春先の、まだ風の冷たい日のことだった。 「貴殿が、腕のいい医師と聞いたので」 男はぎしぎしと軋む扉をくぐってくるなり、そう言った。 「ひとり診ていただきたいものがいる」 このような辺境の、静かな田舎町のさらにはずれにやってくるには、立派過ぎる身なりである。それでも極力地味に地味にと押さえてあるコートや帽子であったが、その裏に打たれた立派な深紅の布地は、男がただの成金やすこしばかりの小金のある人間ではないことをあらわしている。 裾や袖口が擦り切れて薄くなった白衣をそれでも生真面目に着込み、古びたカルテの束を棚に整理していた若い医師が振り向いたとき、男の影の後ろに、白い小さな人影がちらりと動いた。 扉が軋むのは、たてつけが悪いせいか、どれほど手を入れても修繕のしようのない古さのせいか。病院、と呼ぶのもおこがましいような、小さな建物だ。田舎の診療所でももう少し広さや設備に恵まれているだろうに、と誰もが思うだろう。 それでもこれが建てられて間もない頃は、それなりに少女達の夢見そうなカントリー調の可愛らしい建物であったのだろう。白ペンキで塗られ、緑でふち取られ、このような郊外――と言うより、ほとんど森の中にある建物にしても、その自然の光景によく似合っていたはずなのだ。 周囲は白樺の林が囲み、立ち枯れの樹が数本のぞく池があり、寂然として美しい光景といえなくもなかったが、そんな場所にあってはこの古い建物が真実廃墟のようである。人が住んでいるのも、ましてやこれで「病院」として機能していると言うのも、すぐには信じられない。 内部も、外見から受ける印象と変わったところはない。出来うる限り清潔にしてあったし、一応「病院」なので、患者が寝起きする部屋もそれなりに手を入れてはあるのだが、どうにも古びた印象は拭えなかった。 玄関を開けてすぐに、診察室兼居間のような小さな部屋がある。足下の板間は軋み、ところどころ穴があいている。 ほとんど空っぽの薬品棚は白く塗られたペンキが剥げて、観音開きの扉も片方が閉まりきらない。ガラスの板も、テープか何かで割れたところがようよう繋がれていたが、そのテープもいつのものやら黄色く色変わりしてしまっている。 ここの主の性格上、毎日きちんと整頓されこまめに手入れもされているのだが、錆びついた扉の蝶番や、古びてボロボロと崩れ落ちる土壁やらと言うものまではどうしようもない。なにぶん、それらに限らずこの場所にあるものは、ほとんどが物としての寿命を終えてしまっているので、いくら手を入れ続けても廃墟のようなもの悲しさまでは日々の掃除では拭えないでいる。 足が一本折れたのが無理矢理接がれ、がたがた揺れるデスクのそばに、あり合わせの椅子をなんとか自分の分も入れて三脚並べながら、医師は彼らに座ってくれるように促した。 その髭を蓄えた壮年の男と、彼に連れられてきた小柄な少年が、ほとんどひと月ぶりの、この診療所への来客である。患者はその少年のほうのようだ。 ずいぶん可愛らしい、少女のような顔立ちをした少年だった。よい仕立ての白いシャツや、綺麗な光沢の黒ズボンに包まれて、そうしてまったく動かないでいると非常に精巧な人形のようであった。 細い髪なのにくるりと毛先が形よくはねて、まるみを残した顔立ちによく似合っている。仔猫の一番可愛らしい時期をひとの形にしたなら、こんな少年になるだろうか。 大きくて印象的な丸い瞳はしかしどこか焦点をなくし、目の前にいる男も、勿論青年医師のこともまったく見る素振りもない。 青年はそれを不審には思わなかった。彼の元を訪れる患者は、多かれ少なかれこのような、生気も正気もない瞳の色をしているからだ。 「ご子息ですか」 若い医師の問いに、この廃墟のような診療所をうさんくさげに見回していた男は、ゆっくり首を振った。 「東の方から売られて来た子だ。港でみかけて私が買った。明るく、よく笑う子だったのでな」 「――」 「先日、間違えて毒のある花を口にした。命は取り留めたが、目覚めてからはこのようにただの人形のようだ」 「――間違えて?」 青年が冷静に聞いた。 その抑揚のない、何を聞いても動じなさそうな声音に男は少し考えていたが、いや、と首を振った。 「ごまかしても詮無いか。貴殿にこの子を見ていただくのだから」 「――」 「毒は、その子が自分で食べたのだ。寝室に連れていこうとしたら、いやがって」 青年医師はまったく無感動に、ぐらぐらとゆれる木の椅子にぽつんと腰掛けたか細い少年と目の前の大柄な男を見比べた。 「身体は回復したが、街の医者どもが言うには、この子の喋らないのはこころの病だという。みな同じように見立てはするが、みな治せない。こころの治療は貴殿が名医だと聞いた。だから連れてきたのだ」 「――」 「生き人形も一興だが、反応しないものを寝室の相手にしたとて面白くない。治してくれ」 壊れた時計の修復を依頼するような物言いに、青年医師は眉を顰めた。 「金はいくらでも払う。もともと彼にはずいぶんな金をかけた。この子を購った金額だけでも、この病院を全て倍にして建て直して十分釣りが出るぐらいだ。中央の街でたいそうな名医であったと評判の貴殿だ、本来なら我が館へおいで願いたいところだが」 「――」 「貴殿は決してここを動かぬと聞いた。こんなところにこの子を預けていくのは正直不安だが、当面の生活の分は先払いしよう。この子のための部屋はあるのかね」 青年医師は頷いた。 「では、そこにこの子の身の回りのものは運び込ませる。あとは貴殿が医師と患者の一線を越えることのないよう祈っている。貴殿は一度も治療とそれ以外の好意とを混同したことはないと伺っているし、中央では今も名高い。何故このような山の中に引きこもったかは知らぬが、一応信頼はしてよいのだろう」 「信頼がおけぬとお思いでしたら、お引き取り願ってもかまいませんが」 青年医師の丁寧であるが冷たい物言いに、男は少しむっとしたようだったが、つとめて冷静に頷いた。 「いや。貴殿に頼るしかもう手がない。必要な物がどれほどあるのか、言ってくれたまえ。すぐに用意させよう」 「彼の生活に要りようのものだけをお持ち下さい。彼の好む食べ物や飲み物、本などがあればそれも一緒に」 「判った」 「それから」 青年医師はあくまで事務的にペンを取り上げ、インクの残量を気にしながら紙に何やら書き込み始めた。 「治療には時間がかかります。ひと月ふた月でどうにもならないこともある。――彼がこの状況に慣れ、落ち着くまでにそれだけの時間を要することもあり得ます。それをご了解願いたい」 男は勿論頷くしかない。 少年は、そのあいだも何処を見るともなしにぼんやりと、男と医師とのやりとりを聞いていた。 ぼろぼろになってささくれだった窓枠や、あかりとりにつけられただろうに、くもって全く見えない天井のガラス。もとは気の利いた家具のひとつであったろうライティングビューローの上に、ぽつんと置かれた古い古い型のタイプライター。 それらを見るともなしに見ていた少年が、ふとその視線の動きを止める。 「英二」 それは、あの若い医師が少年の名を呼んだ瞬間だった。 少年が、その小さな眼球の動きを止めたことにも気づかず、男は鷹揚に頷いて、そうだ、と言った。 「この子の名は、英二だ」 翌日。 白樺の林の中、ほとんど消えそうな道の形をたどって、青年医師のもとに訪れる者がいた。 「大石」 古い壁掛け時計が三度鳴ると同時に、軋む扉の向こうから聞き慣れた声がしたので、青年医師は書き物の手を止めて立ち上がる。そうしているうちに訪問者は、自分でドアを開けるだろう。 「やあ、乾、こんにちは」 「こんにちは」 黒い帽子を軽く持ち上げて挨拶し、乾貞治は勝手知ったる調子で家の中に入ってきた。 「何かうちへの手紙はあるかい」 「ないよ。いつもの通りだ」 すりきれた黒いコートを脱ぎ、手紙の束を入れる古びた大きな鞄を下ろすと、あのぎしぎし言う椅子に腰掛ける。彼は郵便配達人なのだ。 「お茶でもどうだい」 「頂くよ。万年貧乏なのはお互い様だが、毎日一杯ずつお前からたかっているようで、気が咎めるけどね」 「こちらもいろいろと買い出しを頼んでいるんだし、こうして退屈を紛れさせてもらってるからお互い様だよ。それに少しばかり金が入ったのでね、いいお茶の葉も買えたから」 「ほう?」 郵便配達人は日曜日以外の毎日、決まった時間に此処へやってきて、一時間ほどもあれこれとおしゃべりを楽しみ、また白樺林の道を帰ってゆく。この診療所が配達ルートのもっとも最後であるせいか、此処へ彼が辿り着く頃には、手紙で一杯であったろう肩掛け鞄も空っぽになっている。 乾が椅子に腰を落ち着けると、暖炉にかけてあったやかんがちょうどしゅうしゅうと言い出したところだ。頃合いを見計らって湯を沸かしていたのだろう。 いままで彼が使っていた机の上には、何冊かの古びた学術書が広げてあって、何やら、乾にすら判りづらいような文言が、黄ばんだ紙にいくつも書き留めてあった。 こんなふうに患者がこない日でも彼は真面目に白衣を着込んで、日がな一日書き物や読書にいそしんでいるのだ。 「新しい患者さんでも来たのかい」 「ああ、今日から預かっているよ」 青年医師――大石は、それだけ妙に真新しい、美しいダークグリーンの缶を手に取った。蓋を開ける前から芳醇な香りが漂ってきて、乾は目を細めた。 「良い香りだな。アールグレイか」 「昨日街まで下りて買ってきたよ。入口に大きな薔薇の飾ってある、あの店の」 「それはずいぶん高級品だ。しばらくご相伴に預かれるのかな」 「乾が飽きるか、茶葉が無くなるかするまでだけどね。お好きなだけどうぞ、おかわりもありだ」 「困ったな、明日から此処へくるのにスキップしかねない」 「転んでも面倒は見てやれないぞ。外科は専門外だからな」 友人同士の気の置けない軽口に、扉が軋む微かな音が入り込んだ。 古びたドアから、赤い髪の少年がそっと覗いてくるのと目があった。 「おや、ずいぶん可愛い子じゃないか」 「今度の患者さんだよ。――英二もおいで、一緒にお茶にしよう」 少年は大石と、小さな椅子に窮屈そうに腰掛けている乾を見比べていたが、やがてすぐに扉の向こうに引っ込んでしまった。 ばたん、とドアの閉じる音がする。 彼のために用意された部屋に閉じこもってしまったのだろう。 「今の患者さんは男の子? 女の子?」 「男の子だよ」 大石は苦笑して、縁の欠けたポットに湯を注ぎ込む。途端に暖められた香気が部屋に満ちた。 「毒を食べて、目が覚めたらあんなふうだそうだ」 「毒?」 「ふたつ向こうの街の、金持ちの男に買われた子だ。ベッドでおもちゃにされるのにいい加減嫌気がさして、服毒自殺を試みたってところじゃないかな。その金持ちの男が治してくれと依頼してきたんだ」 大石はさらりと言った。 「身体は回復しているのに、精神の方が追いついてこないようだから、あとは確かに俺の領域だね」 乾は難しい顔をして、大石からティーカップを受け取った。 「治せそうなのか」 「判らない。食べた毒の種類からすれば、ごくまれに神経系に後遺症が残ることもあるんだ。少しずつ別の薬を投与して、そちらからの回復も試みてみるつもりだよ。すまないけど、また薬草を少しばかり都合してきてくれないかな。今回は金の先渡しができるから」 「ああ、かまわないよ。ついでに住人が増えたなら要りようのものもあるだろう。必要なものをリストアップしてくれ、明日持ってきてやるから」 「感謝する。いつもすまないな」 「いや、それはかまわないが」 乾は言った。 「しかし、さっきの子」 「ん?」 「英二だったかな。ずいぶん可愛い子だが、しかし治ったとしても、どうせその金持ちとやらのところに戻されるんだろう」 「そうだよ、その男が依頼してきたんだから」 「また同じ事になるんじゃないか」 「ああ、そうなるかもね。でもそこまでは俺の責任じゃないから」 大石は小さく笑った。 「俺は治療だけが仕事だからね。確かにあの子は不憫だけど、そんなものまで面倒は見きれないよ。そういう患者はあの子が初めてというわけじゃないし」 穏やかで、そして世にも冷たい台詞を吐いて大石はやんわり笑った。 「もうあれこれ考えるのはやめにしたいんだ。医師として患者を治すだけで、十分じゃないか」 「ここで優しくするだけして、また地獄へ突き戻すのかい」 乾はそう言いながら、微かに笑ったようだった。分厚い眼鏡に隠れて彼の表情は判りづらい。それでも笑って言うのでなければ痛烈な言葉だったが、大石はそれが真剣に詰め寄られた末の言葉であっても、何も動じなかっただろう。 彼はまた同じように穏やかに笑って乾にお茶のおかわりを問うたが、郵便配達人の彼はその日はそのまま辞去する意を伝えた。 その年若い――幼い患者を受け入れて、しばらく日々が経った。 特段、大石は変わったことを日々試そうとはしていない。あの男の語ったとおり、なにはともあれ英二がこの状況に慣れるだけの時間が必要だった。 ともに食事をし、時間を過ごし、親しく話しかけ、ともに休む。それの繰り返しだ。 大石自身の存在に慣れてもらわないことには、彼の心の治療など不可能なのだ。 しかし基本的には、英二はおとなしい、やりやすい患者であった。 大声を上げて暴れることはしなかったし、逃げ出そうともしなかった。あてがわれた狭い部屋にひたすら閉じこもり、なかなか出てきたがらなかったが、それ以外はまったく手が掛からない。 もらわれてきた小動物が当初そうであるように、小さな部屋のベッドの中に英二は長い間ひきこもって出ようとしなかった。食事でも着替えでも言うことは聞くが、その部屋から外へ出るのだけは非常に怯えた様子を見せたのだ。 しかし、少しでも英二が自分の意志を示すとしたら、そのときだけであったろう。 他は言うことを聞くだけの、確かに「人形」だった。 「服を脱いでごらん、英二」 そう言われてもそのまま従い、ぼんやりとその場に立ちつくしているだけだった。無論、脱げば脱ぎっぱなしで、そこからどうすればいいのか、と大石を問うような目で見ることすらない。 自分から外界と接触する気がないのだろう、と大石は思う。 「英二」 「――」 「ごめん、寒かったね。もういいよ、服を着よう」 衣服を脱げと言ったのは、わざと嫌な記憶に触れてみるつもりだったのだが、それにすら無反応だ。 こんなふうに、もっとも肝心な部分を閉じこめてしまっている人間の方が、治療に手間がかかることがある。 毒を口にするまでに、きっと酷く傷ついたのだろう――この子の境遇を考えれば、想像に難くないことだったが、それをいちいち考えていると久しく感じたことのない怒りをすら覚えそうだ。 ――治療だけが自分の仕事だ。 またのろのろと服を着ようとする英二を手伝って、大石は己に言い聞かせ……そして、珍しく嘆息した。 ちょうどそのとき、壁掛け時計が三度鳴った。 いつもの来客がやってくる時間だ。 「やあ、大石――すまない、取り込み中だったかな」 「別にいいよ。ほら、英二、乾が来たよ」 襟元をきちんと整えてやったが、英二はまだぼんやりしていて、自分の部屋のほうの扉を見やった。身体がゆらゆらとそちらに行きたそうに揺れるのを驚かせないように抱きとめておいて、大石は乾を見る。 「おや。なに、それ、乾」 乾は妙にこの少年に興味を引かれたらしく、あれこれとかまってくれている。 この日もなにやら両手一杯につんだ不思議なものを、英二の目の前に付きだして見せた。 「道中で摘んできた。英二、ちょっとお外に来てごらん」 「だって。ほら、英二、ちょっと行ってみよう」 大石に手を引かれたもので、英二は逆らわずその通りに歩く。乾の摘んできたものには興味も示さなかったし、扉の外に出たときもちょっとまぶしさに目を細めただけだったが。 外は春だ。 白樺の林の中は、白い小さな花や黄色い花などで、あちこちに春の吹き溜まりとでも言えそうな、優しい光景が広がっている。 その優しい春の光景も英二には関係がないようだった。 戻りたそうに家の中に顔を向けたが、その頬にふわふわしたものが触れたので、びくりと身体を竦めた。 丸く白い、ふわふわのもの。いったい何かと英二はそれを見つめる。 「ほら、英二」 乾は両手にいっぱい摘んだそれの一本を手に取り、ふーっと子供じみた仕草で吹いてみせた。たちまちふわふわの綿毛は細かく風にのり、時ならぬ春の雪となって、彼らの視界に広がった。 「たんぽぽの綿帽子。――英二、街の子なら見たことないんじゃないか」 英二は少し怯えて後ずさりするようすをみせながら、きょろきょろとその綿毛を見やっている。ころあいを見計らって、乾はもう一本を吹いてみせた。 春の雪。 優しい、やわらかい、決してとけない雪が舞う。 二本、三本、と綿毛が舞う頃には、英二は後ずさることをやめ、その綿毛に見入っている。 「大石も」 「あ。――ああ」 乾から手渡されたそれを吹くと、英二が食い入るように見つめているのが判った。 一本、また一本。 丁寧に吹きとばしてやっていた大石の向かいで、乾が悪戯じみて少し唇の端を上げてみせた。 「よし、英二。びっくりするなよ」 大石が何事かと思った次の瞬間、乾は手に持っていた残りを英二めがけて一気に吹き飛ばす。 あっという間にあたりは、春の雪どころか吹雪のようになって、それがほとんど英二の赤い可愛らしい髪にふわふわと降り積もった。 「こら、乾っ」 自分も顔面に綿毛の大襲来を喰らった大石が声をあげた。 「大声だすな。英二が怖がる」 そう言われてあわてて傍らの英二を見たが、少年はきょとんとして、自分の髪からふわふわ落ちていく綿毛を見つめているだけだ。 そのあどけない瞳が、大石の手に残ったまだ吹き飛ばされていないまるい綿毛を見つめ、そして。 じっと大石を見上げてくる。 大きな、本当に罪のない仔猫のような双眸で。 ――胸が高鳴ったのは、患者が回復の兆しを見せた喜びからだと、己に言い聞かせる。 ――その子の瞳は、確かにそれに勝てるものを思いえがけないほど、美しかったけれど。 「英二」 大石は注意深く、優しく聞いた。 「これを吹いて欲しい?」 英二は、まだぼんやりとしている。 大石と、それからその綿毛をもう一度見比べて、まだ黙っている。 「英二。俺が、これを吹いてあげたら嬉しい?」 勿論、英二からは言葉としての答えは返らない。 ただその手がのろのろと上がり、大石の擦り切れた白衣の袖を小さくつまむようにしたとき、大石は自分でもおそろしいほど満たされた気持ちになっていた。 ほんの少し、力を入れて――けれどそれが精一杯のように、白衣の袖を引っ張る英二を、心底いとしいと思ったことを、彼はしかしすぐに後悔するだろう。 どのみち、この子は彼のものではないのだ。 |
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