第四話 張り込みの条件


「ただいま、戻りました」
 あたしが事務所に戻ったのは、午後三時ちょうどだった。
 堀君の家へ猫を取りに行き、東さんちへ届けに行っていたのだ。
 結局、堀君の家に取りに行くのも、東さんちへ返しに行くのもやらされた。
「それは君が行くべきだろう」
 煙草を吸いながら加藤のおっさんが、そう言ったからだ。
「君の仕事だからね。最後まで君がやらないと」
 そう言われると返す言葉もなかった。
 堀君の家に行ったとき、出てきたのは彼の母親で、事情を話すと、そういう猫だったのね、と笑ってすぐに返してくれた。堀君自身は、昨日の二次会やら三次会やらで疲れて寝ていたらしく、出てこなかった。わざわざ起こすこともないので、起こしに行こうとする母親を止めて、その足で東さん宅へ向かった。
 東さん宅では、ちょっと引き留められた。といってもお茶をご馳走になっただけで、それで引き上げた。
「早かったね」
 加藤さんが、読んでいた競馬新聞から視線を上げた。加藤さんの机の上には、2−3とか3−5とか書かれたメモが散乱している。ちらりと視線を巡らして、テレビを見やると、競馬中継がやっていた。
「無事済んだかい?」
「一応、済みました」
 そうか、と頷きながら、加藤さんは机の引き出しを開けて、綴りになっている用紙を取り出した。なんだろう、と思ってみていると、それをあたしに差し出した。
「何ですか?」
 受け取りながら、あたしは尋ねる。
「調査報告書」
「はあ」
 表紙を開けて見てみると、確かに、調査報告書だった。件名や調査の種類、担当者などの欄がある。
「君が担当した仕事だから、君が書く」
 はあ、と再度あたしは声に出した。
 何度も加藤さんが担当した調査報告書を作成したことのあるあたしに、その論法はどうかと思う。別に仕事だから、嫌ではないけれど。
「わかりました」
 あたしは報告書を受け取って、机に向かった。
 何度も加藤さんの報告書を書いているので、書き方はわかっている。あまり迷うこともなく、あたしはボールペンを進めた。
 調査報告書は二種類ある。
 依頼者に報告する用と事務所の保管用だ。
 今、あたしが書いているのが事務所に保管用で、依頼者用のやつは、これから報告すべき点だけを抜き出した簡易版みたいなやつをパソコンに打ち込んで、出力するのだ。全てパソコンに打ち込んで、そこからソートして抜き出せば早いと思うのだが、情報の一括管理は危険なそうで、この事務所ではそれはやらないそうだ。
 しかし、アルバイトであるあたしに、全ての情報が閲覧できるような事務所である。情報管理が行き届いているのかいないのか、よくわからないところだ。
 報告書は二十分程度で書き終えた。その後十分くらいかかって推敲して、加藤さんに提出する。
「相変わらず、岩沙君は仕事が早いねえ」
 加藤さんは、手に持っていた煙草をくわえ、あたしから報告書を受け取った。だけど、それを一読すらせずに、手元のファイルに入れた。
 読まなくていいのかよ。変なこと書いているかもしれないんだぞ。加藤のアホとか。……ま、書かないけどさ。
「ところで、ここの仕事にも結構慣れたろ?」
 不意に加藤さんが視線を向けた。
 加藤さんは、くわえていた煙草を吸いきって、灰皿で揉み消す。
 煙草臭い。
「事務とかなら、それなりに」
「調査活動はどうだい?」
「今回、一度やったきりですから」
「それなりの手並みだったけどね」
 加藤さんがにやにやと笑う。
「ご冗談を」
 まあいい、と加藤さんが新しい煙草に手をかけた。でもそれを吸わないで、机の上でとんとんと叩いている。
「ま、その調査活動なんだけど、もうちょっと慣れてもらおうと思っているわけだ。そうしてもらった方が、俺としてもこれから楽だ」
「はあ」
 それは、今後は調査活動もしろ、ということなのだろうか。高い時給をもらっているから文句は言わないが、自分に本格的な調査活動が出来るとも思えない。
「お茶でも飲み終わったら行こうか」
 加藤さんが煙草に火をつけながら言う。
 それは、今からコーヒーを淹れろということなのだろうか。
 恐らく、そう。
 あたしは心中で溜息をついてから、ちょっとお待ち下さいね、と笑顔を作ってから、給湯室へ向かった。
 作り置きのコーヒーを加藤さん専用のマグカップに入れ、それを持っていく。
「ああ、さんきゅ。岩沙君は飲まないのかい」
「あんまり、喉、乾いていないもので」
「そうか」
 ぐびぐびと淹れたてのコーヒーを加藤さんは飲み干した。
 いれたてを一気に飲むか、普通?
 しかも、コーヒー豆を思いっきりぶち込んだひたすら濃いコーヒーなんだけど。あたしは呆れながら、加藤さんを見たが、その表情に苦みをかみ殺す色は全く見えなかった。
 おっさん、いったいどんな味覚をしてるんだ。
「ああ、美味かった」
「……ありがとうございます」
 答えるのにタイムラグが生じたのは、やっぱり呆れてたから。
 それを気にとめた風もなく加藤さんは、椅子にかけてあったブレザーを羽織りながら、立ち上がった。
「行こうか」
「はあ」
 加藤さんとあたしは地下のガレージに向かった。
 ガレージには二つ車を止めるスペースがあって、二つとも車が止まっていた。
 右側の白いワゴン車が珈琲荘のマスターので、隣の黒いセダンが加藤さんのだ。車に興味のないあたしには車種は両方ともわからない。でもワゴンの方が綺麗で高そうで、セダンの方が汚れてて古そうなのがわかる。
「乗って」
 ドアロックを外しながら、加藤さんが促す。あたしが助手席に乗ったことを確認すると、加藤さんは車を発進させた。
 しばらくは見慣れた風景だったが、やがてそれも見知らぬ町並みへと変わっていく。
「どこに行くんですか?」
「豊陵」
 地名に聞き覚えはあったが、行ったことはない。
「大昇って会社知ってるか?」
「いえ」
「玩具関係の小さな会社なんだけど。従業員が十名足らずのところで、細々とやっているところだけど」
「その会社の調査ですか?」
「まあ、そんなところ。――ああ、ここだ」
 加藤さんは車を路肩に止め、エンジンを切った。
「あの二階建てのビル」
 加藤さんが顎で差したビルは、道路を挟んで向こう側の小さなビルだ。見ると、確かに有限会社大昇とあった。
「あの出入り口から出入りする人間を、ここからこれで一人一人撮ってほしいんだ」
 そう言って、加藤さんはデジカメをあたしに渡す。
「出入りする人間、ですか?」
「そう」
「それは、出ていく人だけではなくて、入っていく人もということですね」
「そういうこと。ああ、あと、あんまり気づかれないようにな。露骨に怪しく思われるから。車の中だから、大丈夫だと思うけど」
「出来るだけ気をつけます」
 そう頷くものの、どう気をつけたら見つからないのかは、わからない。とりあえずは、デジカメを構えたままでいるのはよそうと思うぐらいだ。
「ああ、一人出て来た」
 ブレザーのポケットから煙草の箱を取り出して、その箱で出入り口を差す。
 出ていこうとするのは、三十代くらいの背広を着た男性。恐らく、ここの社員だろう。あたしはデジカメを構え、素早く撮って膝の上に下ろした。
「そうそう。そんな感じ」
 ぞんざいな口調で言いながら、加藤さんは煙草に火をつけた。
 この狭い車内で吸う気かよ。あたしはそう思ったが、勿論口にも表情にも出さない。
 だが加藤さんは紫煙を一回吐いた後、車から出た。
「ちょいと出てくるから、あとよろしく」
「え?」
「三十分ほどしたら戻るよ」
 そう言い捨てると、加藤さんはどこかに消えていく。
 トイレかな、と思ったが、そうでもないらしい。向こうにあるコンビニには入らなかった。
 まあ、あたしには関係のないことだ。そう結論づけて、あたしは仕事に戻る。
 もっとも、次の人はなかなか現れなかった。現れたのは十分ぐらい経った後。五十代くらいの背広を着た男の人が出てきた。とても疲れ果てた感じのする人で、見ていて大丈夫かなと思ったぐらいだ。
 その後は、待つほどもなく出てきた。どうやら終業時刻らしい。連続してあたしは人を撮り続けた。
 そうこうしているうちに、加藤さんが帰ってきて、どうだい、と聞いてきた。
「一応、撮り逃した人はいないつもりですけれど」
「何枚ぐらい?」
「全部で八枚ですね」
「そんなもんか」
 頷きながら、加藤さんがあたしに缶コーヒーを放った。自分の手にもブラックの缶コーヒーが握られている。
 あたしに放ったのは、ブラックではなく微糖のコーヒーだった。
「あ、ありがとうございます」
 全然喉は渇いていなかったけど、礼儀なので言っておく。
 この礼儀というやつを忘れると、他人は結構こちらに干渉してくるので、注意が必要だ。その代わり、これを忘れないと、他人はほとんど干渉してこない。便利なものだ。
「入っていった奴はいなかった?」
「いえ、まだ見かけてないですけど」
 撮した八人は、全て出ていく人だった。
 そうか、と加藤さんが、視線をビルの出入り口にやりながら意味深に呟く。真剣な表情だったが、内心は全くうかがえない。
 一瞬、こんな真面目な表情もできるのかと思ってしまった。
 あたしの知ってる加藤さんは、煙草を吸いながら、新聞を読んでいるか、外の景色を眺めているか、ぼーっとしているかの三種類しかない。仕事をしている顔というのを見たことがなかったから、新鮮な気がした。
 しかも、一メートルも離れていないそばで見たものだから、思わず観察してしまう。
 無精髭やぼさっとした髪は相変わらずだが、目鼻口の部品は悪いものではない。いや、良質の目鼻口だろう。人並みに整えてやれば、美形のお兄さんの誕生だ。
 しかし、加藤さんの真剣な表情はすぐに消えた。あたしの方に穏やかな視線を向ける。
「そろそろいい時間だ。帰ろうか」
 そう言いながら、車を発進させた。
 辺りは既に暗くなっていた。いつの間にか陽が落ちていたらしい。前方に連なるテールランプが妙に綺麗に見えた。
「腹減ったな」
 しばらくすると、加藤さんが口にする。
「岩沙君、これから何か用事あるか?」
「いえ」
「じゃ、何か食いに行こう。奢るよ」
 加藤さんはそう言うと、あたしの返事も待たずに、ちょうど横にあったファミリーレストランの駐車場に車を入れた。


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