三日後。
 郵便配達人の彼よりずいぶん早く、男はやってきた。
 大石は憔悴しきった様子で、しかし英二をわざわざ診療所の外へ連れ出し、男をまつようなこともしなかった。
 なんのよい案も浮かばないまま、この日を迎えてしまった。
 自分でもどうするだろう、と思っている。
 男が英二を連れて行こうとしたら――冷静でいられる自信がないのだ。もの判りよく見送ることなど出来ない。
 英二があの、世にも可哀想な泣き声で自分を呼んだら。
 男を殺してしまうかも知れない。
 そんな悶々としている大石のそばから、英二は離れようとしなかったが、扉をあけて入ってきた男を見るなりううっと怒りの声を上げた。
「朝早くから失礼するがね。――英二を返して頂きに来た」
「――」
「さあ、英二」
 英二はふるふると首を振り大石を見上げてくる。
 その英二と視線が合った瞬間、大石はいろいろと自分なりに納得もしようとしたこと、これは仕方のないことだと言い聞かせていたことすべてを忘れて、英二を庇いに前に出た。
「待ってください」
「なんだね」
 男は当然の事ながら不快感を露わにする。
「待ってください。――どうか俺の話を聞いていただきたい」
「何を聞くことがあるのかね」
 男は大石の必死の形相を見て何か察しを付けたようだったが、ややこしいことになるまえにと思ったのだろう。英二にさらに声をかけた。
「英二、いい子だ。今日はおとなしくしているんだよ。家には新しい玩具を用意してあるからね、楽しみにするといい。さ、こっちにおいで。儂と帰ろう」
 英二は、大石の影から男を睨みつけていたが――やがてきっぱりこう言った。
「やだ」

 
 その物言いがとても可愛らしかったので男は目を細めたが、大石はえ? というふうに傍らの英二を見た。
 英二から、こんなにはっきりとした言葉を聞いたのは、これが初めてだったからだ。
「やだ。俺、帰らない」
「英二」
「俺ここにいる。ここでおーいしと暮らす」
「え、英二……」
 いつの間にそんなに会話が出来るようになっていたのか。
 あまりに突然なことに動揺する大石を男はどう思ったのだろう。ますます気持ち悪いような猫撫で声で、少年に言い聞かせようとする。
「お前がうちに帰らないと、このひとがとても大変なことになるんだよ。――儂にはそういうことが出来るからね。もうそこまで元気なら、儂の言っている意味が分かるね、英二」
「――」
「このひとに迷惑をかけたくないなら、儂ときなさい」
「――」
「英二」
 英二はしばらく男を睨みつけていたが、やがてふう、と小さくため息をついて大石の背中に張り付くのをやめた。
 さりとて、金と権力に勝てぬ哀れな様子を見せて男のところに悄然と行くわけでもない。
 無理矢理引き裂かれる恋人を見るように、大石を涙ながらに見やるでもなかった。
「おーいし」
 何度呼ばれても、この子の声は可愛くて嬉しくなるなあ、などとのんびりと大石は考えていた。英二はその間にとことこと部屋の端に行き、なにやら太い柱の残骸のようなものを持ってきて大石に手渡す。
「これ」
「?」
「こうやってもってて。縦に。うん、そう前に付きだして」
「?」
 随分長いあいだ部屋のすみに放ってあった、棒と言うにはあまりに太い、けっこうがっしりとした木である。
「そのままね、うごかないで」
 可愛く言う英二に、またもや大石の顔がとろけかけたが。

「しっかり持ってろ」
 次の瞬間響いてきた、はっきりとした低い――ドスのきいた声が。
 それが英二の声だとすぐには、気づかなかったのだ。


 はっ、と言う気合い一閃。
 それは見事なローリングソバットが決まったのは、その直後だった。
 相当太いその木は見事に砕かれ、勢いに押されて大石はその場から吹っ飛んだ。
 怪我をしなかったのは僥倖だったか。
「なーに俺に向かってエラっそうにぶっこいてんだよ。ああ? またこうなりてぇのか、てめえ」
 ぱきぽきと両手を鳴らしながら、英二は顎をそびやかして、あまりのことに腰を抜かした男を見おろした。
それからやおら大石を振り返り、
「おーいし、ちょっと待っててね、はなしつけちゃうからねえ」
 などと非常に可愛い声で、英二は言う。
 それはそれは花のように、花がひらいたようににっこりと笑って言う。
 大石は――。
 大石は……。
 ……。

 柱の残骸の、そのまた残骸――英二が蹴り一発で見事に折った木の残骸を両手に持ったまま、やっぱり腰を抜かしていた。



「英二っ、足でものを壊すのはお行儀悪いからやめなさいと言ったろうっ!」
「うるせえよ」
 どかどかと男にケリをいれる。そんなにしたら死ぬんじゃないかと大石がとめようとしたが、英二は実に楽しそうだった。
「だいたいな、いまのいままで大人しくしてやってたんだから、これぐらい許されていいっつの。そもそもテメエ、大石を威す前に人身売買やったっつー自覚あんのか、ああ? 出るとこ出たら俺が勝つんだぜ」
 執筆者のご都合主義で、せっかくなかったことにされている違法行為を此処で持ち出すのもどうか、と思うが。
「ウゼエってんだよ、訴えられたくなきゃとっととどっか失せやがれ、このロリコンジジイ! ……俺はおーいしとここで暮らすんだもん、ね」
 台詞の途中で振り返った英二は、やっぱり笑っている。何度見てもかわいくてかわいくて仕方ないのだが、どうして自分は足が竦んでしまうのだろう。
 可愛い仔猫どころか、今の英二はほとんど荒れ狂う野生動物(しかも肉食)である。
「なんでそんなひどいことを言うんだ、英二っ」
 男の威厳もどこやらふっとんでしまったようだ。
「パパは英二が欲しがるもの何でも買ってあげたじゃないかっ! お洋服も宝石も美味しいものも、船も家も金塊も土地も絵画も株券もっ!」
 羅列されてゆく後半にはさすがの大石もツッコミをいれようかと思った。英二と男の怒濤のやりとりかなければ、だが。
「あー?」
 英二はさらに目をつり上げる。大石に対するときと、声がオクターブ違っている。
「いくらものくれたって、テメエみたいなしなびたジジイと、大石とじゃそもそも比べもんになんねえだろが、ああ? 若さがチガウっつの、わ・か・さ」
 え? と言う目で、男が大石を見てくる。
 ひょっとして英二と、と言う意味合いが込められたその視線に対し、誤解だと言いたかったが英二が口を挟ませてくれない。
「前途有望でいくらでも金稼ぐアテのある大石と、棺桶に片足ツッコンで後は死ぬのを待つばかりのテメエとじゃ、雲泥の差ってゆーの? 第一、てめえ俺様を説得できるだけのモノもってんのかよ、ジジイのじゃテクも持続時間もねえし、入って3秒、カラスの行水以前の問題、そんなんじゃ全っ然イカねえっつの」
「英二、はしたない……」
 大石はようようそれだけを言ったが、ツッコミどころは別の処にあるだろうとか、そもそも比べられるようなことはしていないとか、そこに考え至る頃には、英二はまたしても男に、さっきの柱を砕いたのと同じ勢いのケリをいれていた。
 ああ外科は専門外なのに、と大石はその光景を見やる。
「し、しかし英二、イクもイカないも、パパには英二のこと指一本触れさせてくれな……」
「うるせえ! そのキモい言い方やめろ! 誰がパパだっ」
「たのむから、よその人の前ではおとなしくしてくれ、英二っ」
 男は頭を地面にすりつけんばかりの勢いで哀願している。
「お行儀が悪いといつも言ってるじゃないか。パパは恥ずかしい――こ、こらこら、蹴るのはよしなさい、パパはやっとアバラがくっついたところなんだよ」
「おー、えらく早い回復だなあ、もっかい砕いてやろーかコラ」
「え、英二」
 大石はそこでやっと動くことが出来た。
 床に這いつくばった男をどかどかと、蹴ると言うよりもう踏みつけ続ける英二を止めようとする。
「だ、駄目だよ英二、そんなことをしたら――相手はお年寄りなんだから」
「大石は優しいなあ」
 英二は振り向いてにっこり笑う。
「あ、でもコイツだめ。年食ってても性欲だけは一人前、つーかそれ以上にありやがるの。しかもロリだしさ。パパだよ〜なんつって、気色ワリィったらありゃしねえ」
「英二〜っ」
 ああうるせ、とまたケリを入れた英二は、部屋の隅に置かれたままになっているタイプライターの周囲の紙束の中から、なにやら取り出してきた。
「コレなーんだ?」
 ぴらりと英二が男の目の前にひらひらさせた書類を、男も、そして大石も目で追った。
「――な、なんだい、英二、それは……」
「俺の譲渡契約書」
 悪役よろしく煙草でもぷかーっとふかしたそうな英二であったが、残念ながらここは病院なので煙草はない。
「あんたが、大石に俺を無償譲渡するって言う契約書。俺自身と俺に贈与した一切合切の権利放棄も含めて。ホレ、ここにサインしな」
 そんなものいつのまに、と言いたそうに、また男は大石を疑いの目で見た。
 人身売買の違法行為はいいのだろうか、とちょっとズレて考える大石は、しかし潔白である。その契約書やらの何やら小難しい文書は、きちんとしたタイプ打ちの正式なものだ。
(英二……そんなことにタイプライター使ってたんだ……)
 嬉しいやら――なにやらそれにも増して切ないやら。そもそも譲渡される本人がそういう契約書をつくるのもどうかと思うが。
 大石は乾いた笑みを……というより、もうほとんど顔の筋肉にすら力が入らないほど脱力してしまって、目の前で展開していく怒濤のなりゆきを見守っていた。
「そ、そ、そんなもの儂がするわけ……」
「文句言うならコレ」
 そう言って英二が差し出したのは、もうひとつの何やら秘密めかした手書きの紙の束である。
「アンタが後生大事に、お屋敷の金庫に、いかにもアヤシイ書類です、って感じで隠してたやつ」
 男は目を白黒させながらもそれにちらりと視線を走らせたが、やがてげっと唸ってその束を英二の手からひったくった。
「こここここ、これ……これが、これがなんでこんなところにっ!」
「いーのっかなー、そんなものが世に出たら、大変だよねえ、アンタ」
「え、え、英二……」
「ご覧のとおりそれはコピー。今頃とても親切な郵便屋さんの手によって、原本とコピーとがうーんと遠いところにばらばらと散らばってることだろうねえ」
(――乾……)
 あやしげな郵便配達人とは思っていたが、そういうことをやらかしてくれるとは。タイプライターの入れ知恵もよもや彼か。
「――てめえの身の安全を保証するにはサインひとつ。たったそれだけじゃん、カンタンカンタン」
「英二―っ」
「泣くなウゼエ」
 何かをどかどかと蹴り飛ばす音が聞こえてくる。
 大石は思わず目を背けてしまう。
 気の毒で見ていられなかった――その金持ちの男が。
 ついさっきまであんなに憎かった男だが、今はなんだかとても可哀想で同情したくなる。
「さ、俺は今からいろいろ忙しいんだよっ、ちゃっちゃと選べ。あの書類バラまかれて手ェ後ろに回るか、その池のおサカナの餌になるか、それとも」
「――」
「ここにサインして、無事に帰るか」
 ――世にも恐ろしい選択肢がひとつ増えている。
 男だけでなく大石も心底怯えていたのだが、英二は気にしたふうもないようだった。

 ほうほうのていで逃げて帰った男の背中に、『二度とくんなボケ』と中指をたてながら怒鳴りつづける英二の後ろで、おもわず『お大事に……』などと呟いてしまったのは、嫌味でもなんでもない。心の底からそう思ったからだ。
 今にして思えば、男が英二をあれほど早く手元に連れ帰りたがったのは、大人しい可愛い彼のままでいてほしかったからではないだろうか。
 大人しい可愛い――せめて、アバラを折られたりしない程度には。
「あー、さっぱりした」
 英二は晴れやかに言う。
「あ、大丈夫だよ大石。これであいつ二度と来ないし、絶対変な手出しとかしてこないから」
 それはそうだろう。
 もしも此処でなにか在れば、その「重要書類」とやらはすぐにしかるべきところへ届けられるようになっているらしいのだから――それは、男も自分の身が可愛かろう。
 あれだけ英二にボコボコされて、それでもまだ未練たらたらであったのだから、そこはスゴイと大石は素直に思ってしまう。
「あの……英二?」
「うん?」
 仔猫のような可愛い伸びして、くるりと彼は振り返った。
 今までの人形のような彼でなく、目にも表情にも生き生きとした力が漲っている。それはそれで、ますます彼の愛らしさを引き立てていて、思わず目が離せなくなった。
「ああ、俺? うん、ほんとはちょっと前から正気になってたんだ。大石には嘘ついてごめんね」
 ととと、と走り寄ってきた英二は大石の隣にぴたっとくっついてきた。
「でも、大石に言う前にあいつをなんとかしなきゃと思ってたもんだから……ほんとにごめんね、怒った?」
 怒ると言うよりちょっと怯えてます、とは大石は口にしなかったが、なんとか『怒ったりはしないけど、どういうこと』とだけをきいた。
「俺ね、実は東の国から逃げてきたの」
「逃げ……」
「あっちでオッサン2,3人色仕掛けで騙くらかして金巻き上げてたんだけどさ、いい加減どいつもしつこかったし、ストーカーみたいになるしでいづらくなったから、船に密航して。奴隷商人の品物のふりしてやり過ごそうとしたら、あのエロジジイにお買いあげされた」
 とりあえず食いっぱぐれはなさそうだったからついて行ったんだよね、とあっけらかんと言う英二に、大石は自分の中のなにかが崩れていく気はしたが、とりあえず卒倒だけはしないでいようと気を取り直す。
――ああ、英二。
 可愛い英二。
 綿毛に驚いていた英二、手ずから髪を梳ってやった英二、大石の隣でないと嫌だと駄々をこねていた英二、膝に懐いて大人しくしていた英二、『おーいし』とたどたどしく呼ぶ英二。
 あの可愛い英二は何処へいったのだ。
 いや今でも十分可愛いけど、と素で思うあたり大石秀一郎もなかなか救いがたい。
 それでも「可憐な英二」に一抹の希望をもって、大石はおそるおそる聞いてみることにした。
「だけど、英二。毒を食べたのは本当だよね」
「うん」
「あのひとに寝室に連れて行かれそうになったから、って聞いたんだけど」
「あー、あれね」
 英二はけろっとして言った。
「エディブルフラワーと混ざってた」
「――エディ……?」
「食える花。見た目が綺麗なんで、俺アレ好きなの。大石にも食べてみてほしいな、またここで作ってやるよ」
 くくく、と肩を竦めて笑った英二は続けて言う。
「そうそう、あんとき晩メシのサラダにエディブルフラワー乗ってたんだけど、どーも部屋に飾ってあった花がひとつそん中に落ちたみたいなんだよね。俺、気ィつかなくって、さくさく喰っちまったらそのまま倒れて」
 そんなオチでいいのか、と大石は頭痛がしてきた。
いや、頭だけでなく、腹のあたりもきりきり痛い。
「でも、意識がなくてぼんやりしてたのはホントだよん。食って倒れたっぽいあとからあんまり記憶はないもん。本当に気が付いたのはあいつが……あのエロジジイが突然来て、乾ともめたでしょ? あの少し前から」
「――」
「大石が毎日食後に飲ませてくれた薬、あれがちょっとずつ効いたのかな。どのみちあのジジイにはそれなりにもらうもんもらったし、そろそろ逃げ出したかったから、万が一を考えてあの書類はずうっと以前に持ち出して銀行の金庫に預けてたんだよ。大石に迷惑かけないであのヒヒジジイどうにかする方法はないかな、と思って、乾とふたりになったときに書類のこととあわせて相談したんだ。そしたらいろいろと教えてくれて、助かっちゃった」

――乾、お前もか。……と言うか、お前か。

 だからあんなに自信満々だったのか。
 だから英二に、「心配しなくていい」とかなんとか言いきかせてたのか。
 悩んだ自分はなんだったのだ。

 胃薬何処へやったかな、と大石は久しぶりに痛みだした腹のあたりを押さえた。
「しかしあのエロオヤジ、あの晩そんなこと企んでたのかよ。なんか帰りが早いと思ったら、実力行使に出るつもりだったんかな。ジジイのくせに生意気な」
 やっぱりふみつぶしといてやるんだった、と呟いた英二に、『何を』だなんて恐ろしいことは聞けない。
「ま、とにかく」
 ふふふ、と小首を傾げて笑う英二は可愛い。
 それはもう、仰け反るほど愛らしい。
「俺、ここ気に入ったからね。大石のことは好きだから、お利口にするよ」
 さっきの悪夢のような光景を見たあとでも、地獄のそこから響くような声を聞いたあとでも、素直にそう思えてしまうから不思議だ。
 ああ、皆これにやられたのだ、と大石は心から納得した。
 大きな目、子鹿のようにちょっとうるんだ丸い綺麗な目。あんまり綺麗なので作り物じゃないかとさえ思うような、顔立ち。細いのに綺麗に跳ねる毛先の元気良さが、彼をびっくりするほどの可愛らしさに仕上げている。
 少女と少年の中間の、どっちつかずの、けれど一番美しい部分だけを殊更注意深く集めて作り上げたような、細身の身体。
 こんなのにうるうると迫られては――その中身や性格がどうあれ――男は誰も勝ち目がない。
 大石も例外ではない。
 男ってバカだ。本当にバカだ。
 意味ありげに顔を近づけた英二に、大石は我知らずどぎまぎしてしまう。
だから男はバカだというのだ。
「ねえ、大石、俺と暮らすのは、いや?」
 だから男は……。
「こんな俺、嫌い? もうおーいしの可愛い英二じゃないの? 俺のこと好きだからキスしてくれたんでしょ?」
……。
「おーいし?」
 見上げてくる大きな目の愛らしさ、少し不安そうにまばたくそれ。物言いたげにひらかれた桜色の唇。
 間近に迫ったそれを目にした途端、「ああ可愛いっ」とばかりに大石は力一杯英二を抱きしめていた。

――結局は彼の完敗であった。



「今度ちょっとお休みして街につき合ってよ。俺、あいつから巻き上げた金目のモン、みーんな銀行の金庫に預けてあるから。それで美味しいモン食べにいこーね」
 嬉しそうに抱きつき返してきた英二は、うきうきとそう言った。
「ついでにベッド買お。大きいヤツ。――二人で、ゆーったり寝られるような。そうそう、お揃いのカップもね。食器も。ねえ、ふたりで買いに行こうよ。俺が毎日料理してあげる。オムレツ作るの上手いんだよ、大石、食べてほしいな」
 可愛い。
 ああなんでこんなに可愛いんだろう、と思いつつも、今度乾が来たら聞くことはいろいろあるなと冷静に考えずにはいられない。
「それから俺」
 にっこりと英二は笑った。
「夜はスゴイから――ヨロシクね」
 首を抱きよせられ頬にキスされながら、大石はそれでもまだどこかぼんやりしていた。とんでもない手妻に世界ごとひっくり返されたような気になりながら――スゴイってやっぱアレかな、とか思いながら。




 数ヶ月後。
 白樺と立ち枯れの樹がのぞく池とに囲まれたほとんど廃墟のような小屋は、こぢんまりした白い建物に変貌していた。
 毎日立ち寄る郵便配達人の顔を見る回数の方が、患者の顔を見るより多いのは変わらないが、建物が一気に修繕されほとんど新築のようになったその場は、嘘のように明るい。
 白くて可愛らしいカントリー調のとても少女趣味な建物だ。白いペンキが塗られ緑でアクセントに縁取りされた入口には、ちゃんと「hospital」の文字が掲げられている。何事にもてきぱきと動きたがる英二が、ここの主と郵便配達人との休日を全部これにつぎこませた結果の出来映えだ。
 少女趣味な、どこまでも可愛らしいばかりの建物もそういう光景の中には非常によく似合って、春の花の中、夏の新緑の季節はもちろん、秋の美しい紅葉も冬の雪景色も絵になるだろう。
 同時に、助手の名目で大石のそばにくっついてまわる、可愛らしい少年の姿も見られるようになった。
 白いフェンスで囲われ、整えられた庭にはとりどりに花が咲く様子も。
 静まりかえったこの森の中に、小鳥に混じって、唄うような愛らしい少年の笑い声が時折響くようになったことも。
 日曜日には郵便配達人の彼を交えた三人で、白い綺麗なテーブルを囲んでお茶を楽しむ様子も。
 そうして少年が殊更ご機嫌な朝には、大石のほうは少しばかりお疲れであることもたびたびあったのだが、それについては郵便配達人の彼も礼儀正しく無視をする。




 そう、夜に可愛く「にゃあ」と鳴くのは。
 何も猫ばかりではない、という話。


 
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