その日の午後。 古い、あのぼろぼろの診療所の壁かけ時計が3つ鳴ってしばらく後に、白樺林の中道を抜けてきたのは、郵便配達人ではなく大石秀一郎だった。 朝早くに山を下り、街へ下りて一番の列車に間にあって、早々に目的を果たして自分の住まいへと戻っていたのだ。 今日の早朝、大石はきちんとした洋装に身を固め、乾に諸々のことを頼んでいた。シンプルだが非常に高級な素材で作られた外套まで手に持って、知らぬ者が見たらいったいこのボロボロの住まいのどこにそんなものがあったことかと思うだろう。 そうやって高価で洗練された服に身を包んで紳士然としているのは非常に彼に似合っていた。いつもの、生真面目で朴訥そうな、けれど少しくたびれたようなようすからは想像も付かない。 乾は幾度か見ているもので驚きはしなかったが、英二と来たら大きな目をさらにまんまるく、落ちるのではないかと一瞬心配するほど見開いて、大石のその姿に見入っていた。 きょとんとした英二に大石は笑いかけ、頭を二、三度撫でて手を振った。 彼が軋む扉を開ける段になって、ようやく英二はどうやら自分をおいて大石が出かけてしまうらしいと言うことに気づいたらしく、慌ててそのあとを追ってきた。 「おーいし」 「はい」 呼ばれて、大石は返事しながら小さく笑った。 彼はもう数日前から、青年医師の名を小さく口にすることが出来るようになっていて(どうやら乾が呼ぶのを見て覚えたようだったが)、それはとても青年医師をよろこばせた。そのたどたどしい物言いが逆に本当に力無いいきもののようで、哀れを誘いさえしたのだが。 「英二、ダメだよ、俺とお留守番」 乾に優しく大石から引き離されて、英二はうう、と小さく唸った。 言葉というほどのものでなく、泣くのと怒るのとのあいだのような声だったが、大石に仕方ないと言った風に抱きよせてもらうあいだだけはそれが止んだ。 そうして宥められても、いくら大石が抱きしめてくれても、英二はなかなか大石から離れようとしない。 なにをどうしても大石は自分を置いていくつもりだと彼なりに悟っていたようだ。 「英二。お土産を買ってくるから」 大きな目に涙を一杯ためて自分にすがりつく少年に、心を動かされない方がおかしいのだが、今日はどうしても英二を連れていくわけにはいかない。 「いい子だから。日が暮れる前には帰ってくるよ。――乾、じゃお願いするよ」 「ああ。任せとけ。英二、ほら」 ぽんぽん、と乾に肩をたたかれ、それでも英二は鼻を鳴らしていたが、やがてくるりと彼らに背を向けると診察室の奥の扉へ走っていってしまった。 仔猫のように扉をくぐると、ばたん、とその向こうで別のドアが閉まる気配がする。 どうやらいつもの、自分の部屋に閉じこもってしまったようだった。 「――おやおや」 「すまない、乾。夕べから一応言い聞かせていたんだけど、よく判っていなかったのかも知れないな」 大石はすまなそうにいうと、小さな鞄を持ってドアを出る。 「よろしく頼む。土産は何がいいかな」 「俺は良いから、英二を優先してやれよ」 友人の気遣いに軽く手を挙げ、大石は笑った。 そうしてもう一度「頼む」というと、彼は白樺林の中の細い道を下っていった。 ――それが、今朝方のことだ。 もういい加減、あの子の機嫌も治っているだろうか。 乾は、今日になんとか間に合わせた、綺麗に修理されたタイプライターを持参していたのでそれで少しは英二も気が紛れるといいのだが、等と思う。 留守番をしてくれた友人や、英二のためのお土産で膨らんだ鞄をしっかり持ち直すと、少し急ぎ足になる。 さびしい静寂に満ちた森の中でも、少しずつ鮮やかな緑の季節はそれなりに美しく、心躍るものだ。もっと暖かくなって池の側が柔らかい草に覆われるようになったら、英二を連れてピクニックにでも行ってみるのもいいだろう。 せっかくだから乾も誘って、などと考えながら歩いていた大石は、己の足が道を踏みしめる以外の物音を耳にして、ふと立ち止まる。 気のせいか、と思いながらももう少し耳を澄ませる。 時折響く小鳥の声以外は、やはり静かだ。 「――空耳かな」 つぶやいた大石自身の声に、次の瞬間はっきりとした声が被さった。か細い、今にも泣き出しそうな、恐怖に満ちた悲鳴は――もちろん乾ではない。 「……英二!?」 大石のいた場所から、その古びた診療所まではたいした距離ではない。 すぐに彼は住まいに辿り着いてその状況を目の当たりにし、そうして次の瞬間には頭に血を上らせていた。 それについて――そういう事態に至ったについて、何か事情や理由があるかもしれない、などという考えはついぞ浮かばなかった。 大石が目にしたのは、以前英二を此処に預けていった男と、なにやら押し問答をしている乾。そうして男に細い腕を捻り上げられて哀れな悲鳴を上げ続けている英二だった。 「何をしているんです」 大石は、彼らしくなく大声で叫んだ。 突然響き渡った声に男は驚いて力が僅かゆるんだらしく、英二はわあわあと叫びながら男の腕を振りほどいた。そうして、傍らの乾にしがみついたが、駆け寄ってきた大石を見ると夢中で飛びついてくる。 ほとんどパニックになってしがみつく少年をなんとか宥め、背後に庇いながら、大石は鋭く言った。 「何の真似でしょうか」 「――この子の見舞いぐらい、きてはいけないのかね」 男は大石の登場に驚いたようだったが、なんとか虚勢を張ることに成功したようだった。そうしてしゃくりあげながら大石にしがみつく英二を見ると、たちまち不機嫌そうな顔になった。 「その子は貴殿にずいぶんなついているようだな」 「――」 「患者を放って、こんなうさんくさい男に預けたまま留守にするとはどういうつもりかね」 『うさんくさい』男は、大石とちらりと視線を合わせ、少し肩を竦めてみせた。 「何か間違いがあったらどうするつもりだった。英二は病人なのだろう、医師が付いていなくてどうする」 「彼については貴方のご心配になるようなことはありません。身元もしっかりしておりますし、お疑いでしたら街へ下りて聞いていただければおわかりになるでしょう。本日留守にしたことについては、申し訳なく思っております」 大石はつとめて冷静に言った。 「中央医師会から呼び出しを受けて、再招聘についての協議を済ませてきたところです。これについては先延ばしに出来ませんでしたので」 「中央から。それはそれは」 男の口調は相変わらず嫌味に満ちていたが、とりあえずその件についてはそれで引っ込むようだった。中央の医師会は絶大な地位を誇る。それと僅かでも繋がる大石に、いろいろとねじこむのは得策ではないと考えたのだろうか。 このような男は権力や地位に関する話題を出せば納得する。非常に愚かなことだが、わかっていて殊更口にする自分もたいがい下らないものだと大石は自嘲した。 「中央でも貴殿の才能を未だ惜しんでいるということだな」 「……」 「中央へ復帰されるのかね」 「しません」 大石の答えは簡潔だった。 男はまだ何かを卑屈に問いたそうだったが、やがて気を取り直して震えている英二へと視線を下ろした。 「それにしても、英二は顔色もよくなったし、喋るようにもなっているとはな。儂がここへ来たときはその男と笑っていたぞ。短期間によくこれだけ快復したものだ」 呼ばれたことが判ったように、英二はびくりと身体を震わせた。 その恐れようがしがみつかれている大石にはすぐに伝わってくる。おーいし、と呼んできたのが判って、ぽんぽんと背中を叩いてやった。 男は英二のその態度、大石の扱いようにもさらにむっと来たようだったが、どうしようが彼の所有権は己にあるのだと言うことを思い出したのか、余裕を見せてことさら肩をそびやかしてこう言った。 「これだけ反応があれば、もう十分だ。今日は様子見のつもりだったが、これなら連れて帰っても大丈夫だろう。このまま引き取らせていただきたい」 男はずかずかと大石に近寄ると、しがみついて震えている英二の手をもう一度取ろうとし、英二にさらに悲鳴をあげさせる。 「英二、こっちにくるんだ」 「……」 「こっちに来なさい。儂と帰るんだよ――そうやっておとなしくしているんなら、なにも儂だって鬼ではないんだ」 英二は首をふってますます怯えるばかりだ。 「わがままもいい加減にしなさい。なんでも好きなものを買ってあげるから、こっちへおいで」 肩を掴まれ、英二はううっと小さく唸った。 小さな――それは本当に小さな、喰われる小動物のせめてもの抵抗のような声。まさに噛み切られる喉笛から出る、末期のひと声にも似た。 そう思った瞬間に、大石の身体は動いていた。 「お帰り下さい」 男が伸ばす手を振り払い、自分の背後に隠れる英二を庇うようにして大石は言った。 「今、この子をお渡しすることは出来ません」 大石は物言いは変わらず穏やかであったが、しかし冷たかった。 「なんだと」 「お渡しできません、と言いました」 そうして少し目を細める。 黒い色の瞳が柔和な印象を与える青年医師だったが、そうしていると鋭利な、有無を言わせぬ迫力に満ちている。 「しかし」 男も食い下がる。 「これほど元気になっているし、ちゃんと人を見れば反応しているではないか。あとはこのままこちらで面倒をみる。ここまで治れば、あとはもう大丈夫だろう」 「医師の言うことには従っていただきます。――この子の精神状態に限らず、毒によって神経系を侵されていたとしたなら、もう少し投薬治療を続ける必要がある。途中でやめたら、元も子もなくなりますよ」 あくまで冷たい物言いの大石に、男は不満を露わにした顔で言った。 「その投薬治療とやらに、あとどれほどかかると言うのかね」 「一週間……いえ、十日」 「そんなにか。いや、投薬だけなら、街の医者どもでも出来ることだ。どのような薬を用いているのか、教えていただければこちらでどうにでもする。とにかく英二を返してくれ」 「だとしても今日はお断りします。この子のこの怯えようでは、別の発作を引き起こしかねない。この子の本復には精神的な安定が必要です。とにかく今日はお引き取り下さい」 大石はきっぱりと言った。 男はまだ何か言いたげだったが、背の高い青年ふたりに英二を遠ざけられてはどうしようもない。 「では、今日は帰る。――しかし、それだけ回復しているのなら、もう待つ必要はない」 男はしばらくの沈黙の後、憤慨したようにそう言った。 「今日からきっちり三日後にその子を迎えに来る。もちろんそれ相応のものは支払わせていただく。その子の主である儂がいいというのだから、貴殿に反論の余地はないはずだ」 「――」 「それ以上は一日たりとも待たない。貴殿の熱心な医療行為には感謝しているが、英二は儂の持ち物だ」 「……」 「そこのところを、お忘れないよう」 それが男の捨て台詞だったのだろう。 まだもうひとことふたこと言おうとして、大石の冷たい眼光にたじろいだかのように彼らに背を向けた。 その男の姿が完全に彼らの視界から消えるまで、乾は勿論大石も口を利かなかったし、英二も喉を詰まらせるような可哀想な泣き方をしているばかりだった。 ようやく、男が遠く白樺林の向こうに消えて、大石は英二をよしよしと抱き寄せた。 「怖かったな、英二」 「――お」 おーいし、と英二は呼んだが、やがて安心感からか、大きな目に涙を溢れさせた。 「すまなかったな、大石」 英二を宥める大石に、乾がすまなそうに言った。 「突然のことでどうしようもなかった。英二をこんなに怖がらせるつもりはなかったんだが」 「いや、仕方なかったよ。――英二、もう大丈夫。俺と乾しかいないから」 目を真っ赤にして顔をあげた英二は、それでもまだ何か心配なのか周囲をきょろきょろと見回している。 「せっかく昼は、タイプライターで機嫌良く遊んでたのにな。可哀想なことをしてしまったよ」 「もういいよ。さ、英二、お土産を買ってきたよ。家に入ろう」 乾と大石に宥められながら、ようよう安心して英二はあの古びた診療所に戻る。 その頃には、空はうっすらと暮れの色を帯びて薄紫へと変化し始めていたのだった。 ――おまえがそれほど此処へ戻ってくることを嫌うのは。 眼鏡の向こうの、鋭い端正な視線が自分をまっすぐに見る。 厳しく、僅かにいたましげに。 辞去の挨拶のついでに振り返り、自分も彼と視線を合わせた。決してそらすつもりはなかった。 ――やはり、あの少女のことか。 ――……。 ――あのことはお前の責任ではない。お前にも、お前以外にも、どうしようもなかったことだ。 ――……。 ――俺には、それ以外なんとも言いようがない。けれど、これだけは断言できる。お前がそこまで自分を追いつめる必要はないと言うことだ。あのことに関する罪ならば、俺自身にだって十分に……。 ――それじゃあ、時間をとらせたね、手塚。 自分は友人の言葉を遮り、難なく笑えた。 笑顔、の形を作るだけならなんとでも出来る。顔の筋肉を動かせばすむだけの話だ。 ――元気で。君の活躍を祈っているよ。 そう言った彼に、もう旧友は追いすがる気配を見せなかった。 深く嘆息し、小さく、『お前も元気で』というようなことを言ったようだった。 中央の街の中でも、1、2を争うほど広く立派な建物から出てきたとき、まだ時刻は昼を少し回ったところだ。 石で組まれた美しい――固い、冷たい都。 人はさざめき、洗練され、手に入らぬものはない。 けれどその中にいればいるほど、新緑の美しい白樺の中の英二に早く会いたくてたまらなくなった。 この街を抜け、列車に揺られ、田舎町の片隅の山へと登ればあの子が待っている。たどたどしい可愛い声で、おーいし、と呼んでくれる。 早く帰りたい。 この場所から逃れたいと思うのではなく、英二に会いたくてたまらなかったのだ。 その夜。 三人のささやかな夕食を終えて、乾と大石は例の居間兼診察室で、がたがたする机に肘をのせ、向かいあって座っていた。 今日はここに泊まる予定であった乾からの、心づくしのささやかな酒を少しずつ口にしながら、何故かどちらもしばらく黙っていた。 英二を寝かしつけようとしたが、昼間のショックがまだ尾をひいているのかどうしても大石から離れようとしない。おーいし、おーいし、と小さく呟き続け、そう出来ることが嬉しいのか、大石と目が合うとにっこりと笑う。 そのあどけなさがなんとも言えず愛しく、大石もついに折れて英二をそばにいさせることにしたようだった。 現在の英二は椅子に座らず、床に直接古いクッションや毛布を敷いて座り込み、大石の膝の上に頭を持たせかけてぼんやりしている。あの男が見たら卒倒しかねない光景だと乾は思った。 「――話し合いは上手くいったの」 乾はしばらくしてそんなことを言ってきた。 「君のご友人の説得も、功を奏しなかったみたいだね」 「功を奏するもなにも」 大石は少し笑った。久しぶりに口にする酒の味を噛みしめるように、少しずつグラスを空けていく。 「もともと最後通牒のつもりだよ。次はないと思ってくれ、とだけは言ってきたけど」 「どうしてそんなに、中央に戻るのがいやなの」 乾はさらりと聞いてきた。 「君がいやがるかもしれないと思って、なんとなく聞くのは避けてきたけど此処までになると興味がわいてしまうね。――いや失礼、答えたくないならいいんだ」 「……」 「気に障ったならごめん。俺の好奇心が強いのは自覚しているけど、君までそれにつきあう必要はないからさ」 「いや。別に」 大石は少し笑った。そのついでに手を伸ばして英二の髪をさらさらと撫でる。大石は何気ない仕草のつもりだったのだろうが、英二の方は嬉しそうに目を細めて大石の膝に頬をすりつけている。 「昔、患者を死なせた」 大石は英二の髪を撫で――嬉しそうな英二を見やり、口元をほころばせながら、そんなことを言った。 「英二よりまだ幼い、可愛い女の子だったんだけどね。英二よりよっぽど酷かった――両親からたび重なる虐待を受けて、文字通り廃人だ。病院に来たときは眠ることすら出来やしなかった。俺の同期や、院長も匙を投げていたな」 「――」 「名声とかそういうことはどうでもよかったよ。俺はその子が可哀想でしかたなくて、ほとんど一年近くつきっきりでいた。その子が初めて俺のことをせんせい、と呼んでくれたときどれほど嬉しかったか。……二年もたつ頃には、普通の少女と変わりなく、笑って喋って、本当に明るい元気な子になっていた」 「そのこは、どうしたの」 「元気になって退院して――すぐに死んだよ」 大石は何か非常な苦痛に耐えるような表情を、ほんの一瞬見せた。乾がそれを見逃すはずはなかったが、あえてそのことについて追求もしない。 大石はまたグラスを傾け、少し酒精にたぶらかされたぼんやりとした目つきに戻った。 英二は相変わらず、おとなしく大石に髪を梳かれるままになっている。眠そうに目はとろりとしているが、自分の部屋に行こうとはしなかった。 「両親が随分な権力者でね。娘がいつまでも精神科に入院なんて世間体が悪い、と言って、退院させたんだ。――俺は、止められなかった」 「――」 「親は親だ。実の娘を手元に戻すのだから、俺に限らず、誰も止められるはずがない。あの子は両親の元に戻って、たった三日後に、両親に殴られ続けて死んでしまった」 乾は何も言わない。 大石も、だからそのあとどう思ったか、自分がどれほど罪悪感を感じていたかなどということを、延々と並べ立てるようなことはしなかった。 何気ないふうを装って語るそのことに、きっと彼はひどく苦しんだのだろう。あの賑やかな街での地位も名誉も、享楽に満ちた豪奢な生活も全て捨ててしまうほど。 その一件ののちにどれほど彼に葛藤があったか――おそらく彼自身死を意識するほど苦しんだことは想像に難くないのだが、大石はそれを言い訳じみたことと思っているのか、己の痛みについては口にしなかった。 「俺はあの子を、わざわざ苦痛をもっとも感じる状態にして送り返したようなものだ。同じ殺されるなら、なにもわからないままのほうがよかったんじゃないだろうか」 「――」 しばらくの沈黙の後、大石はひと呼吸おいて、だから、と続ける。 「だからもう、それからどんなことになろうと、あとでどうなろうと、患者の病状を回復させる以外のことは考えないでおこうと思ったよ。けれど、あそこにいれば似たような患者が次々に俺の元を訪れる。だから」 「ここに来たのか」 「逃げ込んだんだよ」 大石は自嘲気味に言った。 「ここならたいした患者は来ない。こんなところまで来るような物好きなんてそうそういやしない。――英二のようなのは特別だけどね」 自分の名が出るたび、英二は嬉しそうに、何かを期待するかのように大石を見上げる。それに応えて髪を撫でたり、時折くいくいと引っ張って英二を少しいやがらせたりしながらそれにつき合っている大石は、それでも時折、部屋で休むように英二に言うのだが、英二はすぐに首を振る。 大石があの男を追い返したので、ますます彼を信頼し傾倒しているようだった。 「それで。どうするんだい」 乾は小さく大石に問うた。 「どうする――とは?」 「君はどうするの、今回は」 「今回?」 「英二を返すのかい。あの鼻持ちならない男の処に」 「――」 大石は自分の膝から離れない英二を愛しそうに見やり、一瞬、非常に熱のこもった男の顔になった。いますぐに抱きしめて、くちづけでもしそうな。 「英二は患者で、俺は医者だ」 「――……」 「言ったろう、この子の病状さえ回復すれば、俺はそれでいいんだ。それ以外は考えない」 「今にも死にそうな顔で、そんなことを言われてもね」 乾は小さく、少し哀れむように笑った。 「どんな方法でもいい。考えることはしないのかい。――彼を手元に置いておけるような」 「俺に何が出来る」 大石は自嘲気味に笑った。 「俺には金も権力もないよ……あの子のときも何も出来なかった。英二の時もそうだろう。よしんば手元に置けたとしたって、こんなボロボロのすきま風の入ってくるような場所で、新しい靴の一足も買ってやれないような寂れた暮らしをするより、せめて食べるに困らないほうがいいんじゃないか」 「それは君の勝手な思いこみだと、俺は思うけどね」 「――」 「物に満たされていたって辛いことはいくらでもある。心の平安を保てなければ幾ら豊かであってもむなしいだけだ。……それは君が、一番よく判っていることじゃないのかい」 乾はグラスを空けた。本当ならもう一杯ぐらい飲んでもよさそうなものだったが、友人の明日の夜の供にとでも思ったのか、半分以上残った酒の蓋をきっちりと閉め直して席を立った。 「今夜はもう遅い。……英二もそろそろおねむだろう、俺は失礼して寝かせてもらっていいかな」 「ああ。俺の部屋を使ってくれ。――俺は英二の部屋で寝るから」 英二は相変わらず――と言うよりほとんど毎夜、大石の傍らで寝入ることに決めているようで、今日も当然のように自分ひとりでは何が何でも寝ないつもりのようだ。 いくら何でもそろそろひとりで寝させなければ、と大石も幾度か心を鬼にして、夜は自分の部屋に閉じこもって英二を遠ざけようとしたのだが、そのたびに部屋の前で英二に座りこまれ、世にも哀れな声でしくしくと夜通し泣かれ続けて、ついに根負けした形だ。 何日かすれば諦めるだろうと思っていたが、英二は存外に強情で大石と離れることをいやがっていやがって仕方なかったのだ。 あんな可哀想な、今にも死にそうな泣き声を聞きながら眠れるほど大石も鬼ではない。 「英二は、本当に大石が好きだなあ」 立ち上がって寝室に向かうのかと思いきや、乾は英二のそばに座り込んだ。 大石の膝になついているあいだは、英二はおとなしい。本来とても明るい元気な少年であったことが伺える愛らしい笑顔や、ちょっとした悪戯を試みるようになってからは、よけいにそのようすが可愛く健気だった。 「大石も、本当にお前が好きで仕方ないと思うよ、英二」 髪を撫でると、英二はふっと顔をあげて乾を見やる。 「少しつらい思いをしたひとだからね。お前を苦しい目にあわせたくないばかりに、悩んでいるんだと思うから」 「……」 「何にも心配しなくていいよ」 謎めいた言葉をかけ、立ち上がって手をあげお休みと挨拶して、乾は扉の向こうに消えた。 静かなその部屋には、大石と英二の二人が残される。 乾もいなくなってしまったし、大石が髪を梳いてくれる手も止まってしまっている。そろそろ眠そうな気配を漂わせていた英二だったが、やがて大石が頬に触れてきたのでそちらを見上げる。 「英二」 思いつめた大石の顔に、英二は少し首をかしげた。 沈黙の中、その顔があまりにも厳しい――硬い表情だったので、英二はどうしたのかと言いたげに頬に添えられた大石の手に自分の手を触れさせた。 「英二」 その愛らしい花のような顔をそっと両手で包むと、その小ささにまた大石の胸がときめいた。 それ以上に悲しくもなる。 「英二、許して」 どうしたの、と言いたげに伸ばしてくる英二の指は、大石の頬をはらはらとつたうものを拭った。 「おー、いし」 唇をぎこちなく開け、英二は呼んだ。 「おおいし」 どうして泣くのか、という言葉を、英二はまだ操ることが出来ない。 「英二」 抱きしめられ、英二は少し苦しそうに身もがいたが、やがておとなしくなる。 英二の腕があがって大石の背中に回った。きゅっとしがみついてくるいじらしい様子が、また大石を切なくさせる。 「英二」 顔をあげた彼に、大石は唇を寄せていた。いやがるかと思ったが、英二はぼんやりと目を開いたまま彼からの初めてのくちづけを受けた。 そっと押しあてるような、ごくひそかなくちづけはたった一度。二度目を試みるようなことはしない。 そんな権利は自分にはない。 「おー、いし」 薄汚れたガラス窓の向こうは、ただの闇だ。 闇に閉ざされた森を越え、山を下り、はるかその向こうの虚飾の街が、やがてこの子の連れてゆかれる先だ。 丁寧に手入れされ、磨かれ、丁重に扱われる――弄びもの。 あのとき自分にしがみついてくる少年を抱きしめて、お前などに渡さないと言ってしまえたらどれほどよかっただろう。 こんなあどけない、こんないじらしい、こんなあわれないきものを、あの男にやがて渡さなければならない。 英二のことを、なぐさみものにしかしない男に。 英二の髪を梳いてやることもしない。ともに池のそばを散策もしない。 花びらを振らせて、綿毛を吹いてやって、彼をよろこばせることもあの男はしないだろう。 英二を心から愛することさえ。 乾に言われるまでもなく、連れて逃げられないかということぐらいは、とっくに考えた。そんな力は自分にはないことを判っていて、どこか空気のいい綺麗な場所で英二と二人で、などと子供の夢物語じみた空想に長くひたったことも一度や二度でないのだ。 暮らし向きに不自由のない生活が一番だ、と己の今の環境と引き比べてみて、無理に納得しようともする。 惨い目に遭わせるぐらいなら、いっそ彼がやすらかなうちにとさえ考える。 自分の泣き声が、やすんだ友人の耳に届かないことを祈りながら、大石は喉を詰まらせ低く呻くように泣き続け――英二を抱きしめ続けた。 世界は夜であったが、やがて明けて朝が来る。 太陽を呪って夜を引きとめ、世界がこのまま失われることを望んだ者は、過去にどれほどいたのだろう。 明けなければいい、夜など。 永遠に闇のままの世界でいい。 そんなことは決してあり得ない、とよくよく判っていながらも、それでも大石は祈り続けた。 儚い弱い小鳥のような彼のために。 あの男が闇に紛れ道に迷って、この子を迎えにくることが永遠に出来ずにいるように。 太陽を退け、夜を留める、世界で最初の人間になれるように。
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