第十三話 脱出の条件


 目隠しをとられると同時にあたしは突き飛ばされた。勢いのまま、あたしは床に倒れ込んだ。振り返り男を睨むと、男は唇の端を歪ませただけで何も言わず、重そうな扉を閉めた。
 ガチャリと乾いた音がした。鍵がかけられたのだろう。
 あたしたちが入れられた部屋は、六畳くらいの何もない部屋だ。本当に何もない部屋で、窓すらない。床も壁もコンクリートを打ちつけただけの極めてぞんざいな造りで、部屋というのもおこがましい気がする。もっとも、現状から言うと、部屋というよりは牢屋と言った方が正しいのかもしれない。それも地下牢だ。車の中から目隠しをされていたから、ここがどこかは判断がつかないけれど、車から降ろされた後、階段を下ろされたから、地下なんだと思う。階段を上った覚えもないし。
「捕まっちゃったわね」
 結城さんが短く息を吐きながらそう口にした。
 そうだ。結城さんも一緒に捕まったんだった。彼女は全然関係ないのに……。
「ごめんなさい、あたしのせいで」
 あたしは突き飛ばされた体勢のまま、結城さんに謝った。視線はとても合わせられない。
「何が?」
 結城さんが聞き返してくる。
 こんなことになったこと。あたしはそう床を見つめながら呟くように口にした。
 しばらくの沈黙の後、結城さんが聞き返してくる。
「……心当たりがあるの?」
 心当たりか……。そんな中途半端なものじゃないわ。あたしが原因そのものなのよ。あたしはそう自嘲した後、事の原因を語りだした。
 最初は、ぽつりぽつりと語っていた。何から話していいかわからなかったから。でも、だんだん言葉が次から次へと出てきた。今まで溜め込んでいたものがわき出てくるような感じ。自分では止めきれず、結局、家族に捨てられたことから全て結城さんに話していた。
「……だから、あたしのせいなの。ごめんなさい……」
 沈黙が流れた。
 そして。
「やっと、ね」
 そんな結城さんの声が耳に入ってきた。
「……え?」
 訳がわからず、あたしは思わず結城さんの方を向いた。
 結城さんは微笑を浮かべて、あたしを見つめていた。
「やっと、自分のこと、あたしに話してくれたわね」
「……え」
「岩沙さん、決して自分のこと言わなかったから。やっぱり誰にも心を開いてないのかなと思ってた」
「…………」
「あたしもそういう経験があるから。昔のあたしと同じだから。だから、あたしはあなたのことをわかると思ったし、わかりたいと思ったのよ。だから、友達になりたかった」
 結城さんは母親に捨てられているのだ。母親のことを「あの女」呼ばわりするほどに未だ不信感を持っており、親族は頼れないぐらい複雑な事情があるらしい。彼女もいろんな人には言えない思いを持って生きていたことは、想像に難くない。
「迷惑に思ってたでしょ、あたしのこと」
「……そんなこと」
 ないけど、と繋げようとしたけれど。
「隠さなくっていいわ」
 と、結城さんが笑った。相変わらず、見抜かれてる。
「でも、強引さが必要だと思ったのよ、あなたにはね。あたしもそうだったから」
 結城さんは、父親の前だけは素のままの自分でいられるそうだ。そうなる間に、やっぱり父親と何かあったのだろう。
「人は自分を完全に隠したままではいられないのよ。何人も、自分を知ってくれて自分を知らせられる人が必要なんだと思う。あたしたちの場合、それは一人か二人で十分なんだけど」
 ね、と結城さんがウインクした。
「そうね」
 あたしも微笑した。いや、してしまった。
 今更誰にも彼にも素直になんかなれないし、皆に自分を知られたいとも理解されたいとも思わない。そういう生き方はしてこなかったから。でもそんなあたしたちにも、やっぱりそんな人間は必要なのかもしれない。そして、それはたくさんでなくていい。特にあたしたちはそんな人間をたくさん作る術を知らないし、たくさん必要でもない。そういうことなんだろうと思う。
「岩沙みゆきさん」
 不意に結城さんが呼びかけてきた。
 何だと思って、あたしは思わず結城さんを見つめた。
 しばらく視線を絡ませた後、結城さんが口を開く。
「みゆきさん、でいいかしら?」
 改まった声でそう言って、結城さんは笑う。
「…………」
 少し驚いた後、あたしも思わず笑ってしまう。
「みゆきでいいわ、暁子さん」
「あたしも暁子でいいわ」
 そして、また笑う。
 まあ、こういうのもありなのかもしれない。なんとなくそう思ってしまい、あたしも笑っていた。
 久しぶりだな、こんな笑い方。
「こんな事でもなければ、まだみゆきの雪解けには遠かったけどね」
 ややあって、結城さん、――暁子さんがそう言った。
 そう言われて、あたしは現状を思い出す。
 そうだった。あたしたちは捕まっていて、暁子さん、――暁子はそれに巻き込まれているだけなのだ。
「ごめんね、関係ないのに」
「ああ、そのことなんだけど」
 暁子が、意味ありげな表情になる。
「あたしも少しは関係者なのよ」
「……え?」
「実は知ってたのよ、みゆきが狙われていること」
 どういうこと?
「加藤さんから聞いてね」
「えっ……」
 あたしは絶句する。
「少し前に、みゆきをつけてる加藤さんを発見したのよ。で、何してるのか問いただしたら、みゆきが狙われてるってことを言ってくれたの。加藤さん、そんなに詳しくは言わなかったけどね。それで、あたしに何かできることはありますかって聞いたら、まだ人目のつく間は襲われないだろうから、あまり一人にはしないでやってくれって言われたのよ。じゃあ、登校も一緒にしますって言ったの」
「……それで、急に一緒に登校しようって言ってきたの」
「きっかけにすぎないけどね。もともとそうしようというのは思ってたから」
 暁子が肩をすくめて見せた。
「でも、今から考えてみると、あたしが加藤さんを見つけたと言うより、わざと見つかったかもしれないわね。あたしにそう言わせるために」
「え?」
「だって、それならつけたりしないで加藤さん自身がみゆきのそばにいればいいんじゃないですかって言ったら、あの人、あの子をこれ以上孤立させるようなことはしたくなくてねって、微笑したのよ」
 もし、加藤さんがずっとあたしのそばにいてガードをしていると、やっぱり奇異の目であたしは見られただろう。もしかしたら、あたしが学校を休んで自分の部屋にこもろうと提案したときに却下されたのも、そういう理由だったのかもしれない。
 これ以上孤立って。あの人、何でそんなことまで気を使ったのだろう。あの人には関係がないじゃない。そんなことに気を使わなければ、殺されたりしなかったかもしれないのに……。
 考えてみれば。
 加藤さんは、人目がある間は大丈夫だと言っていた。まだその段階ではないと。でも、あたしたちがさらわれたのは白昼人目がある中でだった。それは、その段階がきたのだからだろう。その段階とは、多分、加藤さんの排除が完了したからだ。
 加藤さんがあたしを守っている間、あたしは無事だった。だから、襲撃者はまず加藤さんを狙ったのだ。あの怪我はそういうことなのだ。加藤さんがいなければ、あたしはただの女子高生にすぎないから、白昼堂々狙われても抵抗の術がなくて、周囲に知られることもない。そういうことなのだろう。現実にそうだったのだから。
 あたしなんかのために。
 馬鹿な人だ。
 ……バカ。
「みゆき」
 心配そうな声で暁子が声をかけてくる。少し、沈んだ顔をしていたらしい。
「加藤さん、まだ死んだとは限らないから。大丈夫よ」
「ありがと」
 あたしは微笑を顔に貼りつけた。
 暁子の言葉が気休めなのはわかっていた。ブレザーを真っ赤に染めるほどの出血を加藤さんはしているのだ。その状態で監禁されていると。襲撃者が加藤さんを治療してくれるとはとても思えない以上、加藤さんはそのままということである。そして、そのままの状態で生きていけないことぐらいは、あたしにも容易に想像がつく。
 でも、これ以上暁子に心配をかけさせるわけにはいかない。そのために、心中を隠すのは、悪いことではないはずだ。強がるのも、時には必要だと思った。
「あたしは大丈夫よ。そんなに弱くはないわ」
「そうね」
 暁子が頷く。多分、暁子はあたしの心中を見抜いている。けれど、彼女は何も言わなかった。
「それで、結局あたしたちをさらってどうしたいんだろう?」
 暁子が話題を変えた。
「島村さんっていう人が、篠田の不正に関する証拠を握っているらしいから、あたしを人質にとってそれを奪おうと考えている。――っていうのが、素直な推測になると思うけど」
「島村さんっていうのがみゆきのお父さんね」
「今更、そんな感覚はないけどね」
 あたしは肩をすくめた。
 結城さんが、顎に指を当てながら思案顔になる。
「人質って、相手に知らせなくちゃ意味がないと思う。あいつらは、もう島村さんに知らせたのかしら」
 わからない、とあたしは首を横に振った。
「あいつらは、島村さんたちの居場所がわからないから、あたしを狙ったらしいの。あたしから島村さんにたどり着こうということだと思う。多分、あいつらはあたしと家族の断絶を知らないんじゃないかな」
「娘なら、普通は知っていると思うわね」
「実際に知ってるんだけどね。でも知ったのはごく最近で、それも加藤さんから教えられただけだから。狙われてることを知らなければ、ずっと知らないままだったはず。血縁関係だから、というわけじゃない」
「じゃあ、みゆきに聞きに来てもいいはずなのにね」
 暁子が扉の方に視線をやる。ここに入れられてから、そのドアはまだ開いていない。
「単純にまだ聞きに来てないだけなのか、それとも、みゆきの家に連絡をしたのか」
「あたしの家ったって、あたし一人しか住んでなかったし、誰もいないわよ」
「一条さんは?」
「アメリカ。一回も会ったことがない」
「それもすごいわね。――じゃあ、事務所に知らせても無駄なわけか。でも、あいつらはそのことを知っているのかしら?」
「わからない。探偵を雇って、あたしの周辺を調べてはいたみたいだけど……」
 そんな風なことを加藤さんが言っていた。多分、嘘じゃないだろう。
「もし、どういう手段かわからないけれど、島村さんに連絡がいったとして、島村さんは来ると思う?」
 不意に暁子が尋ねた。
 あたしは、暁子に視線を返す。
 考えるまでもない。
「来ないわよ」
 あたしは肩をすくめて見せた。これは推測ではなくて、確信だ。
 島村さんがここに来たら、命がなくなることはわかるはず。それがわかっていて来るとは、とても思えない。命惜しさに、とは言わない。島村さんには家族があって、彼の死はそのまま家族の不幸に繋がるから。六年前、自分と家族を不幸にあわせたくないために家族を連れて逃げたのだから、今回もそうするだろう。ここに出てこなければ、島村さん一家は見つからない。単純明快な結論だ。それに関して、あたしは何ら思うところはなかった。
 そう、と暁子が答える。
「なら、あたしたちは、あたしたちだけでこの状況を何とかしなくちゃいけないわけね」
「できるかしら?」
「できる限りのことはやっておかないと。このまま無事に解放されるとは思えないから」
 暁子が立ち上がる。
 彼女の言わんとすることは、なんとなくわかった。
 あたしは、島村さんが誰かに狙われていることを知っている。そのために、自分が人質になってしまっている。少なくとも、あいつらの認識ではそうだろう。それを、事が終わった後にどこかに話されでもしたら、あいつらにとっては困ることになるだろう。もみ消せるにしても、そのような余計な手間はあまりとりたくないに違いない。そうなら、あたしたちの口も封じるのが手っ取り早いはず。それは殺すことかもしれないし、何らかの形で脅しをかけることかもしれない。どちらにしろ、あたしたちにとっては、歓迎できる未来ではない。
 そうね、と答えながら、あたしも立ち上がった。
 とりあえず、閉じこめられた部屋を二人して見回してみる。
 飾り気どころか最低限の物すらない。あるのは電灯と空気ぐらいか。部屋というよりは、空間と言った方が正しい気もする。
 暁子といたからそんなには気にならなかったけど、多分、ここに一人で閉じこめられたら、遠からず気が狂うかも知れない。改めて見ると、そんな風に思えるくらい冷たい感じのする場所だった。
「秘密の出入り口があるようには思えないわね」
 暁子が、壁をこんこんと叩きながら言った。
「だとするならば、やっぱり出るのはそのドアからということになるけれど」
 あたしは、この空間と向こうの空間を遮っている重そうなドアに視線をやった。
 試しにドアノブを捻ってみるが、当然動かない。
「誰かが入ってきた時しかチャンスはなさそうね」
 そう暁子が軽く溜息をついた。
「いずれ入ってくるでしょうけどね」
 入ってくる気がないのなら、人質として生かしておく意味はない。
「むしろ問題なのは、入ってきた時どうするかでしょうね」
 あたしは、暁子に視線を送る。
 暁子が肩をすくめた。
「入ってきたところをぶん殴って気絶させる、――ようなことが可能と思う?」
「無理でしょうね」
 あたしは首を横に振る。
「殴って気絶させられるくらいの腕力ってないと思うし。それに、入ってくるのが一人とは限らない」
 せめて鞄でもあれば、何とかなるかもしれないけど、鞄は当然の事ながらあいつらに奪われている。
「そうね」
 暁子が頷いた。
「他に何か方法がある?」
「色仕掛けとかやってみる?」
「自信あるの?」
「みゆきがやれば効果はあると思うけど」
「暁子の方が現実的だと思うけど」
「…………」
「…………」
「ま、無理でしょうね。例え仕掛けて喰いついてきたとしても、いつ引いたらいいのかわからないわ。どうやって引いていいものかもわからないし」
 暁子が肩をすくめた。
 全く同感だ。いいように餌だけ喰われて終わる気がする。現実的ではない。
「結局、ここでは何も出来そうもないか」
 あたしは呟いた。
「しょうがないわよ。身一つなんだから。今はチャンスを待ちましょう」
「そうね。とにかく、事態がもう一つ動いてくれなきゃどうしようもないわね」
 少なくとも、ここにいる間はどうしようもない。あたしたちは、再びその場に腰を下ろした。
 だが事態が動いたのは、それからすぐのことだった。
 かちゃり、とくぐもった音がしたかと思うと、ドアが開いたのだ。
 入ってきたのは、男が三人。どれも腕っ節が強そうで、誰に飛びかかっても一蹴されそうだ。
「待たせたな、お嬢さんがた」
 あたしたちを連れてきた野郎がそう言って、笑みを浮かべた。それと同時に他の二人が動いて、あっという間にあたしたちを後ろ手に括りあげた。
 くそっ。抵抗する間もない。忌々しく思いながら、あたしは男を睨むがすぐにその視界も暗くなる。連れてこられた時と同じように、また目隠しされたのだ。
 前と同様の処遇に、またどこかへ連れて行かれることをあたしは悟った。実際に、またあたしたちは車に乗せられた。
 連れ出されて車に乗る間の外気で、外がもう暗くなっていることが推測できた。案外長時間閉じこめられてたようだ。
 車に乗せられた時間はそう長くない。時計を見られないから正確な時間はわからないけれど、十分くらいのように思う。
 突き飛ばされるように車から出され、またどこかの建物らしきところに入れられた。
 今度はすぐに向こうから声がする。
「へへ、こいつはまたえれえ上玉を連れてきたなあ」
 いやらしい声。胸奥から嫌悪感があふれ出してきた。
「用意は出来てるか?」
 あたしのそばから男の声がする。
「勿論だとも、いつでもオッケーだ」
「そうか」
 男がそう答えると同時に、目隠しがとられた。取られるときに髪も少し引っ張られ、痛かった。もっと丁寧にとりやがれっていうんだ。
 目隠しが取られても、すぐには目が開かなかった。眩しかったからだ。目が闇に慣れていたというのもあるけど、この部屋の照明自体が普通より明るくされているようだ。
 ここは……?
 咄嗟に周囲を見回して、愕然とする。
 白い部屋。周りには撮影用の照明器具が並び、その中に撮影器具が混じっている。
 ちょっと……。
「へへへ、こいつは高く売れるぜえ」
 中にいた男が、こちらにいやらしい視線をやりながら言った。小太りで、禿げている。声も嫌だったが、見た目は更に嫌だ。
「想像以上にすげえや。役得だな。まったく篠田様々だ」
「鏑木!」
 篠田の名前を出した途端、男がじろりと睨んだ。
 だが鏑木と呼ばれた小太りのハゲは、全く意に介さなかった。
「かまいやしねえよ。どうせこいつら、用が済んだ後、斑目んところに売るんだろ? それとも何か、戸間。 ウチで飼うのか? どっちにしろ、薬漬けになってりゃ、まともな意識は残ってねえさ」
 そう言って笑う。
「事が全て終わってからだ」
 戸間と呼ばれた男が、苛立たしげに答える。
「事が済むまで、どう転ぶかわからん」
「戸間サンは、心配性だな」
 鏑木が揶揄するように言う
「お前らのような奴と組まされてるからな」
 苛立たしげなまま、戸間が言い返した。
「何度、ハエを追っ払うのに失敗したと思っているんだ。その後始末を誰がつけたか心得ておけよ」
「なんだとっ!」
「いきがるなよ、鏑木。お前と仁木が、最初にちゃんと岩沙の娘をさらえていたら、もっと楽に進んだはずなんだ。たかだかガキ一人さらうのを失敗した奴と組まされたら、慎重にもなる」
「くっ、……あれは、あのハエがあんなにやるとは思わなかったからだ……」
「ハエだと思っていたら、ハチだったか? それなら、それの対処方法がある。お前は、それも出来なかったんだ」
「うっ……」
「お前は隠しているつもりだろうが、あのハエを追っ払い損ねた回数を俺は知っているぞ。七度だ。お前たちは七度仕掛けて、七度失敗してるんだ」
 この無能が。そう戸間が切って捨てた。
 くそっ、と鏑木が憤激するが、何も答えられない。事実なのだろう。
 しかし、最初に襲われてから、あたしは更に七回も襲われていたんだ……。何度目から、対象があたしから加藤さんに変わったかはわからないけど、そんなに襲われていたなら、あれだけの怪我もするだろう。あたしなんか守らなきゃよかったのに……。
「今度は失敗したくないなら、黙って俺に従ってろ」
「……ちっ」
 鏑木は舌打ちするが、わかったよ、と頷いた。
 それを見て、ふん、と馬鹿にしたような息を鼻から吐いた戸間は、自分の腕時計を見た。
「そろそろだな」
「岩沙の野郎、来ますかね?」
 暁子のそばにいた男が戸間に聞く。
「来なけりゃ、撮影を開始する。それのテープでも送れば、すっ飛んでくるだろ」
「なるほどね。でも、何で今やっちゃわねえんです?」
「岩沙に暴走されないためだ。玉砕覚悟でサツか野党に飛び込まれたら、もみ消せるにせよ後が厄介だからな。こっちの要求を一度無視した後なら、その報復だと向こうで勝手に理解して、無視したことを後悔する方が先に立つ。玉砕なんかは思いたたん」
 なるほどね、と男が感心した風に頷き、ひゃっひゃっひゃっと笑う。
「じゃあ、一度目は来ない方を祈りますか。その方がおいしいや」
 下卑た笑みと下卑た視線を、あたしたちは一身に浴びた。
 誰がこいつらの思い通りになるものか。もしもの時は舌を噛んで死んでやる。それくらいの覚悟は、六年前から出来ている。
 ただし、気がかりが二つある。暁子と加藤さんのことだ。
 二人には本当に申し訳ないと思う。暁子には、出来ることなら無事に助かって欲しいし、加藤さんには、何とか生きていて欲しい。
 そこまで考えて、こんな時だというのにあたしは心中で苦笑した。だって、このあたしが、他人のことを気にかけてるのよ。こんなこと、今まででは考えられなかった。
 むしろ、こんな時だからか……。そうあたしは気づく。
 あんまり、悪くない。
 少しして。
「祈りは通じなかったみたいだな」
 戸間が、視線を扉の方に向ける。
 それと同時に、車の音が聞こえてきた。
 まさか……。
 やがて、ドアが開いて一人の男性が入ってきた。
 その人は、間違いなく島村譲さんだった。
「なんで……」
 あたしはかすれた声で呟いていた。
 何で、この人が来たのかわからない。この人は来る必要がない。だって来たら、この人の命とこの人の家族の命が危ないのだ。
 どうして? どうして?
 どうして、……今になって……。
 あたしは混乱した頭で、島村さんに視線をやった。
 見るからに青ざめた顔。伸ばしている姿勢は明らかに虚勢だ。その証拠に手に持っている鞄が小刻みに震えている。
 そんな島村さんと、あたしの視線があう。
「……みゆき」
 島村さんがそう言った。
 聞き覚えのある声。聞き覚えのある呼ばれ方。
 だけど、あたしは何も答えられない。まだ、頭が混乱していたのだ。
 島村さんは、やがて視線をあたしから外し、戸間の方を見た。
「む、娘たちは無事なんだろうな?」
 震える声で、島村さんが問う。
「もう少し遅ければ、撮影を始めるところだったがな」
 戸間が薄く笑う。
「撮影?」
「ただマワすだけじゃ芸がないだろう?」
「そ、そんなことはやめろ!」
「なら、こちらの言うことを素直に聞けばいい」
「わ、わかっている」
 島村さんが、持っていた鞄からファイルを一冊取り出した。
 古びたファイルだった。表に題字が書いてあるが、ここからでは読みとれない。
「これだ」
 島村さんが、そのファイルを差し出した。
 それを戸間が受け取り、パラパラとめくる。
「これだけか?」
「ああ、そうだ」
「このことを知っているのは?」
「私だけじゃない。私が帰らなければ、これのコピーをマスコミにばらまくように言ってある」
「用意がいいことだな」
「じゃあ、娘たちを返してもらおうか」
「どうぞ」
 戸間が、あたしたちの方に顎をしゃくった。すぐに、あたしたちは後ろから押されて、島村さんの方に突き飛ばされる。
「みゆき!」
 慌てて島村さんが駆け寄ってくる。そのまま抱きしめられた。
「みゆき! もう放さない」
 呟くように島村さんは言って、あたしを抱く腕に力を込めた。
「どうして、ここに?」
 されるがままの体勢で、あたしは問うた。身体が少し折れていて、あたしの視線は天井に向いている。
「お前が友人と捕まっていると連絡を受けて」
 答えになっていない。
 あたしが聞きたいのは、ここに来る理由のない人がここに来た理由だ。
 それを言おうとしたとき、横から暁子の声が聞こえた。
「再会中に悪いけれど、気をつけた方がいいわ」
 それで、あたしも思い出す。
 こいつらは、あたしたちを無事に解放するつもりは最初からないのだ。
 戸間の声が聞こえてくる。
「――ああ、住所はそこだ。さっさと三人を拉致って始末しろ」
「なっ?」
 島村さんが顔を上げて、戸間の方を見た。
 戸間は携帯電話に話していたが、島村さんの愕然とした表情に気がつくと、嫌味そうな笑みを顔に張り付けた。
 島村さんは、三人が誰なのかすぐにわかったようだ。
「か、家族には手を出すな!」
「人の心配をしている場合ではないんじゃないか?」
 くっくっくっと笑いながら、戸間が携帯電話を切る。それと同時に、奴の近くにいた鏑木やら他の連中やらが、拳銃を向けてきた。
 モデルガン……なわけはないよね、あれ。
「み、みゆきたちには手を出すな! む、娘たちは何も知らないんだ」
 島村さんが、あたしたちをかばうように前に出る。
 何してるんだろう、この人。そんなことしたら、弾がほとんど当たっちゃうじゃないか。
「あいにくと、既にテープ購入の予約が入っていてな。我々は客のニーズに応えるのがモットーなんだよ」
 戸間がにやりと笑う。
 その時。
 戸間の携帯電話が鳴り響く。
「何だ、仁木? ――何? 逃げただと? どういうことだ!」
 突然怒鳴りだした戸間を、あたしたちも奴らも戸惑った視線で見ていた。
「なんだと! それじゃあ、もう半日たっているぞ。それまで何していた? 言い訳は聞きたくない!」
 一体、何があったんだろう。
 そう思っていると、不意に視界が真っ暗になる。なんだと思っていると、頭を強い力で押された。叫ぶ間もなく、地面に伏せさせられた。
 状況を認識する間もなく、乾いた音が何度も鳴り響いた。それが銃声だと悟ったのは、それから数秒後だった。
「やめろ! 撃つな! 電気をつけろ!」
 戸間の声が響く。
 頭を押さえる力がなくなった。と思ったら、すぐ隣から地面を蹴る音が聞こえた。
 え?
「ぐわっ!」
 何?
「どうした!」
 えっ?
「うおっ!」
 ええ?
「何があった!」
 戸間の怒号と同時に、電気が再びついた。
 慌てて頭をあけで、周囲を見回す。
 あっ……。
 あたしの横には、同じように伏せている暁子と島村さんがいる。そして、向こう側には、倒れてのびている二人の男。立っている男は三人いて、一人は鏑木で非常用電気のスイッチのそばに立っていた。あいつが電気を再びつけたのだろう。
 そして。
 戸間が顔面蒼白になりながら、両手を挙げていた。
 何故なら、その背後にたつ男が戸間の後頭部に拳銃を突きつけていたからだ。
「こんな物騒なもんは、あんまり人に向けちゃあいけないな」
 その人は、そういいながら、あたしにあいている手で会釈する。あいている手といっても、そこには棒みたいなのが握られていたのだけれど。確か、トンファーとか言うんじゃなかったか、あれ。
「やあ、岩沙君。遅くなったな」
「か、加藤さん!」
 あたしは、その人の名前を呼ぶ。
「結城君もすまないね、こんな目に遭わせてしまって」
「いえ、構わないですよ」
 暁子が立ち上がった。続けてあたしと島村さんも立ち上がる。
「どうして、お前、あの傷で生きている?」
 戸間が震える声で聞く。
 加藤さんの答えは素っ気ない。
「それは、企業秘密だな」
 そして、加藤さんがあたしたちに視線を向けた。
「早く行け」
「え、でも……」
 逡巡するあたしを暁子と島村さんが促す。
「今は、早くここを出ないと」
「そうね」
 暁子に頷いて、あたしたちは踵を返した。
「待て!」
 鏑木が叫ぶ。
「おい、動くな」
 加藤さんが、鏑木に見せつけるように、拳銃で戸間の頭を小突く。
 しかし、鏑木は全く動揺しないどころか、むしろ嬉々として笑い出した。
「撃ちたきゃ、撃てよ。怪我人にしてやられるような無能者には、そんな死に様がお似合いだ」
「か、鏑木ぃぃぃ……!」
 戸間が悔しそうに、歯をかみしめた。
「俺が岩沙を消すさ。その功績で、一気に成り上がってやるわ!」
「鏑木ぃぃぃ!」
「ひゃっひゃっひゃっひゃっ!」
 狂気の入り交じった声で鏑木が笑った。
「ちっ!」
 加藤さんが舌打ちをして、即座に戸間からこっちの方に飛び込んできた。
 ……へ?
 その直後、乾いた音が二発。
「……がっ!」
 え?
 戸間が倒れていた。床に血が流れている。一発目が当たったらしい。
 二発目を食らうはずだった加藤さんは、あたしのそばに来て片膝をつき、あたしの肩に手を置いた。どさっと懐から何か落ちる。それに加藤さんは気づかないようだ。
 肩にかかる手が、妙に重い。
「今ので傷口が開いたみたいだ」
 呟くように加藤さんが言った。
「え?」
 加藤さんの顔は汗ばんでいて、ブレザーからのぞく腹部には赤い染みが出来ていた。
「か、加藤さん……」
「ちょっとまずった。速く逃げろ」
 肩に掛かる手が、あたしを前方に押しやる。
「ちょ、ちょっと、加藤さん!」
「逃がすか!」
 鏑木が叫んだ。
 そちらに視線をやると、視界に飛び込んできたのは銃口だった。こっちを向いている。狙っているのは、あたし。
 撃たれる!
 あたしがそう思った瞬間、あたしと銃口を遮断するようにあたしを抱え込んだ人がいる。
「……え?」
 それが島村さんだと認識した次の瞬間、銃声と鏑木の悲鳴が響いた。
 え?
 何が一体、どうなったの?
 あたしと同じで状況がわからない島村さんが、腕の力を抜くのにあわせてあたしは彼から離れ、状況を確認する。
 向こうでは、鏑木が手を押さえてうめいている。拳銃は握っていない。その近くにはトンファーが落ちていた。
 どうやら、加藤さんが撃たれる前に、持っていたトンファーを鏑木に投げつけたらしい。「今のうちに脱出を」
 呆然としているあたしたちに、加藤さんが声をかける。その後、加藤さんは携帯電話を取り出し、何事か話している。
「加藤さんは?」
「今行く」
 携帯電話を切りながら立ち上がり、加藤さんはまだうめいている鏑木のそばに歩み寄った。トンファーを拾い、容赦なく首筋に一撃を食らわす。悲鳴を上げて、鏑木は倒れて動かなくなった。
「警察を呼んでもらったから、もうすぐ来るはずだ。ややこしくなる前にここから逃げよう」
 加藤さんが促す。
 あたしたちはそれに従った。出る前に、あたしは加藤さんが落としたものを拾っておいた。
 全員で加藤さんの車に乗り込む。
 助手席に座ったあたしは、加藤さんの顔色をうかがった。息が荒いのは、今の騒動のせいだけではないだろう。
「大丈夫ですか?」
「……大丈夫じゃないな」
 加藤さんがあたしの方を見て微苦笑する。顔色が青ざめている。
「運転、変わります」
 島村さんが言う。
「頼みます」
 加藤さんが頷いて、二人は席を替わった。
「先に病院へ行きます」
「いや、事務所ビルにやって下さい」
「し、しかしその怪我では――」
「お願いします」
「……わかりました」
 頷いて島村さんは、車を出した。


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