要求されるのは、推理力や洞察力ではなく、観察力と行動力である。そういう風なことを、前に加藤さんから聞かされたことがある。
「浮気をしているかどうかですか?」
 奥さんの素行をその夫が調査しようという場合、十中八九それだ。
 そうなんだけどな、加藤さんが微苦笑した。
「何かおありなんですか?」
「ま、後で話すよ」
 加藤さんはそう言いながら、車を建物の駐車場に入れた。
 あたしはちょっと慌てる。
 え?
 ここって……、ラブホテルなんじゃあ……。
「あ、別に君を連れ込もうとか考えてはいないから」
 あたしの驚きを察したのだろうか。駐車場の空きスペースに停めながら、加藤さんが気楽な調子で答えた。
「さっきの話の続きなんだけど」
 加藤さんが車のエンジンを止めたものの、降りもしないで、煙草を胸ポケットから取り出しながら話し始める。
「奥さんの浮気は確定しているだ」
「は?」
 それなら、調べる必要はないんでないかい。
「中年親父の依頼は、あくまで素行調査なんだがね。そいつの言葉を直訳すると、そう思わざるを得なかった。ここのラブホテルを嫁さんが浮気相手といつも使っていると言っていたのも、依頼人だしな。もっとも、使っている『らしい』とその時は言ったけどな」
「わかっている浮気を調査して、どうするんですか?」
 わけわからん。
「事情は人それぞれ。ま、昨日ちょいと調べたところ、閨閥的な問題がありそうだな」
「閨閥的な問題……」
「別れたいけど、別れられない事情があるってことだ」
 力関係の問題だろうか。金銭や名誉が絡むとややこしいのに、そこに背後の親類などが絡むと、こんがらがった毛糸よりややこしい状況になりそうだ。
 勿論、ただ離婚するのは簡単だろう。離婚後の自分や親兄弟の行く末を考えると、別れられないということだと思われる。
 つまり、依頼人が奥さんと別れるには、奥さん側の方に決定的な理由が必要で、自分に落ち度があってはいけない。それを見つけるのが、今回の素行調査なのだろう。
 だけど……。
 ちょっと変だ。
 加藤さんは、依頼人が既に奥さんの浮気を知っているようなことを言っていた。知っているなら、それを奥さんにつきつければいいのではないか。
 ……いや、違う。そんなことが変なのではない。
 変なのは、どうしてそれを知っているか、ということだ。
「お、あれだ」
 加藤さんが、新しく駐車場に入ってきた車を見て、そう軽く声を上げた。それから、身体をひねり、後部座席にぞんざいに置いてあったカメラを取り上げ、先ほどの車から降りてくる男女に向けて、シャッターを何回かきった。
「さて、行こうか」
 加藤さんが車から降りる。
 行こうってホテルにだろうか。
 勿論、それはあたしを誘っているわけではなくて、単に調査のためだとはわかっているが、行きたくないというのがあたしの気持ちの正直なところ。
 しかし、仕事だから、と思い直し、あたしは加藤さんに続いた。
「こういう時、本来なら、他の探偵社から女性の調査員を借りるんだけど、いつもの人が都合つかなくってさ。それで岩沙君にご出馬願ったわけだ」
 確かに、一人では入りづらかろうし、不自然だ。
 そりゃあ、制服姿じゃやばいわけだ。あたしは、改めてそう思った。
 浮気調査というのは、決定的な証拠が必要になるらしい。
 決定的がどの辺りになるのか、あたしにはよくわからないけど、少なくともラブホテルに入っていく二人の写真だけじゃあ、駄目らしい。
「最近のラブホは、セックスするだけのところでなくなったからな。少なくとも、そう強弁できるぐらいにはなってしまった」
 加藤さんも面倒そうに言う。
 そういうものだろうか。その手の風潮には疎いので、わからない。
 ただ、わかったのは決定的証拠というのがどの辺かということ。
 つまり、そういう写真が必要なわけね。
「合体写真が必要なわけだ」
 加藤さんが、前を歩くターゲットの男女を眺めながら笑った。
 的確な表現、ありがとう。でも、セクハラだ。

 あたしは、ラブホテルに入ったことは、今日が生まれて初めてだ。
 入りたいと思ったことはなかったし、入ることになるとは夢にも思っていなかった。
 入って気づいたことは、想像していたよりお洒落だったことだ。
 普通のホテルと、そんなに変わらない。それどころか、若者向けという感じで言えば、普通のホテルより上回っているかもしれない。
 ちなみに、この部屋にいるのはあたし一人。
 ぽつねんと、部屋の中央に立っている。
 加藤さんは、部屋のどこからか消えてしまっていた。ドアから出たわけではないので、トイレだかバスルームだかから、何かをして、どこかに行っているのだろう。どこかとは、多分、ターゲットの男女の部屋と思われる。
 しばらくすると、バスルームから加藤さんが姿を現した。
 勿論、バスタオルを巻いているわけでもなく、身体からお湯と湯気をまき散らしているわけでもなくて、普段着のままである。手にはカメラがあった。
「終わったよ。バッチリ撮った」
「そうですか」
 ここで、何を、と問い返さないあたしは、面白くない女なのだろう。
「これで仕事は終わりだけど」
 加藤さんは、そう言うとあたしの方を見た。
「何ですか?」
「ついでだから、一発やっていく?」
「ご冗談を」
 淡泊すぎる答えだったかもしれない。顔を赤らめて、嫌ですわ、と答えた方が良かったかもしれない。珍しく、素の自分が答えていた。生理で身体が変調をきたしているからなのかもしれない。
 でも、加藤さんは微苦笑して、それもそうだ、と胸ポットから煙草を取り出しながら答えた。そして、行こうか、と言いながら、あたしに背を向けてドアの方に向かう。
 だからその後、微苦笑のまま呟いた独り言が、あたしの耳に入ったとは思ってもみないだろう。
「俺も、頷かれたらどうしようかと思ったよ」
 ……なんとなく。
 なんとなくだけど。
 その独り言で、加藤さんも、あたしと同じなのかもしれないと思った。
 本来の自分とは違う自分を人前では出して、本来の自分には誰も近寄らせない。
 あたしの方は、今までの生活環境から、ごく自然とそういう風になっていった。そういう風にしなければ、生きていけなかった。
 加藤さんの方は、何故そうしているのかはわからないけれど、彼は探偵だ。裏表のある職業上、人格も裏表が必要なのかもしれない。表情を読まれるのが嫌なためにサングラスをかけている人もいるぐらいなのだから、それと似たような感覚なのかもしれない。そういうことだろう。
 推測だけど。
 じゃあ、あたしって、そういう意味では、探偵に向いているかもね。推理力とか観察力とか、そういうのはまるで駄目だけど。
 そんな風に考えていると、ほんの少しだけ加藤さんに親しみが湧いた。
 そして、不意に結城さんのことに思い当たる。
 彼女は、自分があたしに似ていると言った。それはもしかしたら、こういうことなのかもしれなくて、それで親しみが湧いたのかもしれない。だから、友達になりたいと言ってきたのか……。
「…………」
 やっぱり、変だなあたし。生理中で精神もおかしくなっているのかもしれない。普段考えもしないことを考えてる。
 車に乗ってすぐ、加藤さんが声をかけてきた。
「今日のお礼に、晩飯奢るよ。何がいい?」
「体調が悪いので、帰りたいです」
 即答していた。何も作らずに、飾らずに。
 やっぱり、あたし、今日は変だ。


第八話に進む
第六話に戻る 「家族の条件」トップに戻る
小説ページに戻る ホームに戻る