お目当ての相手が電話に出たのは、コール15回目だった。 乗り物の中などにいるときはこまめに電源を切ったりマナーモードにしたりと、何かと几帳面な相手なので、何度もコールすると言うことはすぐに電話に出られる状態なはずだ。 辛抱強く待つ。 『はい』 かけてきた相手がわかっていても、ちゃんとそんな風に出る。 低くて、耳元で聞いていると奇妙にどきどきするほど良い声だ。 「あ、おーいし? 俺」 『どうしたの、英二。ずいぶん早起きだね』 電話の向こうで微笑む気配がしてそう問いかけてくる。 早いと言ってももう9時だ。休日はごろごろといつまでも布団にもぐりつづけている英二のことを知っていて、大石はそんなふうに優しくからかった。 「んー、今、家?」 『ちょっと用事があって外だよ。どうしたの、何かあった?』 「今日昼からさ、時間ある?」 『午後?』 少し考える気配がして、たぶん大丈夫、と言う声がした。 『どうしたの』 「うん、あのさ」 そっちの家へ遊びに行っていいか、と言おうとして――ふと、ためらわれた。 『英二?』 「いや、あの、ちょっと買い物がてら出かけたいんだけど、大石ヒマかな、って」 『大丈夫だよ。待ち合わせする?』 「うん。場所何処がいいかな」 その時、大石が何かに驚いたように鋭く息をのむ音がした。が、英二がなにごとかと尋ねる前にこう言ってきた。 『あ――ああ、じゃあ、先週映画見たときに待ち合わせしたとこの――あの、噴水のところにしようか』 「うん、わかった」 本当は家に遊びに行く、といつものように言おうと思っていたのだったが。 「じゃ12時ごろでいい?」 『ああ。気を付けておいでよ』 「ほーい」 英二が携帯電話から耳を離す途中で、ぷつっと切られた。そう言えば、大石が電話を切る音を聞くことはあまりないなと英二は思い返す。 いつも英二が切り終わるまで、じっと待っていてくれた。 いつも丁寧で、優しくて、面倒見が良くて、優等生で。 大好きな優しい大石。 そんな大石の悪戯をいつまでも気にしているなんて、と自分では思うのだが。 「別に、大石んちに行っても……いいんだけど」 英二は携帯をぼんやりみつめながら、そっと自分の左耳に触れてみる。 今でもほのかな熱を孕んでいる――ような気がする。 彼のくちびるが灯した。 熱。 いつものくせで煙草を取り出し――すぐに思い返した。 そうそう、ここは禁煙にしたのだった。そんなふうに自分で納得して煙草をテーブルに戻す。 と。 「なにを考えてるんですか」 と、低い怒りをはらんだ声とともに後頭部に何やら飛んできた。 ぼふ、とコミカルな音をたてて足下に落ちたのは、清潔な布に包まれた枕だった。 モデルルームに登場するような広いベッドにあわせて、枕も大きく柔らかい。ぶつけられたと言っても怪我をするものでもないが、まともに後頭部にくらうとけっこう首に来る。 まさか彼がそういう行動――無言でその巨大な枕をむんずと掴むやいなや有無を言わせずぶん投げる――に出るとは思わなかったので、男は顔をしかめて振り返った。 「――なにをする」 「それはこっちの台詞」 左手に携帯電話を持ったまま、少年は綺麗な目を怒りにつり上げ睨んでくる。行動そのものは子供っぽく冗談じみたものだったが、彼の怒りには冗談のかけらも、謝る隙すら見受けられない。 「人が電話をしているときに、下らないちょっかいはかけないでください」 すらりとした綺麗な裸体を起こして少年は静かに怒っていた。 「しかたないだろう」 シャワーを使い終わりこざっぱりした顔で、男はその巨大なベッドの足下のほうに腰掛けた。あまり少年に近づくと平手でも喰らいそうだ。 「私のベッドに、そんな格好でいるときに、君が他人からの電話に嬉しそうに出るからだよ」 「……」 「ましてやデートの誘いだなんてね。いくらいとしの君からとは言え。妬けてならないんだが」 「――バカバカしい」 吐き捨てた少年に、男は肩を竦めた。 ベッドにうつぶせた状態で電話をしている少年の背を眺めているうちにどうも悪戯心が沸いてきて。いつも自分がしつこいほどふれるその背筋を、男はするりとひと撫でしただけだったのだが、不意打ちだったのがよかったのか悪かったのか、彼はびっくりして息をつまらせた。しかしひと声もあげなかったのはさすがだ。 男にしてみればなかなか愉快な出来事だったのだが、少年のほうはそうされたのがよほど気に入らなかったらしく、綺麗な眉をきりりとつり上げて怒っている。 「今度つまらないおふざけをしたら、本気で怒ります」 「ベッドでも投げるか?」 少年は答えない。 やや乱暴に毛布をまくりあげると、携帯をサイドテーブルに放ったままひょいとベッドから降りた。男の視線が意味ありげにその裸身にからみついたが、彼は振り切ってさっさと浴室に引っ込んだ。 ご丁寧に鍵までかかる音がする。 取り残された男はしばらくして響いてきた水音を聞くともなしに聞いていたが、やがて喉の奥で低く笑った。 煙草の箱を未練がましく眺めながら、男はいまこの瞬間も楽しくて面白くてならないようだった。 大理石のパウダールームで着替えまできっちり済ませて少年は寝室に戻る。 と、男の姿はない。 小さなリビングセットのテーブルの上に、いつもの白封筒と。 銀色の、鍵が。 『先に出る。メイドサービスには連絡済。施錠を頼む』 少年は難しい顔をしてメモを読み、その鍵を取り上げた。 新しくマンションを買ったから、と男に連れられてきたのは夕べだ。いつものようにホテルについたら、その足でここへやってきた。 おかげて夕べは、友人の家に泊まるとよけいな嘘までつかなければならなかった。 どうやら男はここを住まいにしているのではないらしい。時折、男の用で使って――そのおおかたはこんなふうに不健全な遊びで――いるだけのようだ。 専門の清掃会社がいつも手入れをしているようで部屋はいつもとても綺麗だ。普通に3LDKと呼ばれるマンションの数倍の広さがある。 モデルルームのような生活感のない美しさ、きらびやかさ、豪華さ、そして。 空虚さ。 溜息をついて少年は封筒を取り上げた。 あの男から渡される『代金』は一種の予防線だ。必要以上に見下されたり、また執着されたりするのはかなわない。 これはあくまで商取引であり、相手にもそう思っていてもらわなければ困る。 あの男と初めて密室で二人きりになったとき、はっきりそう告げた。相手も了承したはずだ。必要以上の執着は困る。 金額そのものに意味はない。無駄にいろいろ遣う習慣はないのでその紙幣の枚数をもてあましてしまうのもよくあることだ。 しばらく思案して、少年は中身を三枚だけ引き抜くと、残りは封筒ごとゴミ箱に放り投げた。以前によこされた分もまだ残っているし、中学生の身であまり大金を持っていては怪しまれる。 子供というのは不便だと自嘲気味に笑う少年の顔は、ぞっとするほど酷薄だったが、また恐ろしいほど美しかった。 大抵の遊びに飽きた手練れの男でさえも、なるほど虜になるだろう。 はいどうぞ、と威勢の良い声で渡されたコーンを嬉しそうに受け取る。 山盛りの、ローズピンクのジェラート。 クリームよりもジェラートが、本当を言うとジェラートよりもシャーベットが好きだ。しゃきしゃきした口当たりの感じが、とてもいい。 昼前の休日の公園は、そろそろ人が増えてき始めた。 もうすぐ本格的な夏が始まる。日差しもだんだん強くなってきた。 めぼしい木陰のベンチや芝生には、カップルや親子連れがちゃっかり場所取りをしている。それぞれ寝そべったりピクニックシートを広げて早めのお弁当だったり、とても楽しそうだ。 飼い主と通り過ぎるレトリバーの尻尾を眺めながら、英二はジェラートを舌先でつついた。 待ち合わせの噴水前にやってきたのは、菊丸英二が先だった。珍しく大石よりも早く着いて(それはそうだ、待ち合わせまで30分もある)、今日は大石に『早いね』と誉めてもらえるだろうとわくわくしているのだ。 英二の名誉のために言うと、決して彼が遅刻魔というわけではない(皆無でもないが)。時間には割と正確にくる。しかし大石秀一郎は、いつも待ち合わせのきっちり10分前には指定した場所についている。必然的に『お待たせ』と手を振るのは英二のほうが多かった。 「今日は、俺の勝ちー」 ひとりでおどけたように呟いたところで誰が応えるはずもなく、英二は所在なげにジェラートをもうひとなめする。 どうやら公園の中で、ひとりぼっちは自分だけのようだ。そう気が付くと、子供達のきゃーきゃーと騒ぐ声が急に耳に付き始めた。 本当は、なんだかひとりでいるといろいろと余計なことまで考えてしまいそうだった。 だから、なんとなく急いで家を出てきてしまった。 大石に電話をした直後にはもう身支度を整えはじめ、一時間もたたないうちに家を出てしまった。なんだか今でもくすぐったく、ぼうと熱をもったままの耳のことを出来るだけ忘れようとして。 (……なんだか、変) 思い出すと、今でも頭にぼんやりと霞がかかったようになる。 耳に触られただけ。 それだけなのに。 (なんでどきどきするかな?) 急に大人びた顔つきをした大石のことや、耳たぶで感じた彼の吐息の熱かったこと、耳元で聞くと驚くほど心地いい低い声のことも。 もっと囁いて欲しいと、自分は確かに思った。 あのあと大石は冗談に紛らせてしまったけれど、自分を押さえつけた手に恐ろしいほど力がこもっていたことを知っている。 自分を射すくめたあの目。 耳に触れる唇。 もっとして欲しい、と。 確かに思った。 ぼんやりしていたせいだろう。 まわりもよく見ずに足を踏み出したところで、誰かにぶつかった。 「……わっ!」 驚いた拍子に足下がよろめいて、英二は体勢を後ろに崩した。 ダメだ転ぶ、と英二が体を竦めたとき。 「危ない!」 大人の男の声がして、ぐいと腕を引っ張られる。 何度かたたらをふんだけれど、そのおかげでみっともなく転倒することだけは避けられたようだ。 思わずしがみついてしまったその人の体から、ほんのりとしたコロンの香りがした。 「大丈夫だった?」 大人の声が囁くように言う。いい声だなあ、と思いながら英二は、謝罪と感謝を述べるためにずいぶんと長身のその男をふりあおぐ。 「……あれ?」 「おや」 男は切れ長の目を少し見開いてそれから驚くほど優しく微笑んだ。 「菊丸くんじゃないか。青学の」 「――あ」 きょとんと見上げた先のその顔に、英二は見覚えがあった。――というより、初対面のインパクトがありすぎて忘れられない。襟元まできっちり閉じて着込んだスーツとぴかぴかの革靴で、初夏のテニスコートに現れた男。 「あの……氷帝の、カントク、さんですか?」 小首を傾げる英二に、いかにも親切めかした顔で頷きながら男は言った。 「そうだよ」 「――榊……先生?」 自分が監督、と呼ぶのもためらわれてそう言ってみると、男はにこやかに笑って頷いた。 今日の榊はすっきりとしたスーツ姿で、昼日中の公園でもさほど違和感はない。普段でもあんな――関東大会一回戦の時のような、隙のなさすぎる服でも着ているのかと思っていたがそうでもないようだ。そうだったら面白いのに、とひそかに想像して含み笑っていた過去を持つ英二はちょっと残念に思う。 もちろんそんなことはおくびにもださず、すみませんでした、と英二はぶつかったことをわびた。榊は試合の時とはうってかわってにこやかに、こちらこそ前方不注意で、とやんわりと言った。 「せっかくのジェラートを台無しにしてしまったね」 よろけたときに落としたジェラートと砕けたコーンには、もう鳩や雀が集まり始めている。一瞬残念そうな顔をした英二のことをくすくす笑って、男はワゴンスタイルの店を見やって言った。 「ああ、あそこで売ってるんだね。大事なおこづかいで買った物だろうに、悪いことをしたね」 「え? いや、そんな、いいです。俺がぼーっとしてたんだし」 英二は慌てて両手をふる。男はそんな英二に笑ったが、引き下がらなかった。 「お詫びに奢らせてくれないかな」 「え? あの、いや、俺」 「ほら。おいで」 いりません、と言うヒマもなく、榊はすたすたと、そのピンク色をしたジェラート売りのワゴンへ歩いていった。英二もあわててあとを追いかける。 知らない人からものをもらっちゃいけない、と大石に言い聞かされていたことを忘れたわけでもない。 しかし。 落としたジェラートに未練がないわけでもなく。 まあ、まったく知らない相手じゃないし、と都合の良いことがちらりと頭をかすめてしまったのも、本当だった。 |
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