秘密。
――それが俺の秘密。

 言いわけする気は起こらない――もっとも言い訳する機会などないだろう。あえてつくるつもりもない。
この背徳、破倫きわまりない関係が明るみに出、たとえばどんな追求をされても言い抜ける自信はあるし、第一相手は大人で此方は子供だ。どちらが有利なのかは目に見えている。
 それを視野に入れていたわけではないが、きっとこの選択そのものは間違っていなかったのだと思う。
 けれど好きか嫌いか。
 そう言われれば、こたえには詰まる。
 本当に忌み嫌っているのなら、なにもあの男の呼び出しに何度も応じる必要はない。もっと最初の段階で、あの男のもとへ通うのが生活の一部となるほど慣れ親しんでしまう前に、どうにでも出来たはず。
 それをせずに、今まできた。
 出来たはずなのに――しなかった。


 何度も鳴る携帯の呼び出し音に根負けしたのは、深夜になってからだった。
遅くまで起きてはいたのは単に眠れなかったためだ。勉強をするからというお題目さえあれば家族にとがめられずにいるのをいいことに、最近はずいぶん夜更かしが過ぎていると思う。いかに若いと言ってもそれだけ眠らずにいると身体はだるく、日中でもぼんやりすることが多くなってきた。
まるで見透かしたように鳴る携帯電話も、苛々して眠れない要因であったかもしれない。こうして深夜に音が鳴るのは、ここ数日続いていたことでもあったからだ。
 ため息をついて通話ボタンを押したが、相手からは何の声も聞こえない。だが、誰がかけてきたのかはわかっている。
「――電話は、ルール違反ではないんですか」




『私が送ったメールに返事がまったくないから、なにか具合でも悪いんじゃないかと心配してね。――思ったより元気そうで安心したよ』
「先日も言ったとおり」
 怒鳴りつけたいのを堪えて大石は言った。
「貴方に二度と個人的に会うつもりはありません」
『私にそのつもりはまったくないんだがね――ああ、もしも私の部屋がいやだというなら、ホテルのスイートをどこでも予約しよう。君の好きな場所でいい、さてどこにしようか』
「俺の話を聞いてくださっていますか。もう貴方に会いたくないと言っているんです」
『君こそ私の気持ちをわかっていないようだ。私は君を手放したくないと言っているんだよ』
「迷惑です」
 男の言い方が癪に障ったが、深夜に大声で激昂することも出来ず大石は堪えるしかなかった。苛々しながら反撃を試みる。
「貴方がそれほど愚かな執着をされる方だとは思いませんでした。世の中には、俺よりよほど貴方のお好みにかなう人間がたくさんいるはずです。俺のように駄々をこねる子供より、別を捜されてはどうですか」
『自分で判っているんだねえ、子供っぽいやり方だと』
 男は声を立てて笑った。
『本当に、まったく君らしくない。君に似合わぬ、相応しくない物言いだ。そうしなければならないほど、私と会わない理由を探すのに必死なのだね。会いたくない、ほかを探せで終わるものなら世の中どれほど簡単だろうか――そうじゃないから難しくて面白いんだよ』
「――切ります。これ以上貴方に付き合っていられません」
『君もあの可愛い仔猫の君でなくて、ほかを探してみるかい』
「――・・・・・・」
『出来ないだろう? そういうものだよ』
 大石は唇をかみながら、相手をなんとかしてやりこめられぬものかと、毒の言葉を探してみたがうまい具合に思いつかない。
 部屋の壁ぎわにおかれた水槽の、こぽこぽという空気音がいやに耳についた。
『とにかくね。電話で済むような話でもないし、本当にもう一度君とちゃんと向かい合わなければならないと心底思っているんだ。なにも大上段に構えてものを言うつもりだけはまったくないことを判っていて欲しいね』
 男は、言うことを聞かぬ子供を懐柔するような、猫なで声で言った。
 それでも黙っている大石をどう思ったのか、彼はわざとらしくため息をついてみせる。
『あんまりつれなくされるようなら、私もアプローチの仕方を変えるしかないね。君がどうしても私のもとに出向きたくなるように』
「――」
『たとえば――そうだな、君本人がだめだというなら、君の』
「英二は関係ないっ」
 あせって言い切ってしまってから、大石は失言を悔いた。
 相手の手だ。乗せられた、と気づいたときにはもう遅い。
 電話の向こうからは心底おかしくてたまらぬような忍び笑いが聞こえてきた。
『まだなにも言っていないよ、私は』
「――」
『そう、その方向からもあったね。なるほど、気づかなかった』
 白々しい、と大石は毒づいた。
 どうせ最初からそのつもりのくせに。
 なにかあれば、彼を引き合いに出すつもりのくせに。
 歯噛みしながら大石は一年前の自分を呪った。いくら自分でもどうしようもないほど煮詰まっていたとしても、他に相手が居なかったとしても、こんな男にひとことだって英二のことを漏らすのではなかった。
 とんだ計算違いだ。
自分と彼の間には、金を介した純然たる取引の一線を敷いていたはず。
 黙っている大石のことをどう思ったのか、男は心底愉快そうに言った。
『心配せずとも私もそれほど節操なしではないよ。ただあの子がたしかに可愛いのは認めるね、君でなくとも目が離しづらい。ベッドの相手にはともかく、膝の上で眠らせてみるのにはいいかもしれないと思うよ。そう、そういえばこのあいだの日曜日。つい先日のことだよ、雨が降った日。駅前のほうのマンションに寄ったらあの子が来ていてね』
「――……っ」
『バスローブを着て、ちょこんとソファに座っていてね。しかし私のバスローブだったからサイズがあの子には大きいものだから、そう、ちょうどタオルの中の仔猫みたいな様子になっていたな。本当に可愛かったよ。――もちろん彼については、君が心配しているようなことはなにもない。うちの跡部が一緒だったから、たぶん駅前で偶然会って雨宿りにでも誘ったんだろうね』
「――」
『君にも是非見せたかったね、今度からは彼も招待することにしようか?』
「――卑怯ですよ」
 大石はようやくそれだけを搾り出したが、男のほうはそれになんの痛痒も感じないらしい。いつも通り、低く笑って大石の冷ややかな声音をいなしただけだった。
『では、今週末の夕刻にその駅前のマンションへ来てくれるかな。卑怯な大人は大人なりの言い訳があるものでね。君の誤解を受け続けないためにも、それを聞いてもらわなければならないからね』
「――」
『君は本当に、いろいろと誤解しているかも知れないがね。私は本当に君のことが気にいっているのだよ』
 電話の向こうで、男がひそかに微笑む気配がした。
『君だってこうなる前は、私の呼び出しを二度続けて断ったことはなかったろう?』


 電話が途切れた後も、大石は黙って立ち尽くしていた。
 携帯を握りしめた腕をだらりと落とし、スタンドの灯りひとつの、薄暗い部屋の真ん中で。
 夜の湿気の中に、あのどろりと凝る熱を感じた気がする。いまそれが這い寄ってきて背中から抱きしめられても、果たして振りほどけるかどうか。

――ああ、そうだとも。
 認めるべきだろう、自分の身体に「それ」は合う。
陽の光の下よりも闇に沈んで、うごめく肉の塊に成り下がることがこころよい。目を背けたくなるほど淫らな、おぞましい欲望の夢こそが自分を酔わせる。これがなければ生きていけないとまでは言わないが、その麻薬的な魅力は、捨て去るには惜しすぎる。
金と引き替えだと言い聞かせなければならないのは、実は己の方かも知れないのだ。

――だから。
 だからか、と思う。
だからあの無邪気な子にまでこれほどむごたらしい妄想をいだけるのだろうか。
 まだ何も知らぬ――それこそ己がひそかに覚えた背徳の味とはもっとも遠いところにあるような、花や陽だまりこそが相応しい子。
 あの子をこの闇の泥の中に叩き込んだら、そこで泣き叫ぶさまを思う存分眺められたらと、ひそかに夢見ている自分に気づく。
 
 どうしてただ、いつくしむように愛することが出来ない。
 
 あれほど明るく屈託もなく笑う子ならば、その笑顔をこそ愛したならば、どうしてそれを護ろうという気持ちより、壊したい衝動に駆られるのだろう。
それこそ足元もおぼつかない仔猫を、両の手で包み暖めるように。
 咲いたばかりの花を優しく見守るように。

 そんなふうに優しい気持ちだけで愛することが、なぜ自分には。




ティーカップの中の紅茶はひどく冷めてしまっていた。
 何も思わず口を付けた英二は、暖かい香気と上品な渋みを無意識のうちに期待していたので、その冷たさに首を竦めた。
 余程長いこと話していたのだろうと思う。
 英二は、珍しく部活のない帰路の途中で不二家に寄ることができた。もちろん、先日の榊のマンションでの一部始終と、跡部の不穏な発言とについて相談に乗ってもらうためであった。
 大石に襲われたときも、榊の家に呼びだされたときのこともすべて知っている相手であるので、何をいまさらということもある。どのみち英二がこういうときに頼りにしてゆくのは、やはり親友不二周助でしかないのだ。
 英二の長い長い話を、終始気難しい顔で聞いていた不二は、彼には本当に珍しい、深いため息をついた。
「少し僕の手に余るかもしれない」
「――不二?」
「大石と跡部だけならともかく、ああいうタイプの大人が絡んでくるとなると」
 英二は大きな目を瞬かせて不二を見上げてくる。出来ればそんな、いかにもなんとかしてやりたくなるような目でうるうる見上げて欲しくない、と不二周助はいつも思うのだ。
(結局どうにかしてやりたくなっちゃうんだよねー……)
 ちょっと腹を立てて、不二は友人のほっぺを指先でやや乱暴につついた。理不尽な「暴力」に仔猫が騒ぐ前に、不二は話題を要に戻す。
「そのへんの凡俗な大人ならまだやりようはあるんだけど・・・・・・あの先生はたぶん一筋縄ではいかないよ、英二――ついでに言うと、なんとかしなきゃいけないもうひとりが、あの大石と来るなら・・・・・・困ったな、どうしたもんかな」
 英二は、不二がそこまで大石を警戒する理由がわからず、小首をかしげていたが彼に思いつく限りを提案してみた。
「手塚に相談してみる?」
「僕の知る限り、彼こういうことには一番役に立たないね」
「でも、手塚から聞いてもらえたなら、何か大石も」
「喋るわけないでしょ」
「じゃ、じゃあやっぱり、もう直接榊先生に……」
「ばか」
 不二は一刀両断する。
「それこそ思うつぼでしょうが。そういうのをカモネギって言うの」
「かも……?」
「美味しくごちそうさま、ってとこだね」
「ご飯?」
「ああもう、おばか」
 不二は額を手で押さえた。
「よくても、なんだかんだとうまく言いくるめられて追い帰されるだけだよ。下手すればそのままベッドに連れ込まれるだけ」
「そ、そんなこと」
「あの先生に口で勝つ自信あるの」
「――う」
 目を白黒させている英二を横目に見ながら、不二はふたたびため息をつく。
 基本的に、不二の他人に対するスタンスは「我関せず」だ。彼の「気に入り」の人間以外には必要以上に深入りしようとは思わない。その行動のよしあしについても口を出す筋合いのことではないだろう。それに、そういう人間関係のあり方は、昨今不二に限ったことではないのだ。
 今回のことにしても、これが大石とあの教師だけのことなら、不二は事実を知ったところで何も手出し口出しはしなかっただろう。好きにしろ、と言うところだ――悪趣味、の一言くらいは付け加えたかもしれないが。
 行き着く先がどうなろうとそれは自分たちの選択の結果であるし、まして大石のような人間ならばそのことは重々承知しているはずである。
 しかしそれが周囲に迷惑を撒き散らすだけならともかくも、自分の行く手をさえぎったり、まして大切な親友を巻き込もうというのなら、おのずと話は違ってくる。
 
(よりにもよって、まあ)

 いちばんこの仔猫の少年が縁遠いはずのことを。
 いちばん不得手な領域のことを。

「まず整理しよう」
 不二は己に言い聞かせるように、ゆっくりと言った。
「大石のことが――まあ、もし、跡部の言葉から連想できるように、本当だとするね」
 英二はびくっと体を震わせた。
「英二は、どうしたいのかな」
「――」
「大石がそういうことを……相手がそのセンセイだか、考えたくもないけど不特定多数相手だかわからないけど、そういうことをしていた。――英二はどうする」
 英二は返事をしなかった。
「英二」
「……よくない、と思う」
 ややあって、彼はぽつんと言った。
「よくないと思う。やめさせなきゃ駄目だと思う。――跡部は、あのセンセイと、恋愛感情なしでそういうことしてる、って言ってた。大石は」
「――」
「お金で」
 自分の口から出る言葉が信じられないように、英二は眉をしかめた。
「そういうことは良くない。大石が何のためにそんなにお金欲しいのかは知らないけど……俺、知らなかったんだけど。でも、どんな理由があってもしちゃいけないことだと思うんだ。そういうことは、好きな人とすることだから」
「……」
「だから、やめさせなきゃいけないと思う」
 英二の幼いともいえる言葉に、不二は優しく微笑んでうなずいてやる。
「うん。英二の言うとおりだ」
「でも、本当に大石が、そんなことしなきゃいけないほどお金に困ってるんだったら――俺たち、何が出来るかな。俺だってそんなにおこづかいもらってないし」
 どれくらい要るんだろう、と英二は呟き、苦しそうに息を細く吐き出した。そのままぎゅっと膝を抱え込んでうつむいた彼を可哀想に思いながら、不二はこう言った。
「英二。たぶんだけどね」
「――?」
「その、大石とお金、のことに関してはね、英二。とりあえずこちらで早急に結論づけないほうがいいと思う」
「――?」
「うん、まだちょっと僕の考えすぎかもしれないけどさ。何か、ちょっと違和感あるんだよね――お金、だけじゃない気がするんだよ」
「ほんと?」
「まだ判らないけれどね。彼の家がそんな逼迫してるって噂は聞かないし、大石だってどちらかといえばあんまりお金使わないほうだろう。――だから、お金が欲しくて、っていうだけじゃないと思うんだよ」
 英二はちょっと救われたような顔をする。その顔がまたいじらしくて、不二はますますこの問題の厄介さを痛感するのだ。
「まあ、とりあえず大石が、その、援助交際じみたことをしている事実があるならそれをやめさせたいんだよね、英二」
「うん」
「じゃあ、それはそれとして。――僕、前にも君に聞いたと思うけど」
「うん」
「――大石から好きだって言われたらどうする」


「――それは」
「好きな人としかしちゃいけないことだと君は言った。……じゃあ、大石に、英二が好きだからそういうことを英二としたい、といわれたら」
 英二はさっと青ざめた。
 無論、以前に大石に暴行を受けそうになったときのことを思い出したせいである。不二のほうも判ってはいたが、その問いをはずすことは出来ない。
 大石の今回の暴走――とまでは言わないが、常軌を逸した行動は、この少年に対する彼の愛着が引き起こした気がしてならないのだ。それが、どこでどんなふうにしてあの教師に繋がったのかまではわからない。だが、その根底には必ず英二の存在があるはずだ。
 だから、英二にはそれを理解してもらう必要がある。
 いつか大石と向き合うことになったとき、おそらくそれを避けては通れまい。
「今答えを出さなくていい、英二」
「――」
「君が怖い思いをしたのはようく判ってるから。――でも、きっと大石は君のことが好きなんだと思う」
「す、好きって……」
「そういう意味で。――直接的に言うなら、君と恋人同士になって、そういうこともしたいと思っているだろう」
 英二は言葉もないようだったが、それでも以前に比べればさほどの衝撃はない。
 実際に、力ずくではあったが、大石が行動で示している。そうなのだといわれれば、以前よりもよほど理解は早い。
 しかし、それはあくまでショックが少ない、というだけのことで、受け入れられるかといえば話は別だ。
「先延ばしにしないで、それはちゃんと考えておくんだよ。――前みたいに話の流れで聞いていることじゃない、きちんと答えを出さなければいけないことだと思う。君が、本当に大石のことを考えているんだったら、きっと避けては通れない」
「――」
 英二は答えなかった。
 しかし顔は青ざめてはいたが、目つきはしっかりしている。
 これでなかなか芯の強い子だ。――彼なりに考え、悩み、きっと彼の中で一番納得のいく答えを自分で導き出すだろう。それが大石の望むものであるのかどうかは判らぬまでも。

「よし」
 しばらくの沈黙の後、不二はゆっくりと頷いた。
「それじゃ、この話はここまで。僕らは、明日にでも行ってみるとするかな」
「え?」
「明日もスミレちゃんいないし、先生たちも会議だから部活なかったでしょう。自主トレとは言い付かっているけど帰宅も自由なはずだから、明日は英二、そういうふうに大石に届け出しておくんだよ」
 英二は突然のことで話が見えない。
「君、掃除当番じゃなかったよね。うん、できるだけ早く帰り支度してね。大石と顔合わせづらかったら僕と一緒に出しにいこう。そうしたら、そんなに時間もかからずに行けると思うんだ」
「い、行くって、どこへ」
「決まってるでしょ」
 おそるおそる伺い見てくる英二を見おろし、それこそ天使のような笑顔で微笑むと不二はひとこと言った。

「氷帝に」




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