第十話 狙われる条件


 あたしは女である。
 多分、力はそう強くない。例えば、大人の男と力勝負しても勝ち目はないだろう。
 でも、しなきゃならないときがある。
 今がそうだ。
 現在あたしは、帽子を目深にかぶった男に口を塞がれて声も出せず、抱きつかれる形で両腕の自由を奪われていた。
 見ず知らずの男に抱きすくめられているという嫌悪感は勿論あったが、それ以上に混乱と恐怖が心中を支配していた。
 勿論、抵抗はしている。全身全霊を込めて暴れているが、ほとんど効果はないようだ。
 最悪なことに、視界の隅にもう一人似たような男が入ってきた。その直後に車が目の前に止まる。
 後から来た方の男が、車の後部座席を開け、あたしに向き直った。色の深いサングラスをかけたそいつは、薄く冷酷な笑みを浮かべた。だが言葉は発しない。
 なんなのよ、こいつら!
 あたしは混乱と恐怖の中で、そいつを見上げた。
 その刹那。
 あたしの自由を奪っている後方の力が、不意に緩まった。
「……えっ?」
 これ幸いにあたしは身体を暴れさせ、男から離れて振り返る。
 後方の野郎は、地面に倒れ伏してのびており、そのすぐ後ろには、見知った男の姿があった。
「か、加藤さん!」
 あたしは思わずその人の名を呼んだ。
 その瞬間、腹部に鈍いが強烈な痛みが襲ってきた。正面の野郎が鳩尾に拳を思い切り叩き込んでくれたらしい。
 痛みと嘔吐感がものすごい早さで脳の方に駆け上がり、あたしの意識を遮断する。
 完全に意識がなくなる直前、加藤さんが正面の男の顎を蹴り上げる姿が見えた。
 いい気味。
 少し溜飲が下がったとき、あたしの意識は完全に途絶えた。

 あたしが気がついたとき、まず目に映ったのは蛍光灯の光だった。
「気がついたか?」
 近くから加藤さんの声がする。
 あたしはゆっくりと上体を起こした。
 ここは事務所らしい。あたしは、来客用のソファに寝かされていたようだ。
 すぐ横に、加藤さんが立っている。
「身体の調子はどうかな? 吐き気とかはしないか?」
 あたしは聞かれるままに、自分の身体の様子を探る。
 別段、おかしくはない。吐き気も目眩もない。殴られたところも、そんなには痛くない。
「大丈夫です」
「そうか」
 加藤さんは、短く鼻から息をついた。それから、懐に手を伸ばし煙草を取り出す。
「落ち着いたら、部屋まで送るよ」
 さすがに、今度は断る気にはなれなかった。あたしは頷く。
 それを見てから、加藤さんはくわえ煙草のままふらっと給湯室の方に向かい、二つの液体の入ったカップを持ってきた。
 一つは黒い液体で、もう一つは白い液体。
 白い方をあたしの前に置く。匂いでわかる。ホットミルクだ。黒い方は、言わずもがな。濃くて苦いコーヒーだと思う。当然、加藤さんのだ。
「どうぞ」
「……ありがとうございます」
 考えてみれば、加藤さんが何か飲み物を入れてくれたのは、最初にこの事務所に来たとき以来だ。それ以降は全てあたしが入れている。そう考えると、ある意味貴重なホットミルクだ。
 一口飲む。
 少し甘い。
 砂糖がほんの少し入っているようだ。ほんのりとした甘味が、あたしの身体に染み渡っていくのがわかる。同時にまだ強ばっていた身体が、少しずつ解きほぐされていく。
 その間、加藤さんは何も言わず、ただ煙草を吹かしていた。
「あの……」
「うん?」
「ありがとうございます。助かりました」
 あたしは深々と頭を下げた。あの時加藤さんがいなければ、あたしは多分さらわれていただろう。頭を下げたのは、珍しく正直な気持ちだ。
「うん」
 加藤さんは、どうとも言わず頷いただけ。
「それで、一つ聞いてもいいですか?」
「どうぞ」
「助けてもらってこういうことを言うのは何ですけど、加藤さんはあの時、どうしてあの場にいたんですか?」
 はっきり言って、あれはタイミングが良すぎだと思う。世の中、そんなにうまくいくわけがないことは、あたしはよく知っている。普通、助けを願ったところで、助けは来ない。両親に置いていかないでと願っても、置いていかれるものなのだ。
 加藤さんは、今しがた吐き出したばかりの煙草の煙に視線をやった。そのままで口を開く。
「岩沙君はどう思う?」
「偶然とは思えません」
「だろうな」
 加藤さんが、視線をあたしに戻した。
「つけてたよ」
 あっさりと吐く。
「それは、どうしてですか?」
「聞くまでもないだろう。現実に起こったことを考えれば」
「あたしがさらわれそうになることを、加藤さんは知っていたんですか?」
「そうなるかもしれないという推測はあったな」
 加藤さんが淡々と答えた。
「じゃあ、あれはあたし個人を狙ったものなんですか? 突発的な誘拐とかじゃなくて」
「岩沙みゆき君を狙った犯行未遂だよ」
 加藤さんは表情を変えず、あたしを見据えている。その表情は別に生真面目なものでなく、いつもと変わらない普通の顔だったのだが、雰囲気が微妙に違うように感じる。
 あたしは沈黙した。
 あたし個人を狙った誘拐未遂。それは、一体どういうことなのだろうか。別段、人の恨みを買うようなことはしていないつもりである。そとづらには気を使っている。しかも、あたしの猫かぶりは、気づかれたとしても他人には迷惑をかけていないはずだ。
 あたしに何かあるのだろうか。というより――。
「加藤さんは、どうしてそれを知っておられたのですか?」
 加藤さんが初めて鼻で息をついた。
「少し君のことを調べさせてもらったから。不本意かい?」
 当たり前だ。
 だけど、あたしの表情も変わらない。長年の猫かぶり成果だろう。
「それは、どうして?」
「話すとそれなりに長くなるけど、聞くか?」
「聞く権利はあると思います」 
 そうだな、と加藤さんが微笑しながら、煙草の煙を吐き出した。そのフィルター近くまで吸いきった煙草を灰皿で揉み消すと、改めてあたしを見た。
「江田宏樹って人は知っているな」
 あたしは頷いた。一条さんに引き取られる前のあたしの保護者だ。あたしとの血縁関係でいくと、無関係という人でもある。あまり印象の強い人ではなかったけど、今までの保護者の家とは違い、あたしに何かしてくる家ではなかった。
 だけど、ある日突然、一条さんの所に行けと言われたのだ。突然言われるのもいつものことだから、あたしにとっては別にどうってことはなかったのだけど、追い出され方がすごく厄介払いっぽくて、そこが印象に残っている。なんとも思っちゃいないけど。
「江田は、君をこっちにやる直前くらいに、得体の知れない奴らに君のことを詮索されてたんだ。で、気味が悪くなって君を手放したというわけだ」
 初耳だ。
「あたしを詮索する得体の知れない人……」
「ま、俺と同業だ」
 つまり探偵の調査員ってことか。
 しかし、そんなものに詮索される理由なんてない。
「ま、江田家への詮索は済んだようで、もう現れていない。と同時にこっちに現れるようになったわけだ」
「こっちに……」
 あたしは、その意味を考えた。
 そいつが現れたから江田家を追い出されたのだとしたら、ここにそいつが現れたということは、ここももうすぐしたら追い出されるということだ。荷物をまとめておかないと。あたしはそう考えた。
 加藤さんは、あたしの考えに気がつかないようで話を続けた。
「そこまでされると、君が何者なのか調べる必要があるんじゃないかな。少なくとも保護者にとっては。――一条の指示だよ」
 確かに、被保護者になる人が何者かに詮索されているなら、その理由を知りたいと考えるだろう。ましてや、一条さんは探偵事務所の所長である。
「…………」
 あたしは、一拍間を置いた。
 理由はわからないけど、何かの核心に触れていくという感触がある。知らず、あたしの心臓が早まっていった。
「それで、その理由はわかりましたか?」
「まあ、全て、というわけではないがね」
「知っていることを教えてもらえますか」
「ここまで来て話さないわけにもいかないだろ」
 そう加藤さんが微苦笑した。
 そうですね、とあたしは答え、ホットミルクを啜った。
「事は六年前に遡る」
 六年前というと、あたしが十歳の頃だ。つまり、あたしが捨てられた頃である。
「そうだね、それに関係がある」
 加藤さんがあたしの心中を察したように言葉を続けた。
「君の父親の勤めていた会社である不正があった。企業献金に絡む不正だ。相手は篠田善治。名前は知っているだろう」
 勿論、知っている。与党篠田派の領袖で、次か次の次ぐらいの首相候補と言われている人だ。よくテレビに出ている、ヤクザと見紛うほどの強面のおっさんだ。
「当時、確か党の政調会長だったかな。まあ、それはいいんだが、その不正の内幕を君の父親が偶然か必然かは知らないが、知ってしまった。その不正はたちの悪いことに、間に右翼系団体が入っていて、篠田、企業、右翼三方ともに表に出すわけにはいかなかったわけだ」
 ここまで語られると、あたしにもある程度話が見えてくる。つまり、あたしの父親は、その三方に命を狙われたわけだ。
 話が事実であるならだけど。
「確か、企業の個人献金は禁止されているんじゃなかったんですか?」
 ない知識を総動員して聞いてみる。
「そうだね。だから、危険な秘密でもあるわけだ。右翼系団体を介しているのも、そのためだろうな」
 禁止されているからといって、実際に行われなくなったと考えている国民は、そんなにはいないだろう。形を変えて行われているに違いないと普通は考える。その一例というわけだろうか。
「それで、その不正を知った父親は狙われることになったわけだ」
 その結果、死んだのだろうか。その方が……。
「それで、君の父親は家族を連れて逃げたわけだ。連れ損なった君への安全もある程度考慮してさ」
「あたしへの安全……?」
「君が最初に預けられた家では、完全に戸籍から変えただろう」
 そうだったかな。確かに姓は変わった気がする。その後すぐに、また別の所に移されて、また姓も変わったから、よく覚えていない。
「すぐに他家へ移されたのも、君の父親の希望だよ。二転させれば、向こうも気づかないだろうということらしい。その後、引き取るつもりだったらしいが、なかなか父親への監視の目が緩まらず今にいたるわけだ。最初の移転だけは、君の父親の意向だよ」
「そうですか」
 何と言っていいかわからず、あたしはただそう答えた。
 その後、と加藤さんが話を続ける。
「監視は撒いたらしい。だが、向こうは諦めなかった。君の存在を突き止めて、行動を開始したというわけだ」
「あたしの存在……」
「ほら、岩沙君。露出狂に襲われたとき、別の追跡者を見つけたろう。あれが君を探っていた調査員だ」
 あたしはそのことを思い出しかけて、ふと気づく。
「それをどうして、加藤さんが知っておられるのですか?」
 加藤さんは、即答する。
「俺も君をつけてたからさ」
 なんだと?
「それは、今日だけじゃなくて、以前からあたしをつけてたと言うことですか?」
「四六時中というわけじゃないけど。俺も仕事があるし」
 何とも複雑な気分だった。
 確かに、不愉快である。だけど、そのために命を助けられたことを考えあわせると、簡単に非難もできない。偶然会ったホームセンターも、恐らく偶然ではなかったのだろう。
「篠田は、今では君を狙っている。君が狙われているのは、そういうわけだ。警察に言うかい?」
 加藤さんが、そう聞いてくる。
「言ったら、何とかなるものでしょうか?」
「どうだろうな」
 加藤さんが肩をすくめた。
「うまくいけば、篠田の不正は明るみに出て、篠田は逮捕。与党は選挙で惨敗を喰らって、政権交代までいくかもしれない」
「うまくいかなければ?」
「届け出は揉み消され、逆に君の情報や両親の情報が漏れて抹殺される」
 脅しではないだろう。実際にあたしは誘拐されかかった。その後のことを考えると、ちょっと怖い。
「加藤さんは、どうなると思われますか?」
「うまくいくなら、とうの昔に君の両親が届け出ているだろうということぐらいは想像できるよ」
「……そうですね」
「一番上手くいきそうなのが、君の父親が握っている情報を野党かマスコミに売るということだろうな」
「そうした可能性は?」
「ないんじゃないか。そうすると、必然的に君の父親の居場所がばれる。篠田は破滅するだろうが、右翼団体はフリーだ」
 八方塞がりじゃないか。
「どうしようもないということですか?」
「まあ、そういうことになるかな。どちらにしろ、篠田の情報を持たない君は狙われるしかないお姫様なわけだ」
 加藤さんが笑う。
 あたしは笑えない。
 なかなかハードな展開だ。
 テレビでしかみたことのない政治家が、父親を見つけられないから、あたしを見つけて狙っているらしい。三流サスペンスみたい。
「それで、父親というのはどうなったんですか?」
「生きてるよ」
 そうなのか……。生きてるのか……。生きて……。
「今では普通に暮らしてる」
 …………。
「君も見たことがあるだろう」
 ……へ?
「島村譲。君がホームセンターで見た男だ」
「…………」
 あたしは、声も出ない。
 あたしの脳裏に、あの疲れたような表情が蘇る。
 驚愕で声も出ないあたしに、加藤さんが追い打ちをかける。
「君をつけてる少年は、君の弟だよ」

 部屋のパソコンで、あたしは加藤さんから借りた(押しつけられた)島村家のデータを見ていた。
 そこには、男性二人と、女性二人の写真がある。
 男性は島村譲と優、女性は佐枝とさゆりである。
 こいつらが、あたしの血縁上の家族らしい。
 記憶を手繰れば、確かに父親の名前は譲だったし、母親の名前は佐枝、弟の名前は優だったように思う。それ以前、家族だった頃、あたしはそれぞれを、お父さん、お母さん、ユウとしか呼んでいなかったから、確信は持てないけど。
「……岩沙譲……岩沙佐枝……岩沙優……」
 あたしは、彼らの旧姓をつけて読んでみる。
 しっくりはこない。
 くるはずがない。
 あたしはベッドに倒れ込んだ。枕に顔を押しつけて、視界を暗くする。
 いろんな感情がないまぜになって、胸中に渦巻いている。
 あたしは大きく溜息をついて、身体をひっくり返し、天井を見上げた。
 いつもいつも、現状は……。
 あたしは、そのまま目を閉じた。
 今さら、どうしようもない。
 もう、どうでもいい。

 翌日、あたしはスーパーへと向かった。明日以降の食事のためだ。
 ふと立ち止まる。
 視線を周囲に回す。
 見知った顔は見えない。
 でも。
 どこかで、加藤さんがつけているはず。
 もう知ってるんだから、わざわざ隠れてないで出てきてもいいと思うんだけど。
 つけられているというのは、尾行者の姿が見えなくても、なんか嫌な気分だ。あまり心地の良いものじゃない。
 ただまあ、それであたしの安全が守られていると思うと、一概に嫌とも言えないのだ。複雑な気分である。
 あたしは、溜息をついて再び歩き始めた。
 スーパーは人でごった返していた。今日が土曜日だからだろう。家族連れも多い。
 うざったいなあと思いながら、あたしは買い物かごを持って食料品売場をまわる。サービス品を選んで、かごに入れていく。
 そして。
 菓子類の列を通り過ぎようとした足が、ふと止まる。
 その列にいた家族に見覚えがあったからだ。
 島村家だ。
 四人全員がいる。
 彼らは、末子のさゆりを中心にお菓子を選んでいるようだった。
「これ、欲しい!」
「こっちにしなさいな。これなら、お兄ちゃんも食べられるでしょ」
「いや、こっち!」
「僕はいいよ。さゆりの好きなのにしてあげて」
「いいの、優ちゃん?」
「うん」
「しょうがないわねえ。さゆり、お兄ちゃんにありがとうって言うのよ」
「うん! お兄ちゃん、ありがとう!」
「どういたしまして」
「これ一緒に食べようよ!」
「おいおい、まだ新しいのを買う気かい?」
「これは家族の分。お父さんとお母さんの分はこれ」
「ははは、結局三つも買う気かい」
「仕方がないな」
「いいんですか、あなた?」
「たまにはいいんじゃないか」
「みんなさゆりには甘いんだから」
 …………。
 つまんないホームコメディだ。
 あたしは、視線を元に戻して買い物を続けた。一人分だから、すぐに買い物は終わる。レジを通って、うざったかった店を出た。
 日が高くてうざったい。人が多くてうざったい。車がうるさくてうざったい。
 みんな、うざったい。     


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