最終話 家族の条件
目の前にはベッドがあって、加藤さんが横になっていた。
ここは、事務所ビルの地下である。何故、加藤さんが病院ではなく、事務所ビルを指定したのかというと、ここに医療設備があるからだった。そして、これを使って加藤さんを治療したのは、なんと『珈琲荘』のマスターだった。 『珈琲荘』は事務所のビル一階にある喫茶店で、そこから、地下診療所へと続いていたのだ。そこで、マスターから色々話を聞いた。 マスターが昔は医者だったこと。今は、加藤さんのようなワケありの人間をたまに診ているということ。今回の加藤さんの治療もマスターがしていたこと。加藤さんの連絡で、警察を呼んだのマスターであることなどだ。 「マスターにも色々迷惑をかけたということですね」 あたしが、そう口にした。 「まあ、それは結果論で、俺の依頼という形だから、岩沙君がそんなに気にすることはないよ」 寝ころんだままの加藤さんが気楽な調子で答えた。マスターは既に一階の店におり、閉店準備に入っているはずだ。暁子と島村さんは、既に帰宅していた。 加藤さんの腹部と腕のほとんどの部分は包帯に覆われており、この人が今回の事件でどれだけの被害を被ったかを示していた。見るからに、痛々しい。激痛が走っていることは疑いようがないのだけれど、この人はそんな素振りは全く見せない。どうしてなんだろうと思う。 だいたいあの時だって、本来なら激痛であんな動きが出来るはずがないのだ。それなのに、どうしてあんなことをしたのだろう。 「……加藤さんは、どうしてあそこに来たんです?」 そんな傷を負って、たかだか同じ職場のアルバイトっていうだけのあたしのために。 「監禁されてすぐに、まあ脱出できたわけだよ。監視もつけずに一人にしておいてくれたんで、逃げやすかったんだ」 違う。そんな事じゃなくて。 でも、加藤さんは気づかずに話を続ける。 「まあ、瀕死のふりしてたから、向こうも油断したんだろうな。その後、そいつを逆に監禁して、ここに直行したわけさ。でないと死ぬから」 そして笑う。 いや、笑い事じゃないって。 「んで、島村さんの後をつけた」 「そういえば、どうやって島村さんの所に連絡がいったんですか?」 向こうは島村さんが何処にいるかわからなかったはず。だから、あたしをさらったのだから。 「島村優君は知っているね」 「……名前だけは」 あたしの返答に、加藤さんが苦笑する。だけど、それについては何も言わなかった。 「彼が、岩沙君たちがさらわれたのを見てた」 「……そうですか」 ストーカー野郎があたしをストーカーしてたら、あたし(と暁子)がさらわれたわけか。どうにも笑えない第一発見者だ。 「彼が前からつけていたのは、岩沙君も気がついていただろう?」 「まあ」 「彼も大きくなって、何故姉がいなくなったのかわかる年頃になっていたんだろうな。それで、近くにいた姉をつけてしまった。そういうことなんだろう。あんまり、悪く思ってやらない方がいいと思うよ」 「……そうですね」 「実際、彼が岩沙君をつけていなければ、俺だってあんなにすぐに君たちを発見できたかどうかはわからん」 加藤さんが微苦笑した。 確かに、そうだろう。ストーカー野郎があたしをつけてなくちゃ、あたしたちがさらわれたという状況を誰も知らなかったわけだから。 でも、そこでストーカー野郎がそれを知ったことと、島村さんが来たこととは上手には繋がらない。だって、ストーカー野郎はあたしたちがさらわれたことは知っていても、どこにさらわれたかがわからないから。 ああ、もしかしたら――。 「加藤さんと島村さんは、既に知り合いなんですか?」 「知り合いってほどではないがね」 そう加藤さんが、肯定する。 「これは全くの偶然だけれども、少し前に島村氏から、行方不明中の娘が現在どこにいるかの調査依頼を受けた」 行方不明中か。笑える冗談だ。 「君がうちに来て、半年くらいたった頃かな。それが君だとわかったときに、岩沙家が巻き込まれている事の全容が判明したよ」 一条さんはもともとあたしを詮索する輩がいるっていうことで、あたしの身辺調査を加藤さんに指示したのだそうだ。多分、それの途中で島村さんのそういう依頼があって、加藤さんが調べていた話が彼の中で全て綺麗に繋がったんだと思う。今回、加藤さんが全ての事柄を把握していたのは、そういう訳なのかもしれない。 「つまりあの時は、ストーカ……島村優君が、あたしたちがさらわれたのを見て、加藤さんに連絡したわけですか」 そんなわけないだろ、と加藤さんが苦笑する。そして、自分の腹の傷を指さした。 「俺はこれで監禁されてたんだから」 「あ、そうですね」 「岩沙君たちがさらわれたのを見た優君は、島村さんに連絡したわけさ。それで、島村さんは事の真偽を確かめにうちの事務所に来たわけだ。といっても誰もいない。仕方なく諦めて帰ろうとしたときに、ちょうど事務所の電話が鳴ったわけだ。それが、君たちをさらったぞという連絡だったわけさ」 「そんな偶然あるんですか?」 「偶然というより、確率の問題だろうな。電話の履歴をまだ見てないからなんとも言えないが、多分、何度か事務所に連絡が来ているはずだよ。そのうちの一回だろう。向こうさんとしては、こちらと連絡を取らなきゃならないわけだから、いなけれゃ、何度でもかけてきたさ」 そういうものなのだろうか。当事者とはいえ、その辺の所はよくわからない。 「で、困ったことに、俺が監禁先から逃げ出して島村さんに接触をとろうとした時には、既に行ってしまった後だったりしたわけだ。それで奥さんに事情を聞いて、慌ててそっちへ向かったというわけさ」 それが、君がいない間にとった行動。そう付け加える。 「そうなんですか」 あたしとしては、頷くほかない。 「まあ、終わったことだし、あんまり気にすることはないよ」 考え込もうとしたあたしに、加藤さんが呑気な声をかけてくる。 「終わたって……。本当に終わったんですか?」 「終わったよ。正直に言うと、終わらす。少なくとも、もう君や島村さん一家が狙われる心配はないよ」 「どうして、そんなことがわかるんですか?」 「まあ、警察を介入させちゃったからね」 加藤さんが肩をすくめた。横になっているのに器用な人だ。 「前は揉み消されると言ってましたけど」 「そう。だから、あの騒ぎはあの組織内の内部抗争として片づけられると思う。ただし、拳銃を使用していたし、それによる怪我人もいる。あやしげな撮影器具もある。当然何人もしょっ引かれるだろうし、組織としての力も落ちる。その上、今後もあの組織を警察はマークするだろ。そうなると、表沙汰に出来ない仕事を請け負っていたあの組織は、しばらく動けないわけさ」 「はあ」 「それで、やっと島村さんが握っている情報を生かす機会が出るわけだ」 「ああ」 なんとなくわかった気がする。右翼団体を動けなくしてから、情報を野党なりマスコミなりに流すということか。 「相手陣営やマスコミはもみ消し作業がしづらい。ほぼ確実に、篠田は破滅する。島村さんの居場所が知られる可能性はあるが、右翼団体は動けない。その上、ファイルには右翼団体の名前もあるから、更なる警察の介入を招く。それで恐らく解体される。そういうシナリオだ」 「そんな風に上手くいくでしょうか?」 「多少の紆余曲折はあると思うがね。まあ、それで上手くいかなければ、もう俺の手に余るな。どちらにしろ、明日からのニュースを注視する事だ」 「そうですね」 「そんな心配しなさんな。篠田は確実に破滅する。そうしたら、他の連中が君や島村さんを狙う理由は薄れるから、大丈夫だよ」 加藤さんがそういいながら手を伸ばして、あたしの肩をぽんぽんと叩いた。 今までの言葉よりも、それで少し安心できた。 「そう、ですね」 「まあ、そんなことよりも、今後の事を考える方がいいな」 「今後、ですか?」 「島村さんのことだ。実際、さっきも島村さんの家へ誘われたんだろう?」 「……ええ、まあ……」 ここで加藤さんの応急処置が終わった後、島村さんに家へ来て欲しいと強く言われていたのだ。あたしは、加藤さんを看ていたいからまだここにいると言って、それを断っていた。島村さんはそれなら自分も残ると言ったのだが、彼には帰りを待っている家族がいるのだから、ほとんど無理矢理帰そうとした。それでも帰らないから、仕方なく、明日うかがうと言ってやって、やっと帰っていったのだ。 「……あたしは、……どうしたらいいんでしょう?」 ほとんど不意に現れた父親や家族の存在に、あたしはかなり戸惑っていた。今までは事件があったからそっちにも気を取られていたけれど、事件の部分がすっぽりと抜け落ちた今、家族の問題に直面せざるを得なかった。 「家族の元に行くべきだろうな。もう君たち親子が離れる理由がなくなった」 はっきり言うのね。 「…………」 理由があったから、離れてたのかな……。 「何にせよ、もう遅い。今日はもう帰りな。マスターが送ってくれる」 「そう……ですね」 あたしが頷くと同時に、マスターが階段から下りてきた。 「みゆきちゃん、そろそろ送ろうか?」 マスターの言葉に頷いて、あたしは椅子から立ち上がった。 「じゃあ、また明日来ます」 「ああ、こっちには来なくていいよ。そのままあっちに向かいな」 「そう、ですか。それでは」 あたしは加藤さんに頭を下げ、マスターの後に続いた。 なんだか、胸が痛い。 部家に帰ってすぐ、あたしはベッドに倒れ込んだ。 制服のままとか汚れているとか全く気にならなかった。いろんな事がありすぎて、心も身体も全てを整理できてない。 うつぶせになって顔を枕に押しつける。視界は真っ暗なはずなのに、なんだか変な場面が見えるのは何故だろう。どうして、銃口を向けられたとき、あたしを庇うように抱きしめてくれた島村さんの姿が映るのだろう。 「……そうだ。メール……」 日課である一条さんへのメール送信を思い出した。事件が終わった今は、特にお礼を込めて送らないといけないだろう。あたしは、のろのろと身体を転がして立ち上がろうとした。その時、右の腰辺りに固い感触を感じる。そういえば、あの時加藤さんが落とした物をポケットに入れておいたのだ。 取り出してみるとパスケースのようで、取り出し方が悪かったのか、開いた状態で出てきた。 免許証だ。 なんとなく、見入ってしまう。 加藤一郎。 初めて知ったな、加藤さんの下の名前。すっごいありきたりな感じの名前だ。あたしは微笑する。何故だか色々凝視してしまう。 「……ん?」 改めて名前の所を見たとき、名前欄の最後の部分に薄い線があるのが見えた。光の具合かなとも思ったけど、注視すると確かにあった。 思わず、あたしはパスケースから免許証を取り出していた。そして、名前欄の線の所を指でなぞってみる。 …………。 あ。 微かに感じる凹凸。 何か貼ってあるのだ。あたしは、それを爪で丁寧に剥がしていった。 そうすると『加藤一郎』という部分が剥がれていく。そして、下には違う名前が記されていた。 一条浩。 そう書いてある。 「そういうことか」 あたしは呟いて、シールを丁寧に貼り直した。 どうやら、メールは送る必要がないらしい。多分どこかで転送されて加藤さんの所に行っているのだろう。 それでも。 あたしはパソコンに向かい、一条さん宛にメールを送ったのだった。 朝。 疲れてたせいもあるのだろう。起きるのがいつもより、二時間も遅かった。 深く眠れないのは前からなのだけど、寝過ごしたのは初めてかもしれない。 少し反省しながら、あたしは着替えた。 今日は島村さんの家へ行かなくてはならない。 あたしは、机の上に置いてあるバッグに視線をやった。 少し前、今回の事件のことを知らされた時にまとめてあった自分の荷物だ。あたしの全ての持ち物がこの中に入っている。 これから、一体どうなるんだろう。事件の時より自分の未来が見えないのは、ある意味で不思議だ。 少し自分の思案に入っていると、チャイムが鳴った。出ると、島村さんだった。約束では、あたしが昼過ぎに向かうはずなのだけど。 「ごめん、みゆき。待ちきれなくて」 車中で島村さんが苦笑する。 「はあ」 「母さんも、優も首を長くして待っているから」 島村さんは、ちょっとした興奮状態だった。 すぐに島村家に着いた。のろのろと車から降りた途端、玄関先から飛び出してきたおばさんに抱きつかれた。 「みゆき!」 そう叫び、ごめんねごめんね、と何度も涙声で繰り返しながら、おばさんはあたしを抱きしめる腕に力を込めていった。いきなり抱きつかれたあたしは、されるがままに立っている。 ……苦しいな。 やっと解放してくれたと思ったら。 「もう放さないからね。これからずっと一緒だからね」 そう涙で顔をくしゃくしゃにしながら言って、またあたしを抱きしめた。 この人、細い身体だな。 「とにかく中に入ろう」 横で見ていた島村さんがそう促す。 解放されたあたしは、やっとそこにストーカー野郎とその妹も外に出てきているのを認識できた。 「お帰りなさい、姉さん」 ストーカー野郎がそう笑顔を見せる。改めて見る幼い顔立ちに、昔ユウと呼んでいた少年の面影がはっきりと残っていた。 はい、と他人行儀に言うのも変か。 「うん」 「さあ中へ」 さらに島村さんが促し、あたしは島村家へと入っていった。途中、視線に入った島村さんの末女の不思議そうな顔が印象に残った。 島村さんの家は、落ち着いた感じのする暖かそうな家だった。普通の家族が住む家というものを想像して具現化すると、こういうものになるのだろう。 「朝ご飯は食べてきた?」 そう聞いてきたおばさんは、あたしが答えるより先に話を続けた。 「卵焼きを焼いたのよ。みんなで一緒に食べましょう」 そして流れのまま、あたしはテーブルの一角に座らされ、朝食をとることになった。 「ねえ、お母さん」 末女が、母親に声をかける。 「このお姉ちゃん、だあれ?」 「あなたのお姉ちゃんよ」 「あたしのお姉ちゃん?」 「そうよ、みゆきって言うの」 おばさんが末女に笑いかけた。 「みゆきお姉ちゃん?」 「そう。だから、僕のお姉さんでもあるんだよ」 横からストーカー野郎も会話に加わる。 「そうなんだ。お姉ちゃんなんだ」 何が嬉しいのか、末女があたしに笑顔を見せる。 「さゆりって言うの。あなたの妹よ」 おばさんがあたしに言う。 「よろしくね、さゆりちゃん」 あたしは、さゆりちゃんに笑顔を返してやった。 さゆりちゃんが、さらに嬉しそうな笑顔になる。 「うん、お姉ちゃん!」 …………。 眩しい笑顔だ。 あたしには、こんな笑顔は到底出来ない。 やっぱり苦しいな。 島村さんの家では、とても暖かく迎えられたと言っていいだろう。それが過ごしやすいかと言えば、そうではなかったのだけど。 あたしは、一体どうしたらいいんだろう。 昨日から何度も心中で繰り返してきた疑問を思い浮かべては、答えが出せずにいた。 だけど。 なんとなくはわかってる。 多分、あたしはこれからここの家に住むのだ。島村さんが岩沙に戻すのか、あたしが島村になるのか、それはわからないけれど、あたしはここの家の娘になる。 新しい家。新しい住人。 今まで繰り返されてきたたらい回しの生活に、新しい一ページが加わるだけだ。そして、それが今回で終わる。 ……はず。 たらい回しにされるよりは、いいことなのだろう。多分。 あたしは自分をそう説得する。今まですごせてきたのだから、ここでもちゃんとすごせるはずだ。 その晩、島村さんの口から、いろいろな話を聞いた。 六年前のこと。 あの時、ユウが風邪を引いて学校を休んでいた。両親はユウを病院へ連れていった。その帰りに奴らに襲われたらしい。 あたしに連絡を取ろうと学校に連絡を入れたが、あたしは既に下校した後だった。それで自宅に電話をかけると、電話にでたのはあたしではなくて、奴らだった。それで自宅が既に奴らに抑えられていることを知ったそうだ。 それで従兄弟の井上さんに、あたしの保護を頼んだそうだ。井上さんは運良く、あたしが自宅に帰り着く前に、あたしを捕まえることが出来た。 覚えている。あの時、あたしは病気の弟にあげるお菓子を買うために、商店街に寄り道したのだ。 次に井上さんに連絡を取ったのはその日の夜で、他県のホテルだったそうだ。翌日、井上さんがあたしをそこに連れていくはずだった。 だけど、すぐにそのホテルにいることがばれて、また逃げる羽目になったそうだ。 それも覚えている。なんだか遠くのホテルに連れて行かれて、ぼーっと半日つぶしたんだ。せつない気分だった。 次に井上さんに連絡したのは、二日後だったそうだ。奴らは横の連帯が強くて、他府県に逃げても追いかけられていたそう。それで、あたしが狙われる危険があるから、一端あたしを遠くに住んでいる従兄弟の長門さんに預けることにしたのだ。その頃、どうにも奴らを撒けなくて、毎日居場所を変えていたそうだ。 それで、結局すぐにあたしと合流するのは諦めて、あたしの安全を優先させることにしたそうだ。あたしの戸籍が長門に移され、すぐに紀田になったのはこの頃だ。両親はこっちへの連絡も控えたそうだ。電話や手紙からたどられていた可能性もあったから。 当時の生活はひどかったらしい。職もないから収入もない。だけど、生きるのにはお金がかかる。いつ見つかるかもわからない。一日一食や、車中で何日も過ごした日々があったらしい。 このままだと、いずれ捕まるか衰弱死すると考えたんだろう。最後の資金をかり集めて、車も売り払い、海外に逃げたのだ。 それには、さらに大きな理由があった。母親がさゆりを身籠もっており、これ以上の困窮な生活が母子の生命に関わったからだ。 行った先は、米国だったらしい。父親が英語を話せたからだそうだ。 そこで、父親は職をなんとか探して当座の生活を支え、母親は無事さゆりを産んだ。 三年、米国で過ごしたらしい。さゆりがある程度大きくなるまで、動けなかったようだ。安全な日常も手放せなかったのかも知れない。その上、あたしが何処にいるかがわからなかったようだ。それもそのはず。あたしは、その頃親戚中をたらい回しにされていた頃だから。 日本に帰ってきて、長門さんに連絡を取ろうとしたけど、既に長門さんは病没した後で、家もなかったようだ。もはや、あたしが何処にいるかわからない状態だったよう。 海外逃亡で完全に奴らを撒いたとはいえ、ここで目立てば、また見つかる可能性がある。仕方なく、探偵を雇いあたしを探していたそうだ。 その後、あたしがこの辺りにいるらしいとの報告を受けて、こちらに引っ越してきた。でも、あたしは何度目かのたらい回しにあっていて、正確な居場所はわからない。もう一度、探偵を雇って詳しく調べさせようとした。 それが一条探偵事務所だったということだ。 「すまない。みゆき」 最後に、そう言って島村さんは頭を深々と下げた。 疲れたような感じ。年齢以上に見える容貌。目尻に刻まれている皺が、今までの困苦を雄弁に語っていた。語ってくれた以上に色々あったんだろうな。 視線を横に向ける。島村さんの妻、佐枝さんがいる。 細い身体。痩身という以上に痩せている。その細さが、何とも言えず胸を締め付ける。 更に視線を移す。長男の優だ。 名前の通り優しそうな目。急に襲った艱難辛苦にもその目を翳らすことは出来なかったよう。その目で彼は何を見続けていたのだろう。 「これからは、ずっと一緒だ。家族そろって生きていこう」 みんなの視線があたしに集まる。 「…………」 とにかく頷こうとあたしが顎を引きかけた時。 寝ていたさゆりちゃんが目をこすりながら起きてきた。 「うるさかった?」 佐枝さんが尋ねる。視線が優しい。 「ううん。みんな起きてるから、あたしも起きてるの」 そう言い放ち、両親の間に座った。そこが彼女の席なのだろう。 さゆりちゃんの視線があたしに止まる。 「みゆきお姉ちゃんは、いつまで家にいてくれるの?」 そう小首を傾げた。 純粋な疑問だったろう。 あたしが答えるより先に、母親が答えた。 「これからずっとよ。あなたのお姉ちゃんなんだから」 「そうなんだ、嬉しいな!」 無邪気にさゆりちゃんが喜んでくれていた。 正確にその時、あたしは自分のこれからに対する疑問の解答を得た。 あたしは、眠る前に加藤さんに連絡を入れた。 次の日。 あたしは、島村さんにマンションまで送ってもらった。荷物をとりに行くと言ったのだ。 「一緒にとりに行こう」 島村さんが言いながら、車から降りた。 「いい」 あたしは首を横に振る。 そのあたしの表情に、何かを感じ取ったのだろう。島村さんが、どうした、と聞いてきた。 しばらく躊躇った後。 あたしは、父親を見つめた。 「お父さん」 何年かぶりに、その人をそう呼んだ。舌は、その言葉を覚えていたらしい。 「あたし、やっぱり、あそこにはいられない」 「え……? ど、どうして……」 父親は絶句する。 「そんなに驚かないでよ。あたしにだって今の生活があるから」 あたしは笑って見せた。笑ってみせるのは慣れている。 「別に、あの家が嫌だと言ってるわけじゃないの。でも、やっぱり急には、ね。なんて言うのかな、あたし、一人暮らしに慣れてしまったのよ」 あたしは、昨晩考えていた言葉を、絶句している父親に次から次へと口にする。 「あたしは、お父さんとお母さん、ユウが出てきてくれただけで十分。あたしにも家族がいるんだってわかったからね」 顔の筋肉が何故だか固い。笑顔が強張っていないだろうか。 「別にまたいなくなるっていう訳じゃないんでしょ。それなら、あたしがあそこに住まなくても変わらないわよ。こんなにも近くにいるんだから。あたしだって安心して生活できる。寮生活してるって考えてくれたらいいのよ。車で一時間もかからない距離なのよ」 車で、なら。 「し、しかし……」 動揺しながらも、父親は反論しようとする。だけど、あたしは更に畳みかけた。 「別に、何かあるってわけじゃないのよ。ただ、もうしばらくは一人でいたいの」 「みゆき……」 「大丈夫よ、お父さん。あたしたちは血が繋がってるの。切れるわけないじゃない」 「…………」 「だから、もうしばらくは一人でいさせて、ね」 長い沈黙の後。 「……わかった……」 声を絞り出すように頷く父親。 「でも、ちゃんと連絡を入れるんだぞ。日曜日には帰ってきなさい。連休にもだ」 「そうね。そうする」 「それから――」 「お父さん」 「…………」 「痩せたね」 「……みゆき」 「お母さんも、痩せてたね。ユウだって、あまり大きくなかった」 「みゆき……」 父親が何か言おうとして言葉に詰まる。 「いっぱい苦労したんだね」 「みゆき!」 お父さんがあたしを抱きしめた。ごめん、すまないと繰り返しながら。 やっぱり、苦しいのよ。 「みんな、あたしよりいっぱいいっぱい苦労したんだね」 でも家族そろっていたんだ。 あたしはずっと一人だったよ。 あの時、あたしの安全を守るために出てこられなかったのはわかっている。 でも。 それでも。 あらゆる危険をおかしてでも連れていって欲しかった。一緒に行きたかった。そう思うのは悪いことだろうか。わがままだろうか。 あたしはその場で、悄然と去っていく父親を見送った。 「…………」 しばらくそのままで立っていると、後ろに人の気配を感じた。 「よく泣かずに我慢したね」 後背に立った人は、そう声をかけてきた。 「今さら、あの中に入れないし」 振り向かずにあたしは答える。 家族というのは、血がつくるものではない。ともにすごした時間とか密度によって形成されるんだと思う。 あたしは、一人でいる時間があまりにも長すぎた。 「居場所というのは、自分でつくるものだと思うがね。そんなに拗ねてちゃ、始まらない」 「こういう性格ですから」 「溜めてないで言えば良かったんだ。さゆりちゃんに妬いてましたって。そう言いたかったんだろ」 びっくりして、あたしは振り返る。 加藤さんは、優しく微笑んでいた。 この人は……。 どうして、わかっちゃうのよ……。 その瞬間、何かが弾け飛んだ。 頬に熱いものが流れてる。それが涙だとわかった時、あたしは加藤さんの胸に飛び込んでいた。 「どうして!」 叫ぶ。 「どうしてあたしばっかり一人なのよ! 何であたしばっかりこんな目にあわなくちゃならないのよ! 何で? どうして? 昔はあたしだって、あんな目で見られてたのに! 今さら何が家族なのよ! 何がこれからよ! 遅すぎるのよ……」 後は言葉にならない。呻るような嗚咽を繰り返しながら、あたしは加藤さんの胸で泣いていた。 しばらくして。 あたしは泣きやんだけど、加藤さんの胸から顔を上げられない。 だって、とっても恥ずかしかったから。 「……どうして……?」 辛うじてそれだけ口にした。 それで意味が通じるとは思えないけれど。 加藤さんは髪を撫でてくれた。 「今までに相当辛酸をなめてきたんだ。一人か二人くらいは、ちゃんと君をわかってやれる人間がいても悪くないだろう」 あたしは顔を上げる。 加藤さんが微笑しながら、顎をしゃくった。そっちには、暁子が立っていた。 あたしは苦笑する。なんで、暁子がここにいるのやら。 「そうですね」 あたしは、暁子の方に視線をやる。暁子は会釈するが、こっちには来ない。 考えてみれば。 暁子に見切られてしまう心中なのだ。暁子より鋭いと思われる加藤さんが、あたしの心中など見切っていないはずがない。恐らく、最初からあたしの心中を読んでいたのだろう。あたしが被っていた猫を見つけるのは、探偵の彼にとっては雑作もないことかもしれない。 ずるいな、この人は。 知っていて、気づかないふりをしていたのだ。あたしが自分で自分を出せるように誘導しながら。 あたしは加藤さんに視線を戻した。 「そういえば、加藤さん。これ、落としてましたよ」 あたしは、加藤さんにパスケースを渡す。 「あ、岩沙君が拾っていてくれたんだ。どこに落としたかと思ったよ」 加藤さんがそれを懐に直す。その時、さり気なく免許証に視線をやって確かめたのを、あたしは見逃さなかった。 「まあ、見られて困るものはないけどね」 うそつきめ。 「偽名がばれるのは、困らないんですか?」 「……え?」 加藤さんが驚いて、あたしを見返す。一瞬、表情に動揺が走ったのもわかった。 初めて見たな、驚いた顔。その顔に少し溜飲が下がる。 「一条さん」 「…………」 一条さんはしばらくあたしを見返した後、苦笑しながら頭をかいた。 「困るなあ、勝手に見ちゃあ」 全然困った顔してない。 「どうして、偽名なんか使ったんですか?」 「聞きたい?」 「勿論です」 ええとね、と頭をかく。 「君に気を使わすのもかわいそうかなと思ってね」 「え?」 「俺と同居だと色々困っただろう? 少々男性不信気味でもあったから」 それに、といやらしい笑みを浮かべた。 「俺が自分の理性に自信がなかったからな」 「え?」 「びっくりするほど美人だし。俺のロリコン心をくすぐったよ」 そう言って笑った。 なんだ。そういうことか。 結局、あたしは、最初から最後までこの人の気配りに浸っていたのだ。 やっぱり、ずるい。 じゃあこの人は、今あたしがどういう気持ちでいるのかもわかっているのだろうか。この人の気配りや誘導が、あたしをどういう心境にいたらしめたのか気がついているのだろうか。暁子はそれがわかっているから、こっちに来ないのかもしれない。 「加藤さん」 あたしは呼び慣れた偽名の方で、この人を呼ぶ。 「あたしが今、何を考えているかわかりますか?」 「俺はエスパーじゃないからな。そう何でもかんでもわかるわけがないよ」 「そうですね。――キスしたいと思ってました」 「へ?」 間の抜けた顔で加藤さんがあたしを見返す。 いいな、その顔。もっと見たい。 「冗談です」 ちょっとほっとした顔になった。 「あんまり、大人をからかうもんじゃないよ」 そう苦笑しながら、煙草を取り出してくわえた。 「そうですね。じゃあ――」 あたしは手を伸ばして煙草を奪い、さらに爪先立って、びっくりしている加藤さんの唇に口づけた。 思った通り、煙草臭い。 それから――。 木々の緑が、時折揺れる。風が吹いているようだ。 窓を開けたいなあ。 あたしが、そうぼんやりと考えたとき。 「岩沙君、お茶」 そういう声が飛んできた。見なくてもわかっている。加藤さんだ。 「さっき淹れたばっかりですけど」 振り返りもせず、あたしは答えた。 「なんか最近冷たくないか岩沙君。前はこう『はい。少々、お待ち下さいな』とにっこり笑って淹れてくれたのに」 「加藤さん以外の人になら、そうしますよ」 あたしは振り返って、加藤さんに視線を送る。 「それは差別だろう。俺にだってにっこり笑ってお茶の一杯や二杯淹れてくれてもいいじゃないか。減るもんじゃなし。差別はよくないと思うぞ」 あたしは加藤さんの言葉を右から左に聞き流して、加藤さんのカップに視線を送った。 「まだ入っているじゃないですか」 「いや、煎茶が飲みたいんだ」 「まだお湯が沸いてません」 「しくしくしく」 「泣き真似したってお湯は沸きません」 「岩沙君、変わったな。前はこんなじゃなかったのに」 「それよりも、こんな風にされてしまった責任はとってもらえるんでしょうね?」 あたしは、にっこり微笑んだ。勿論、さっき加藤さんが要求していた、あの作り笑顔だ。 加藤さんは視線をそらして、煙草に火をつける。 「ああ、いい天気だな」 子供なみの誤魔化し方だよ。 あたしは、加藤さんの横顔を眺めた。 一条さん。あたしのわがままな叫びを受け止めて、受け入れてくれた人。あたしはもしかしたら、この人に家族の姿も見ているのかもしれない。なんにせよ、この人がいてくれるなら、それでいい。 「そんなに煙草を吸うから、すぐに喉が乾くんですよ」 あたしは加藤さんから煙草を奪うと、すぐに灰皿で揉み消した。驚いて視線を戻した加藤さんに、あたしは自分の顔で笑いかけた。この人に、あたしはあたしを隠す必要はない。だから、そうと意識せずに笑えるのだ。 「お茶ですね。ちょっと待って下さいね」 〈了〉 |