菊丸家の末弟と大石秀一郎とのつきあいは、ふたりともが中学にあがってからのことだったので実質それほど長いわけではない。 なつこいように見えて案外と人見知りをするたちの菊丸家の可愛い末っ子・英二であったが、どういうわけか大石秀一郎にはあっさりと己の境界の柵を開け放ち、招き入れてしまった。 兄や姉に言わせれば、世話焼きでよく面倒を見てくれる相手には、かまわれたがりの末っ子はよく懐く、とのことである。 兄姉、両親、祖父母の信頼をことごとく勝ち得、中学入学直後の出会いから2年と数ヶ月ほどで、菊丸家の人間は大石秀一郎に「可愛い末っ子」をたびたび委ねて、よい友人が出来たと喜ぶようにさえなっていた。 逆に出来すぎていて怖いくらいだ、とは、英二と年の近い次兄の発言であったか。 他の兄姉や両親達、勿論当の末っ子にもいっせいに非難されてすぐに次兄は引っ込んだが、彼がその『完璧な優等生』に感じた違和感はあながち的はずれでもなかったろう。 大石のあまりにスマートな優等生ぶりは、同年代の少年には端正すぎて奇妙な仮面めいたものとして映ったようだった。 しかし、大石秀一郎が菊丸家の人間に少しでも不審がられたのはあとにもさきにも次兄のその発言ただ一回きりであった。 彼は相変わらず穏やかで礼儀正しく、真面目で面倒見がよく、次兄が一瞬でもあやしんだように『ボロをだす』ことは決してなかった。次兄すら己の直感を見当違いとして恥じるほど。 彼は完璧だった。 その横顔が、驚くほど端正なことに気づいたのは――いつだったろう。 じっと見つめていると、すぐに気づいてこちらを向く。 自分を認める。笑う。とても優しそうに。 行動に移していないだけで、どうかしたのか大丈夫か寂しいのかと囁かれながら、喉をくすぐられ膝に抱き上げられているような、笑顔。 彼が厳しくなるのはいつも他人のためで、大声を出すのも彼自身以外のことでだった。 英二の相方に対する他人の評価は、同級生からも大人からも、いつも上々だった。 面倒見が良くて。頼りがいがあって。品行方正で。成績優秀で。 堅物過ぎてつまらない、と言う意見はこのさい無視する。 本当は自分だけをかまっていてくれればいいのにと、何度英二はひそかに思ったことだろうか。 もちろん菊丸英二の子供じみた嫉妬は杞憂に過ぎない。 大石秀一郎の興味も関心も配慮も、好意にもとづくものは昔から英二だけのものだ。大石がその白皙の仮面に人知れず押し隠して誰にも見せない、熾火のような暗い情熱の向かうところさえも英二ただひとりなのだ。 間違いなく英二は、大石にはこよなく愛され慈しまれている唯一の存在だった。 ただ英二本人が幼くて、それに気づかずにいるだけで。 「ええっ?」 突然素っ頓狂な声を上げたので、さすがの大石も目を丸くして英二を見つめてきた。 青学テニス部のほこる黄金ペアは、ただいまその片割れ大石秀一郎の自室にて、ベッドを背もたれにDVD鑑賞のまっただなかである。 「ええっ、なに、なに? これで終わりっ?」 普通よりは長い映画のDVDも終焉を迎え、スタッフロールが流れ出した途端の、英二の叫び声である。 「ええええっ! どうなるの、どうなっちゃうの? これで終わり? まだなーんにもなってないじゃんっ」 「これの続き、いま映画でやってるんじゃなかったっけ」 「ええええーっ」 大石は笑いながら画面と英二に交互に目をやった。 「長い話だからね。いっぺんに映画に出来ないんだよ。全体が物凄く面白いから、はしょっちゃうとつまらなくなっちゃうし。うん、とても面白かった」 「……でもぉ」 明確な起承転結を期待していたので、尻切れトンボな感じで映画が終わってしまったことに英二は不満たらたらだ。足をぶらぶらと揺らしているのが、いかにも不満げな仔猫の尻尾のようで可愛らしい、と大石は目を細めた。 もちろん映画そのものの出来は素晴らしかった。特撮技術の限界の為に幾度となく映画化の話が出ては消えた小説だが、現代ではコンピュータグラフィックスと言う技法が見事な進化を遂げて、異世界の街も魔王の塔も不思議な種族もまるで現実のようにスクリーンに映し出せる。 しかしいきなり映画だけを見た者には、なるほど尻切れトンボに見えないこともないだろう。 「俺、原作全巻持ってるよ。先が気になるんだったら、続き読む?」 「ん? ……うーん……」 困ったように英二は俯く。あまり本を読む習慣がないのだろう。苦笑して、大石は次の手をさしのべる。 「じゃあせっかくだから明日、待ち合わせて映画見にいく?」 「うんっ、行く行く! 行きたい!」 「でも多分そうなると、最後まで見たくなるよ、きっと。3作目は今作ってるみたいだから、来年だけど」 「えっ?」 「それとも全部DVDで揃ってから、一気に見られるようになるまでお楽しみでとっとく? 今日見たのは無かったことにして」 「んー……うん」 でもお出かけしたいよう、と子供のようにもごもご言うので、大石はついつい笑ってしまった。 「じゃあ明日、朝待ち合わせしようか。9時ごろでいい?」 機嫌良く頷いた英二であったが、すぐにまた何か思いつき唇を可愛くとがらせた。 「んー、でもそしたら今日は、大石んちに泊まっていい?」 「今日は英二のお父さんが早く帰ってくるって言ってたじゃないか」 「ん……」 「せっかくみんなが揃う日だろ。それにまた明日も会えるし」 言外に今日は帰れと言われて、英二は『遊びたいのに』とちょっとぐずってみせた。 14か5の少年が「ぐずる」と言うのもおかしな話だが、まったく彼に関してはその表し方で違和感はない。 「明日、明日。ほらいい子だから。朝ご飯から一緒しよう。な? ご馳走するから」 英二は膝をかかえ、ちょっと肩を縮めてつまらなさそうにした――少なくともそういう素振りをしてみせた。 こうしていると、まず間違いなく大石は英二の隣に体をよせ、肩を抱き、時には聞き分けのない子供にするように頬を両手で包んで自分を向かせ、あれこれ機嫌を取り結ぼうと宥める。 無論大石には、こういう場合の英二が心底むくれているとは思っていなかったし、英二でも大石のその焦りようがどうしようもないほど切羽詰まっているとは思えない。 仕組まれている、これみよがしの仕草にお互い困ったふりをしながらコミュニケーションを楽しむ。恋人に対して強い立場にある少女のような英二のすねたそぶりは、大石にしてみれば本当に可愛く、いとしく、少々の無理難題でも聞き届けてやりたくなっているのだから始末に負えない。 大石は浮かれて甘やかし、英二はこころゆくまで甘やかされる。 今日も前髪を引っ張り、鼻先をつつき、それでもまだむくれてみせるのでいつものように頬を大事に両手で包んで、此方を向かせた。 「英二。明日な?」 「――」 「英二」 ふくれっつらの英二の双眸だけが、面白くてたまらないというようにきらきらしている。思わずぷっと吹き出しながら、大石は撫でていた頬を軽くつねってやった。 「こら、このワガママぼーず」 「俺ボーズじゃないもん」 ついでに耳をひっぱろうとする大石の両手を、こちらも吹き出しつつ一生懸命ふりはらい、英二は言った。 「ボーズは大石だもーんっ」 そのうちじゃれあいのようなつかみ合いの方が面白くなりだして、二人して笑いに息をつまらせながら、なかなか必死でちょっかいをかけあった。 頬を引っ張ろうとしてみたり、鼻をつまもうと試みたり、隙を見て脇腹をくすぐってやろうとしたり、お互い結構反射神経が鋭いせいで悪戯の完遂はならなかったけれども、最後には足まで蹴りあって結構な騒ぎになってしまった。 「おーいしー、おーいしってば」 英二はじたばた、じたばたと足をばたつかせる。 暴れる英二に手を焼き、押さえ込みにかかった大石が、多少強引に英二を組み伏せてとりあえずの勝者となる。 「おもいー、おもいー、こら秀ちゃん、どきなさい!」 けらけらと笑いながら英二は言い募った。 笑いすぎている上に大石が全体重でのしかかってきているので、呼吸が苦しいし身動きがとれない。 「こーら暴れるな」 「やだよー、大石くんのえっちー」 「襲うぞー」 「きゃー、変態っ」 とわざとらしく喚く英二は、そのうちに相手がこのうかれ騒ぎにのってこなくなったのに気づいてふとその顔を覗いた。 「大石?」 怒ったの? と言いたげに見上げてくる顔にはただ苦笑するしかない。 「どったの、大石」 「うーん」 英二の両手首を押さえつけて、体全体でのしかかって身動きも取れないようにして。シャツの襟が乱れて鎖骨なんかは丸見えで。 床に押さえつけられたままきょとんと見上げてくる英二の瞳に、だんだん不安の色が浮かび始めた。 急に難しい顔をして黙りこくってしまった大石が、何か怒っているのかと考えたようだ。 調子に乗りすぎたのかな、と、英二は一生懸命自分のしたことを思い出す。 いつも大石が英二を怒るときはちゃんとした理由がある――自分の気づかなかった、思いも寄らないことで。 でもそれはいつも正しい。すぐに理解できなければ、丁寧にこんこんと諭される。 大石はいつも正しい。自分にとっては。 だから、英二は自分が知らずに大石にした、いけないことを思い出そうとしていた。叱られる前に先に謝ろう、と考えて。 実はそんな英二の心の動きさえも、大石には知られてしまっていることなど気づきもしないで。 「英二」 「――なに?」 英二はびくびく無理に笑顔を返してみたが、しかられると決めてかかってしまっていたので、声は喉に絡まって少しかすれた。 「ちょっと静かにしてて」 「――大石?」 呼ぶと大石は小さく笑った。 無理に唇だけをゆがめたような、奇妙な微笑。 彼の顔立ちが良いせいで、そんなものであってもとても端正に見えたのだが。 大石がじっと見つめる――自分を見おろしてくる。 そのまなこのかたちがとても綺麗で、鼻梁も完璧に通っていて。 男らしい顔立ちなのに、どきりとするような美しさがあるのは、睫毛が黒く長いせいだろうか、とぼんやり英二は思った。 そう。 その横顔が、驚くほど端正なことに気づいたのは。 いつだったろう。 「いい子だから」 耳元で囁かれた。 その低い声に、わけもわからず体がびくりと震えた。動悸が一気に速くなった。 顔が熱くなり、体が熱くなり、胸はさらに熱を持った。 「ちょっとだけおとなしく、ね」 耳にそっと触れる低い声。 それに逆らうことなど考えられない。 綺麗で妖しい蝶の、鱗粉に酔うように。 なにを言うにも英二は、そういう意味ではまだ無垢で無邪気だった。 その年頃の少年として当然のように性的な知識も持っていたし興味もあったのだが、本当にただ漠然としたもので――聞きかじりや雑誌のあおりにお手軽にのせられた、『興味深いうわさ話』の域を出るものでもなかったのだ。 彼が大石秀一郎に感じた美しさというのは、まさにその性を、己の中に在るものを、他人の手に触れられる己の身体のことを知り尽くした者にしか現れ得ないもの。奇妙にいかがわしく、ひそやかにして淫靡なものであった。 英二は相方の、時々はっとするようなその美しさがどこから来るものか、などとは深くは考えない。理由がわかる時が来るとするなら、彼もまた無垢ではなくなる瞬間かも知れない。 どちらにしても、今の英二には思いもつかないことだ。自分の耳もとに大石が唇で触れることに、どんな深い意味があるのか、などと。 名を囁かれ、耳を弄ばれて感じる感覚が、いったい何に結びつくものか、などと。 「大石」 いつもと様子が違うのに不安がって、名を呼ぶ英二を綺麗に無視して顔を肩口に埋めた。 行きがけの駄賃にそこらあたりにキスしてやってもよかったのだが、そうするとたぶん歯止めがかからない。 ほんの悪戯のつもりだった。問いただされても、なんとでも言い抜ける自信はあった。 彼の扱い方などよく心得ている。 ――当たり前だ、ずっと見てきたんだから。 唇で耳を挟む。 息を吹きかける。 組み敷いた身体がびくりと跳ねた。綺麗な若鮎のようだ。 もう一度、と思うと、今度は遠慮がちに小さく震えた。 優しく、あくまで優しく耳を弄びながら悪戯じみて時折歯をたてる。気まぐれに優しく愛撫をしてやっているが、いつでもお前など好きなように出来るとでも言いたげな――その、傲慢なやりようは。 (あいつの手管だ) それに気づいた瞬間、大石は顔をあげた。 「英二」 薄紅に染まった耳元でささやくと、ぴくんと小さく身体をはねさせた。 ぎゅっと目と唇を閉じて小刻みに震えている。問うように上げられた腕は、遠慮がちに大石の袖を掴んでいるだけだった。 「英二」 これ以上何をされるのかと、組み敷いた身体が縮こまろうと力を入れるのがわかる。 英二、ともう一度耳元で囁くと、身の起きところがないのか小さく体をよじった。けれどまだ抵抗する気配はみせない。 とてもかわいそうで両手に包んでやりたいような、すがる手を突き放してもっといたぶりたいような――どちらにしても手放しがたい。 (たちの悪い) こっそりと自嘲したが、それが自分のことなのか、どこまでもいとけない相方のことなのかは、大石自身にも不明だ。 英二の手首を押さえつけていた手はゆっくりと離れた。しかし英二は解放されたことにもすぐに気づかないほど、可哀想なくらい身を縮めてしまっている。 危険な色合いを帯びた大石の目が悩ましく伏せられるのと、彼の指が英二の腰のあたりに伸ばされたのは同時だった。 そして。 驚いた猫の子みたいな、それはそれは可愛らしい叫び声をあげて英二は跳ね起きた。 「お……おーいしっ!」 「――」 「やめてーっ!! やめてやめて、く、くすぐっ……ひ、はは、ふひょひょひょひょ」 「やっぱりこっちの方がくすぐったいのかあ」 わざとのんびりと呟いた大石の両手は、英二の脇腹当たりでなにやら悪戯を始めている。 10本の指が、忙しそうに腹やら腋の下あたりをいったりきたりして、そのたびに英二は手足をばたつかせた。 「なにーっ、なになになに! ヤメヤメっ! い、息できないっ! ぶはははははは」 「あれ。耳の方がくすぐったいかと思ったんだけどなあ」 「ぐふふふふははははははは、はは、ははははは。ヤメテーっ、窒息スル……」 「そりゃ大変」 ぱ、と両手をあげて大石は、息も絶え絶えの英二をにこやかに見おろした。 丸いくるみ型の目の端に涙を浮かべ、顔を真っ赤にしている。 「なにすんだテメ……」 「いや、ほら、猫もくすぐったがるって言ってたし。こないだのテレビで」 「……」 「耳はどーかなって」 「……」 「ほら、ぴくぴく動くだろ。猫の耳って。だから敏感かなって」 「……」 「でもウンともスンとも言わないし、実際くすぐったらどうなるのかなって思ってたんだけど、英二騒がないし。耳はそうくすぐったくもないのかなあ」 「……何の話をしてるかにゃ大石……」 「猫のくすぐりポイント」 「……」 「英二?」 「……ぶっとばす」 仔猫の威嚇のようなほほえましい唸り声を発して、英二は大石に飛びかかった。かわすこともできたが、せっかくだし、と大石は彼の体を綺麗に受け止める。 にこにこ笑ってやりながら、大石は先刻のずいぶん大人しかった英二を思い返していた。 この子の性格から言って、いやならいやと言って突き飛ばせばすむものを、そうしないのは多少なりとも「脈がある」ということだろうか、などと勝手なことを考える。 これはそう長く待たないでもすむか、などと不埒で不穏な算段をしていることなどおくびにも出さず、怒れる仔猫の相手に専念する。 「そこになおれ大石! 同じ目にあわせちゃる!」 「ふーん」 大石の長い指が、英二の腕の付け根当たりを素早く移動した。 「にゃふっ!?」 「猫も弱いのは腋の下?」 「テメーいっぺんシメる!」 こればかりは大石がどう企んでも色っぽい展開にはなりようもない、先刻の騒ぎをさらにヒートアップさせて、少年二人は(少なくともひとりは)大まじめにつかみ合いを始めた。常になく騒がしい兄の部屋を覗きに来た大石の妹が、あきれた顔で「いいかげんにしたら」と声をかけるまで、彼らは楽しくそこでじゃれあっていたのだった。 彼らはそれこそ腹の皮がよじれるくらいに笑いつづけ、暴れ続けていたので、ましてその微かな音に気づくはずもない。 少年二人が楽しくじゃれ合う部屋の隅に置かれた、大石の鞄。 その中で、黒い携帯電話は音もなく数度震えて、メールの着信を知らせる。 日時と、ホテル名と、部屋番号だけの。 |
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