部活を終えたばかりの部室内はざわざわと落ち着かない。
 週末の掃除当番にあたっている一年生がジャージのままあわただしく掃除用具の入ったロッカーを探っていたり、口々に挨拶をかわして早々に退室したり、出された宿題のことを早速級友にふってみたり。
 あれほどみな部活動で激しく動き回ったにもかかわらず、その年頃の少年達の体力と言えば底なしのようで、本屋だのファーストフード店へだの立ち寄りの密談があちこちで交わされていた。
 まだ夕刻とは言え日の高い時節のことである。

 もちろん青春学園中等部にも『用のない者はすみやかに下校し、みだりに繁華街に立ち寄らないこと』と言う通り一遍の生活指導はある。また何事においても生徒主体を是とするこの学園にあって、各部活動の部長副部長ともなると、後輩を指導する立場としてそのあたりのことは徹底するように申しつけられてもいたのだが、彼らとて無理強いに意味がないことをよく知っていた。
 あまり遅くならないこと。他校の生徒ともめ事を起こさないこと。他人に迷惑をかけないこと。
 男子テニス部を例に挙げれば、その三つを遵守していれば規律正しい副部長は好意の黙認を続けたし、部長も眉間にしわを寄せつつもあまり口うるさくならなかった。
 何を言うにも男子テニス部の面々としては、そうして学校帰りに友人達とはしゃぐことはもちろん楽しくはあったけれども、それは部活動よりも優先させていいものではないと言うことをよく知っていたからだろう。自分の軽はずみな行動で部に迷惑をかけることはあってはならないことだったし、万が一己の遊びを優先させて部活に支障をきたすようなことがあれば、それはそれで彼ら自身に取り返しのつかない形でかえってくるのだ。
 そういう意味では青学中等部の男子テニス部は、心地よい連帯感と緊迫感のある向上心に満ちあふれた場所だった。
 厳しい練習をくぐり抜け耐え抜いてそこに在籍する少年達は皆、それぞれがそれぞれなりにその空間と時間とを愛してやまなかったし、そこに存在する己に誇りを持っていた。
 であるならばこそ、彼らは彼らの敬愛してやまぬそれに対して、不誠実でいようとは思わなかったのである。

 鞄に放り込んでおいた携帯の電源を入れる。
 と、途端に小さく携帯が震えてメールの着信を知らせた。
「お疲れさまです、お先に失礼しまっす」
「ああ、気を付けて」
「大石先輩、お先でーす」
「気をつけてな」
 いちいちまめに挨拶を返しながら、大石秀一郎はそっと二つ折りの携帯をひらいた。
 バイブレーションにしていたので誰にもメールの着信を気づかれることはなかった。下手をすれば大石秀一郎が携帯電話を所持していることすら、知らない者もいるのではないだろうか。
 親に勧められて買い求めたが、家族との帰宅時間や所在地のやりとり、またごくごく親しい何人かの友人達とのメール交換以外には、まったく使われていなかった。
「今時の若者」に括られる年齢としては珍しいくらいに、彼は携帯電話には緊急連絡用以上の価値を見いだしていない。一部のいい年をした大人ですら、その小さな通信機器に依存症の気が見え隠れしていると言うのに。
「……」
 彼はさりげないふうで、ちらりとメール画面に目を走らせる。
『明日十二日。午後二時』
 その一言ずつに、あとはホテルの名前とルームナンバーが添えられただけのメールだ。
 どうしようかな、と大石は無表情に考え込んだ。
「大石、お疲れ。お先にね」
「気をつけて、タカさん。また明日」
 それでもとっさに笑顔は出る。
 すずしげな目元に、得体の知れぬ濃い色合いなど、ちらとも見えはしない。
 あらかたチームメイトや後輩達を見送ってしまって、カギ当番であるのをいいことに最後まで部室にひとり残った大石は、携帯の画面に目を落としてもう一度思案した。
 メールの指定した日時は、今週末。
 つまり明日。土曜日。
 指定時間は午後二時。
 明日の練習は、たしか午前中だけだ。日曜日は終日オフだった。
 午後からは特に予定もないな、と『返信』ボタンを押す。
 別に金に困っているわけでもないけれど。
 気晴らし――そう。
 他人の熱に弄ばれる時間は、そんなに不快なものでもない。むしろ今の自分には好ましいかもしれない。――困ったことに。
「おーいしっ」
 明るい声に振り向くと、部室の入口で小さく手を振る少年の姿が目に入る。
「英二」
 さりげなく携帯をたたみながら、大石は少年に笑い返した。
 他の人間にするときのように『笑わなければいけない』などと一瞬たりとも意識しなければならないようなことはなかった――彼にだけは。
「帰ったんじゃなかったの?」
 いかにもいとしいものを見るように大石が笑いかけると、英二はもうそれだけで喉をくすぐられた猫のように彼の傍らへやってきた。
「うん。あのねえ、大石」
「ん?」
「明日の土曜日、昼から部活ないじゃん。ねえ、予定なかったら遊ばない?」
「いいよ、予定ないし。どこ行く?」
 大石は即答した。件のメールのことなどひっかかりもしなかった。
「うん。あのね、大兄ちゃんがDVD買ってきたんだけど、ちい兄ちゃんがゲームで占領しちゃってて俺、全然見られないの。大石んちで見てもいい?」
「いいよ。何見るの」
 英二は二つ三つのタイトルを挙げた。流行のアクションやファンタジーの洋画、それから他愛ないアニメーションだ。正直大石にはあまり興味の持てる内容でもなかったが、うんうんとうなずいて了承する。
「俺も見てもいいんだろ?」
「いいよ。――て言うか当たり前じゃん、大石の部屋なのに」
「嬉しいな、俺も久しぶりに映画とか見たかったんだ。なんだかんだ言いながら見に行く暇なかったもんなあ」
 そこまで言って、大石は傍らの少年に目をやる。
「何。わざわざその為に戻ってきたの? 明日、部活の時にでも言ってくれればよかったのに」
「うん。大石に先約が入らないようにと思って」
 へへー、と笑う英二の髪をさらさら撫でてやりながら大石も笑った。
「ねね、せっかくだから一緒に帰ろうよ」
「うん。じゃ先に行ってて、英二。……そうだな、校門の処で。すぐ追いつくから」
「りょーかいっ」
 走っていく後ろ姿を見ながら、折り畳んだ携帯電話をもう一度開く。

 日時。ホテル名。部屋番号。
 それだけが示された簡潔なメール。

 大石が返信した内容は、それに輪をかけて簡単にして明瞭だった。








『行けない』





 くす、と男の口元がゆるむ。
 助手席側のドアがちょうどあいて今しも乗り込もうとしていた少年は、男のその表情を見て少し目を見開いた。
「何笑ってんだ?」
「――いや」
 その男のそのような表情自体が珍しいのか、少年はベンツの助手席に腰を落ち着けながら胡散くさげな視線を送る。男は飄々とメールを消し、黒い携帯をスーツの内ポケットにしまい込んだ。
「気持ちわりィ笑い方」
 肩を竦めて、少年は吐き捨てる。言葉は乱暴で態度は横暴であったが、野卑に見えないのは少年の育ちのせいであろう。
「どこの女からのメール? カントク」
「さてな」
 男が動じないので、少年はちっと小さく舌打ちした。
 運転席の男が表情らしきものを見せたのはその一瞬だけで、あとはいつものように鉄面皮に戻ってしまった。顔だちはよく整い、男性的な魅力に満ちた壮年の男である。生活感のない立派な身なりをしていて、ブランドが嫌みなく似合う。
 いっぽう助手席の彼の方は、素晴らしい美少年と言ってよかった。
 その年頃の少年の持つ健康的な美とは一線を画した、どこかほの昏い、ねつい情の色あいさえ見える危険な美貌である。傲慢な女王を思わせる態度や言葉の端々には、己のその美貌と価値とを十分知り得た者の驕りが見える。
 そしてその価値を他人に尊ばせ、その為に仕えさせても何とも思わない、支配者の傲岸不遜さも。
 まだ純朴であるべき14、5の年齢にして、暗い官能の世界を知り得た危うい色香も。
「景吾」
 少年がきちんとシートベルトをはめるのを待って、男が少年を呼んだ。
「ダッシュボードの中に鍵が入っている。見てみなさい」
「……」
 少年が密室に男とふたりきりとなるときにだけ、男は少年を名で呼んだ。名で呼ぶことには、彼らには特別の意味があるようだった。
 景吾、と呼ばれた少年は、まるっきりわがままな少女のような唇をして、言われたとおりダッシュボードを探り始める。
「あ。またこんなとこにゴミ入れっぱなしにしやがって」
 少年は怒ったふうにそう言う。
「ゴミではないが」
「使わないんならゴミ。このダイレクトメールとか……ああ、なんだ、これ、地図? ……ナビ付けてるんだからいらねえじゃねえかよ。このガソリンスタンドのスタンプカードとか、捨てとけよ、スタンプためてティッシュとか卵一パックとかもらったりしねーんだろ、どーせ」
「……」
「いつも言うけど、こーゆーのカタす癖ちゃんとつけろよ。いくらいい男でもだらしないのはみっともねえぜ。何で俺がいつもいつも片づけてやってんだよっ」
「……」
「イマドキの女なんて、そのへんよく見てるんだからよ。こんなことしてるからその年で独身なんじゃねーの、センセ」
「――鍵は」
「ちょっと待てよ。……ああ、あった」
 少年の長い綺麗な指が、もっさりとした紙の束の間から銀色の小さな鍵を掴みだしてきた。
「うむ。それだ」
 言いながら男はエンジンをスタートさせる。
 歩道の側に添うように止めてあった黒い車はスマートに道の流れにのり、帰宅ラッシュには僅かに早い時間の街中へと走り始めた。
「このあいだ買ったマンションの合い鍵だ。持っていろ」
「――」
「場所は判るな。駅前の。そら、このあいだお前を連れて行ったろう」
「……わかるけど」
「ん?」
「どっちの鍵がそのマンションとやらの合い鍵なワケ? 榊センセイ」
 少年の手の中でチャラチャラと小さな音を立てる――小さな、なんの変哲もないその鍵はふたつあった。
「ふたつとも同じ鍵だ。好きな方を持っていけ。別にどちらがどうと言って、かわるわけではないがな」
「へえ」
 少年はたちまち性の悪い――したたかな、男の身体と心をよく知りつくした女のような顔つきで、ちらりと運転席の男を見た。
「合い鍵ふたつ?」
「……」
「俺がひとつもらったら、こっちはどこのどいつに渡す鍵?」
「――」
「ひょっとしてさっきのメールの相手?」
 男は答えない。
 こうとなったら聞き出すのは至難の業だ。
 面白くもなさそうにふんと鼻を鳴らした少年に気づいたか気づいていないのか、まったく変わらぬ調子で男は続けた。
「別にそこを住まいにするわけではないから、私のいないときはおまえの用で使ってもかまわん。後はちゃんとメイドサービスに連絡しておけ。それから」
「……?」
「――全室禁煙だ」

 はあ? と景吾少年は、目を見開き口をぽかんとあけて、ヘビースモーカーのこの男をまじまじと見つめた。
 少年には意外なことに、男はそのときくくっと小さく声をたてさえして笑ったのだ。
少年には、何がなんだかもちろんわかりはせず、気持ちわりぃともう一度同じ言葉を呟いた。
その少年を乗せて、車はそろそろ賑やかになり始めた街のただ中へと走り去っていった。




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