続く雨に窓はくもり、その向こうの景色はかすむ。
 雨音が微かに、ほんの微かに聞こえてくるだけであったが、延々続くその音を聞き続けていると、どこかしら奇妙な、遠い遠い場所へ来てしまったような気になるから不思議だ。
 時間も止まり、蠢く人々の歩みどころかいとなみも止まり、世界に此処だけ――自分だけのような孤独感が押し寄せてくる。
 何処かもの寂しい、けれど懐かしいような気分に浸りながら、英二はぼんやりと目の前の跡部景吾を見やっていた。
 彼のすらりとした肢体は、きめ細かで柔らかいパイル地のバスローブに包まれている。サイズは彼の身体にあわせてあるのだろう。英二のように、如何にも洗いたての仔猫がタオルにくるまれているような姿にはなっていない。
 こういう贅沢な場所に在るには、非常にこの跡部には似合いであった。
「でも、ここでどうしてんの、跡部」
 彼のその美しさや姿のよさを内心素直に感嘆しながら、英二は問うた。
「どうして、って」
「先生に用事があるから来たりするんでしょ? いないときは?」
「まあ……いろいろだよ」
 跡部はまた何か慎重に言葉を選んでいるようだったが、やがて何かを思いついたのかうってかわって人の悪い顔になり、にっと笑った。
「いろいろ悪いことしてんだよ」
「わるいこと?」
「酒飲んだり、煙草吸ったり、女連れてきたり」
 目をぱちくりさせた英二に、跡部はさらに調子に乗った。
「こういうところだと大抵の女は喜ぶからな。邪魔もはいらねえし、なかなか使い勝手はいいんだよ。バスルームだけではしゃいじまってほいほい自分から服脱いでシャワー浴びに行くから手間もかかんねえ」
「そ、そういうことしてたら、先生怒るよっ、自分ちなのにっ」
 英二があたふたと言うのに、跡部はあっさりしたものだ。
「怒るわけねえだろ、自分だって気に入った奴連れ込んでんだ。あんまり派手なことさえしなきゃうるさく言いやしねえよ。ゴムもあいつ常備してるし、便利なもんだぜ」
「そりゃ先生は、その、大人のひとだから、そ、そういうこともあるかもしんないけどさっ」
「おまえ顔真っ赤だよ」
 跡部が呆れたように言った。
「なんだよこういう話題苦手?」
 うーうーと英二は最後の抵抗の如く唸ったが――残念ながら図星である。黙り込んでしまうしかない。
 興味はあるし知識もある。そういう話で盛り上がるのも彼くらいの年齢の少年には常であったが、いきなり避妊具だの何だのと生々しい事実を目の前に突きつけられると「引いてしまう」のだ。
「やっぱガキだわ、おまえ」
 跡部が楽しそうに笑った。少し逸らした喉の白さが目に焼き付く。
 妙に艶めかしく髪をかき上げると、跡部は面白そうに英二の顔を見据えた。
「けっこう可愛い顔してるし、モテると思ってたんだけどな、おまえみたいなの。女どもってお前みたいなアイドル顔したのが好きだろ」
「そんなことないよ。そういうのは、うちじゃ手塚とか不二とかがイチバンなの」
「あー、そりゃ確かに。あれがいるんじゃな」
 英二は唇を尖らせる。
「ほっとけよっ」
「まあまあ、おまえもそう見られないわけじゃねえよ」
「慰めになってない。ぜんっぜんなってない」
「誉めてるんだぞ」
「どこが」
 跡部は笑った。
 猫でも犬でも、たとえ人間でも、鋭利な風格と気品に満ちているものたちを好む傾向にあった跡部だが、この毛玉のような少年もなかなかにおもしろいではないかと考え始めていたようだ。
 もこもことしたタオルにくるまれた仔猫が、おっかなびっくり、にゃあと鳴いているようで、確かに可愛いことは可愛い。

――だが。

 だが、と跡部は柳眉を顰めた。

――『あの男』がおもちゃにするには、いくらなんでも子供過ぎる。

 『あの男』がこの少年に何かと手を出したがっているのは、多分『彼』と深い関わりがあるのだろう。そんなことは、『彼』――大石秀一郎に対する『あの男』の並々ならぬ執着を見れば、なにも跡部でなくとも一目瞭然だ。
 多分、大石秀一郎がこの少年に非常に執着しているから――事と次第によってはあの男以上の執念をもっているであるからなのだろう。
 だがどうも、菊丸英二にはそういう感情のやりとりには非常に不慣れなようだ。不慣れと言うより、そういう生々しいこころの絡み合いなどには、いっそ関わりがないと言って良いだろう。
 同年齢だといっても、跡部などからみれば菊丸英二は本当にあどけない。
 自分たちと『あの男』との背徳じみた関係などはもとより、男女間のものごとすらにもまだまだ縁遠いのだろう。
 誰が誰を好きだのキライだの、告白しただの振られただのと、その前の段階ではしゃいでいるような、そういう意味では本当の子供なのだ。他人の体を抱いたことも、まして抱かれたこともない。
 一度味わえば忘れられない闇色の蜜の味をも、彼は知らない。
 体に引きずられる心を知らない。
 己を明け渡す屈辱と快楽を知らない。

――許されぬ恋着に苦しむ孤独の夜を、知らない。


「だからガキだっつんだ」
 ぼそりと呟いた跡部の言葉を、英二は聞き逃さなかったらしい。
「あーのーさ。さっきからガキだガキだとうるさいんですけどー、跡部」
「実際ガキじゃねえか」
「同い年だろ」
「そういう意味で言ってんじゃねえんだよ」
 意味がわかんなきゃやっぱガキだ、とまた跡部に言われ、再度英二はぷっくりとふくれた。
「じゃ、どういう意味だよ」
「それが判るようになったらオトナ」
「わかるか、そんなもんっ」
 足をぱたぱたと動かして、英二は唇を尖らせた。
 確かに可愛い仔猫だが、いろいろと面倒くさいと思いつつも、跡部は彼に本腰をいれて相手をしてやるかと人の悪い笑みを浮かべた。
「たとえばおまえ、迫られたことってないだろ」
「せまる?」
「こんなふうにさ、ほら」
 いきなり隣に座られ、上から覗き込まれる。
 英二が目をぱちくりさせていると、あやしく伏し目がちになった跡部の綺麗な顔がすっと近づいてきた。
 腕を取られ、あれよあれよという間にソファの上に仰向けにされてしまう。
「こういう感じにされたこと、あるか?」
 耳元で囁かれ、英二はすくみ上がった。
「ちょちょちょちょ、ちょい、ちょい待ち! 跡部!」
「――……なんだその反応は」
 口調だけはちょっと拍子抜けしたような、しかしまだ英二にちょっかいをかける気満々の跡部は、英二の手を掴んで離さない。
「もっと可愛く嫌がってみせるもんじゃねえの、こういう場合」
「迫るって、せまる、ったって! なんか違う、なんか立場違う!」
「は? 立場?」
「お、俺がやるもんでしょ! 女の子にそういうふうに!」
「『オンナノコ』みたいな顔しときながら、そういうことをほざく」
 吹き出しそうになるのを必死に堪えて、跡部はまだまだこの行きすぎた悪ふざけをやめる気はないようだ。にゃあにゃあともがく仔猫に、わかっていつつも意地悪を仕掛けるのは確かに楽しい。
 跡部は楽しそうに笑いながら、だが何処か意地悪な気分になって少年の耳元で囁いてやった。
「あのなあ、おまえほんとに俺が何でここに来てるか、判ってねえのか?」
「なんで、って……」
「男に合い鍵もらって、部屋に入りびたって――あと、今はいねえけど、あいつが帰ってきたら俺と何するか、ほんとにわかんねえか?」
 低く官能的な声に囁かれて、英二はびくりと身を竦ませた。腕を押さえつけられ、耳朶に触れるか触れないかの位置で囁かれる。
「俺とあいつが何してるか、おまえほんっとに想像もつかねえの?」
「……」
「言ったろ。あいつだって、気に入ったのをここに連れ込んでるってさ。俺もそのうちのひとりだっつったら、どうする?」
 手が動かない。
 跡部は細身に見えても腕は頑強で、こういう体の位置からの逆転は難しい。
 なんとか彼の身体の下から逃れようとしても、跡部は判っているのかいないのか、からかうように英二を押さえ込んだままだ。
 押さえつけられて動けないままの英二の脳裏に、唐突にある光景がよみがえった。



 暗闇。
 あの薄闇。

 彼の息づかい。湿った体温。
 腕。
 乱暴な手が襟元を掴み上げ、左右に開いた。冷えた夜の空気より早く肌に触れたのは、飢えた獣の、それでも柔らかな唇。
 彼。


――大石。




「お前だってあいつの口車に乗ってほいほいついてきてたら、気がつきゃあいつとベッドの中、ってことも十分あり得るんだぜ。せいぜい……――って、おい」
 それまで、必要以上のなまめかしさで英二の耳元にささやきかけていた跡部は、自分の悪戯がどう功を奏したかと顔をあげて少年を覗き込んだ途端、さっと顔を険しくした。
「おい。おいおい、どうしたんだよ」
「……あ……」
「何だよ、冗談だよ。――何もそんなに顔引きつらせなくたって……って、おい。大丈夫かよ」
 跡部はあわてて英二から手を離し、真っ青になった英二の体をソファの背にもたせかけた。英二は傍目にもはっきりそれと判るほど血の気が引き、体を震わせ、歯をがちがちと言わせていたのだ。
「大丈夫か。少し横になるか」
「ああ……うん、ごめん。大丈夫」
 英二はがたがたと震えながら目を閉じ、震える唇をあけて大きく息を吸い込んだ。
 肩で息をしている英二の呼吸が整うまでは、数分必要だった。
 英二は目を閉じたり開いたり、または深く息を吸っては何かを思い出したように体を震わせたりした。
 さすがに跡部もやりすぎたかと思ったのだろう。英二の額から吹き出した冷や汗を拭うためのタオルを持ってきたり、冷たい水を運んでくれたりと、彼らしくなく、妙に甲斐甲斐しかった。
「落ち着いたか」
「ん」
 冷たい水をコップの半分ほども飲み下して、英二の体のふるえはようやく治まった。
 その様子を悪戯を仕掛けた張本人は神妙な顔つきで見守っていたが、やがて英二が回復し、案じることはなさそうだと見えた途端に、またいつもの小憎らしい表情に戻る。
「びっくりさせんなよ」
「――……」
「何だよ、変な病気もってるとかじゃねえよな」
 からかい混じりに言ってはみたが、英二が眉をきつくよせたまま、また俯いてしまったので跡部はようやく戻り始めた余裕をまた失った。
「おい。おい、って」
「……」
「具合、悪いのか」
「違うよ。なんでもない……びっくりしたんだ、ちょっと」
「何でもない、って感じじゃねえけどな」
「……」
「水、もう一杯飲むか」
「ううん。いい。驚かせてごめんね」
「いや。俺がふざけ過ぎたんだ。悪かった」
 跡部は存外素直に謝った。
 いつも傲慢で、大勢に傅かれて顎をそびやかしているような跡部景吾であったが、自分の過ちはきちんと認めて謝罪する。裕福な家にありがちな、ただの我が儘放題の子供ではないらしい。
 派手で華やかで、世界に君臨する驕慢な女王のようなイメージがある彼であったが、こうして差し向かってみると、なにもかもに彼の傲岸不遜ぶりが発揮されているわけでもないらしい。ただ見てくれの派手ぶりで、二百人にも及ぶ部員を率いているわけではないのだろう。
 英二も、跡部からすんなり出てきた謝罪の言葉に少し彼に好意を持った。
「気分、まだ悪いか」
「ううん、もう平気。ちょっと驚いただけだから、ホント」
「尋常じゃない驚きようだけどな」
 跡部は肩を竦めた。
「まあ、とにかく俺の悪ふざけが過ぎた。――おまえガキだもんな、これからは心してガキ扱いすることにしとくぜ」
「うわ、にくったらしいこと言う」
「……で、そのガキが、どうして男に押さえ込まれてあんなに真っ青になるんだかね」
 黙り込んだ英二を見て、跡部はふと浮かんだ疑問を注意深く口にした。
「なあ、お前……菊丸」
「――」
「まさかあいつに何か、悪さされかかったとかそういうことじゃねえよな」
「――あ……あいつ、って……」
「うちの監督」
「榊先生がそんなことするはずないじゃん」
「じゃ誰だ」
「……誰だっていい、だろ」
 明らかに動揺した英二を、跡部はすがめ見てさらに言葉をついだ。悪さ云々については、ただ単に「カマをかけた」だけに過ぎなかったのだが、どうやら跡部の考えは当たっていたようだ。
「どうも男に怖い目に遭わされたみたいな顔つきしてたからな。――あいつはお前みたいなガキには手ェ出さないだろうとは思ったけど、一応確認したかっただけだよ」
「……」
「ま、世の中には変な奴が多いから、お前もせいぜい気をつけろよ。そんだけ可愛い顔してりゃ、好みは別として寄ってくる男もいるだろうしな」
「跡部」
 英二が不安そうに呼んだ。
「何だよ」
「――……ほんとなの」
「何が」
「さっき言った……」
「ああ?」
「榊先生と……その……」
「――セックスしてるかどうかってか? ああ、そりゃしてるよ。だから合い鍵もらってる。今日は単にひとりになりたかっただけだけどな」
 跡部のあけすけな物言いに、英二は目を白黒させた。
 あまりなことにしばらく絶句し、ぱくぱくと口を開けていたがやがてようやくこう尋ねることが出来た。
「せ、先生のこと好きなの」
「気持ち悪いこと言うなよ」
 今度は跡部が目を剥く番だった。
「俺とあいつのって、恋愛感情ありきのセックスじゃねえからな。ああ、まあ――あいつにしてみりゃ、お得意の美学だか何だかは在るかも知れないけどな。ガレだのバカラだの集めて並べて喜んでるのと大差ないもんだ」
「……恋愛感情、なし……」
 これまた英二にとっては、未知の領域だったらしい。
 続けざまのカルチャーショックでまだ上手く思考が動かないようだったが、なんとか考えに考えて、次にはこんなことを聞いてきた。
「お、お金、もらったりしてるの」
「んなわけねえだろ。俺様が金ごときに不自由してるように見えるのかよ」
 ああまったくこの世間知らずの、色事も判ってないようなガキは、と跡部はため息を付いた。
 ため息をつき――ついつい、彼らしくなく。
「だいたいあいつの相手してまで、金なんか欲しかねえよ。大石じゃあるまいし」
 まったくもって余計な一言を、しかも確実に菊丸英二の耳に届くような声量でもって付け足してしまったのだ、と気づいたときには――もう遅かった。











 
 







back/next
top/tennis top/secret top