「もう来てくれないのかと心配していたよ」

 ソファによりかかり、大仰に手を差し出す男を少年は睨みつけた。
 学生服を襟元まできっちりと閉じ、怠惰な男の様子とは裏腹にぴしりとした綺麗な立ち姿だ。背の高さ姿の良さが物腰の大人びた様子でますます際だつ。
「心配なさらずとも今日で最後のつもりです」
「ほう?」
 顔の片側に指をあて、男は面白そうに少年を見た。
「それはまたどうして」
「――聞くことが在るのは俺の方ですよ。……どういうつもりですか」
「なんのことかね」
「とぼけないでください」
 少年の声はあくまで冷徹だった。
 冷ややかで、押し殺した殺意さえ秘めている。
「あれに手出しをするなと言ったでしょう」
「この間の、公園でのことを言っているのなら」
 男はゆったりと足を組み替える。
「偶然だよ。私も知人と待ち合わせていたんでね」
 ふざけるな、と言いたげに少年の目がきらめいた。それは、刃の輝きに似ている。



 夕暮れもそろそろ終わろうという時間。

 大きく取られた窓の向こう、高層ビルの乱立が遠くに見える。そのさらに遠くに、そのビルのどれよりも巨大な夕日がまだ僅かに姿を残していた。
 綺麗な黒革張りのソファ。足の高い、カラーの花を模したと思われるフロアスタンドや黒檀のキャビネットが絶妙の位置に置かれている。確かにセンスのいいモダンなリビングではあったけれど、それだけに生活臭がないのが冷え冷えとしている。
 その30畳ほどもある立派な居間で男はソファに身を預け、少年はその男から、ふたりきりで会話するには不思議なほど――まるで面接官と受験生のようなよそよそしい――距離をおいて佇んでいた。

 黄昏、やがて夜。
 どこかで人知れず闇が動き出す。
 太陽の断末魔の輝きが、ぼんやりと少年を照らし出した。


「あの可愛い仔猫の君と喧嘩でもしたのかい」
 男は相変わらず、どこか人を小馬鹿にしたような物言いだった。
「あの子はどんなふうに拗ねてみせるのかな。泣いたらさぞ可愛いだろうね。君のことだから、彼の機嫌の取り方なんてよくよく心得ているだろうに」
「俺があれをどうしようと、どう扱っていようと貴方に関係はないでしょう。それとも」
 少年はすっと目を細めて男を見た。
「貴方の目当ては俺ではないんでしょうか」
「むろん君だとも」
 二人の間に、その刹那何かとても官能的な甘い匂いが立ちのぼったようだった。
 肌を合わせた者どうしにだけ通じるそれは、しかし本当に一瞬だけで、次にはもう少年は男を不倶戴天とばかりにねめつけている。
「私はこれで結構親切なつもりでいたのだがね。君の切ない恋心の為に」
 反吐が出る、と少年は呟いた。
 もちろん男の耳に届いた。少年の思ったほどの効果はないようだったが。
「いつまでも今のままで、ごまかしきれるつもりでいるのかい、君は」
「……」
「そら、そんなふうに――獣みたいな目をして、あの可愛い子を見ているくせに。君が他人を欺くのが上手いのは知っているが、それがいつまでもあの子に通用すると思ったら大間違いだよ」
「……」
「あの子は、自分を好きでいてくれる人間のことはとても敏感なのだと思うね。自分を好きでいてくれて、その上自分も大好きな相手のことは。君が自分の仮面に自信を持つのは勝手だが、あの子にこれから先も見抜けないとまでは思わない方がいい。そこまであの子を」
「――」
「侮るべきではないね」
 大石は何か言おうとしたが、やがてそれが相手の手に乗ることだと考えたのだろう。
「――英二のことは」
 ことさら、ひとことひとこと区切るように言った。
「貴方に関係ない」
「つれないね」
 男はソファから立ち上がる。少年の視線がゆっくりと上に動いた。
 一時も逸らさず睨みすえてくる視線の冷たさ、そのぴりぴりとした緊張感を心地よく思える。そそられるとしたら彼のこんなところにだ。
「貴方の親切とやらなんて、俺が信じるわけはないでしょう。どうせ、こちらに波風を立てるのが目的だったくせに」
「おや、そんなに波風が立つほど大変なことになっているのかい」
「年上の人間に、しかもよその学校の先生に挨拶もしないであんな態度をとるとは何事だ、だそうです。いったい何を言ってあれを言いくるめたんです」
「おやおや」
「おかげで英二には口もきいてもらえないし。散々ですよ――貴方のせいで」
 くっくっく、と笑い出した男を見ても、少年は激昂することはなかった。その程度の挑発には乗ることもないようだ。
 怒りに満ちた顔はますます彼の端正な容貌を際だたせ、本来の彼の冷徹な横顔を伺い見ることが出来る。何があっても、滅多なことで感情を露わにすることのない少年であったから、それが怒りであっても激情に捕らわれる姿を見るのは男にとって至高の喜びだ。
 こんな顔を見られるのだったら、どれほどこの少年の恨みを買おうともかまうものか、と思う。なかなかどうして自分は彼に魅了されているらしい。
「本当に君は綺麗だね」
「――」
「そんなふうにあの子のことで怒る君は、とても美しい」
 唾を吐き捨てたそうな顔をした少年の傍らに歩み寄ると、男はさらに低く言った。
「あの子をかまうくらいでそんなに綺麗になるのなら、いくらでもあの仔猫にちょっかいをかけたくなるね」
伸びた手が、少年の形のいい顎から頬を伝い耳までをなぞる。
「――やめてください」
「何故?」
「そんなことをしにきたんじゃない」
「私のメールに応じて来たのは、そういうつもりなんだと解釈することにしているよ。そういうことでしか私は君を呼び出さないと言ったはずだし、判っていて来たのなら君も了解しているはずだ。――そういう、ごく単純な約束だったろう?」
「――」
「服を脱いで寝室に入りなさい」
「――」
「私に脱がされるのは嫌なんだろう」
 少年は黙ったまま男を睨んでいた。
 が、その冷たい湖面のような表情が驚きに揺れた。
 男は突然少年を抱きすくめ、思わぬ力でその身体を締めつけた。
 しかも片手だけでだ。
 少年は抗おうと身体に力を込めて捻ったり、それが出来ないのなら蹴りでもと思ったようだったが、男の方が上背があるうえにどう考えても体格で負けている。
 空いた手で少年の顎を酷く掴み、自分を向かせる。男の声だけはいまいましいくらいに穏やかだった。
「趣向を変えて手荒にされたいなら、それでもかまわんがね」
 今までは手加減してやっていたのだ、と言わんばかりのその行動に少年は悔しそうに顔をゆがめたが、相変わらず苦痛の声すらもあげなかった。
 無言のまま男を睨む。冷たく、鋭く、視線にその威力があるなら刺し殺してやりたいと言わんばかりの目。
 やがて大人しくなったのを見計らって、男は腕から少年を解放してやった。
 自分の位置とドアまでの距離と、男の隙のなさぐらいは少年はとっくに観察済みのはずだ。不可能だと判っていて、この上逃亡を図るなどという無様なことをこの少年がするはずはない。
「自分で脱ぐか私の手を借りるか。好きな方を選びなさい」
 嘘臭いほど教職者の口調で言い放った男を、少年はまだ忌々しげに見やっている。
 やがて戦いを受けて立つ者のように僅かに顔を上に逸らすと、無表情のまま、自分の詰め襟にそっと指をかけた。





 夕日が消え、名残の色も空を去り。
 大きな窓枠に切り取られた、都心の夜景。遠くのビルのそのあかりだけが、遠慮がちに届く寝室。

「世の中にはね。君の思いもつかない手段を隠し持っている人間もいるということだよ」
「――」
「君がどれほどあの子の前で、いつか報われることを信じていい人を演じ続けようとも、そんな努力を一瞬で蹴り崩すような存在が現れないとも限らない」
「――」
「たとえば、これも手段のひとつだ」
 男の身体はなにやら大きくゆらめき、ベッドにうつぶせた少年の背は小さく引きつった。
 そのまま痛みに強ばることもなく、存外な柔らかさで男を奥まで受け入れる。
「優しくして、好きだと言ってやりながら身体の快いようにしてやれば、やがてなびく者もいる。『味をしめる』とでも言うのかな」
「……っ」
「君のように、言葉にも身体にも流されないのも興をそそるがね」
 枕に顔を埋め、少年は一声も漏らさない。
 前を嬲ってやると彼はびくりと身体を揺らして顔をあげた。今はどんな顔をしているものかと思うのだが、無理矢理こちらに向かせたところで顔を隠してしまうだろう。
 押し開くように両腕を取って押さえつければ、目を閉じ唇も閉じて余計に無表情を装おうとする。
 だがこうして背後から抱かれる姿勢で、男に顔を見られていないと言うことが多少彼の油断を招くらしく、時折低いうめきのようなものが聞こえたりするのだ。
 身体を抉る男の動きに少年がひたすら耐えていたのは昔の話だ。彼自身がどう思っているかは別として、少年の身体は素晴らしく男に馴染んだ。破瓜の苦痛に耐え、男の身体の下で開いたのは、恐ろしく美しい氷の花だったのだ。
 冷たくつれないが、どうでも手に入れれば気が済まない。それこそ彼の身体で『味をしめる』ということだろう。
 返事どころか声もあげずに今夜も済ませるつもりなのか、いつも以上に手ひどく嬲っているのに、少年は驚くほどそれに耐え続けた。男も躍起になって、少しでも彼の反応を引き出そうとあらん限りの手管で攻め続ける。押し寄せる恍惚の中でそれでも少年は抗い続け、歓喜の声をあげようとする唇を血が滲むほど噛みしめた。
 やがて男の熱は終焉を迎え、少年もまた声もなく達する。
 いつになく長く続いたそれは、激しい、どこか戦いに似た情事であった。








――自分が彼に、どれほど酷いことをしようとしているのか。
 あの雨の日。少年はそう言った。

――俺なんかと、もう会わないほうがいいのかもしれない。


 
 男が、座り込む彼に傘をさしかけた夜。
 それは、やがて来る冬を連想させるような、秋の雨の夜だった。









 少年はしばらくして目を覚まし、男の腕に抱えられていることに気づくと忌々しげに舌打ちしてさっさとベッドを降りた。帰るなら送っていく、と言う男の声を無視して、いつものようにバスルームに閉じこもる。
 なにをそんな急いでいるのか、と思わず男が声をかけるほど、少年は、一刻も早くも身支度を整えて此処から出ていくことに躍起になっていた。
 ひとつひとつの仕草が奇妙に乱暴なのも、わざとだろうか。
「菊丸君によろしく」
 揶揄のつもりでそう言うと、少年はぎらりと男を肩越しに睨む。
 そのまま、何事か言って男をやりこめてやりたいような顔つきをしていたが、ぷいと顔を逸らして部屋を出ていった。
「なんとまあ、子供のような」
 派手にドアを閉じる音を聞きながら、男はくすくす笑った。いや、一五なら立派に子供なのだが、それにしても。
 彼にとって少年、と言うものはいつでも興味の対象であった。
 男の性的な嗜好はこの際別においたとしても、あの年頃の少年達の、必死に大人びようとして無理にでも背を伸ばす、よろよろとつま先立つ、そんな行動や言動はいつでも可愛くてしかたない。
 それこそ、時に驚くほどたぐいまれな存在もいるものだ。
 彼のような。
 二度とこないと言う彼のことをこのまま諦めるつもりはないし、いろいろとその為の計略を巡らせるのも楽しい。
 かの少年に関われば関わるほど、どうしてこんなに楽しくなるのだろうと思う。

 と。

「……?」

 奇妙な振動音が男の耳に届いた。
 何かと首を巡らせると、すぐにその音源に気づいた。黒いテレビボードのすぐ側で目立たなかったが、メタルブラックの携帯電話が落ちたままになっているのだ。
 振動音は、その携帯電話に着信を知らせるものだった。
(……おや)
 少年のものだ。授業中以外は制服の胸ポケットに入れていると聞いていたが、さっき彼を抱きしめたときに落ちでもしたのか。
 着信音がならない設定にしてあるようだ。二つ折のそれを拾い上げ、ぱかりとあけたところに、ちょうど電話が留守録に切り替わった。
『……おーいし?』
 しばらく逡巡したような気配があった後、心細げな声が聞こえてきた。
『あの……俺、だけど。こないだ、ちょっと俺も急だったもんだから、パニクっちゃってたみたいで……あの……なんかきついこと言ったと思うんだ』
 何かおろおろとしたような、困ったような。
 子供のようにつたない言葉を繰り返す声。
『でも、ちゃんと話したいから、これ聞いたら……いや、あの、時間出来たらでいいから、電話ちょうだい。遅くてもいいから。待ってるから』
 小さなため息とともに、電話が切れた。
 おやおや、と思いながら男はその携帯を、持った手の指先で撫でた。着信有り、の表示が出るまで画面に小さく現れていた名前。

 何処かいかがわしい愛撫のような手つきで、男がなぞるその名。



 それは。






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