第十一話 香水の条件
チャイムが鳴って、人の来訪を告げる。
時間的に結城さんが迎えに来たみたい。そうはわかっていても、あたしは一応インターフォンを上げて、そこの画面に映る人間の姿を確認した。 やっぱり結城さんだ。 『来たわよ』 結城さんが、画面から微笑する。 「今行くわ」 あたしはそう答えると、テーブルの上にのせてあった鞄を持って玄関を出た。 玄関を出ても結城さんの姿はない。このマンションは、所謂マンションの住人がマンションの入り口のロックを開閉するアレだ。正式な名称は知らない。 マンションの入り口から出ると、制服姿の結城さんが待っていた。 おはよう、と結城さんが軽く手をあげる。あたしはそれに会釈を返しながら、彼女に近づいていった。 あたしが結城さんと登校を始めるようになって、今日で五日目だ。 別にあたしが望んだわけではない。五日前、突然登校時間ぐらいに結城さんが現れて一緒に行かないと誘ったのだ。下校も一緒だし、特に今は狙われている身だから、あたし自身は断りたかったのだけど、断る理由が見つからなかったのだ。 あたしと一緒にいると狙われてるから危険よ、とはちょっと言えない。勘繰られるのは嫌だし、その理由を説明する気にもならなかった。結城さんの一日だけの気まぐれだと期待したかったが、彼女は翌日もその次の日も来たのだ。そして、今日にいたっているってわけ。 狙われた日から今日で既に十日たつけど、あれ以来襲撃はない。そんなことも、強く結城さんを断れなかったりする理由の一つだった。まあ、どういう理由にせよ少しうざったいのは事実である。 「最近、上の空が多いわね」 不意に結城さんが言った。 昨日読んだ本がどうのという話をしていた途中だったから、いきなりである。 「そうかしら」 「いつもにもまして心がどっか行ってるわよ」 「そんなことはないと思うけど」 とは言いつつ、多少自覚はあった。 やっぱり、狙われている今、あたし自身も周囲に気を配るようにしているのだ。所詮素人の注意力だけど、やらないよりマシだと思う。実際この注意力で、昔住まわせてもらっていた部屋に忍び込もうととした馬鹿息子を何度も追い返したことがある。その馬鹿息子と今の襲撃者では、まったくレベルが違って今の方がとても深刻だけど、そういう経験から注意力には少しばかりの信頼をあたしはおいていた。 「もしかして」 そう結城さんが意味ありげにあたしのほうを見る。 「何?」 「好きな人手もできたのかしら?」 …………。 …………。 …………。 ……はあ? 「それは、あのバイト先の男の人? 加藤さんとか言ったっけ」 何でだ。 あたしは、呆れてものも言えない。 「岩沙さんは年上の方があってると思うのよ。だから、加藤さんは正解だと思うわ」 正解ってなんだ。年下だったり、同い年だったら不正解なのか。わけわかんねえよ。 「図星?」 呆れているあたしが無言なのを誤解したのか、わざとわからないふりをしているのか、多分後者だろうけど、結城さんがあたしの顔をのぞき込んだ。 ふう。 あたしは、長い息をついた。 「まさか」 当然ながら、あたしは否定する。 あら、と結城さんがにやりと笑う。 「まさかって言うほど、突飛な想像じゃないと思うけど」 なんでじゃ。 「岩沙さん、つきあいのある男性って、加藤さんしかいないじゃない」 そう結城さんが指摘する。 そういえば、とあたしも思う。 あたしに一番近い男性といえば、不本意ながら加藤さんなのだ。うーむ。言われて初めて気づく事実だな。だからといって、恋心を抱くようなものではないと思うぞ。そもそも、今のところ、そういうことをしてる暇はないはずだ。あたしも加藤さんも。 その加藤さんだけど。 あたしは、ちらりと後方に視線をやる。 それで見えるわけじゃないけれど。 今はいるんだろうか。 あのおっさんがあたしをつけているのは、本人も認めた事実だ。それは、あたしを護るためらしい。多分、一条さんの命令だろう。 襲撃者は、まだ人目のある間は狙ってこないらしい。 加藤さんの言によれば。 「まだ、その段階じゃない」 そう言っていた。その後に、皮肉っぽい微笑を浮かべながら煙草を吸っていたのが印象的だった。それにどういう意味があるのかはわからないけれど、少なくともまだ人が多い場所は安全だということだ。学校はその範疇に入るだろう。登下校中もそうだ。わざわざ人目のなさそうな道を選ばなければ、たいていは人の目があるし、それ以前にこんな状況でそんな場所を選ぶ真似はさすがのあたしもしない。それどころか、逆に人目の多い道を選ぶというものだ。それぐらいの自己安全管理はするべきだろう。 今が安全なら、加藤さんはあたしを守るためにあたしをつける必要はないわけだ。だから、今はあたしをつけてないかもしれない。あの人にも仕事があるし、あたしばっかりに構っている時間はないわけだ。 あたしは、軽く息をついた。 妙なうざったさを感じる。それは、前の日曜日、島村家の人たちを見たときに感じたうざったさに似ている。 その理由がわからないまま、視線をあげると学校が見えた。あたしと結城さんは、他の学生たちと同じように並んで校門をくぐる。 とりあえず、今日もここまでは無事だった。 あたしの一日というのは、襲撃者に狙われているとわかってからも、そんなに変わらない。変わったことと言ったら、下校途中に事務所によることになった点と、事務所から帰るとき、加藤さんに送ってもらうことになった点だけだ。ほとんど前と変わっていないと言ってもいい。 今日もその通りに、下校途中で事務所によった。 「じゃあ、さようなら」 「さようなら」 結城さんが軽く手を振って去っていく。それに答え、少し彼女の背中を見送った後、あたしは事務所に入った。 事務所には鍵がかかっていた。 あれ? 珍しい。 別に、鍵がかかっていること自体は珍しいことではない。あたしが事務所の留守番を預かることはよくあったことだ。でも、珍しいと感じてしまったのは、あたしが狙われ初めてからは、いつも事務所内に加藤さんがいたからだ。いないのは今日が初めて。 まあいいか。 深く気にせず、あたしは事務所の鍵を開けて中に入る。事務所の鍵を閉めたものか迷ったが、とりあえず開けておいた。 自分の席に座り、携帯電話を鞄から取り出して机の上に置く。何かあったら、すぐかけるように加藤さんに言われているからだ。まあ、何かあったとき、携帯電話に慣れていないあたしが、携帯電話をかけられるとは思えないけどね。 それから、パソコンの電源を入れて、事務の仕事に入った。 しばらくは、静かな室内にあたしのキーを打つ音だけが単調に響いていた。一時間ほどでそれに少し飽きてきたあたしは、気分転換をかねて給湯室へ向かった。 給湯室で、紅茶をカップに入れて一口啜る。それから、カップを持って自分の席に戻る。 その途中、ぐらっと室内が揺れた。 地震? 立ち止まり、軽く周囲を見回した。その途端、揺れが大きくなった。 「きゃっ!」 崩れ落ちてくる書棚の書類にあたしは少し悲鳴を上げる。いくつか頭に当たって、ちょっと痛い。フラットファイルが主なものとはいえ、当たればそれなりに痛いのだ。 地震はそんなに長くなかった。あたしは、押さえていた頭を振りながら、室内を見回した。 その惨状に溜息がでる。 紅茶はこぼれている。書棚にあった書類は床に散らばっている。加藤さんの机の上のものは備え付けらしいパソコンと電話以外のものは、すべて床に転がっている。 ああもう、たいした地震じゃないのに。 そう。たいした地震じゃなかったのだ。それでもこうなったのは、ひとえに整理整頓をしてない部分が、そのまま崩れ落ちたから。その証拠に、一応整頓しているあたしの机の被害はほとんどない。その程度の地震だったのだ。 書棚は十中八九開けっ放しになっていたのだろう。加藤さんの机の上は言わずもがなだ。「はあ」 あたしは盛大に溜息をついてから、後かたづけを始めた。 まず、床に散らばっている書類などをとりあえず手近な机の上に置く。それから、こぼれた紅茶をふき取り、散乱した吸い殻を集めとった。加藤さんの机の上に置いてあったものはよくわからないので、とりあえず書棚の書類から片づけることにする。 あれ? 書類の入ったファイルを仕舞おうとして、あたしは書棚に違和感を感じた。 あたしはいったんファイルを机に置き直し、違和感の感じる部分に手を伸ばす。 そこは、書棚の奥の部分。光の具合だろうか。歪んでいるように見えた。 「あ、……これは……」 触った感覚でわかる。その板の向こうに空間がある。そして、それを仕切っているこの板は歪んでいる。 あたしは、手に少し力を込めて左右にやってみた。 板は左に動いた。 向こうには、もう一列のファイルの列。 なんだか、探偵事務所みたい。……って、ここはそのものか。 あたしは苦笑してしまった。 今まで、ここはあたしの想像していたような探偵事務所ではなくて、本当の探偵事務所とはこういうものかとなんとなく思っていたけど、こういう仕掛けもちゃんとあるんだと思うと、ちょっと新鮮な気がした。 何の気なしに、あたしの視線は奥のファイルの列に注がれる。その背表紙の文字を読むとはなしに眺めていた。そこに、 『岩沙みゆきに関する調査報告書』 という文字を見つけるまでは。 当然、こういうものはあるだろうという想像はしていた。加藤さんはあたしを調べていたわけだから、それをまとめるものは必要だろう。でも、いざそれを目の前にすると、何とも言えない重い感情が心中に渦巻くのがわかった。 加藤さんは、一条さんの命令であたしを守っている。一条さんがそういう命令を出すのは、一応なりともあたしの保護者だからだ。そこに疑問を挟む余地はない。 ないのだ。 あたしは心中の重苦しさを気にしないようにしながら、そのファイルを手に取った。 A4タイプのフラットファイルは、少し分厚くて、何度も開かれた形跡があった。 ぱらぱらとめくってみる。 たいしたことが書いてあるわけじゃない。いや、篠田善治なる政治家に狙われているのはたいしたことかもしれないけど、その辺りは加藤さんから聞いたとおりのことが書いてあるだけで、新しい発見があるわけじゃなかった。 ただ一つ気になることがあった。 あたしが狙われた回数だ。 数回。 そう書いてある。具体的な日時や回数はわからない。 あたしが実際に狙われたのは十日前のあの一回だけだ。少なくとも、あたしが知っているのは。 今までにあたしは狙われていたのだろうか。それを、加藤さんがあたしに波及するまでに防いでいた? そういうことなんだろうか。それとも、単に言葉のあや? 水増し? よくわからない。よくわからないまま、あたしは、ファイルの片づけをのろのろと再開した。 全部片づけ終え、あたしは自分の席に着く。ぼんやりと頬杖をついてパソコンの画面を見つめた。 不意に、事務所のドアが開く。 あたしはすぐに我に返り、ドアの方を向いた。 入ってきたのは、加藤さんである。 「遅くなったかな」 軽く会釈しながら入ってくる。いつも通りのくわえ煙草で。 「こう、仕事が多いと目が回る」 そうぼやきながら、自分の席に着いた。 その仕事の一つがあたしの護衛なのだろう。少し、心が重くなる。 煙草を灰皿で消している途中、加藤さんはあたしの視線に気づいたみたいで、顔を上げた。 「どうした?」 「いえ」 あたしは視線を加藤さんから外す。 よくわからない表情を一瞬した加藤さんだったが、すぐに元に戻り、いつもの台詞を口にした。 曰く、 「岩沙君、お茶入れて」 である。 「ちょっと待って下さいね」 あたしもいつもの台詞をほざきながら、給湯室へ向かう。そこで初めて台詞の時にいつもの笑顔をつけ忘れたことに気がついた。 今更仕方がないので、あたしはそのままの表情でコーヒーを入れて、加藤さんの席に持っていった。 さんきゅう、と加藤さんが答えながらマグカップを受け取り、一口啜った。 「これ飲み終えたら、送るよ」 言われて、あたしは時計を見上げた。 もうすぐ六時だ。 「はい。お願いします」 あたしがそう答えたとき。 微かな異臭があたしの鼻を突いた。香水の匂いだろうか。 あたしの様子に加藤さんも気がついたのか、何かという表情をする。 「香水、つけてます?」 途端、いやらしい笑みを加藤さんは浮かべた。 「ふふ、気づいたか。なかなかいい香りだろ?」 「ええ、そうですね」 当然、社交辞令である。 加藤さんに、香水。似合わないこと甚だしい。笑っちゃうわ。 「それに、実はなあ」 加藤さんが、急に声を潜めてあたしに顔を近づけた。香水の匂いがさらに鼻につく。鼻に皺が寄らないようにするのが一苦労だ。 「これは女性の性衝動を高める効果があるものなんだそうだ。これで、今夜のエミリちゃんは俺のものだね」 …………。 「そうですか」 答えるまでに、多少のタイムラグがあったのは仕方ないと思う。呆れて言葉もでなかったのだ。飲み屋の女性のことを話されたのは今日が初めてじゃないけど、これほどそれに呆れたのは初めての経験だった。 そこでふと気づく。 もしそれが事実なら、それを今まさに嗅いでいるあたしはどうなるんだろう。 勿論、あたしが引きつりそうな笑顔をはりつけて、そそくさと加藤さんから離れたことは言うまでもない。 一時は加藤さんに送ってもらうのを止めようかと思った。 でも、状況が状況だから仕方がない。そう自分に言い聞かせながら、一緒の車中に収まった。なるたけ空気を吸わないようにするのは、一苦労だった。 「ありがとうございます」 車から降りて、そう礼を言いながらほっとしたことは否めない事実である。 「気にしない、気にしない。じゃ、おやすみ」 「おやすみなさい」 あたしは頭を下げて、車が発進するまで見送った。 それを見届けてから、あたしはマンション内に入る。 まったく。 エレベーターを待つ間、あたしは溜息をついた。 女性の性衝動を高める香水なんて、馬鹿げている。そういう冗談はやめてもらいたいものである。本気だったら、なお危険だけど。 そこで、ちょっとした疑問が浮かぶ。 本気なのだろうか。 冗談だろうと思う。確かに、危険だと思ったからあたしは加藤さんから離れたけれど、香水を吸ってしまったことに変わりがない。でも、別に何も変わらない。似合わないと思ったことと、性衝動どころか鼻につく匂いが逆に嫌に思ったものだ。 加藤さんは、そういういやらしい冗談をたまにする人ではある。 でも。 なんか変だ。 そう思いながら、あたしは降りてくるエレベーターの数字を眺めた。 その時、突然閃く思いつき。 「あ……」 あのあたしを調べてあるファイルに何と書いてあった? 『数回』 あたしが狙われたのはあの一回ではないのだ。その気づかない何回かは、加藤さんが防いでいる。そう思ったのではなかったのか。 とするなら。 もしかして。 あたしは、突然の思いつきのまま、踵を返して走り出した。 マンションの扉を出て、敷地を出る。立ち止まり左右を見回して、それとわからないと適当に右に走り出す。 目的地は加藤さんの車。 いるはずだ。 だって、あの人はあたしを守っているはずだから。 ――いた。 あたしの視界ははっきりと、去ったはずの加藤さんの車がマンション脇に停まっているのを捉えていた。 |