いつもと同じように挨拶をし、同じように涼しげな顔で授業を受けた。指名されて焦る自分にちょっと助け船などを出してくれるのもいつもの彼。 英二の机を中心に椅子を可愛らしく向かいあわせ膝つき合わせて、お昼ご飯を食べるのもいつものこと。 窓からやってくる初夏の風に、光に透けると深い琥珀色になる髪をさらさらそよがせてにっこり笑う不二周助も、いつものことだ。 「大石とケンカしてるんだね」 英二の必死の隠しごとを、優雅に髪をかき上げながらさらりと見抜くのも。 「……なんでわかんだよ」 「そりゃあね」 そよぐ風に髪の乱れを気にしてちょっと押さえたりする様子は、そこいらの女子顔負けの「美少女」だ。英二ですら時々見とれる美貌で不二は微笑む。 「なーんか避けてるでしょ、部活でも」 「……う」 「いつもなら廊下歩いてても大石何処かな、こっち見た手ェ振った、で大騒ぎするのに」 「……む」 「英二の、『今日の大石くん報告』も聞かないしねえ」 「……」 「――ふじ」 「はあい?」 逆ギレかしらばっくれるか、でなければ笑ってごまかすか、と忙しく表情を交代させながら口の中でむむむと唸っていた英二であったが、やがてぺたり机に伏せる。 「……聞いてくれる?」 「はいはい。いくらでも聞いてあげるよ」 不二は椅子を引いて座り直し、とても綺麗に笑って、何やらたくさんたくさん物言いたげな親友に向かいあった。 3年6組の仲良しアイドルコンビは今日もまた、女生徒の熱い視線も、目のやり場に困る男生徒の困惑もものともしないで、その綺麗で可愛らしい顔を危ないほど寄せ合って、内緒話に余念がない。 一部始終を聞き終わった不二は、ふうん、と小さく呟いた。 「なんだか大石らしくないね、その態度」 「だろ?」 英二はなにやらまだ机の下の足をばたばたさせている。 「外面って言う点では、大石ってうちの学年の中でも一、二を争うくらいだよね。特に大人とかには受けがいいし。個人的な好き嫌いで、態度変えるヤツじゃないよね」 「そうだよな、不二もそう思うよな」 「うん、確かにね。いくら、『我らが手塚国光の肩をぶっ壊してくれた殺しても飽き足らない憎んでもあまりある跡部が在籍する氷帝』の、監督だからって」 「不二……」 「なあに?」 「イヤ何でもないです」 「そう」 それはよかった、と不二はにっこり笑う。 「それで? まさかそれが原因で喧嘩、とか言うんじゃないでしょ?」 「原因……そう、なのかなあ」 何かを思いだしてますますしぼんだ状態の英二の髪をくいくい引っ張って悪戯しながら、不二は続きを促した。 「それで? 公園から引っ張り出されて、どうなったの?」 「うん。痛いからひっぱんな、っつっても離してくれないし、もう公園からずいぶん離れたところで、俺やっとこさ振りほどいたんだ。文句のひとつも言おうと思ってさ」 「うん」 「そうしたらいきなり『あんな奴についていくなよ、何考えてるんだ』って怒るんだよ。俺の方が先に文句言われたの」 「へえ」 「変だろ? 俺なんにもしてないし、なんにもされてないよ。ジェラートとクレープもらっただけだもん。腕痛かったし、何にもしてないのに怒鳴りつけられたんで、俺もかーっと来て、『わけわかんないこと言ってんなよ、その態度なんだよお前! 日頃あれだけ人に礼儀礼儀ってうるせえくせに、お前がそーゆーことすんのかよ』って……」 「で後は?」 「……売り言葉に買い言葉……」 「で、今に至る、と」 「携帯かけても出ないし、留守録にメッセージ残しても無視するし」 俺絶対嫌われたーっ、とじたばたと足をばたつかせる英二を、不二は困ったように見る。 「なんで部活の後でも大石を捕まえないの。そうすれば話は早いでしょう?」 「俺が悪いことしたわけじゃないもんっ。なんで俺から話しかけなくちゃいけないんだよ」 「ふうん、じゃあ大石の留守録にはなんて言ってメッセージ残したの」 「そ、それは……」 少しばかり面白がる意地の悪い光が、不二の綺麗な双眸の中に一瞬きらめかないでもなかったのだが、やはりそこはそれ可愛い親友のために、己の悪戯心はぐっと押さえることにしたようだった。 ふーと長いため息をついて、不二は白い手で小造りな顎を支え、考えるように窓の外を見やる。 「僕はまた、いつものようにねこのこが駄々こねてるんだとばっかり思っていたけど」 「――誰がねこのこ?」 ふふん、と言う感じで面白そうに笑った不二だったがすぐにまじめな顔をして、机になついたままちらりちらりとこちらを見上げてくる英二を見おろした。 「確かになんか変だよね。あの大石だろ? 優秀と生真面目が制服来て歩いてるような」 「――」 「手塚がいれば僕からつっついて、それとなく聞き出してはもらえるんだけど」 「ふじぃ……」 「はいはい。そんな情けない顔しない」 机の下で脛を蹴られて、英二はにゃーとわざとらしく怒ってみせた。 「とにかく考えられること全部考えてみようか」 「――うん」 「君はその……榊先生だったよね、その人には、私的な場面じゃ初対面だろ?」 「してき?」 「ああ、えーと……関東大会とか、練習試合とか。とにかくテニス部や学校がらみ以外では会ったことないよね」 「うん、ない」 「じゃ、大石は?」 「――え?」 英二は目をぱちくりさせる。 「大石は? 彼、プライベートで榊先生に会ったことはないの?」 「……」 改めて問われて、英二は考え込む。 あれ以来――。 青学男子テニス部の誇る手塚国光の、選手生命の危機にまでかかわるあの一戦。 あれ以来、大石秀一郎の口に氷帝に関する話題はほとんど出なかった。時に口にされるとしても、トレーニング強化の資料として「氷帝戦のD1の時は」などと、単に他との区別をつけるためだけであったし、実際にもそれ以上の意味を持つものではなかった。 その筈だ。 しばらく英二なりに一生懸命考えた。 よいしょと身体を起こすと、小首を傾げながら不二に言う。 「それは……ないんじゃないかなあ。そんなこと、あいつ今まで一言だって言わなかったよ? あ、でも、それって俺には内緒にしてたってこと?」 「そういうことじゃないかもしれないよ。ほら、大石が忘れてしまうくらいに取り立てて言うまでもない些細な事だったのかも知れないし」 「し?」 「――言えないことなのかも知れないし」 「言えないことって何だよ」 「さあ」 僕にはなんとも、と不二は嫌みでない仕草で肩を竦めた。 「僕たちの知らないところで、大石とあの先生と何か接触があっても別に不思議じゃないんじゃない?」 「そう……かな。そうなのかなあ?」 むう、と口の中で英二は唸った。 しばらくそのまま二人して黙り込み、風が髪に絡むにまかせていたが、英二が何かに気づいたように、あ、と声を出した。 「なに?」 「不二、あのさ」 「なんか思いだしたの?」 「んー……でも、別に関係ないかも」 「いいよ、何でも。言ってごらんよ」 「うん。あの……こないだの、その榊先生と出会ったときなんだけどさ」 あのとき榊はこう言った。 ――こんなふうに呼び出されても、それが他の人だったらすぐ来るわけじゃないんだろう、大石君は。 どうして「自分が大石を呼び出した」ことを知っていたんだろう、とふと思う――あのときも、一瞬首を傾げた言い回しだった。 ひょっとしたら大石から誘ったかも知れないのに。 単なる偶然だろうとは思いつつ、一応不二にそのことを告げてみる。笑われるかと思ったが、不二は予想外に難しい顔をした。 「その日は英二が大石に電話かけたんだよね。家に?」 「いや、携帯。用事で外だ、って言ってた」 「――何の用か知ってる?」 「ううん、聞いてない」 「まさかその後とかに、榊先生と会った、とか?」 「……」 「でも――そうだとしても、決して友好的な関係ではなさそうだよね。英二から聞いた限り、榊先生に対する大石のその態度を見る限りでは」 「……」 「ちょっと反応も過敏に過ぎるよね。挨拶もなしに見るなり英二を引っ張っていこうだなんて。――まるで、英二が榊先生に何か悪さされると思って心配してたみたい」 「悪さあ?」 なにそれ、と首を傾げていた英二は、ややあってはっと顔をあげた。 「戦力そぐために俺のこと闇討ちするとかっ?」 「ばーか」 支えた手から顎をちょっと滑らせかけながら、不二は容赦なく言った。 「関東大会前ならともかく、なんで氷帝が負けてから君のこと闇討ちしなきゃいけないの。だいたいそんなことしたらクビだってクビ。いや、失職以前に犯罪者だよ。それでなくっても最近の教師ったらいろいろ事件起こしてて、世間から風当たりが強いんだから」 「バカはないだろお、不二」 「こら、机揺らさないで」 英二の鼻先をつまんでたしなめると、不二はそのままちょっと己の考えに沈んだ。 「ふひ……はにゃ……いたひんらけろ……」 「ああ、ごめんごめん」 英二がきゅっとつままれた鼻を撫でていると、不二は非常に難しい顔をして小さく言った。 「でも、あの先生って、なんだか――」 「ん?」 「いや、うん……きみには優しかったんだよね」 「え? 榊先生? うん、とても親切だった。いつも試合んときみたいな仏頂面かと思っていたんだけど、にこにこ笑って優しかったよ」 「その、何かされたりはしなかった?」 「何かって?」 「うん、まあ」 困ったようにあれこれと言葉を探しているようだったが、不二はさらに声をひそめた。 「なんていうのかその……いわゆるセクハラめいたことを」 「は?」 「今度二人で会おうとか言われなかった? 君の身体に不必要に触ったりとか」 しばらくきょとんとして目を見開いていた英二だったが、やがてぶっと吹き出した。 「やだなあ、不二! 何考えてんだよ、俺男だぜえ?」 「……そりゃ考えすぎならいい、とは思うんだけど」 苦々しげな顔をして、不二は小さく、妙に重たく言った。 「大石の行動も君のこと心配して、とかだったら納得がいくんだよね。あの先生、ひょっとしたらそういうよくない癖があるのかもしれないし。それを大石が知っていたら君を助けようとしてそんな乱暴なことしたのかも知れないじゃない?」 どうしてそれを知ったのかは別として、と小さく不二が言ったが、そのあたりは幸いかな騒ぐ英二の耳には届かなかった。 「やめてくれよ、気持ち悪ィよ、そーゆーの。俺ホモっ気あるよーに見えるんだ、げーショック」 いやだー、ひー、男にだなんてキモー、と、お調子者らしく笑ってばたばたと騒いでいた英二だったが、目の前の友人がいっこうにこの騒ぎに乗ろうとしないので、不審に思って顔をあげた。 「……不二?」 「英二は、そういうのおかしいと思う?」 ほんの少し首を傾げて笑う不二の顔が、何故か寂しそうだった。 「男から好き、って言われたら、気持ち悪いって思うの?」 「そ……それは、だって」 何故か、不二を自分が虐めたみたいに居心地悪くなった。 英二は自分の意味のない騒ぎがまさか不二にそんな顔をさせるとは思ってもおらず、ごにょごにょとバツが悪そうに口の中で呟き出す。 「だって……そーゆーの考えたことなかったって言うか、その……ほら、やっぱり俺、女の子のが可愛いって思うし」 「まあね」 つきつめれば差別的、とも取れない英二の発言も、その場の「ノリ」とやらで大仰に騒いでみせただけ、と知っている不二はあまり英二を責めるような口調にはならなかった。 ただあの綺麗な顔を寂しげに、あまり気の乗らなさそうな微笑の形に造っただけだった。 「――ねえ、英二」 「ん?」 「もし、君……そうだね、今まで友達だと思ってた相手から、告白されたらどうする?」 「――え?」 「たとえば……そう、大石とか」 不意に。 左耳が熱を持った気がした。 ぽうとあかる、魔性の火。 ――彼が灯した。 「……」 「ま、たとえ話だから、真剣に考えないで。別に大石じゃなくても、そうだね――僕でも桃でも。君のことそういう意味で好きで、だから恋人としてつき合いたい、って言われたら?」 「……それは」 「キライになる?」 「――」 「気持ち悪い、って言って、離れちゃう?」 「――」 「もう口もきかなくなる?」 「――そんなこと……」 胸の鼓動が早くなる。 あのときの大石の目。 押さえつけた手の力強さ、吐息の熱さ。 触れられた耳の心地よさ。 あのとき確かに自分は、『もっと』と――。 「まあ、それはともかくとして」 黙り込んでしまった英二に助け船を出すように、不二がつとめて明るく言った。 英二に彼が問うたことについて、不二自身なにか非常な想いがあるようだった。その明るい口調は英二よりも自分を何かとても大切な事実から目を背けさせ、ごまかしているようでもある。 「世の中には男の子のほうがいい、って人もいるんだし。ほら、僕だって前に変な人にあとつけられたことあったでしょう? 男の人にだよ? だから英二も用心するに越したことはないんだからね」 「――」 「大石のことについても彼がそれだけ怒るんだから、きっと理由があるはずだよ。僕が言ったような理由じゃないとしても、その先生に関するよくない何かを、大石が知ってるんだと思うよ」 「――」 「意地を張ってないで、大石と早めにちゃんと話をして。今日は彼、家の用事で部活には出ないらしいから、夜に電話でもするんだね」 「で、でもまた出てくれなかったら……」 「じゃあ明日の朝、直接聞きなよ。何も難しいことじゃないじゃない」 不二はさらりと言って、立ち上がった。 もうすぐ昼休みが終わる時間なのだ、と、英二はそのときようやく気が付いた。 椅子を元の位置に戻しながら不二は言う。 「――なんか、早く事の次第を聞いといたほうがいいと思うよ、僕は」 「……」 「ややこしいことになる前にね」 駅前、と言う絶好の地理条件。 専門の常駐コンシェルジュと、メイドサービス。豪奢なシャンデリアの下がるエントランス。 それに加えて贅沢な広さと部屋の造り。 価格を想像するのも怖い気がするこのマンションに、少年は慣れた様子で足を踏みいれた。時折顔を合わせる管理会社の者らしい人間にもコンシェルジュの人間にも、ぺこりと丁寧に会釈する。特に今まで怪しまれたことはない。 エレベータに乗り込むと45階を押す。20階まではオフィスやテナントが入っているので停止階はない。ほとんど振動も感じられず、また45階という高層にあるにも関わらずあっという間にエレベータは目当てのフロアへ到着した。 重厚なドアを開けると、一戸建てでもなかなか無いような立派な玄関がある。天井は高く、シンプルなライトでこうこうと照らされている。 広い靴脱ぎ場の黒大理石はぬかりなく磨き抜かれてつやつやだ。 「……」 趣味は悪くないと思うが、と少年はため息を付いた。 とりあえず捜し物だけを済ませたら早く帰らなければ。出来れば、この部屋の本来の持ち主には会いたくない。 そう思いながら靴を脱いでいると。 「なんだよ、夕方になるって言ってたのに早いな」 そんな声が聞こえて、顔をあげた。 少年がここで、ひょっとしたら鉢合わせするかも、と警戒していた人間とは別の声――それも聞き覚えのある声だ。 声の主はずいぶん近くにいたらしい。 少年が顔をあげるのと、彼がリビングのドアをあけて此方を見るのとは、ほぼ同時だったのだ。 少年は驚いて声を上げるようなことも、ましてまずいことになったと思うことさえもなかった。 いつものようにただ落ち着いて、涼やかなその目元をすいと細めただけだ。 しかし、出迎えた彼のほうは、そう落ち着いていることも出来なかったようだった。 目を丸くし、口を開いたまま、玄関にいる少年の姿を見つめてくる。 「――大石……?」 どこかぽかんとしたような顔で立っていたのは、跡部景吾だった。 |
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