第十二話 怪我をする条件


 どうして駆けているのか、あたし自身にもわからない。だけど、急き立てるような感情があたしを支配していた。
 そして。
 車のドアが開いて加藤さんが出てくるのと、あたしが車に近づいたのは、ほとんど同時だった。
 マンション近くの街灯がない所。加藤さんが車を停めていたのは、そういう場所だった。
 考えるまでもない。目立たないようにだ。
「どうした?」
 加藤さんが不思議そうな表情をした。
 あたしはそれに答えず、逆に質問を返す。
「飲み屋には行かないんですか?」
「ん?」
 加藤さんが眉根を寄せた。質問の意味がわからないといった風。気にせず、あたしは質問を続ける。
「エミリさんには会いに行かないんですか?」
 しばらく沈黙。そんなことを言っていたのを忘れていたのだろう。その後、ああそうか、と加藤さんが微苦笑した。
「まだ時間が早いんだよ」
 飲み屋に行く時間の平均などあたしが知る由もないけれど、加藤さんの言葉が嘘だということは直感的にわかった。なんてったって、あたしはこの人を半年間見続けている。お茶入れての要求で、コーヒーが欲しいか、お茶が欲しいか、紅茶が欲しいかが聞き分けられるほどなのだ。直感といっても、そう馬鹿にはできないと思う。
「それまでは、君を守る仕事をしておかないとな」
 加藤さんが聞いてもいないことを口にして肩をすくめた。聞いてもいないようなそのことを口にするということは、その件に関して誤魔化したいことがあるから。そう思う。
「そうですか」
「ま、まだそんなに危険はないから、安心して帰りなさい」
 気楽な調子で加藤さんが笑った。
 嘘ばっかり。
 先ほどまでのよくわからない感情が、突然怒りに変わった気がした。
 あたしは無言で、加藤さんを睨み付ける。胸の奥で怒っている感情がぐつぐつと煮えたっているような感じ。こんな感じは初めてだ。
 加藤さんは再び眉根を寄せてあたしを見下ろした。でもすぐに視線をそらしながら、胸ポケットから煙草を取り出した。一本とってくわえる。そして、ブレザーのポケットからライターを取り出して、煙草に火をつけた。それから、目線をもう一度あたしの視線にあわせた。
「で?」
 加藤さんが尋ねてくる。それでも、あたしは無言だった。
 仕方なさそうに、加藤さんが言葉を続けた。
「聞きたいことがあるんだろ」
 普段と変わらない表情に、変わらない声。でも、もうあたしが聞きたいことをわかっている感じがする。だけど、自分からは絶対に言わないのだ。ずるいと思う。
 それでも、あたしはやっと口を開いた。
「……その香水は何でつけているんですか?」
「エミリちゃんをものにするため」
「そんな嘘は聞きたくありません」
 あたしが答えた声は、絞り出すような呻るような声だった。多分、生まれて初めて出すような声。
 加藤さんが煙草の煙を吐き出した。仕方ないなあといった風に煙草を持つ手で、頬をかいた。
「よくわかったな。実はエミリちゃんじゃなくて、ナナミちゃんなんだ」
 何かが切れた。
「いい加減にして下さいっ!」
 あたしの怒声が響き渡った。
「おいおい、急にそんな大声出して……」
 加藤さんが少し驚いたような声を出す。
 あたしはそんな加藤さんの声を無視して、実力行使に出た。
 加藤さんに一歩踏み込む。きつい香水の匂いが鼻についた。左側からの匂いが強いことを瞬時に嗅ぎ取って、あたしは右手で加藤さんの右腕をとった。加藤さんの指先から煙草が落ちる。間髪入れずに引っ張り、左手でブレザーを捲りあげた。
「やっぱり」
 その肘ぐらいに包帯がきつく巻いてある。
 その包帯には血が滲んでいた。分厚さから見て、ちゃんとガーゼか何かを患部にのせてから包帯を巻き付けてあるはずなのに、それでも包帯の色はほとんどが赤く、強烈な血の匂いを発していた。似合わない香水は、血の匂いを隠すためのものだったのだ。
 あたしは、怒りの目で加藤さんを見上げる。
 加藤さんの表情は全く変わらない。痛そうな素振りも見せなかった。ただ、先ほどと変わらずあたしを見下ろしていた。
「これは……?」
 あたしが静かに問う。
「階段でこけた――、と言っても信じないだろうな」
 加藤さんが短く息をついた。
 当たり前だ。
「あたしを狙っている人たちにやられたんですね?」
「まあ、そういうことかな」
 穏やかに加藤さんが答えた。
 何でそんな安穏としてるのよ、この人は。
「どうして、……なんですか?」
「何が?」
 気づいている癖に。
「どうして、隠すような真似をしたんですか?」
 違う。そんなことが聞きたい訳じゃない。
 そのことがわかっているのか、加藤さんは黙ってあたしの続きを待っている。
 だから、あたしは言ってやった。
「どうして、そこまでしてあたしなんかを守ってくれるんですか?」
 この人には、こんなひどい怪我を負ってまであたしを守らなければならない義務はないはずだ。
「……仕事だからですか? 一条さんから命令を受けて……」
「そうなるな」
 ちくっときた。でもそれを気にしないようにして、あたしは言葉をゆっくりと口にした。
「……そんな風にしてもらってまで、あたしは守ってもらいたくないです」
 あたしは、そこまでされるような女じゃない。追いつめられたとき、一番最初に捨てられるような女なのだ。だから、そんな風に扱ってもらわなければ困るのだ。そうでなければ、あたしは今までの人生すべてを恨んでしまいそうになる。
 加藤さんは何も答えず、あたしを見下ろし続けている。
 あたしは視線をそらした。
「とにかくその怪我は何とかしないと。とりあえず部屋によって下さい」
 加藤さんの腕から手を離し、あたしは先に背を向けて歩き出した。ついてこないかもしれないと思ったが、すぐ後に加藤さんの足音が続いた。

 居間のソファに加藤さんを座らせ、腕の包帯を一度ほどいた。血が固まってとてもほどきにくい。ガーゼなんか、剥がすのを躊躇ったほどだ。
 患部は四カ所。全てが深い切り傷。鋭利な刃物で切られた感じだ。切りかかられて、右腕でそれを防いだものと思われる。
 ガーゼを剥がすと、また新しい血が滲みだした。
「病院へは行かれましたか?」
 聞いて無駄な質問だと思った。縫い後がない以上、病院へは行ってないはずだ。
「いや」
 推測通り、加藤さんが否定した。
「ご自分で処置なさったんですか?」
「一通りはできるつもりだからね。止血も消毒もちゃんとしたよ」
「そうですか」
 あたしは患部に薬を塗りつけた新しいガーゼを置いて、新しい包帯を巻いていった。
「あたしは素人なんで、ここまでしかできません。後で早く病院に行って下さい」
「そんな暇はないな」
「行って下さい」
 あたしは加藤さんを睨め付ける。
 加藤さんが溜息をついた。
「わかった」
 一通り処置が終わると、あたしは包帯とガーゼの残りを救急箱に仕舞い、それを持って立ち上がった。
「お茶、淹れてきます」
 そう言い捨てて、あたしは台所に向かった。
 台所のテーブルに救急箱を置いてから、二人分のコーヒーを淹れる。それを持って居間に戻った。
「煙草、いいかな?」
 珍しく加藤さんが聞いてくる。それもそうだ。一応ここはあたしの家だから。
「どうぞ」
 あたしが頷くと、加藤さんが煙草と携帯灰皿を取り出して、吸い始めた。
 しばらく無言が続く。
 ややあって、あたしは意を決して口を開いた。
「あたし、ここ、出ていきます」
 視線はコーヒーカップにやったままだった。
「そんな怪我するまで加藤さんに迷惑をかけたし、それはそのまま一条さんにとっての迷惑だから……。あたしなんかにばっかり、唯一の調査員をはりつけているわけにもいかないだろうから……」
 加藤さんが紫煙を吐いた。
「出ていくって、どこに?」
 どこにと言われても困るのだけど。あてなんかあるもんか。
「それに、どこに行っても狙われることに変わりない」
 普段の調子と変わらない口調で、加藤さんが断言する。
「それなら、どこへ行っても同じじゃないのかな。行けるところがあるとしてだけど」
「…………」
 あたしは答えられない。
 確かにそうなのだ。ここに迷惑がかかるから他の所に移っても、迷惑がその他の所に移るだけだ。あたしが移るのと同じように。
 じゃあ、どうすればいいのよ。
 ……あたしが消えてなくなればいいのかな。
 それが一番いいのかもしれない。
「このままが一番いいと思うがね」
 あたしの暗い決意に、加藤さんの呑気な声が被さった。
 ……え?
「一条は君が狙われていることを知っているし、それを受け入れられる。そんなことで、とやかく言う男じゃないさ、奴は」
 加藤さんが微笑する。
「そして、ここにいるなら君をガードしやすい。少なくとも、目の届くところにいるわけだから」
 その上、と言葉を続ける。
「うちは探偵事務所だからね。篠田の魔手から君を解放できる可能性があるのは、ここだけだと思うけどな」
「でも……」
「一条は、こんなこと迷惑だなんて思う奴じゃないから」
「でも、加藤さんは……」
「俺は単に一条の指示で動いているだけだから、いつもの仕事と変わらんよ。給料だってでてるから。別に無償奉仕というわけじゃないんだよ」
「……そうですか」
「だから、岩沙君は何も気にせず、お姫様よろしく守られてればいいんだ。いずれカタをつけるから」
「でも……」
 あたしの視線が加藤さんの右腕に注がれる。巻いたばかりの新しい包帯が心に痛い。
 でも加藤さんはあたしの懸念を一笑した。
「これくらいはたいしたことないさ。もっとひどい事件に巻き込まれて、もっとえげつない怪我を負ったことも過去にはある。だから、気にしなくていい」
 加藤さんがにやりと笑う。
 気が、少し楽になった。
「そんな風でいいんでしょうか?」
「いいんだ」
 …………。
 いいんだ。
 すみません、とあたしは頭を下げた。
「これからも、よろしくお願いします」

 それから、三日。襲撃はない。
 いや、ないという言い方は良くないのかも知れない。
 多分、あるのだろう。加藤さんがそれを未然に防いでくれている。
 実際、事務所で見る加藤さんは傷がたえない。腕の傷だってまだ治っていないだろうに。さすがに見かねたあたしが、学校を休んで部屋にこもろうかと提案すると、加藤さんは首を横に振るのだ。
「こんなことは、気にすることじゃないよ」
 そう言って笑う。
 だからと言って気にならないわけがない。事件の焦点はあたしなのであり、加藤さんはそのとばっちりを受けてるにすぎないのだ。
 あたしは溜息をついた。
「最近、溜息ばっかりね」
 横を歩いていた結城さんが、少し呆れたような表情になる。
「何かあったの?」
「別に、そういう訳じゃないけど」
 あたしは視線を逸らした。
 そう、と結城さんが答えた。
 深く追求されなくてよかったと思う。結城さんは妙に鋭いから、あたしの微妙な機微を見逃さないだろう。今のあたしは、自分でも不安定だと思う。追求されたら、うっかりつまんないことを言いそうだ。この前の加藤さんの時みたいに。
 あの時は、失敗したと思う。なんだか、あたしじゃないみたいだった。
 前に結城さんに言われた言葉を思い出す。
 ――ずっと自分を隠したままだと、いつかおかしくなる。空気を吹き込んでいる風船みたいなものよ。許容量を超えたら破裂する。あなたの許容量は大きそうだけど、それでも、もうだいぶ大きくなっているはず――
 あたし、やっぱり許容量を超えかけているんだろうか。少なくとも、急に狙われてるとか、両親のこととか知らされて、心底では混乱していることは確かだと思う。
 そういえば。
 不意にストーカー野郎のことを思い出した。
 島村優とかいう中学生で、加藤さんの話によればあたしの弟らしい。弟と過ごしていた時のことなんてもう忘れてやったから、弟の面影なんかは覚えていない。だから、ストーカー野郎に弟の面影が残っているかどうかはわからない。
 まあ、そんなことはどうでもいいんだけど。
 最近、奴を見ない。ストーカー技術が突発的に上がったとはあまり考えられないから、単にもうあたしをつけていないのだろう。急に何故だろう。見なくなった時期は、あたしが狙われた日に前後する。あれと何らかの関係があると考えるのは、気にしすぎだろうか。そもそも、奴が何故あたしをつけていたのかわからない。
「ふう」
 あたしは、本日、何度目かの溜息をついた。確かに、こんなに頻繁に溜息ついてれば、何かあるのかと思われるな。ついてからそう思ってしまったあたしである。
 その時、車が横を通り過ぎた。
 それは別になんてことないことなんだけど、その車が急にあたしたちの前を塞ぐように止まったのは明らかにおかしい。
「何?」
 結城さんが不審そうな声を出した。
 嫌な予感があたしの背中を走る。
 車から男性が出てきた。見覚えはないけど、サングラスをかぶって表情を隠しているのが、前のそれに重なる。その上、そいつが左手に丸めて持っている服っぽいものが気になった。
 そいつは、あたしたちの前に立った。
「何か用なんですか?」
 結城さんが刺々しい声で問う。気づけば、結城さんはあたしの前に立っていた。
「岩沙みゆきさんを迎えに行ってくれと、加藤さんに頼まれてね」
 そいつが無表情に答える。
 結城さんがあたしの方を向いた。そうなの、と問いかけているというよりは、どうする、と尋ねてきている風。結城さんも奴の言葉なんか信じていないのだろう。
「君も一緒に送ってあげるよ」
 奴は結城さんにも声をかけた。
「遠慮します」
 結城さんが即答する。
「あたしも、自分で帰れますから」
 続けてあたしも言った。
 嫌な胸騒ぎがする。どう考えても、奴はあたしを狙っている奴らの一人なんだろう。それがこんな白昼堂々、さらいに来るなんて何か変だ。
 それに、加藤さんが出てこない。何かあったのだろうか。
「遠慮することはない」
 男が近寄ってきた。
「大声を出しますよ」
 あたしは男を牽制する。
「これを見ても、そう思えるかな」
 男がにやりと笑いながら、左手に持っていた服っぽいものをあたしに放った。
「これは……!」
 受け取ったのはやっぱり服だった。男物のブレザーで、まだついたばかりのような血がべったりとついていた。そして、それは今日加藤さんが着ていたブレザーである。
「あんまり邪魔するんで、退場願ったんだよ。背中から一刺し。楽なもんだ。その後捕らえて監禁している。まあ、今頃は息絶えた頃だろう」
「なっ……」
 あまりのことにあたしは声が出ない。
 加藤さんが、死んだ……?
 うそ……。
「邪魔者はもういない。我々はいつでも君を招待できるというわけだ。君が寝ているときに行ってもいいんだが、レディの寝込みを襲うのはマナー違反だろう?」
 くつくつと男が嫌みな笑みを顔にはりつける。
「……わかりました」
 あたしは頷いた。
 だってしょうがないじゃない。もうどうしようもないんだから。加藤さんが死んでしまった以上、あたしにはもうどうしようもない。
「物わかりがいいことで。じゃあお二方、車へどうぞ」
「ちょっと、彼女は関係ないでしょう!」
 あたしは声を上げた。
 だが男の反応は素っ気ない。
「ちょっと話しすぎたからな。もう彼女も関係者さ」
 こいつ、最初から結城さんもさらう気だったんだ。だから、聞こえよがしに加藤さんのこと言ったんだ。
 どうしよう。あたしのせいだ。
            


第十三話に進む
第十一話に戻る 「家族の条件」トップに戻る
小説ページに戻る ホームに戻る