郵便配達人の男は、通い慣れた白樺林の道をたどりながら、ふうとため息をついた。
 もうたんぽぽの綿毛の季節も終わってしまったので、あの年若い愛らしい患者の機嫌を、何でとったものだろうと悩みながらの登場である。
 古い螺子式の壁時計が三つ鳴るには、もう少し時間がある。
「やあ、乾」
 いつも通りの挨拶をしながら入ってきた乾を、大石はいつも通りに迎えた。
 しかし何やら、かれにしては小難しいことに挑戦している最中だったらしく、眉間にしわを寄せていた。
 それが乾の顔を見るとほっとひと息ついたようだ。
「どうしたんだ」
「いや、ちょっとね」
 大石は、狭苦しい診察室兼居間兼食堂の真ん中に、例のぎしぎし動く椅子を持ってきて、現在ただひとりの患者の少年を座らせ、そのまわりをうろうろと困ったように歩き回っていた。
 何事かとよく見ると、手にヘアブラシなどを持っている。綺麗な琥珀を細工した、この家には見ない類のものだったから、たぶんこの少年の「付属品」だろう。
 どうしたものだろう、と言いたげに、大石は途方に暮れて少年の赤い綺麗な髪を眺めやった。
「英二と池のそばで遊んでいたら、ちょっと転んでずぶぬれになってしまって」
「おやおや」
「シャワーを浴びさせて着替えはすんだんだけど」
 この子の髪をね、と大石はまたため息を付いた。
「濡れてこんなふうにぐしゃぐしゃになっちゃったから、なんとかいつもみたいにくるっと巻いてやりたいんだけど……ああ、うまくいかないもんだな」
「君がヘアブラシなんか持つことになろうとはね」
 乾は古い肩掛け鞄を机に下ろしながら笑った。
「まあ、貸してみて。俺がやってみるよ」
「頼むよ。俺にはこれが限界だ」
 この患者――英二の美しい赤い髪はいつも毛先が可愛らしくカールしていたが、今日はところどころ妙な方を向いていて、大石の必死の努力もどうやらあまり効果を発揮していないようだった。そういうてんでおはねな髪も、この大きな目に代表される、なんとも言えない幼さやあどけなさが強調されて可愛らしくはあったが、当の英二はともかくとして大石は納得できないようだ。
「珍しいね」
 案外と小器用にブラシを動かす乾はふとそんなことを言う。
「君が患者のこんなところまで面倒を見てやるなんて」
「英二は、そのほうがいいなと思ったものだから」
 何故か自信なさげに大石は言う。
「あんまり君の治療には関係なさそうなのにね。いつもの君なら、髪なんて邪魔だからひとたばねにしておく、ですませるだろうに」
「――」
「まあ確かに英二はこのほうが可愛いな……さ、出来た。まあ、あまり見事な出来映えってわけでもないが、大石よりはマシだろう」
 確かに、さきほどよりはずいぶんととのった感じがして、いつもの英二の髪に近い。ところどころによそを向いている毛先があったりするが、それはご愛嬌と言うものだ。
 大石や乾に髪を触られるあいだ、英二はひとことも口を利かなかった。
 それどころか表情を動かすことも、髪の具合が気になって身じろぎをすることさえもなかった。
 それでも、当初よりはよほど落ち着いてきている。自分の為の狭い、けれど丁寧に掃除の行き届いたその部屋に閉じこもろうとはしなくなったし、古びているが太陽によくあてられていい匂いのするシーツの中に潜り込んで、顔を出さないなどと言うことはなくなった。




 もう好きなことをして良いよ、と大石に言われた英二は、しばらく目を瞬かせていたがすぐに部屋の端、古びたライティングビューローへと近づいていった。こわれかけの椅子をずるずると引っ張っていき、ちょんと腰掛ける、その様子が幼くて乾は我知らず笑ってしまった。
「どうしたの、英二は」
「ああ、あそこのあれ」
 大石がお茶の用意をしようとしていた手を止めて、乾の背後に近寄った。乾は乾で、妙に真面目くさったようすの英二を面白そうに見ている。
「ああ、タイプライター?」
「うん。最近この子のお気に入り」
 英二は無言で手を伸ばすと、人差し指でキーを押す。
 がしゃん、と重そうな音を立てて、旧式のタイプライターが動いた。
 その大げさな音に英二は、最初は少し驚くのだが、大丈夫だというように大石に肩を抱かれて、またすぐにおそるおそるそれを触りはじめる。
「英二、上手だね」
 乾も、英二の手元を覗き込んできた。
 英二は無心にキーをひとつひとつ押さえて、その重たい感触を楽しんでいたようだったが、すぐに悲しそうな顔になる。
 英二の気に入りのタイプライターは、がしゃ、がしゃ、と重たい音を立てて、右に動きながら文字を打っていくあの古典的なスタイルのものだったが、キーの半分以上は固く錆びついて動かなかったり、または空を切るような軽い手応えがあるばかりで、そのあたりはまったく機械は動かなかったからだ。
「だいぶ古いものだからね」
 大石は、まだ残念そうにキーを押し続けている英二の手をそっと取った。
「もう壊れてしまっているんだ」
「――でもこれくらいなら、治せるかも知れないな」
 乾は機械の横から、中をすがめ見て言った。
「うん。これぐらいなら、なんとかなるかもしれない。ちょっと預かって帰っていいかい」
「かまわないよ、ありがたい――英二、違うよ、取り上げようと言うんじゃないよ」
 乾がタイプライターに手を出して持ち上げたので、英二は慌てて大石の手を振り払おうとした。奪われると思ったのだろう。
「英二、俺が治してきてあげるよ」
 乾は言い聞かせるように言ったが、英二はいやいやと首を振って、腕を振り回し、乾を追い払おうとする。
「英二、大丈夫だから」
 それでも納得しないで暴れる彼を、大石がぎゅっと抱きしめると、途端に大人しくなった。しかし、まだその不満そうな、悲しそうな顔はそのままだ。大きな目に涙まで溜めている。
 小さく鼻まですする音が聞こえて、大石は彼の顔をじっと覗き込んだ。
「英二」
 呟いたきり、言葉が出ない。
 大きな――なんて愛らしい目だろうか。
 一瞬その幼い表情から目を離せずにいた自分を恥じるように、大石はく、と唇を噛んで、無理に彼から視線をもぎはなす。
「ね。またね。また、だよ、英二。乾がまた持ってきてくれる」
 わざと彼の顔を見ないようにして、乾に笑いかける。
「またこんど。こんどね」
「――」
「綺麗になって戻ってくるよ。そうしたら好きなだけ打っていいからね。楽しみだね。またこんどね」
 こんどっていつ、と子供らしい我が儘を言いたげな英二であったが、声を上げることなく鼻をくしゅっと言わせただけだった。

 尖らせた唇の様子の、幼いこと。あまりに愛らしいから触れたくなる。
――自分の唇で。










「ずいぶん、感情を出すようになったね」
 乾は、まだ大石に宥められている最中の英二を見て言った。
「そうだね。こんなふうに、いやなことは泣いたり、怒ったりするようになったからね」
「うん。昨日は少し笑ったよね。俺が出会い頭に花びらをばらまいたら」
「――掃除が大変だったよ。持っていこうとすると英二が怒るし」
「それは失礼」
 乾は肩を竦めながら、珍しいことになにやら例の肩掛け鞄の中を探り出した。
「――手紙だよ。大石、君に」
「手紙?」
 いぶかしそうに乾へ視線を移し、手紙を受け取るために腕の中の子をそっと押しやろうとしたが、英二はまだ慰められたりないようで大石の服をつかんで離れない。
 しかたなく片手で彼を胸に抱き寄せたまま、よしよしと背を叩きつつ手紙を受け取る。
「……消印は中央かい?」
「そのとおりだ。差出人は手塚国光」
 まだぐずる子を胸に抱え込んで、大石はふうとため息をついた。
「ついに彼まで引っ張り出してきたか」
「君の友人なんだろう。いつもみたいに屑籠に放らないで、読んでやったらどうなんだ」
「内容は同じさ。差出人と、文章の書きようが違えどもね」
 英二の髪を撫でながら、大石はしかたなく手紙を受け取った。
「俺を引きずり戻したくて仕方ないんだろうね。――ああ、手塚の字だ、確かに」
 片手は英二を抱きよせているため両手が使えない大石は、乾に手紙を開封してもらうと、中身の便箋だけを受け取った。
 几帳面な、綺麗に揃った文字の羅列がちらりと見える。
 大石は一通りそれを目を走らせると、ふう、とため息をついた。
「乾。すまないが」
 大石は英二を抱えたまま顔をあげる。
「手紙の返事をすぐに書くから、もって帰ってもらえないか」
「ああ、おやすい御用だよ」
「それから、もし乾に用が無ければ、次の日曜ここの留守とこの子のことを任せていいだろうか」
「それもかまわないよ。――どうせ、何か英二にお菓子でももってきてやろうと思っていたところだ。……英二、今度の日曜日、俺とここでお留守番だってさ。何か面白い玩具でも持ってきてあげるよ」
 英二はきょとんとして乾を見やっているだけだ。
「なんだ。招聘に応じる気になったの、大石」
 乾は揶揄したが、大石は皮肉げに笑ってこう答えた。
「これっきりだよ。――手塚の顔を立てるだけだ。最後の話をしてくるよ。英二、ちょっとだけごめんね」
 もう落ち着いたと見て、大石は邪険にならないように英二を傍らから離した。
 途端に英二は寂しそうな顔をしたが、それ以上取りすがろうとはしなかった。
 その暖かみが傍らから離れる瞬間に、胸が痛いほど寂しくなったのは大石も同じだったがおくびにも出さず、わざと厳しい顔をして引き出しの中から、白い封筒と便箋を探し始めたのだった。











――あれは、お前のせいじゃない

 懐かしいかつての親友の名を目にしたからだろうか。息苦しい過去の追憶が、闇の中から彼にしつこく取りすがる。
 見ないふりをして眠ってしまえばいいのだろうが、今夜は何故かその過去の記憶のかぎ爪に、古傷をかきむしられるに任せている。
 こんなときの為に酒のひとつでもあればいいのだが、ほとんど患者の来ないこの診療所には、余計な嗜好品のための予算など無いのが実状だ。中央の街にいた頃に稼いだ金額は決して少なくはなかったし、それなりの蓄えもありはする。しかしここでほとんど来ない患者からの収入をあてにできはしないし、大石も無駄なことをするつもりはなかった。
 患者のための寝具や病室の具合だけには気を遣っているつもりだし、そうなるとよけいに大石個人の日々の生活のためになど、一銭の余裕のあるはずもない。
 残り少ない茶葉は、友人との午後にとっておくことにして、大石はただ黙ってそこに座り続けている。今夜は睡魔の来訪もあまり期待できないようだ。
 夜更けて、英二はもう寝入っただろうか。
 大石は、居間兼診察室の古い椅子にこしかけて、まんじりともせずカンテラの明かりを見ている。

――あれはおまえのせいじゃない。あの少女のことはおまえの責任でなどあるはずがない。

 中央から去ることに決めた自分を、親友はいつになく激しく引きとめ、言い聞かせ、翻意させようとした。

――お前のせいじゃない。

 それを免罪符にしようとした、そうしたいと思った己にさえ罪悪感を覚え、憤りを覚えた。中央を出てきたのは、半分、意地を張り続けただけのことだったかもしれない。 おまえのせいじゃない、と言う彼の言葉に、それでもすがりつきたくなってしまうのも本当のことであったけれど。
 今も。あれから何年も経った、今現在でも。
 だからこんなにも彼の言葉に、はるか過去の言葉に揺れ動く。

――お前のせいじゃない。

 そちらへいってしまえば、そうだと自分でも思いこんでしまえば、おそらくもっと楽だったはずだ。ひとけのない山の中で、診療所とは名ばかりで、一年間に両手にも足りないほどの患者だけを診て、誰にも会わずに過ごす――こんな生活をしなくて、済んだかも知れない。
 賑やかで洗練されて、なんでも揃っていたあの街で、洒落たアパートメントの一室で。
(もう決めたことだ)
 裕福で便利な生活は確かに心地よかっただろうが、それでも、自分の罪の意識から目を逸らすだけの虚飾に満ち満ちた日々を送るより、まだしも今の方が己でも納得できる。
 自分勝手に罰を受けているつもりなだけの、そんな暮らしでも。
 それに、ここに来なければ。
――あの子。





「英二」
 大石はふと顔をあげた先に、不安そうにのぞきこんでくる少年を見つけて驚いた。シャツを長くしたような、すとんとした白い寝間着のまま、少年は扉の隙間から大石の様子を伺っているのだ。
「どうしたの、英二。――眠れないの」
 驚かせないように、優しく、静かに声をかける。
「早くベッドに戻ってお休み。俺はもう少し此処にいるから」
 言い聞かされれば、英二はその通りにする。今夜も、大石を気にしながら自分の部屋に戻るのかと思っていたが、彼はするりと扉の隙間を抜けて大石の側へとやってきた。
「英二?」
「――」
 くいくい、と大石の袖を引っ張る。なにか大石に訴えたいことがあるときの英二の仕草だったが、今はずいぶんその力が強い。
「どうしたの、英二」
 英二は大石に一緒に来て欲しいようだった。
 何事かあったか、と案じて彼の促すとおりにすると、英二は彼がいつも使っている寝室へと大石を連れて行く。何かあればすぐに患者の枕元にかけつけられるようにと、大石の部屋は患者が寝泊まりする部屋のすぐ隣にあるのだが、英二はそこでなくその隣、自分の寝室へと彼を連れてきた。
「なんだい。いったいどうしたの、英二」
 英二は裸足のままぱたぱたと大石を引きずって部屋にはいると、起きあがったときの状態のまま、めくれあがっているシーツの間に大石をぐいぐいと押しこめようとし始めた。
「英二」
「――」
「英二、待って。俺にここで寝ろって言うのかい?」
 英二はうなずきはしなかったが、そうであることは確かなようだった。まだ白衣も着たまま、靴も履いたままの大石をえいえいとベッドに押し込め、甲斐甲斐しくシーツをかけてやって自分はそのベッドの側にちょこんと座り込む。
 どうする気なのだろう、と思って見ていると、横たわった大石の腹あたりに手を伸ばして、ぽんぽん、と軽く叩く。大石がここへきたばかりの英二によくしてやっていた仕草だった。
「英二、嬉しいけど」
 大石は苦笑しながら上半身を起こした。
「ここは英二のベッドなんだから、英二が寝なきゃ」
「――」
「俺のことを心配してくれたの? ――ありがとう、俺はちゃんと自分の部屋で寝るようにするから、英二ももうおやすみ」
「――」
 英二の、確かに他の少年に比べれば無表情ではあるけれども必死の顔に、大石は笑いかけてやりながら身体を起こした。
 けれど英二が引き留める。ベッドをおりようとした大石を押しとどめて、何か言いたそうに口を開けるが、言葉としては出てこない。
「英二」
 押しとどめた手は小さく震え、大きな目にはたちまち涙の珠がいくつも連なった。
「英二、どうしたの。――泣かなくていいよ、怖い夢でもみたの」
 あの、鼻をくしゅくしゅ言わせる世にもいとしい姿の少年に、さすがに彼を押しのけてしまうことができなくなった。
「英二。とにかくベッドにお入り」
「――」
「俺も此処にいるから。英二のところにいるからね」
 同じことを2、3度言い聞かされて、英二はようやく納得したらしかった。大石に促されるまま大人しくベッドに入ったが、壁際にずるずると寄って行ってしまう。
「どうしたの、英二。そんなすみっこで寝たら身体が痛いだろう。こっちにおいで」
 英二は首を振った。
 ベッドの真ん中に英二の身体を寄せようとする大石の袖をくいと掴んで、小さく引くあの仕草をしてみせる。
「英二?」
「――」
「どうしたの、心配しなくてもついていてあげるって」
「――」
 くい、と再度。
 この子のいじらしい力のこめかた。
「俺に、英二の隣で寝ろって言うの?」
 大石が聞くと、英二はしばらく戸惑ったように視線をさまよわせていたが、やがてぎこちなく頷いてみせた。
 頷く、と言う仕草の意味を思い返したその子のことを、喜ぶより先に大石は戸惑う。
――患者に添い寝なんて。
 今までどれほど患者に慕われても、夜通しベッドのそばにつきっきりになることはあるとしても、それだけは絶対にしなかったものを。
「……」
 どうしようか、と大石はその子の顔を見る。
 少年のみずみずしさがあふれ出てやまないような、愛くるしい顔立ち。いまにも泣きそうに、目に涙まで溜めて己を見上げてくる。
――この子は、ただの患者なのに。
 逡巡の後に、大石は結局英二の願いを叶えることに決めた。
 とりあえず白衣と靴だけを脱いで、英二が寝入ったらすぐに抜け出せばいい、と思ったからだ。
 英二は、大石が隣に来てくれた暖かみによほど安心したのか、ほんの少し微笑むような表情を見せてあっさりと眠りに落ちた。それも、大石のささやかな企みを見抜いていたかのように彼の片腕をしっかりと抱え込んだままで。
 抜け出すことを早々と諦め、大石はそっと傍らですやすや寝息をたてている少年を見やる。
 幼さの残る寝顔はいつ見ても愛くるしかったし、あどけない。こんな子があんな男に、と思うとまた怖気と怒りが頭をもたげたが、一方でこの子はどれほど甘く柔らかいのだろうかと不謹慎なほうへも想像がいってしまう。
 それを慌てて振り払いながら、大石はあくまで医師としての観点から、この子のことを考えようとつとめはじめた。
 勿論睡魔はまだ訪れない。




 ずいぶん落ち着いた――この頃は、落ち着いてきた。感情もよく見せるようになったし、泣くこといやがることが出来はじめて、すぐにほんのかすかに笑うこともし始めた。
 大石や乾がかまおうとするのに、首を竦めて怯えることもなくなった。
 しかし勿論、完全に心を許したわけではないのもよく判っている。
 時折、英二は何かを問いたそうな目でじっと彼らを見つめてきていることがある。ひどいことをされないか、ひょっとしたらこの穏やかさは嘘ではないのか、とうかがうような視線だ。この人間達も、自分を裏切るのではないのか――そういう意味合いの。徐々にその頻度は少なくなっているが、完全になくなったわけではない。
 確かに、と大石は思う。

――確かに英二の不安は正しい。

 ある意味、自分の行うことは彼に対する裏切りでもある。大石にその自覚がないわけではない。
 金で自由と身体を買われたこの少年の日々は、苦痛に満ちていたのだろうと思う。
 「よく笑う明るい子だった」とあの男は漏らした。それがこのような、見るも哀れなすがたになるまでにどれほど泣き暮らしたのだろう。
 詳しく聞いたわけではないが、あのような、金にものをいわせることに慣れた男のとる行動など想像が付く。それを思うたび、不安そうに見上げてくる英二のあどけなさや愛らしさが痛々しくてならない。
 あいかわらず喋らないが、大石の白衣の擦り切れた袖を小さく引いて、何かを訴えかけることだけを覚えたその子の、いとけなさが胸をちくちくと刺激する。
――患者の、病状以上の事に立ち入るつもりはないのに。

 治れば、英二はあの男の処に戻される。
 判っていることなのに、何故こんなに、胸が痛いのだろう。
 またきっと、あの男は英二を壊してしまうだろう。今度は、二度と修復することができないかもしれない。


「俺なら、きっと大事にするのに」

――お前が俺のものなら。
 
 大石はそっと自由なほうの手を伸ばして、英二の柔らかい髪に指を搦めた。
 そうしてそのまま目を閉じる。

 まだ眠気はまったく訪れなかったが、それでも英二の寝顔を長くは見ていられなかった。



 見ていると、くちづけしたくなってしまう。
 あんまり愛しいから




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