第六話 モテる条件


 その日、あたしが事務所に入ると、それとすれ違いに男の人が出ていった。
 四十代くらいの、陰気な感じの人だ。俯き加減に歩いていたから、表情まではよくわからないが、微笑ましい顔をしていなかったのは確かだろう。
 ややあって、事務所の奥の仕切られたスペースから、煙草をくわえた加藤さんが出てくる。あそこは客と会うためのスペースだから、今の男の人は依頼人だろうか。
「おはようございます」
 あたしに気づいた加藤さんに頭を下げる。
 仕事場では、朝昼晩関係なく、おはようございますが基本だ。それは、この事務所でも変わらない。もっとも、加藤さんはあまりそういうことには煩くないし、ちゃんとしろとは言われたことはない。
「おう」
 加藤さんが手を上げて、会釈を返した。そして、あたしが席に着く前に、一言つける。
「岩沙君、お茶入れて」
 いきなりか、あんた。
「ちょっとお待ち下さいね」
 あたしは微笑みを作って、自分の席に鞄を起き、給湯室に向かった。
 コーヒーを加藤さんのカップに注ぎながら、もう何回彼にお茶を入れただろう、と考えてみる。恐らく三桁では足るまい。別にお茶くみが嫌なわけではないが、程度というものがあると思う。
 コーヒーを持っていくと、加藤さんは今しがた書いたばかりの手書きの依頼書を眺めていた。
「お待ちしました」
「さんきゅ」
 あたしの方を見もしないで言うのはいつものこと。あたしは加藤さんのそんな態度を気にもせず、自分の席に着いた。
 パソコンの電源を入れて、いつもの作業に取りかかる。
 ここ数日、あたしの作業というのは、この前の大昇という小さい会社の調査に関することだ。
 全社員十六名の顔写真が入れてあって、そこに加藤さんが仕入れてきた情報を逐一入れていく。
 加藤さんが仕入れてきた情報というのは、社員の住所や学歴とかプロフィールから、前科やそういうところまでの情報だ。どうやってそこまで調べているのかはわからないが、その辺は、やっぱりプロの業ということなのだろう。これがメモ用紙に乱雑に書かれている。あたしはそれを解読しながら入力するわけだ。
 加藤さんは、はっきり言って字が汚い。当初は何かよくわからない記号の羅列にしか見えなかった。加藤文字は金釘流より下位におかれるはずだ。
 それでも、一応、今では八割方は解読できるようになり、そこから残りの二割を類推できるようになったから、仕事に支障はなくなった。勿論あたしは、これは何と書いてありますか、とか聞くような人間ではないので、全て自己努力である。大変苦労したとは付け加えておきたい。
 その情報を元にして、加藤さんは新たな情報を仕入れてくるのだ。それであたしは、その情報を入力する。基本的にはこの繰り返しだ。仕事的に、あたしが何か類推して書いていることは何一つないので、これはただ単に清書というやつだ。
 聞くところによると、この仕事は、ある中堅企業からの依頼らしい。どこかの会社を下請けにしているその会社が、今度は大昇を下請けにしたいらしく、その調査依頼らしい。
 こんな事をしなければ、仕事も頼めないのはどうかと思うが、そもそも会社間の信頼関係なんて、たいしたものではないのだろう。そのおこぼれに預かっている身としては、その辺をあまりとやかく言うのは問題があると思われる。
「さてと」
 不意に加藤さんが、立ち上がった。
「ちょっと俺は出るから。後よろしく」
「はい。お気をつけて」
 あたしは、加藤さんの背中に声をかける。
 加藤さんが、あたし一人を事務所に置いて出ていくのは、さほど珍しいことではない。なんといっても、この調査事務所の調査員は半端なアルバイトであるあたしをのぞけば、ただ加藤さん一人なのだ。二、三件の依頼を掛け持ちしている状態なら、その調査活動に追われ、むしろ事務所にいる時間の方が短い。
 一人になって、あたしがなんとなく加藤さんの机を見ると、マグカップのコーヒーは既に空であった。
 いつの間に飲んだんだ、あのおっさん。
 あたしのイメージでは、コーヒーというものは、ぐびぐびと飲み干すものではなかったが、ここに来てそのイメージは多少修正されていた。人それぞれの飲み方があるってこと。
 あたしは立ち上がり、加藤さんの机の上から灰皿と、マグカップを取り上げ、給湯室へ向かう。
 灰皿の吸い殻を棄て、マグカップを洗って、仕舞う。これは別にしろと言われていることではないが、しなければ、加藤のおっさんは洗わないままコーヒーを飲むから、こちらの精神衛生上よくないのだ。その上、灰皿にいたっては、吸い殻が多すぎて火事になりかけたことがあった。火にまかれて死ぬのは、あまりいい死に方ではないだろう。言うなれば、自分のためにやっていることだ。
 再び自分の席について、仕事を続ける。
 加藤さんがいないとき、加藤さんを除いて、電話はかかってこない。事務所への電話は全て加藤さんの携帯電話に転送されているからだ。あたしの席にも電話が備え付けてあるが、これは事務所の電話番号とは違う。
 午後六時頃、この電話に加藤さんがかけてきて、仕事の終了を告げるのだ。
 今日も、例外ではなかった。
 電話がかかってきて、受話器を取りながら壁に掛かってある時計を見ると、六時を少し回ったところだった。
 終業の連絡を聞いた後、電話を切り、あたしはパソコンの電源を落とす。
 一通り、戸締まりを見回ってから、事務所を出る。ちなみに電気はつけたまま。まだ加藤さんが帰ってくるからだ。
 ドアの鍵は閉める。事務所の鍵はあたしも持たされているので、それでかける。それから、ドアに『ただいま外出中』の札をかける。
 その札には、ご用の際は、と加藤さんの携帯電話の番号が書いてあって、依頼者が来ればそこにかけられるようになっている。
 外はまだ少し明るい。日は一日ごとに長くなっているようだ。
 歩道に出て、あたしはちらりと後背を見やる。
「…………」
 誰もいない。
 今日はストーカー野郎はいないみたいだ。
 ここ最近は見たり見なかったり。奴にも色々あるのだろう。色々ありすぎて、もう出てこなければいいのに。あたしはそう思いながら、帰途についた。
 しかし。
 横から不意に感じる視線。
 やっぱり、いやがったのか。
 あたしは、ふう、と溜息をつきながら、そちらの方に視線をやった。
 あれ……?
 いつもの野郎と違う。
 どう見ても、その視線の主は大人である。
 帽子を深く被り、サングラスにマスク。コートの前を手で閉じるようにして立っている。
 あやしすぎるぞ、おっさん……。
 あたしは、驚くより呆れてしまった。
 その驚きの中、何か妙な違和感を感じ、それがコートからのぞく男の足が生足だということから来ていることにあたしが気づいた時、男がばっとコートの前を開いた。
 うっ……。
 あたしの視線は、ものの見事に男の身体を捉えてしまった。
 男は、コートの下に何も着ていなかった。ズボンどころか、下着すら着用していない。
 露出狂か、このおっさん。
 春になるとたまに見かける、変な嗜好を持った男の人だ。所謂、変態ってやつ。人の趣味はそれぞれだと思うけど、あまり人に迷惑をかけないで欲しい。
 あたしは、胃の辺りからくる強烈な嫌悪感に逆らわず、視線をそらした。
 その視線の隅で男が動いた。
 コートの前を開いたまま、あたしに小走りに近づいてくるのだ。
 え?
 え!
 ええっ!
 さすがにあたしは驚愕する。
 今まで、何度か露出狂と遭遇したことはあったが、丸出しのまま近づいてくるのは初めてだった。
 うわっ……。
 あたしは、色々な意味で身の危険を感じた。
 とりあえず、逃げよう。そう決断すると、あたしは男とは反対側に逃げ出した。
 走り出してすぐ、あたしの視界に、また変な男が飛び込んでくる。
 そいつは、あたしの視線に気づくと、ぱっと壁の陰に隠れてしまったが、明らかに今までの状況を見ていたと思う。
 なんだこいつ。そう思ったけど、後背からなおも聞こえる変態の足音が、あたしの思考をすぐに現実へと引き戻した。
 とりあえず、人通りの多いところに出れば大丈夫だろう。少し引き離せば、もうついてこないと思うけど。
 あたしの推測通り、しばらく走ると変態の姿は見えなくなった。
 まったく、なんて帰り道だ。ストーカーは出るわ、露出狂は出るわ。あたしはそう思い、大仰に溜息をついた。
「おや。帰ったんでなかったのかい?」
 不意に頭上からかかる、聞き覚えのある声。
 見上げると、加藤さんだった。
 周囲を見れば、そこは一条探偵事務所の前だった。
 冷静なつもりだったが、少しは動揺していたらしい。あたしは家に向かわずに、来た方向へ逃げ出したようだ。
「そのつもりだったんですけどね」
 あたしは、もう一度溜息をついた。

「そりゃあ、災難だったね」
 あたしの話を聞いて、加藤さんがそう笑った。
 事務所の奥のソファに、加藤さんと向かい合ってあたしは座っている。そして、またここに帰ってきた訳を聞かれ、帰り道に露出狂にあったことを話したのだ。
「で、どうだった?」
 下卑た笑みを貼り付けて、加藤さんが聞いてくる。
「何がですか?」
「見たんだろ」
「何をですか?」
「だから、露出狂のをさ」
「…………」
 ここで初めて、質問の意図を理解したあたしは、眉をひそめた。
 普通、そんな質問するか?
 セクハラで訴えてやろうか。まったく、このおっさんは……。
「覚えてません」
「そうか? そういうのに興味がある年頃だと思ったんだが」
 どんな年頃だ!
「ま、いいや」
 加藤のおっさんは、そう言うと煙草を吹かしながら、立ち上がった。
「送るよ。また露出狂に襲われたら大変だからな」
 結構です、と言いかけたが、今日は厚意に甘えることにした。やっぱり、疲れてるから。
 車に乗ると、あたしの住まわせてもらっているマンションまでは、ほとんど時間がかからない。あっという間につく。
「ありがとうございました」
 あたしは、礼を言って車から降りた。
 ん? あれは……。
 あたしの視線は、マンションの向こうに去っていく男の後ろ姿を捉えていた。
 あの後ろ姿には、見覚えがある。
 あの変態に追いかけられたとき、ちらりと見えた変な男と同じ服装だ。
「どうした? ストーカーでもいるのか?」
 車から降りて、すぐに固まってしまったあたしに、車中から加藤さんが声をかけてきた。
「何でもないです」
 あたしはそう答え、車のドアを閉じた。
 加藤さんに心配をかけさせるということは、繋がりのある一条さんに心配をかけさせるということだ。生活費から住処から一条さんに世話になっているのに、心配までかけさせたくはないし、かけさせて、事が絡まったりして、また出ていかされるのはあまり嬉しい事態ではない。
 あたしは、去っていく加藤さんの車に頭を下げて、マンションの敷地に入っていった。
 そこに、また変なのが一人、視界に映る。
 隠れるのが下手な、いつものストーカー野郎だ。
 こいつ、こっちにいたか。
 しかしまあ。
 あたしもモテモテじゃない。このストーカー野郎に、露出狂に、そして、あの尾行男。モテる女は辛いわね。そう思いながらあたしは自嘲気味に笑うと、いつものようにストーカー野郎を無視して、マンションに入っていった。


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