「大石……って」

 英二の言葉に、跡部は舌打ちしそうになった。
 それはどう考えても、世にも珍しい跡部の「しくじり」だっただろう。
 英二はとっさには何を言われたか判らず、どういう意味かを把握するのに忙しく、目をぽかんと見開いたままであったから、跡部がその秀麗な顔をことさら無表情にし、いつも他人を小馬鹿にしたように見おろす双眸をらしくなく横に一瞬そらせ、口をつぐむその顔つきのいちいちを、ずっとあとになっても思い出せたほどだ。
「大石って」
「――」
「大石、って、大石のこと」
 英二はまだどういう意味か判りかねて――いや、よく意味は知っていただろうが、それとその名前の持ち主とがどうしても結びつかず、ゆっくりと混乱し始めていた。
「ねえ、跡部」
「――」
「大石のこと。大石、ってうちの大石のことだよね」
「……違う。他人だ」
「嘘だ」
 あきらかに勢いを無くした跡部の声に、英二はきっぱりと言った。
「嘘つかないでよ、跡部」
「何で嘘だってわかるんだよ、同姓の赤の他人だったらどうすんだ」
「なんでかわかんないけど、跡部の言ってるのは、大石のことだって判るもん」
「なんでだよ」
「――わかんないけど、わかる」
「そりゃすげえ、野生の勘かよ」
「ごまかさないでよっ」
 英二はおもわず声を上げた。
「あのさ、どういうこと」
「……」
「大石じゃあるまいし、って。――じゃあその、お金もらうようなこと、を。お金をもらって、そんなことを」
 あまりのことに頭がだいぶぐらぐらするのか、英二は目を忙しく瞬かせながら自分で呟いた。
「誰と。――そんなこと、誰と」
「……」
 跡部は黙っていたが、英二はぼんやりとこの部屋の主を思い描いていた。
 嗚呼、そうだ。
 なぜ気づかなかった。
 そうすれば辻褄が合う。
 大石がこの部屋を知っていたことも、自分に近づいた榊にあれほど攻撃的だったのも。
 もう此処へ来るなと執拗に言い聞かせたことも。

「跡部。跡部、知ってるの。知ってるよね、知ってるんだよね」
「知らねえよ」
「嘘」
「知らねえっつってるだろ」
「嘘つかないでってばっ」
 英二は跡部に掴みかかった。だが彼の方が僅かに上背があるので、下から見上げる形になった。
「教えてよっ」
 なんとなくおおよそに見当がついても、英二は跡部に詰め寄った。どこかで否定してほしかったのかもしれない。
「うるせえよ、あいつのことなんざ俺の知ったことか」
「教えてって言ってるだろっ!」
「そんなに気になるなら、本人に聞きゃいいだろっ! 俺がほいほい言うようなことかよっ」
 跡部は扱いかねてとうとう英二を突き飛ばそうとしたが、もみ合いになる。文字通り食い下がる英二を押しのけようとしたが、英二も必死なのかなかなか跡部から離れようとしない。
 うるさい女なら頬のひとつも張るところなのだが、相手がこの仔猫の少年では逆上してひっかかれかねない。最悪、殴り合いにもなるだろう。可愛らしく見えても、男は男なのだ。
 こんなところで殴り合いの喧嘩などして、万が一ことが大きくなったらいろいろとまずいのは跡部も同じだった。そのぶん、今は頭に血が上ってしまっている英二よりは彼の方が冷静だっただろう。
「いいかげんしろ、ほんっとガキじゃねえかよ、おまえは!」
「ガキでもなんでもいいから教えろってんだよっ」
「お前に教えてどうなるんだよ! ほんとのことだかなんだか、それを知ってどうするつもりなんだよっ」
「どうするって……っ!」
 そこで英二の動きは、おもしろいようにぴたりと止まった。
「どうするったって……」
「――」
 掴みかかられたままの跡部はなにかもう一言二言文句を言ってやろうかとしたようだったが、英二が肩で息をしたまま呆然としているのにわずかな憐憫でも覚えたのか、少しばかり目つきを和らげた。
「何か、言うつもりなのかよ。――もしも、ほんとだとして、なんて言うんだ? 大石に」
「……」
「あいつにも何か事情があることで、おまえには関係ないとか言われるかも知れないだろ」
「そんなことないよっ」
 英二は否定した。
「関係なくなんか……」
「お前が思うのは勝手かもな」
 跡部はため息を付き、存外に紳士的な態度で、己のバスローブの襟元を掴んだままの英二の手をそっと外させた。
「俺の失言については謝罪する。俺には関係ないことだし、口を出すことでもないからな。俺からお前に言うべきことでもなかった。悪かった」
「それじゃ……ほんとのことなの、やっぱり」
 跡部は否定も肯定もしなかった。
「嘘か本当かはお前が考えろ。知りたければ本人に聞けばいい。でも俺からは何も言わない」
「跡部」
「俺は凄い嘘つきで、お前をからかってやろうとしてたちの悪い冗談を言った、って可能性もあるからな」
 跡部のその憎まれ口は、彼なりの気遣いであるかもしれなかったが、英二はまだショックを隠し切れていない。
 できるならば、跡部の言うとおり、今の言葉は彼のたちの悪すぎるふざけであってほしい。そう思おうとすれば出来ないことでもない。
 しかし英二には判る。――いや、英二でなくとも、誰にだってわかるはずだ。この場合迂闊に漏らされはしたが、それが真実であるかないかぐらいは見分けがつく。それこそ、誰にでも有る「勘」というものだろう。
 どういうことだ、と自分の中で頭を整理しようとはしているのだがどうしても彼と――そういう事柄が結びつかない。
(いや……そうじゃない)
 ――思い当たることが無いわけでもない。
 暗闇の中で、押さえ込まれて、あまりにも手際よく肌を暴かれて。
 英二の肌のどの部分に何が隠れているのかを、やすやすと探り当てた彼の指先。英二自身も知らぬはずのそれを、引きずり出し嬲ってみせたあくどい手管。
 あのときは何が何やら判らずただ恐慌状態であったし、記憶もところどころ飛んではいるが、暴れる相手をあつかうのに手際が良過ぎはしなかったか。指先も唇も――あまりにも。
 何も知らぬ英二の肌さえ、不思議な熱を帯びてゆるむほど。

 黙り込んでしまった英二に、跡部は何か言おうとしたのか数度口を開いては閉じた。
 これほど間抜けな――己の矜持にかかわるほどではないにしろ、およそ自分らしくないしくじりをやってしまったことに、跡部は珍しくいらいらしていた。
 このなんとも可愛らしい、雪玉の仔猫のような少年が悄然としているのを見ると妙な罪悪感さえ沸いてくる。まったく跡部らしくもなく、また非常にめずらしくもあったが、かすかなに自己嫌悪にさえ陥っていたのだ。
「菊丸」
 それでも、このままうなだれている仔猫を放っておいてはさらに自分の気分が悪くなるだろう――そう考えて、跡部は思いきって英二に声をかけた。
 なんと言ったものだろうか、とまだ逡巡しながらだったのだが。
「菊丸――あのな」
 そのときだった。


 居心地が悪いほどの沈黙を破ったのは、がちゃりとドアをあける鍵の音。そうして、何の声もなくすたすたと廊下を歩いてくる人の足音だった。
 不意をつかれて英二が、え、と顔をあげる。
「景吾」
 リビングのドアをあけた男は――レインコートを腕に掛け、当たり前のように少年の名を呼んだ男は、もちろん英二がいることなど予想もしていなかったのだろう。
 さすがに目を少し見開き、英二と、そうして跡部景吾とをかわるがわるに見やっていたが、やがてそこはその男らしく、ゆったりと微笑んで見せたのだった。
「これは可愛らしいお客様だ。――いらっしゃい、菊丸君」
「……」
「――こ……こんにちは」
 お邪魔してます、と慌てて頭を下げた英二の後ろから、跡部が不機嫌そうな声で言った。
「そこで雨宿りしてたから連れてきた……んです。――別にかまわないでしょう」
「誰も駄目だとは言ってないよ。大歓迎だ」
 バスローブ姿でいる少年達は、彼――榊太郎にとっては非常によい眺めらしく、にこにことしてはいるものの、値踏みするような光をちらつかせている。
もちろん榊は、人のよさげな笑顔の下にその物騒な目つきを押し隠してしまって、決してあからさまにはならない。もちろん、英二などはそんなものに気づきもしなかった。
「どうしたんだい、今日は」
「あ、あの――そこのスポーツショップに買い物に来てて」
 何を律儀に答えているんだ、と言いたげな跡部の目つきにも、英二は気づかない。
「ああ、そう。そうだったね、急にこの雨だったからね。それは大変だったろう。ひとりで?」
「は、はい」
「そうそう、そういえば先日は急に電話をして悪かったね」
「いえ、あの、大丈夫です」
「そう、ありがとう。またなにかあればこちらにもかけてくれていいから――そういえば、今日はどうしたんだい。君のパートナーは?」
 びくりと英二が体を揺らす。
 跡部は聞こえぬように舌打ちして、英二の手を引っ張った。
「行くぞ、菊丸」
「え」
「もう服乾いたろ。――駅まで送ってってやるからもう帰れ」
「まだ雨足が強いのに」
 榊はやんわりと跡部を止めた。
「もう少しゆっくりしてもらってはどうかな。こんな天気だしね」
「俺が送ってきますから」
 跡部はきっぱりと言った。
「そう急かすものでもないだろう」
 跡部はいらいらしたように榊を振り返った。しかし榊は飄然とこんなことまで言う。
「菊丸君だってまったく知らない家というわけじゃないしね。どうかな、せっかくまた会えたのだし、よかったらまた夕食をいっしょに」
「早く来いよ、菊丸」
 英二は跡部に引っ張られるままに立ち上がった。不意の動きに乱れたバスローブの裾あたりをぬかりなく観察しながら、榊は諦めなかった。
「では、私の車で送ろうか。ここからなら、それほど時間がかからないだろう」
「こいつには電車で十分です」
 答えたのは跡部である。
「俺が駅まで送ります。監督はどうぞごゆっくり。俺ももう、こいつを送っていきがてら帰りますから。長くお邪魔してしまい申し訳ありませんでした」
「それこそ、おまえも私が送っていけばすむ話だろう。一緒に乗ってゆきなさい」
「俺は車を回させますからご心配なく」
 ぐいぐいと英二をひっぱってリビングの外へと押し出し、跡部はドアを閉めがてら冷たく言い放った。英二が、少し心配してしまうほどのぶっきらぼうな物の言い様で、ドアを閉じてバスルームへ向かう跡部に引っ張られてゆきながら、彼を不安げに見やる。
「い、いいの」
「何がだ」
「あんな言い方して」
「いいよ別に。――お前が気にすることじゃねえ」
「でも」
「いいから。あいつは何にも気にしてやしねえよ。……ほら、さっさと支度しろ。俺も着替えするから」
 そういうと跡部は自分のものらしい衣服の入った籐かごを、パウダールームの作りつけの白い棚から引っ張り出す。英二もそれを見てあわてて乾燥機の中を覗き込んだ。
 服もスニーカーもきれいに乾いている。パウダールームは広々としていて、中学生ふたりが少々どたばたとした着替えをしていても狭苦しいという感じはしない。
「駅まで出たらうちの車がくるから、それでおまえんちまで送ってってやるよ」
「え。――い、いいよ。電車で」
「あいつの前だからそう言っただけだよ。せっかく服乾いたのに、そのへんの奴が雨に濡れて電車に乗ってきたのにまぎれたら、また濡れちまうだろ。どうせそんなに手間なことじゃねえんだから乗ってけ」
「う、うん、ありがと」
「――」
「……」
「――……なんだよ」
「うん。……いや、あのね」
「なんだ」
「跡部ってけっこう親切だね」
「……」
 言われ慣れない言葉に目を白黒させた、氷帝学園男子テニス部部長、跡部景吾の表情は、なかなかの見物であった。
 何か憎まれ口でも叩こうとして、英二のにこにこした顔に何も言えなくなってしまった様子も。
 このことを、彼にこっそり教えたらどんなふうに言うだろう。
 言いながらどうしても笑わずにはいられない自分に『そんなふうに笑うものじゃないよ、英二』とたしなめるだろうか。それとも『意外だなあ』と素直に感嘆するのだろうか――そこまで考えて、英二の顔はふと曇る。
 そう。
 今、彼とはそんなことを話せる状態ではないのだ。それに、自分が動揺せず話しかけられる自信もない。

(大石)

 彼はいったい、自分の知らないところで何をしているというのだろう。

 英二の知る大石はいつも優しく、礼儀正しく姿勢良く、彼を思い出すときは、決まって英二を愛しそうに見つめて笑いかける姿だ。そんな姿しか、英二は知らない。
 英二に優しい――どこまでも優しい大石しか英二は知らない。
 けれど今思い描く彼は暗闇の中、英二を見つめている。瞳は青白くかぎろい、あやしく光って英二を捕らえようとする。

 彼の秘密。
 自分の知らない彼の秘密。

 それを知ることで、何か決定的なものが自分たちの間に落ちてきたりはしないだろうか。

 けっして後戻りできぬ場所へと、連れてゆかれてしまいはしないのだろうか。














 
 







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