仔猫。

 それが、第一印象だった。

 大きくなればそれはそれは綺麗になるのだけれど、今はまだ悪戯とお遊びが楽しいばかりの、やんちゃざかりの洋猫。おっとりした品格のある長毛より――そう、どちらかと言えば軽快な短毛種の猫かも知れない。
 おしゃまで気分屋、けれど憎めない。ころころ、ふわふわした毛玉のような、いとしいばかりのいきもの。そんな感じがする。

――なるほど、子供の喜びそうな。
 男は胸の中で小さく嗤う。

――彼くらいの年頃の少年が、愛しがるような。


 肩越しに睨み上げてくる、あの少年の怜悧な黒い瞳が思い浮かぶ。ひんやりとした感触の肌に似つかわしい、氷のような心。
 本当は何もかもに冷淡で、突き放した見方をするのが癖になっている『彼』の――唯一の。

(なるほどね)







「先生?」
 ぼんやりしていたわけでもないが、思い出し笑いを見られていたのだろう。
 男はなんでもないよと言って傍らの少年に笑んだ。きれいに伸びた少年の足は、いかにも健康そうだ。
 くるりとした目の動きの忙しさ、かわいらしさ、思わず行く先を見守ってしまうちょっとしたたどたどしさや危なっかしさは、確かに洋猫の子供に似ている。『女子供の喜びそうな』愛くるしいものにはあまり心を動かされない榊だったが、これは確かにほうっておけない。
 まさか自分が榊の頭の中で、アメリカンショートヘアだのロシアンブルーだのアビシニアンだのの耳と尻尾をつけて連想されているなどとは思っていもしない英二は、ぺこりと礼儀正しく頭をさげてくる。
 いかにも子供な仕草が可愛らしく、榊は思わず目を細めてしまった。
「あの、ありがとうございました」
「いいよ御礼なんて。悪いのは私の方だからね」
 ことさら愛想良く、優しげに榊は言った。
 多少英二も警戒を解き始める。
 関東大会の時は始終仏頂面で、きっと普段もそうなのだろうと勝手に考えていたのだが、こうしてみると話しやすい。
――案外、いろいろと話とか聞いてくれたりする、優しい先生なのかも。
 大石秀一郎が聞いたら卒倒しそうなほど凄まじく平和な思考で、英二は傍らに座った男を見やった。
「ほんとにすみませんでした」
 右手に目を落としながら、英二は言う。
 さっきまでそこにあったのははローズピンクのジェラート(勿論榊が買ってくれたものだ)。そして今はチョコクレープが。
 ジェラートのお変わりをもらったときに上手い具合にベンチが空いて、榊はそこへ英二を誘った。そのまま去るのかと思いきや何故か英二の隣に腰掛け、彼がジェラートを片づけていくのを目を細めて見やっている。
 そうして、英二がジェラートを食べ終わる頃に、今度は目に付いたクレープの屋台を英二に指し示したのだった。
「なんか、たくさん買ってもらっちゃって」
「気にしないで。――私はよく判らないが、そういうものは冷めると美味しくないんじゃないのかな。早めにおあがり」
「あ、はい。イタダキマス」
 ぴょこっと頭を下げて、英二はふんわり甘いクレープを口にした。チョコレートがひらひらしたクレープ生地の間から滴り落ちないように、器用にあちこちをかじっていく。
 それを面白そうに見やっていた榊だったが、3分の2ほども英二が食べ尽くしたのを見て、いかにも優しげにこう話しかけた。
「それにしても邪魔をして悪かったね。誰かと待ち合わせの予定だったのかい。時間は良いのかな」
「――あ、ハイ」
 ちらりと公園の真ん中の、玩具のような時計台に目をやる。
約束まであと15分。いつも通りなら、間もなく大石がやってくる時間帯だ。しかし待ち合わせの噴水は目の前だし、ここで座っていても行き違いになることはないだろう。
「もうすぐです。俺、今日ちょっと早くついちゃったし」
「そう」
 榊はゆったりとベンチの背にもたれると、柔和な表情を造った。
「ああ、ひょっとして菊丸くんの彼女かな?」
「え? いや、チガイマス」
 ぶるぶると英二は首を振る。
「あの、テニス部のヤツです。……俺とペア組んでる」
「――ああ」
 見事なまでに榊は動じない。
「大石、秀一郎くんだったね。怪我をしていたときくけどもういいのかな」
「はい」
「彼はいい選手だね。君と組んで試合をしていると、軽快なマジックでも見ているみたいでとても気持ちがいい――うちにはなかなかいないタイプだね」
 うっかりと心底うなずきかけて、英二は慌てて残りのクレープにかじりつくことでごまかした。奇人変人、とまでは言わないが、氷帝のレギュラー陣は確かに常人離れしている(いろんな意味で)。
 いけないいけない、と首を竦めた英二を、意味有り気な目でみやりながら榊はさらりと言った。
「彼はずいぶん君を大事にしてるね」
「――え?」
「優しくしてくれるんだろう、君に」
「え……ハイ」
 いきなり話題が変わった。
「あいつ、すごく面倒見とかよくて……その、別に俺じゃなくても、部活の後輩とかでも、一生懸命世話してますよ。部活に限らず、同じクラスのヤツとかでもそうなんじゃないかな。誰にでも優しいし」
 英二の言葉にお愛想のように笑いながら、榊はでも、と言葉を継いだ。
「誰にでも優しい、と言うのはなかなか出来ることじゃないがね。――本気にしろ、他人を欺く手段にせよ」
「……?」
 何のことかがよく判らず、英二はクレープの残りをひょいと口に入れながら首を傾げた。
「こんなふうに呼び出されても、それが他の人だったらすぐ来るわけじゃないんだろう、大石君は」
 そう言われれば、大石が他の人間と休日に出かける、と言うような話を聞いたことはあまりない。
 英二か、そうでなければ手塚と一緒に病院や図書館めぐりだ。
「君がとても大事なんだよ」
 榊の言葉の…持っていこうとする会話の意図も方向も判らず、英二はきょとんと彼を見ていた。
 そのとき。



「英二!」


 日中の公園に突然響き渡った声に、行き交う人々、思い思いにくつろぐ人々は何事かと振り返った。叫んだのは、英二の待ち人だった。
「――大石」
 血相を変えて、彼はこちらに駆け寄ってくる。
 その青ざめたような、物凄い怒りにも似た表情に英二は息をのんだ。
 隣で相変わらず涼しげな微笑をたたえる榊のことなど、勿論目に入っていなかった。
「なにやってるんだよ、そんなとこで!」
「なに、って……」
「こっちに来い!」
「お、大石……」
「早く!」
 来い、と言う間に英二達の座るベンチにやってきた大石は、まだきょとんとしてよく状況の飲み込めていないような英二をいらいらした様子で立たせた。
 腕を取り、まったくいつもの彼らしくなく酷い引っ張りようをしたので、英二は思わず悲鳴をあげた。
「ちょっ……痛いって!」
「いくぞ」
「な、何だよ、何なんだよ、大石!」
 振り返った大石が恐ろしいほど怒りに満ちた表情で睨んでくるのに、英二はびっくりして身体を震わせた。
 しかし、大石のその突き刺すような視線は英二を見ていない。
 英二はゆっくり振り返る。
「榊、先生……」
 榊は相変わらず、割り込んできた少年のことも意に介さないように微笑していた。たった今までその少年を誉めていたときの愛想のいい顔つき、それをそのまま崩すことなく、突然悶着を始めた少年ふたりを面白そうにみやっていた。
 特に気を悪くした風もなく、軽く手をあげてこう言う。
「いずれまた。菊丸君」
「あ……はい。ごめんなさ……うわ!」
 突然現れたパートナーの無礼を男に謝りかけた英二だったが、それがまた大石の気に障ったらしい。目上の人間にきちんと頭を下げていると言うのに(それも大石の躾通りに)、彼はいつものように英二を誉めるどころか、余計だとばかりに英二をぐいぐい引っ張っていく。
「英二、いいから」
「いいって……よくないよ、大石――ちょ、ちょっとそんなことしなくても行くよ、なあ、ちょっと」
「いいから、早く」
「大石!」
 シツレイだろ何だよお前、と英二は大石に引きずられながら公園を出ていった。
 突然現れて、公園の中ののどかさをかき回していった大石秀一郎とそのパートナーが視界から消える。急に始まった騒ぎに何事かと少年たちを注視していた人々も、理由は解らないもののその騒動らしきものにかたがついたことを察して、またそれぞれののんびりした休日の時間に戻ってゆく。
 木陰のベンチにひとり腰掛けたまま、榊はまだずっと、何やら面白くてならないようだった。とても愉快な様子でひとり忍び笑いを繰り返す。
 その榊の後ろから、妙に色めいた声が聞こえた。
「――そういうことかよ」
「早いな」
 榊は驚きもせず、かと言って振り向きもしないで返した。
「何言ってんだ。時間ぴったりだぜ」
 声の主は跡部景吾であった。
 榊の『禁煙マンション』の、合い鍵のひとつを持つ少年だ。
 白いシャツとジーンズの他は特に何の変哲もない格好であったが、確かに少年に違いない彼の身体の線が奇妙に艶っぽい。装飾品と言えば一連の細い金の鎖が白い喉元を飾っているばかりであったが、それが彼だとどこかなまめかしくもある。
「よそのガッコの生徒に手ェ出すのはどーかと思うんだけど」
「――嫉妬か」
「バーカ」
 憎まれ口を叩いた景吾少年は、柔らかいウェーブの髪を風にそよがせて、件の少年達が去っていった方向を軽く睨んだ。
「あーゆーのがお好みだったとは思いませんデシタヨ、監督」
「ん?」
「世間も知らないようなガキで遊んでんじゃねーっつの」
 なんのことだ、と言いたげに立ち上がった榊は、顎を軽くしゃくって跡部についてくるように示した。
 あからさまに不快な顔をしながらも、跡部は目の前で不誠実なことをしでかした男に対して、身を翻すようなことはしなかった。
 榊のあとを追いながら、このエロオヤジめ、と毒づいたくらいだ。わざわざ真昼の公園に呼び出して、何事かと思ったら。
(ものの順序も判っていない子供は嫌いだ、とか言ってたくせに)
 物陰から伺い見た少年の姿を跡部はいらいらしながら思い起こした。
(確かに顔は可愛いけどよ。ネコみたいで、いじったら面白いんだろうけど――でも、なあ)
 泣いたらうるさそーだ、と跡部は思う。
 拗ねたら長そうだし機嫌をとるのも大変だろう。どうせこういう色事の駆け引きのひとつも知ってはいないに違いない。

「どうせあんなガキ、見てくれで手ェ出したら、すぐ飽きちまうくせして」
 公園脇の駐車場へ男は歩いていく。跡部はちっと舌打ちして、少し早足になる。





 ちなみにお察しの通り。
 跡部景吾は、ひとつ勘違いをしていた。






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