こんばんは。 ――驚いたかい、私が誰だかわかるかな。……そうだね、これは君のお友達の携帯だからね、君が驚くのは無理もないのだが。 そう。榊だよ、すぐに思い出してくれて嬉しいよ。このあいだはどうも。……いや、そんなことは気にしなくていい。私も別に不快なことはなにもなかったからね。 と、いうことはこれはやはり、大石くんの携帯電話なんだね。……ああ、拾ったんだよ。どうしようかと悩んでいたのだけど、君からの留守録が入ってきたからね。偶然だと思って。これを彼に返したいんだが、どうやら私は彼に嫌われているようでね。 ――さあねえ、私にはこれと言って心あたりがないのだが。 いやいや、君のせいじゃないし、君が謝るようなこともないだろう。 それでね、この携帯なんだが、君から彼に返してあげてくれないか。 まあ、適当に拾ったとかなんとか、言ってくれればいいよ。私のことは内緒にね。また彼の気にさわるといけないから。……ああ、ああ、勿論わかっているとも。彼はそういう人間には見えないし、どこかで誤解しているんだろうと思うよ。 それで、この電話を君に渡したいのだが……いや、それがね、私は来週頭まで都内の方に詰めなければならなくて、氷帝には顔を出さないんだよ。青学のほうに返しにいってあげられればいいのだが、夜にならなければ時間がとれなくてね。 どうしたものかな。 ああ。 そうだ、菊丸君。 金曜の夜は空いているかい。 そう、明日だよ。 青学から比較的来やすいところの駅のすぐそばにね、私のマンションがあるんだよ。歩いてすぐだ。ショッピングセンターに隣接していて、このあいだは大きなスポーツ用品店が出来てね。……ああ、そうだよ、その駅だ。よく知ってるね。 ――そう、大石君と行ったのかい。本当に君達は仲がいいね。 夜の7時くらいになるが、君の都合が悪くなければきてもらえないか。そうしたらすぐに携帯を渡せるし。 ああ、無理しなくていい、どうでも来てもらわなければいけないわけでもないしね。来週になれば私も学園の方に戻るし、青学にでも行ってあげられるし、それからでも。 え? ……そうかい? 本当のところそうしてくれると私も肩の荷が下りるよ。大石君も親御さんにせっかく買ってもらったのだろうし、君達ぐらいの子には携帯電話は大事だろうからね。でも、くれぐれも無理をしないんだよ。 都合が悪くなったらいつでも電話をしておいで。この電話が終わったらすぐに君の携帯電話に1コールするよ、それが私の携帯番号だから。これからも、いつでもかけてきてくれていいんだよ。 ……いや、こちらこそすまないね。私の一方的な都合で。 もしも不安だったら誰か仲のいいお友達にでもついてきてもらうといい。親御さんにもちゃんと行く先を言ってね。 ああ。 そうだね。そのとおりだとも。 くれぐれも大石くんにはないしょにね。 本当に君はいい子だね。 朝練のあとの着替えは、誰も皆ばたばたとあわただしい。放課後の部活のように『あとは帰るだけ』と言うのではなしに、彼らにはこれからみっちりとしたスケジュールの授業が待っているのだ。 そうでなくとも土日の完全休日のせいで、授業内容は濃い上にややアップテンポだ。休日の増加と学習内容のかねあいについては、どこの学校でもそれぞれがそれぞれに手探りだとはいえ、当の学生達には迷惑なことこのうえない。 人によっては今から教室に戻り、級友達にノートを貸してくれるよう頭を下げて回らねばならないのだ。 ようやく片づけをおえて着替え始めた一年生をも含めると、戦場のような様相を呈している青学テニス部の、朝の部室である。 とんとん、と肩を叩かれて大石は背後を振り返った。 「なに、不二」 「――あの子、君に何か言った?」 大石の肩を軽く叩いたのは、不二周助愛用のラケットだ。 普段からものを大事に丁寧に扱う不二には珍しい。まして人を振り向かせるため肩を叩くのに、手ではなく物で、などと言う不作法は、育ちのいい彼が嫌う所作のひとつだ。 わざとそんなことをしてみせるところに、これは少しばかりお怒りかな、と大石は胸の内で見当をつけた。しかし、とりあえずはあたりさわりなく笑ってなんのことだと聞き返した。 「英二だよ。朝練のあいだ、君に何か言ってこなかった?」 「……別に」 無難に接しているものの、英二の態度が相変わらずぎくしゃくしているのはいつも通りだ。大石のケガのこともあり、ダブルスの練習も桃城とが中心になっているせいで、大石秀一郎と菊丸英二のコンビでの練習時間は以前より激減していた。 幸いかな、と言ってしまってもいいのか。 そのせいで彼らの間に漂う空気の微妙さ、ぎこちなさに誰もが気づかないでいる。 今日も朝練が終わった直後にそそくさと着替え、桃城の差し出すお菓子に目もくれないで教室へ帰っていった彼のことを、宿題でも思い出したのかと誰も気にとめない。 奇妙だと感じたのは、不二と大石……ぐらいだろうか。 「ごまかさないでくれる。ケンカしてんでしょ、あの子と」 じろりと大石を睨みあげてきた不二はもう着替え終わっていて、ラケットをバッグにしまいはじめる。 「――けんか、って言うか」 不二がどこまで聞き及んでいるのか判らないせいもあったが、大石は彼らしくなく多少緊張さえしながら注意深く言葉を選んだ。 「どっちかって言うと、行き違いだよ」 「あの子に、とにかく今朝のうちに大石とちゃんと話しろって言ったのに」 不二は肩を竦めた。 「ところで氷帝の顧問となんかあるの、君?」 これは直球だな、と大石は内心肩をすくめた。 「ちょっとした顔見知りだよ。……テニス以外でだけど」 「仲良くなさそうなんだってね」 「別に珍しいことじゃないだろ。仲の良くない顔見知りなんていくらでもいる」 「――英二から聞く限り、君の態度って思いっきり不審。それに」 「不二」 大石は優しく笑ったまま不二の言葉を遮った。 普段他人の言葉を遮って物をいうことなどない大石秀一郎にしてみれば、それはそれ以上踏み込まれたくないと言う意思表示だ。 ちょうど先刻、不二がラケットで大石の肩を叩いて見せたと同じように。 これが英二なら黙る。他の部員でもそうだろう。もっとも大石にしてみたところで、誰彼なしにそんなふうにしてみせるわけではないし、こと英二に対してそんな顔をちらりとでも見せよう筈もない。 感性の鋭いものならそれだけでぞっとしてしまうような、冷酷な声。氷のような静かな、しかし壮絶な迫力。 不二周助だけが、動じない。彼だけが、大石の中にあるその青白い炎に気づいている。 そうして氷の迫力には氷の微笑で返すことができるのも、青学の中では彼だけであった。 「――俺の個人的なことだよ」 「じゃあ何で英二があんなにヘコんでなきゃいけないのかなあ」 「――」 「ちゃんと言えばいいのに。あの先生にとった態度の理由はこれこれで、英二を連れだしたのは、こういうわけだったからだ、って」 「――」 「君にちゃんとした理由があるならね――あるんだろうけどね。……僕はきみがなにしてようと確かに個人的なことだろうし、興味ない。……でも、英二がそれで落ち込んでんのは見過ごせないんだよね、友人として」 「――」 ロッカーを閉じると、不二は自分の荷物を手早くまとめて出口に向かった。 「あの先生に関して英二に言えないようなことがあるなら、なおさら早く英二と仲直りしてそのことは忘れさせるんだね。……あの子って、実はものすごく敏感なんだよ、君のことにさ」 いつのまにか、部室の中には自分と不二だけが取り残されていたようだ。 「あの子って、自分が好意をもってる相手には物凄くいろんなことに気が付くよ。大石、あまり英二を侮らない方がいい」 「――」 「自分ひとりだけが黙っていれば、なんてこと、思わない方がいい」 不二はそれだけを言い残すと、実に静かに部室を出ていった。 友人を悩ませるチームメイトを残した部室から去るにあたって、憎々しげに足音を荒れさせたり、ドアを乱暴に閉じたりするようなことをやらないのはさすがに彼だ。 大石もことさら動揺した様子も見せず、ただ黙って彼を見送った。 ――そら、獣みたいな目をして、あの子を見ているくせに。 そんなふうに、誰かが耳元で囁く。 それは勿論まぼろしで、幻聴だ。 身体にも心にも浸食するようにまとわりついて離れない、あの忌々しい男の声だ。 ――いつまでもあの子に通用すると思ったら、大間違いだよ。 「英二」 六組の教室に戻ってきた不二は、自分の後ろの席でぺたりと机になついたままの友人の髪を、くいくいと引っ張った。 「英二、おすねさん、もう起きたら?」 「……」 「具合、悪いの? ひょっとして」 「――そんなことないよ」 心配そうに言ってやると、彼はあわてて顔をあげた。 「うん、元気そうな顔色だ」 「――ふじ……」 「今朝も大石と話、しなかったね」 英二は居心地悪そうに口の中で小さく、だって、と呟いた。 「いつまでたっても今のままなんて、いやでしょう。英二が悪くないのはよく判ってるから。ほんとにイヤなら無理に謝らなくてもいいから、話をしようって言ってごらんよ。大石ならちゃんと聞いてくれるよ」 「……」 「きっかけないと言いにくいなら、僕が呼び出してあげようか」 「うん、あの、でもいいんだ」 英二はじっと不二の言葉を聞いていたが、やがて小さく首を振る。 「いいって」 「話する、きっかけ、たぶんできると思うから」 「――?」 「明日あたり、ちゃんと話する。大石んち行って話するよ」 「そう」 まだすねた子供のぼそぼそしたしゃべりだったが、英二がそのように自分から言うというのなら、きっと彼なりに会話のきっかけをつかめると思ったのだろう。 どちらにしても、今は英二が一方的に大石から目線を逸らしているような状態だ。 英二にしても決して望んでしたケンカでもないのだから、早く大石と元通りに話ができるようになりたいと願っている。 以前なら大石は、多少英二とのあいだに齟齬を生じさせても、少なくとも自分から歩み寄ろうと努力するところが見えたものだ。 しかし今回に限ってなぜかそれがない。 だからこれほど気まずい空気が長引いているのだろう。大石秀一郎のほうはあの通りの男で、ある意味手塚以上の鉄面皮であったからその胸の内は知れるものでもなかったが、不二にしてみれば日々落ち込んでゆく友人の心境はいかばかりかと思う。 (あの先生と大石か……あんまり考えつく取り合わせじゃないけど) なにかあるな、と不二周助は、あれこれ友人を慰めつつも油断なくそんなことを考えていた。 しかしいろいろな可能性を考えれば考えるだけ、あまり穏やかではない想像ばかりにたどり着いてしまうのは、自分が根っからの騒動好きなせいか、それとも疑り深いせいか。 どちらにしても、この可愛い友人の為に悪いことにさえならなければいいと思う。 時折、その友人にさえ誤解はされるのだが、不二周助は案外友情に熱いのだ。 「あ」 ふと思い出したように英二が顔をあげる。 「ねえ、不二、今日部活終わってから時間ある?」 「今日?」 うーん、と、不二は首を傾げた。 「今日って金曜? 木曜日だっけ」 「金曜」 「あ、じゃダメだ。ごめん、裕太帰ってくるんだよ、確か」 「あ、そうなの?」 「うん。母さんが、だからずいぶん張り切っていて、絶対遅くなるなって厳命されてるんだ――そうか、今日だった。英二が聞いてくれなきゃ忘れるとこだったよ」 どーも毎日同じことしてると曜日の感覚狂うなあ、と不二は笑った。 「何か大事な用? 明日とかでよかったらつき合うけど……ああ、大石のトコ行くんだっけ。じゃその次、部活が終わってからでも」 「ん。いや、いいよ。別にたいした用事じゃないし」 「そお?」 「うん」 大丈夫だよ、と英二が笑う。 ちょうどそこで、授業開始を告げるチャイムが鳴り響き、授業のためのなんの準備もしていなかった英二はあわてて鞄をさぐり始める。 響き渡るチャイム。 なんの変哲もない、聞き慣れたいつものチャイムだ。 それが英二の言葉尻に奇妙にのしかかり、どこか重く陰鬱な、街に響き渡る葬送のそれに聞こえたことがおかしく、不二は小さく己を嗤った。 考えすぎだ、と。 その日の夜。 帰ってきた年子の弟と、いつもの愚にも付かぬ会話やかけあいなどを楽しんでいる不二周助の携帯電話が鳴る。 『不二』 電話の向こうからは、彼の友人の声が聞こえてきた。 「なあに英二、どうしたの」 『ごっめーん。弟クン帰って来てるトコに悪いね』 いつもの明るい英二の声がする。 『明日の練習って、午後からだったよな。一時からで間違いない?』 「え? うん。そうだよ、午後から。時間もその通り」 『ありがとー、それだけ確認したかったの。なんか、どっちだったっけって思ったら、急に不安になってきてさ』 そう言って笑う電話越しの英二の声の向こうに、微かな車のクラクションが聞こえる。 「……あれ、今、君、外?」 『うん。大石の携帯取りにきたんだ』 「え? 携帯?」 『大石のやつ、携帯落としてたんだって』 おや、という風に不二の目が少し見開かれた。 「携帯持ってなかったの? 大石が? ああ、君からの電話に出なかったのは、だからなんだね?」 『うん。そーだったみたい』 電話の向こうの友人の声は、いつもとまったく変わらず、とても明るく好ましい声で不二の耳に届いた。 「大石らしくないなあ、落とし物なんて」 『だろ? 俺が大石の携帯にかけたの気づいて、預かってるって連絡してくれた人がいてさ。今から行ってもらって帰ってきて、とにかく明日大石んち届けついでに行ってみるよ』 なにやらを遠目に確認しているらしい英二の声は至って無邪気だ。 「そう。それで、今日僕を誘ったの」 『うん』 「じゃついていってあげられなくてゴメンね。でも、それにしても大丈夫なの、そんな、知らない人のとこにひとりで行くなんて」 友人の声が久々に明るく快活になっていることに、不二はややほっとしながらこんなことを言った。 『ああ、それはね、だいじょうーぶだいじょーぶ。知ってる人だったんだよ、凄いぐーぜんだろ。だから平気』 「へえ。そうだったの。それにしても」 わざわざ英二がうけとりに行かなければならないような所にいる人間で、しかも大石の携帯を偶然拾うことができるような、そんな人物に心当たりがない。そんな不二の心境を知ってか知らずか、英二の声が弾んで意外な一言を不二の耳に届ける。 『氷帝の、榊先生だよ』 |
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