数日降り続いた雨が、その日は珍しく朝から止んでいた。
 予報ではしばらく雨の日が続く、と言うことであったのだが、ここ数日間の雨にうんざりしてきた人々は久しぶりの青空に心なしか足取りも軽くなっていたことだろう。
 しかし、せっかくこの日曜日にあわせたかのような青空も昼前にはにわかに曇って、世間一般の昼食の時間帯にはふたたび土砂降りへと変わってしまったのであった。
 朝からのすっきりとした晴天に油断して傘を持たずに出てきてしまった彼も、やれやれと言った顔でその雨を見上げていた。
 駅まで走るには、すこし雨の勢いが強すぎる。
 頭から濡れ鼠になりたくないし、せっかくの買い物がだいなしになるのも嫌だった。
 どうしよう、と困り果てて、華やかなショーウインドーを背中に、ショップの店先にぽつんと佇んでいたのだったが。

「おい、菊丸じゃねえか」
 そう呼ばれて顔をあげる。
 叩きつける雨の勢いを押しのけるように、やや大声でかけられた声には覚えがある。
「あー、跡部」
「なにやってんだよ、こんなとこで」
「雨宿り」
「見りゃわかるよ」
 跡部は、相変わらず中学生とは思えないほどの傲岸不遜さと、そうしてその年齢には似つかわしくないほど色めいた姿かたちを隠そうともしないでいる。
 シンプルな、どこにでもいるような中学生の服装なのに、すこし開けた襟元や鎖骨の上で踊る細い銀の鎖やらが妙に艶めかしい。傘を差していてもかかる飛沫が跡部の髪をすこし解れさせて、はっとするような色香をかもしだしていた。
「あいつに呼ばれて来たのかよ」
「――……あいつ?」
 きょとんとした菊丸英二の顔を見て、ごまかすな、と跡部は言おうとしたのだが、その英二の顔つきから自分の邪推を悟った。
「何しに来たんだよ、こんなとこまで」
 何か毒気を抜かれた気がして、跡部は問いかける。傘を畳み、英二につき合おうというのかその隣へとやってきた。
「グリップテープ買いにきたんだもん」
 はい、と跡部の前に突き出されたのは、このショッピングゾーンに先日オープンしたばかりの大規模なスポーツ店のロゴいりバッグだった。
「このへん、ここしか売ってないから」
「ひとりかよ」
「うん、そうだよ」
「相方はどうしたよ」
「――……」
 英二はそう問われて、答えに窮した。
 本当なら今日はもう一度ここへ、『相方』と一緒に来るはずだった。
 前回ふたりで来たときに、まもなくここがセールだという情報を得た上、そのセール初日が部活のない第一日曜であったことにふたりして大喜びして、まだずいぶん先の日程であったにもかかわらず、嬉々として再来店を誓い合ったものだ。
 海外のスポーツ用品なども大々的に取り揃えられていて、見て歩くだけでも楽しいに違いない、と英二はとてもうきうきしていたのだが。
――先日の一件がある。
 まさかあのあとに、なにごともなかったようにして再度彼を誘えも出来まい。
「――う、うん……今日は、都合が悪いって……」
 言葉を濁す英二を、跡部は意味ありげにみやっていたが、あっそ、とだけ短く応じた。
 それ以上何も追求しなかった跡部に心の中で感謝しながら、英二は深々とため息をついた。
「あ、跡部こそ、いつものあいつ連れてないじゃん」
「あいつ?」
「――樺地」
 なぜか跡部はその一瞬、すこし眉根を寄せた。そうして珍しく言葉に詰まっているようだったが、あっちはあっちで忙しい、と口の中で呟くように言っただけだった。
 そうして期せずして降りてきた沈黙を、雨音が遠慮なくかき乱す。


 あの日、暗闇の大石家での一件があってから一週間ほどだ。
 びくびくしながら不二に付き添われ、登校してきた英二に、大石はいつも通りに振る舞い、気を遣い、彼らしいいたわりを見せながら決して触れなかった。
 いつもなら髪に触れるだの肩を叩くだの、指先で英二の頬をちょいちょいと撫でたりまでして、『大石先輩、猫連れてきたらだめですよ』と遠慮を知らない後輩にからかわれたりしたものだ。
 もちろん、英二の側にはいかなるときにも不二周助が睨みをきかせていたし、青学の誇るゴールデンペアの間がギクシャクしていることが周囲に悟られない程度に、ふたりの間を上手く立ち回っていた。
 だから誰も、英二が自分から大石秀一郎に過剰すぎるスキンシップを仕掛けたりしていないことに、なかなか思い至ってはいないのだろう。
 英二が一度たりとも大石と目を合わせようともしないことも。

 この日曜日の約束を几帳面な大石が忘れるはずもなく、英二の携帯電話には大石からの着信が幾度かあり、根負けして電話に出た英二に今日の約束のことを真面目に問うてきたものだ。
 もちろん、「一緒に行く」などと、幾ら英二が無邪気でも言えるはずはない。
いかないという一言だけを、ようやく絞り出した英二に、大石は『わかった、じゃあ』とだけ答えて電話を切った。
 そうしてそっけなくされるとまた気がかりで、しかしそんなことで悶々と悩む自分もバカらしい。もうひとつ、どうせ雨だから約束してても行けなかったんだと己に言い聞かせていた英二を嘲笑うかのような、朝からの素晴らしい晴天に腹が立って、結局英二はひとりでここまでやってきたのだった。
 そうしたら突然のこの土砂降りときたもので、さすがの英二の気分もどん底である。
「しばらく止みそうにないねえ……跡部はどうして? 買い物?」
「ちょっとぶらぶらとな」
「ふーん」
 また沈黙が続いた。
 跡部はちらりと隣の英二を見たが、ぼんやりとしている彼のことをどう思ったか、
「ちょっと寄ってけ」
と言った。
「――え?」
「どうせしばらくやまねえよ。こんなとこいたってしょうがねえだろ。茶ぐらい出してやるから、寄っていけよ」
「寄ってく、って」
 英二は大きな目を瞬かせた。
「跡部んち近くなの?」
「俺の家じゃねえ」
「え?」
「そこだ。おまえも行ったことあんだろ、確か。――ほら」
 跡部が顎をしゃくって見せる先は、何やら立派な高層ビルだ。このショッピングストリートから歩いていくらもかからない。それが高級、と言う言葉だけでは表せないほどの、贅沢で豪奢なマンションだと知る者は少ないだろう。
「さ、榊先生んち?」
「そうだよ」
「先生今いるの?」
「あいつ今日は用事でいねえよ。だから俺が使ってる。――遠慮しなくていい」
「は、入ってもいいの」
「そのための合い鍵だよ、ほら」
 跡部はジーンズのポケットから銀色の小さな鍵を取り出してみせる。
「合い鍵って……」
「あいつからもらってんだよ。好きに使っていいことになってんだ、ほら、来い」
「――」
「そんなとこにいると風邪引くだけだろうが」
「う、うん……」
 跡部はそっけない口調の割には、案外親切に開いた傘の半分の空間を英二に譲ってくれた。
 そうして、英二が買い物袋を大切そうに胸に抱え込みつつひょいとその傘の中に入り込んできたのを見ると、満足げに笑ってそのまますたすたと歩き出したのだった。
 見覚えのあるエントランスをくぐり、コンシェルジェの男と目があった英二は慌てて頭を下げたが跡部はそっくりかえったまま知らぬふりだ。
 おそらく、人に――年上の大人にでも、大事にかしずかれる生活に慣れているのだろう。確かに彼は驕慢ではあったが、生まれながらに上流階級の中で育ってきたおかしがたい気品がある。
 45階の、相変わらず豪華なその家の玄関を上がったところで、英二は浴室に押し込まれた。
「シャワー使え」
「い、いいよ、そんなの」
「ここに呼んどいて風邪引かれるとウザいだろうが。いいから体あっためろ。服とか乾燥機にいれとけよ。靴用の乾燥機はその横」
「え? ……ああ、これ、へえ、こんな機械あんだあ」
「バスローブそこにひっかけてあるからそれ着てろ。もし乾かなかったら着替え、俺の貸してやっからありがたく思えよ」
「……」
「……」
「……」
「……なんだよ、菊丸。その疑わしそうな目は」
「跡部の服って……びらびらじゃないよね」
「びらびら?」
「タカラヅカみたいなフリルついてたりとか、演歌歌手みたいなぎらぎらとか。い、言っとくけど、俺そういうの好みじゃないからっ」
「なんでそんなもん、俺がもってると思うんだよ」
「そういう服着て『美技に酔いな』とかひとりでやってそうだ、って不二とか言ってる」
「お前ら青学から見ると俺はそういうイメージなのかよ……」
 ひくりと笑いの引きつった跡部は――しかしここで怒鳴るのも彼の美学に反するらしく、早く入ってこいとぶっきらぼうに言い捨てただけだった。


 以前に来たときもそう思ったのだが、この家はモデルルームのように清潔に整えられ、完全になにもかもが行き届いている。
 またそれがすこし、人の住むには寒々しい感じさえするのだが、英二は無邪気にこの豪華さと心配りを楽しんでいた。
 さすがにバスタブに湯を張るまでは図々しいだろう。きめ細かい泡混じりの湯があふれるそのシャワーだけでも、十分に暖まった。最初はすぐに出よう、と思っていたのだが、大きなヘッドと強い水流のシャワーの心地よさや、見たこともない香りのシャンプーやボディソープが面白くて、存外にゆっくりとしてしまった。
 この家の本来の主の体格にあわせてあるらしいバスローブは、英二などが着ても袖から手先がでないし、裾はほとんど床につきそうだし、その姿でリビングへよたよた歩いていったものだから、跡部にはぷっと吹き出された。
「なんだよ」
「いや」
 くっくっく、と肩を震わせて笑っている跡部もバスローブ姿だった。もうひとつ浴室が別にある、と聞いて英二は目を丸くした。
「榊先生、お金持ちなんだなあ」
「ふつう風呂って、3つ4つほどあるモンなんじゃねえのか」
「ないよ、俺んち一個だけだよ」
「――ひとつだけ?」
「うん。普通そうじゃないの」
「じゃ、家族がそれぞれいっぺんに入りたくなったら、どうすんだよ」
「そりゃあ――ちょっとすごいよ」
 風呂の順番でケンカになっても、たいてい女性陣の押しが強くて、男達はあとに追いやられる羽目になる。
「ふーん」
 跡部は、よく判らないと言った顔をしていたが、やがてリビングの奥に引っ込むと、そこから英二に声をかけてきた。
「おまえどうする」
「なに」
「風呂上がりだから暑いだろ。この俺様がコーヒーいれてやってもいいんだが、冷たいのがよかったらあるぜ」
「あ、ありがと。なんでもいいよ」
「じゃビールにすっか」
「要らないよっ」
 跡部はずいぶん明るい感じがする。
 たくさんの部員を従え、世界の主役のように傲慢に、女王のように堂々とふるまう跡部からは想像もつかない。相変わらずその綺麗な顔立ちに似合わず口は悪いし、人を小馬鹿にしたような態度もかわりはしないが、とげとげしい雰囲気だけはない。
 スポーツ飲料の缶を手渡した英二がきょろきょろとリビングを見回しているので、跡部は鼻で笑ってからかった。
「珍しいモンでもあるのかよ」
「うん。広くて大きいなって」
 英二のこたえは無邪気なものである。
「この部屋だけ見てると、学校のセンセって感じしないよね、榊先生」
「――……部屋に限らずだけどな」
 低く呟いた跡部に、英二はさらにあどけなく問いかけてくる。
「そう言えば榊先生、なに教えてんの。なんか世界史とか数学、って感じするけど」
「知らねえのかよお前。音楽だよ、音楽」
「おんがくううううううっ?」
 ひっくり返った声で、英二は叫んだ。
「えっ。えっ、と、じゃあ、榊先生歌うたうの?」
「当たり前だろうが」
「ピアノ弾くの?」
「弾くぞ」
「ソプラノリコーダーとか教えるのっ? 半音上げる指使いとかやんのっ?」
「教師だからな」
「でええええ、ピアノはともかくリコーダーは想像できなーいっ」
「俺らはその想像できないモンを目の前でやられてんだけどよ」
 跡部は騒ぐ英二を面白そうに見て言った。
「まあ、一応あんなヤツでも仕事は真面目にしてんだけどな」
「そっか。ごめんね、そっちの先生のこと、変なこと言って」
「別にかまやしねえし――……ま、あいつどっか外してんのは、間違いないしな」
 英二のその素直な反応が面白かったのだろう。
 跡部は珍しく饒舌になっていた。
「『魔王』をドイツ語で、しかもアカペラで唄われたときなんかどうしようかと思ったぜ」
 跡部は何かを思い出したように、彼にしては珍しく思い出し笑いなどしながら言う。
「雰囲気出すからっつってカーテン閉めて、スポットライト持参して、薄暗がりであの声で唄われてみろよ」
「普通にカッコよくない?」
「んなワケねえだろ。普通に教室中ドン引きだよ」
 跡部のものの言い方が面白かったのか、英二はけらけらと素直に笑った。
 その無邪気な反応は、さすがの跡部でも少々かわいく思えたものらしく、気分がよくなったらしい。
「ドイツ語しゃべれるんだあ」
「感心するとこそこかよ。喋るんじゃない、唄うんだ。――あ、いや、一応話せンのか」
 興味津々で小首を傾げていた英二だったが、ふと気になって聞いてみる。
「ね、ここ榊先生の家なんでしょ」
「ああ、まあ」
「氷帝のレギュラーってみんな先生んちの鍵、もらったりしているの?」
「――……俺だけだよ」
 何故か急に跡部の言葉は歯切れが悪くなった。
「やっぱいろいろ、部活のことで相談あるから?」
「――それだけじゃねえよ」
 そう言いながら跡部はちらりと英二を伺い見たが、英二の顔つきはまことに純粋なもので、彼の『相方』や跡部などが得意のさぐり合いなどには、まったく無縁のようだ。
「……おまえって、ガキだよな」
 思わず呟いた跡部に、英二はたちまちふくれた。
「悪かったね」
「いや――そういう意味じゃなくて」
 跡部は、またすこし笑った。
 それはいつもの彼のこざかしい、あだめいたほほえみではなく、ふと漏れた心からの笑いであったのだろう。
 跡部はリビングに面した窓の向こうを見やったが、まだ沈んだ灰色に曇って視界が悪い。防音をしっかり施した窓の向こうからでも、降り続く水音は止む気配もなく続いている。
「雨……」
「――」
「まだやまねえなあ……」
 呟く彼の顔は、年相応の、どこか幼い頼りなさを浮かべている。






 
 







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