さすがに少年も――大石秀一郎も、その思わぬ邂逅に戸惑わないわけではなかった。 綺麗な形の目尻をいささかも動かさず、僅かに息を吸い込んで止めた後はほんの少しの動揺も見せずじまいではあったが――確かに驚いた。 生活臭のない、よくととのえられたこの部屋に、あの男との情事のためにやってくるのは、何も自分に限ったことではないことぐらいは判っている。 プロフェッショナルの素晴らしい仕事ぶりで、メイドサービスとやらの手が入った後のこの部屋はいつも塵ひとつない。シーツもきちんとプレスされタオルも柔らかい清潔なものと取り替えられて、シティホテル顔負けの仕上がりだ。 ただ。 そうしていても、どこか自分以外の匂いというものには、彼は敏感だった。 部屋の中に微かに漂う甘い匂いから容易に知れたり、時には男の肌越しに感じ取ったりするものではあったのだが、それが誰であるのかまでは知らない。また彼自身には関係ない。別にあの男が自分以外の誰かとベッドで過ごすことがあったとしても、特にどうこうは思わなかったし、思えるものでもなかった。逆に自分一人だけとしかそういう関係を結んでいないとしたら、気持ちの悪いものだろう。 執着されないため、勘違いをされないための「金」なのだ。 その場限りのホテルではなしに、このように場が固定された場合には、いつか他のベッドの相手と顔を合わせることもあるかも知れない。自分はさして驚きもしないだろうが、相手はどうだろう。いらぬ騒ぎにならなければいいがと、ぼんやり考えていた程度だったのだ。 リビングのドアが開いて跡部景吾が顔を出したとき、多少驚いたのと「やっぱり」と思うのは同時だった。 顔を合わせるにしても、『彼』だとは思わなかった。 よくよく考えてみれば、此処に出入りする者のひとりが跡部であることはなるほどと納得するのだが、まさか顔見知りと出会うとは思いもよらず、さしもの大石秀一郎も一瞬硬直した。 しかし、一瞬だけだった。 「――大石」 どこか呆然とした様子の跡部に、大石は腹立たしいほど落ち着いてこう言った。 「ああ、ごめん。人がいるとは知らなくて」 口の端だけをすっと上げてみせ、続けて言う。 「邪魔して悪いけど、こないだ落とし物をしたみたいなんだ。少し探させてもらえるかな」 「――」 「跡部」 「……ああ」 名を呼ばれて少し鼻白んだようだったが、さすがに跡部もいつまでも動転してはいなかった。不思議に光る色合いの双眸を油断なくきらめかせながら、入れ、と言うふうに顎をしゃくってみせた。 「リビングかベッドルームだと思うんだ。うっとうしいだろうけど、しばらくごそごそするよ」 そう言うと、綺麗に伸ばした背筋のまま跡部の前を通り過ぎた。 リビングではテレビが付けっぱなしになっている。50インチの大画面に映し出されているのはテニスの試合だ。外国人同士で有名な選手ではなかったようだが、なかなか綺麗な打ち合いで思わず大石は足を止めてしまった。 「これ、何処の試合?」 淡々と聞く大石に跡部も同じように返す。 「知らねえよ。スポーツチャンネルつけたらやってたんで見てた。そっちの……青いウエアの奴、割と面白いプレイするから」 「――そうだね」 そのまま大石も足をとめて画面を眺めていたが、すぐに自分の目的に気づいたのだろう。 テレビボードのあたりを一通り眺め回し、椅子の側を歩き、目当てが発見できなかったためにそのまま寝室へと足を向けた。 「……」 解説の男の声が妙に浮かれて聞こえる。ハイテンションな男の喋りと、元プロだという女のぼそぼそした合いの手。さっきまで何とも思わなかったのに、それが妙に気に触って跡部はテレビを消した。 途端に、嘘のような静寂がおりてくる。 開けたままのドアの向こうで、小さく歩きまわる足音。 それがやたらと耳について跡部は寝室をひょいと覗き込んだ。大石はまだあちこちをきょろきょろと見て回っている。 「なに探してんだよ」 「携帯」 「あ?」 「携帯電話、無くしたんだ。心あたりは全部探したんだけど、なくってね」 「……」 「あと、落とすとしたら多分此処しかないから、一応探してみようと思って」 「――俺、昨日も来たけど、無かったと思うぜ」 「そう?」 「どんなヤツだよ」 「二つ折りの黒いの。オレンジのネコのストラップついてるんだけど」 「オレンジのネコのストラップ」というのが目の前の相手となかなかイメージとして結びつかず、跡部は眉を顰めた。榊でもいれば、それが彼の相方からのプレゼントで、半ば強引につけさせられたのだろうと察しをつけただろう。 「――その携帯って、オマエの? 大石」 「そうだけど、どうして?」 「……いや」 綺麗な形をした指を自分の頬に押しあて、跡部はまた黙った。 一通り寝室を見て回った大石は、やれやれと言ったふうに肩を竦めた。どうやら目的のものは見つからなかったらしい。 「ごめん。俺の勘違いだったのかな。ないみたいだ」 「――」 「急に入ってきて悪かったよ。じゃ、俺帰るから」 寝室の入口にもたれていた跡部だったが、大石が本当に何も言わず自分の前を通り過ぎ、本当に何事もなかったかのようにそのままさっさと玄関に向かい始めたので、思わす引き留めてしまった。 「なに」 「――なに、ってワケじゃねえけどさ」 綺麗な立ち姿で振り返ってくる大石秀一郎を、あらためてまじまじと跡部は見た。 跡部と同じくらいの身長なのに、細く長身に見えるのは姿勢がいいせいなのだろう。やたら猫背になったり、肩をそびやかしたりと言う状態を想像できないくらい、彼の立ち居振る舞いはきびきびとしていて気持ちがいいくらいだった。 確かに顔立ちは端正だ。そうして僅かに微笑んでみせたりすると、不思議な貫禄さえある。 「ここの合い鍵、あいつからもらったのかよ?」 「あいつ、って、榊先生?」 「他にいねえだろうがよ」 「そりゃそうだ」 くす、と大石は笑った。 表情には微かに冷笑めいたものが含まれる。 よく見なければ判らないような、かすかな――本当に微かなものであったが。 「――マジ、オマエなわけ?」 「何が」 「何が、とか言うなよ。今更ごまかしたりすることねえだろが」 「ごまかすようなことは何もないけど」 「じゃあ、いつまでもへらへらへらへら嘘くさく笑ってねえで、言いたいことあんならちゃんと話しろよ」 「――」 すい、と大石の目が細まる。 一瞬――。 それは、とても危ういものを孕んでいる気がした。 大石秀一郎はただいつもの通り、大人が折々に誉めるように現代の若者にしては驚くほどの姿勢の良さ、物腰の上品さで、ゆっくりと跡部を振り向いただけだった。 端然として跡部に向かいあう。その表情はあくまでも冷静で、冷徹で、一見すれば危険なものなどなにもない。 跡部景吾という少年の姿形が普段からとても華やかで、それもどこかあだめいた、どきりとするような官能的な艶をおびているのに対して、大石秀一郎は容貌の派手さという点においてはいかにもおとなしくひそやかでさえあった。 しかしその「おとなしくひそやか」なのは、あくまで他人から見た容姿においてだけの話で、大石本人がそうとは限らない。 改めて彼の、その顔立ちをじっくりと眺めるにつけ、通った鼻梁や形のいい唇などに気づく。黒く濡れたような目や案外長いまつげなどをあわせて見れば、確かに彼は驚くほど整った容姿の持ち主なのであった。 跡部は大石を呼びとめ、振り返らせ、視線をあやまたずあわせた瞬間に、彼の本性のようなものにはや気づいていた。 気づき、そして納得していた。 あの男が手を出すわけだ、と。 僅かに伏せられた目元や、ゆっくり嘲笑の色合いを濃くする微笑。 もともとの顔立ちが整然として物腰が穏やかで、嘲笑さえ優しい笑みに見えてしまうせいで、その彼のかもしだす奇妙な色香――と、言ってしまってもいいだろう――には、息をのむ。 ほの昏い燐火の漂う底なしの沼に引きずり込まれそうな、不思議な酩酊。それは確かに危険であるのだが、また近づいてみたい気をも起こさせる蠱惑の罠だ。 いっそその底なしに沈んでみたいと思わせる。 冷たい水に搦めとられたなら、どれほど心地よいものだろう――そんなふうに。 清冽な、毒。 「何を」 大石は笑って言った。 それは、確かに冷笑だ。 「何を、話をすることがあるのかな、君に。……跡部?」 気の弱い者ならば此処で引いているだろう。 しかし、跡部は跡部だった。 「言いてえことがあるんなら、聞いてやるっつってんだよ」 わざと顎をそびやかす。 「俺からは別にオマエに言いたいことはねえよ、大石。でもあの野郎のことだから、別に俺とオマエだけじゃないだろ」 「それは判ってるよ。でもそのことで別に誰に文句を言う気もないから、俺もね」 大石は苦笑した。 「でもそのうちのひとりが君だとは思わなかったけど」 「俺だって合い鍵渡してんのがお前だとは思わなかったよ」 ちっと舌打ちして、跡部は挑発的な視線で、ほぼ同じ身長の大石を睨んだ。 「俺が言うのもなんだけど、あいつやめといた方がいいぜ。たち悪ィ」 「知ってるよ」 さらに面白そうに笑った大石に、跡部はふんと鼻を鳴らした。 「でも俺は別に君が思ってるような感じで、ここに来てたわけじゃないから」 「?」 「俺、お金もらってたし。あくまで取引だから」 一回十万、と続けて言った大石に、跡部は微かに目を見開いた。 「金?」 「いわゆる援助交際ってやつかなあ。いや、面倒だったから彼ひとりだけだったけど、その場合もそういうのかな」 「十万て――金に困ってんの、お前」 「そういうわけじゃないけど」 少し首を揺らして大石は笑った。 「俺はもう此処にはこないつもりだし、君と顔を合わせることもないと思うよ。それに別に、恋愛感情みたいなものはカケラもないから、俺も彼も。君はどうだか判らないけど」 「げ、やめろよ、こっちにもねえよ。あいつ相手にあってたまるかそんなもん」 「じゃあ君はどうして此処にきてるの」 「……」 「跡部」 「――別に」 そこで初めて跡部は、ほんの一瞬目を伏せた。 「なんでもねぇよ。――退屈しのぎだ。男でも女でも、俺セックスすんの嫌いじゃねえから」 「――ふうん」 何か面白がるような微笑が浮かんだが、大石はそこでさらに問うようなことはしなかった。 「君の事情は知らないけど、身代わりにしてるんなら抜き差しならなくなる前にやめといた方がいいね――心が身体に引きずられるのは、よくあることだから」 「大石」 跡部はぎらりと光る目で大石を睨みつけた。 「よけいなこと言ったかな」 一見すればとても優しい微笑だが、跡部にはそれは酷く冷徹な挑発だった。にらみ合いでは決して負けない、目を逸らさない自信のある跡部でさえも、彼の静かな威圧には手強い、と正直思う。 親切で面倒見のいいお人好しはそれは見事な仮面だったわけだ。 この野郎、と思いながらも、ここで我を忘れて激昂すれば、いままで無様にならぬよう冷静にいたことが無駄になる。 「うるせえよ」 声も震わせず、淡々と跡部はそれだけを言った。 「うん」 跡部の凄みにもまったく動じず、相変わらず優しげに見える笑顔を残して大石は玄関に向かった。 「そろそろ帰らないと遅くなる。それじゃ失礼するよ」 「――」 「邪魔して悪かったね」 「――」 大石秀一郎は、最初から最後までその落ち着いた態度や物事を崩すことはなかった。 ドアの閉じ方も、跡部には腹が立つほど丁寧であったのだ。 ――単なる取引でいい。 彼の手が触れる前に、少年はそう言った。 恋人のように大事に扱おうと、気障めかして言った男に少年は生真面目に応えた。 ――そんなことしなくていい。荒っぽくてかまわない。 俺も、いつか彼をそうしてしまうのかもしれないから、と。 少年は、低く呟いた。 その、降りやまぬ雨の夜。 「今日、あいつ来たけど」 「ん?」 リビングで怠惰にソファにもたれている榊の膝の上に、跡部景吾は頭を乗せて横たわっている。 彼はシャツ一枚だけの、しかもただ袖を通しているだけの色っぽい姿だったが、ふわりとかけられた男の上着の下に大部分隠れて、妙に白い印象のある足が扇情的に覗いているだけだった。 「誰が来たって?」 「青学の大石」 まだ余韻を残しているような艶めいた声でそう告げ、跡部は伺うように膝の上から男の様子を見たが、榊はまったく動じた様子を見せない。 「もうここには来ない、って言ってたぜ」 「それはそれは」 くっくっとさもおかしそうに笑うと、男は跡部の髪を幾度か撫でた。 いかにもおざなりに機嫌を取るかのようなその仕草の後、男は跡部にかけてやった上着のポケットから何かを掴みだす。 「――……?」 黒い二つ折りの携帯。ストラップはオレンジの、招き猫に似たポーズを取る小さなマスコット。 「彼はこれを探しにきたんだろう」 「――あんた……」 思わず身を起こした跡部を、優しいと言えなくもない表情で見てから男は妙に楽しげに言った。 「まあ、聞いてみろ」 慣れた手つきでボタンを幾度か押すと、留守録を再生する旨のメッセージが微かに流れてきた。 大石。また出てくれないの? ねえ、俺だってば。 ……あの、なんか俺が悪いコトしてたらあやまるよ。俺バカだから、ひょっとしたら大石に嫌われるような、いけないことしてたのかもしれないし。 でも、ほんとにあの先生にはなんにもされてないんだよ。話してただけなんだ。 なんで大石がそんな怒るかわかんないから、どうしていいかわかんないんだ。 遅くてもイイから、電話ちょうだい。大兄ちゃん、今夜いないからそこで寝させてもらうんだ。だから、遅くてもいいから。 お願い。 話、してよ、大石。 なんとも切なげなひとことで、メッセージは締めくくられた。時間的には、ほんの少し前ほどの伝言のようだ。 唖然とする跡部の前で、男はさらにその携帯のボタンを操った。 コールの音が、微かにする。 しかし三回も鳴らないうちに、相手が出たようだ。弾んだ、慌てたような声がする。 男はうっすらと笑う。 傲慢に。 そうした微笑のまま、猫なで声で榊は言った。 「もしもし。――菊丸くんだね」 |
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