少年は、至極真面目だった。
 真面目、と言っても、その目の中には悲壮な決意と――油断ならぬ、ほとんど殺意と言っていいようなものがある。
 これを聞いたからには。
 己の腹のうちを僅かなりとも見せたからには、今更踵を返すことなど許さない、と言いたげな。
 これを、この視線を、この殺意を、真っ向から受け止められる人間など、そうはいまい。
 男は無神論者だったが、それでもこれはどうした天からの配剤かと思いたくなる。なんと美しいものをよこしたのだろう――そのはからいが、神か、悪魔によるものかは知らないが。
 榊は、舌なめずりしたくなる己をようやく押さえて、わざとらしく足を組み替えた。
 この聡い少年のことだ。自分が彼のことをどう思ったか、どのような興味をもったかなどと、一瞬で見抜いたに決まっている。それをどうして逆手に取ってやろうか、と言う、挑戦的な色合いを見抜けない榊ではない。
 有利に、できるだけ有利に。
 相手の喉笛を睨む、間合いを計る。
 食らいつく瞬間を狙っている。互いに。
 なんと言う心地よい緊張感。無垢な身体を拓くのと同じくらいに――それ以上に。

 闇にひそみ、不穏に閃きつづける銀の刃。
 その氷の一族に確たる名はない。

 けれど彼らは間違いなく、その同族であったのだ。





「君の行動に関係してのことだね、その質問は」
 男は出来るだけゆったりと、そして注意深く応じた。
「さて。私はどう答えればいいものか」
 榊は立っていって、備え付けの冷蔵庫から何やら持って帰ってきた。
 濃い琥珀色の液体が揺れるガラスの美しいボトルと、ブランデーグラスだ。少年の視線が冷たく己に絡むのを感じながら、男はことさらゆっくり、悠々とグラスに濃い酒を注いだ。
「大人なら、会話を弾ませるためにアルコールと言う便利なものがある。君が未成年なのは残念だね。酒を飲みながら話す相手としては、君のような性格の人間は私はとても好きなんだよ。――そう、こういう静かな場所でね、誰にも邪魔されず」
 ふたりきりでね、と榊は言い添えた。
 しかし少年は黙っている。その程度の挑発には乗ってこない。
「さて。とりあえず君の質問に答えようか」
「――」
「確かに君の言うとおりだ。下らない、馬鹿な質問だ」
「――」
「君のような子が、普通に考えてそのようなことに答えを導き出せないはずがないだろう。この国はまだまだそういうことには保守的だ。なにを言うにも物欲先行の、形ばかりの先進国なんだよ」
 男の身も蓋もない言い方に少年はさして打ちのめされた様子もなく、「しょせんこの大人もこの程度か」と知った風な見切りをつけるでもなく。
 さりとて決して男の言葉に感銘を受けたわけでもなさそうに、相変わらず背筋を伸ばした美しい姿のままだった。
「君の言うとおり、いや、これはあくまで仮定だがね――たとえばの話、君が、君の友人にでも、道ならぬ想いを抱いていたとして、だ。それがどれほど高潔で、精神的なものであったとしても、それを正しいという者は皆無だろうね。少なくとも、いま現在の君の周囲では」
「……」
「それはとても特異なことだ――君達の年頃ならなおさら」
 軽く唇を湿して、榊は続ける。
「好きな相手には触れたいと思うのは当然のことだ。しかし、君の言う、相手が同性と言う場合では、普通、気持ちに歯止めがかかってしまうだろうな。君達は、暗にそれを禁忌と教えられて来たはずだからね」
 禁忌、と言う言葉に少年は僅かに反応した。しかし、これほど近い榊ですら見逃してしまうような、ささやかなものだった。
「今はいろいろと人権だのなんだのともっともらしいことを世論ががなり立てるから、あからさまに同性愛者に対する非難めいたことは誰も口にしないけれどね。性嗜好は自由だと言うし、いろいろとそれにあわせた情報も昔ほど大げさに秘匿されてはいないな。もっとも、それはあくまで、嗜好――好みの問題でという意味合いが強い。たとえば君は、男の身体に欲情するかな」
「――いえ」
 突然の質問にも、少年は慌てず落ち着いて答えた。
「男の身体を見て、抱きたいと思ったり抱かれたいと望んだり」
「そういうことはありません」
「ふむ」
 男は殊更難しげな表情をして見せた。してみせたつもりではあったが、実は興味が引かれてやまないことを、たぶん彼には悟られていただろう、と後に思う。
「質問を変えようか――単刀直入に言えば、君が欲情するのは、君の友人にだけなのだね」
 少年は、今度は即答しない。
 しかし動揺したふうも見せなかった。
 その反応に非常に満足して、榊はもはや新しく手に入れた愛玩物に対するように、少年の身体を視線でいかがわしく撫でた。
「君のその切ない恋心の対象になっているのは君の同性の友人なのだね。いったい誰を想って、君のような子がそんなに思いつめるのやら。同じテニス部の子なら何人か顔は思い出せるが――手塚君と、そう、不二君も綺麗な子だった」
「……」
「あとは君のパートナーの、そう、まるっきり仔猫みたいな可愛い子がいたね。何と言ったっけか、あの子は」
「――別に、彼のことだとは」
 やや慌てて榊の言葉を遮ろうとした少年に、彼は笑った。誰が少年の意中であるかはなんとなく想像出来ていたが、ここまであからさまに動揺することもあるまいに、と思う。
「ごまかさなくていい。私に通じるとも思っていないだろう、君は」
「――」
「夜の長さにそうそう甘えてばかりもいられないからね。こういうごまかしやさぐりあいも、君のような子となら非常に面白いが、そんなことで時間を潰してばかりいるのももったいない」
 せっかくのまたとない好機だ、と男は心の中でだけ呟いた。
 再び、表情のない顔に戻ってしまった少年だったが、しかしあきらかに先ほどとは様子が違う。
 何を口にするのか、とはっきりと榊を見据えている。
「先の話に戻れば――そう、個々の性嗜好だけでおさまるのなら、実は、話はとても簡単なのだがね。同性にしか性的興味をいだけない、と言う人間ならそれなりに数は多いし、たとえば君がそうであっても、少なくとも私は驚かないよ。決してそういうものに対して世間からのバッシングがないとは言わないがね、まだまだ偏見もたくさんあるだろうし――しかし、君の場合は少し事情が違うようだ」
「――」
「相手が男で自分も男だ、ということで気持ちに歯止めがかかり、ああこれは一種の気の迷いだ、と納得できるのならそもそも何も問題ない」
「――」
「自分は男であるが、どうやら性の嗜好として同性の身体が好きだ、と言うのも――まあ、それはそれでいろいろ苦労もあるだろうが、決して救いがないわけじゃない。なにを言うにも、絶望的な孤独というわけではないからね」
 少年はわずかに眉を顰めた。
 榊の言う、「絶望的な孤独」の意味をはかりかねたのだろう。
「君はそのどちらとも異なる。だから知りたかったのだろう」
 その意味を尋ねる前に、榊は彼にたたみかける。
「男が男に抱かれるのがどういうことか、どんな気持ちになるものか、どんな結果をもたらすか」
 少年の目が、すいと細くなる。何かこちらが値踏みでもされているようだと榊は思ったが、気にせずに続ける。
「君のいとしいひとではなく、己の身体で試そうとしたのだろう」
 少年は一瞬迷ったようだったが、やがて存外素直に頷いた。つらいことだと聞いたので、とやや小声で付け加えた。
「自分が彼にどういうことを求めているのか――それがどんなにひどいことなのか、経験してみようと思いました」
「そこまで想いつめなくとも」
 榊は小さく笑ったが、少年のほうは相変わらず少しも表情を崩さない。
「一応聞くけれど、諦めるという選択肢はないのかな。……君はどうしても、その子に触らなければいられない?」
 出来もしないと判っていてそんなふうに言う榊に、少し恨めしげな声で少年は言った。
「触れずにおけるならそうしています」
「――」
「これが気持ちだけで済むことなら、そうしています。そのほうがあの子を傷つけずに済む。俺だって、何も傷つけたくて好きになっているわけじゃない。そんなことをしたいだけで好きになったわけじゃない」
 一瞬だけ。
 少年のその美しい仮面の向こうから、年相応の顔が見えた気がした。しかしそれは確かにほんの一瞬で、次には彼は元通り、あの冷たい人形のような表情に戻ってしまった。
「そこまで思っているなら、では、どうして彼に告白してみないんだい」
「俺のこの気持ちが正しいと思う者は、誰ひとりいないと言ったのは貴方でしょう。それに、あの子はまだ本当に気持ちが幼いんです。こんなことを言っても、途端に驚いて逃げ出すに決まっている」
「君に比べれば、それは同い年の子でも皆幼いだろうとも」
 榊は実に楽しそうに言って、またひとくち酒を口に含んだ。
 何気ない仕草のうちに、彼は彼の目的を、用心深く切り出そうとしていたのだ。
「君は、それでこれからどうする気なのかな」
「どう、する――とは」
「困ったね。――こんなことを聞いてしまっては、君を帰した後も気になって気になって仕方なくなってしまうよ」
 心から感じ入り、深く考え込むようすで榊は言った。
 少年は相変わらず、冷たい目をしているだけだったが。
「朝になって君を返して、そうして明日の夜にまた、君があんな盛り場に立っていたとしたらそれだけでいてもたってもいられなくなってしまう」
「……」
「君はどうしても、それを経験したいと思っているのかな。まあ、私も決して品行方正なわけではないから、そちらの知識や経験は君よりも豊富だろう。しかし」
「先生」
 少年は、男の言葉を遮った。
「先生のような方にしては、ずいぶんもってまわった話の仕方ですね」




 どこかなまめいた声音で、そうして初めて少年は、そこで笑みらしきものを浮かべたのだ。決して心を解いたわけではない、あくまで挑戦的な、嘲笑のようなものであったけれど。
 けれどひどく美しい、氷のようなその微笑。
 それがはっきりと己を捕らえるのを知って、男は心の底から歓喜に酔いしれた。
「はっきりとおっしゃってくださればいいのに」
「なんのことかな」
「俺は誰だってかまわない。――俺の知りたかったことを教えてもらえるなら、さっきの男でも」
「――」
「貴方でも」
 少年の挑戦的な目。挑むようなそれが、ここに至って恐ろしいような色香を発している。
 毒だ、と榊は思う。
 なんと美しい――凄烈で、清らかな毒だろう。
「これは失礼」
 彼の美しさに感嘆したことを悟られないように、男はせいぜい余裕ぶって肩を竦めてみせる。
「確かに君のような子に、搦め手は失礼だったな。許してくれたまえ」
「いえ」
 少年は何がおかしかったのか、少し微笑んだ。
「では単刀直入に」
「どうぞ」
「君は此処で私の言うなりになってもいい、というわけかな」
「かまいません。俺の条件を飲んで頂けるなら」
 そう言う彼の眼差しには、迷いはなかった。
 少なくとも、ただいまこれから己の身におこることに対しては。
「条件?」
「俺の代価を」
 男は、その申し出にはちょっと虚を突かれたようだった。彼らしからぬ言動――と言うほど、彼のことを知り得たわけではないのだが――彼らしからぬ望みである。
「代価――と言うと」
「あなたの言う物欲とやらをいちばん体現しているもの、現金で。額はお任せします」
「――それは」
「必要以上の執着は、お互いの為ではないでしょうし。俺は、貴方を信用したわけではなく、貴方でも、そのへんの行きずりの男でも、どちらでもかまわなかった。貴方が特別というわけでは無いのだと言うことを忘れて頂かないために」
 彼は淡々と言う。
「金さえ出せば、俺は誰にでも購える。此処でどうされようと貴方のものじゃない」
「――」
「貴方に、勘違いをしていただきたくない」
 少年は言い切った。そのきっぱりとした物言いに、榊の背がぞくぞくとする。自分がこの少年に、はや執着しているのを見抜かれた焦りも、もうどうでもよかった。
 お前ごときに身体がどうされようが惑わぬ、と言うわけだ。
 思わぬ獲物を見いだして自分が喜びに打ち震えているのだ、と――榊は、ようやく気づいた。
 捕らえたはいいが、なかなか死なない獲物。
 とどめを刺そうとしても、あと一歩のところでするりと抜けて、また逃れる。
 狩りの楽しみを再び与えてくれる。
 嬲る歓びも。
「困ったものだ。君は私を犯罪者にするつもりかな」
 榊は低く、しかし言葉の端々に非常に楽しげなようすをのぞかせながら言った。
「未成年に金を渡してそういう行為に及ぶというのは、犯罪なんだよ、知っているかな」
「金が絡まなくとも犯罪行為ですよ。ご存知ですか」
 少年は、やや嘲るように言った。
「――でも、あなたは」
 すっと少年の目が細くなった。
 どこか挑戦的な――そして何かを誘う色。
 もはや色事の絡む男に対して、優位に立とうとする淫奔な女に似たそれ。
「でもあなたは、このまま俺を帰そうとは思わないはずです」
「――」
「あなたは俺を気に入っている」
「――気に入るかどうか」
 男は、低く嗤って言った。少年の挑戦を受けるつもりになったのだ。
「肌の合う合わないは、それこそ抱いてみなければね」
「では、どうぞ――ですが、俺は実際はなにも知らないので」
 少年は、淡々と言った。まるで、数学の設問の内容を問いに来る生徒のようだ。
「あなたの気に入るようにするには、どうすればいいか、教えていただければ助かります」
「なに」
 男は肩を竦めた。
「私もそこまで無体ではないよ。それに」
「――」
「生徒にいろいろと教えるのが、教師というものだ」
 彼は、特別男に媚びる仕草を見せたりはしなかった。
 足をこれみよがしに組み替えたりも、ソファの背もたれにだらしなくもたれかかったりも、まして何か意味をこめて近づく男を見上げることもしなかった。
 相変わらず彼は帝王然としてその場に座し、背筋をぴんとはって、まっすぐに視線を前を向けていた。よく出来て動かない人形のようだった。
「君は教えがいのある生徒になるだろうね――いちど教えたことは、すぐ覚え込みそうだ」
「――」
「心配しないでも、初めてだというなら大事に扱うよ。恋人のようにね」
「お気遣いは無用です」
 しかし少年はそっけなく言い切った。
「乱暴でいい」
「――」
「俺が、生涯忘れられないと思うぐらいに、痛めつけてくださって結構です――いっそ俺が彼に対して、そんな不埒なことを二度と考えられないくらいに」
「それは、たぶん無理だろうね」
 榊は優しく、これ以上はないほど優しく彼を叩きのめした。
「そういう意味では、私は君を哀れむよ」
 口の端を上げ、優雅に笑みながら男は言った。
「なぜなら君の、その尊ぶべき愛の対象には、代わりがいない」
「――」
「現実の男と女でも――たとえ男と男でも、愛情が冷めて別れたり、失恋したりしたところで、よほどのことがない限り新たなパートナーを見つけることが出来るものだが、君にはそれがない。同性異性という以前に、君の愛情の対象はその子ただひとりのようだ」
「――」
「その子を失ったら、もう何も残されていないことになる。だから」
 だから、言ったのだ。
 『絶望的な孤独』だと。

――なんと言う純愛。
――彼の精神に似つかわしくない、不似合いなほどいたましい愛。

 榊は、ますます彼に興味を引かれる。
 手を伸ばし、彼の頬に触れても少年は微動だにしない。
 ことさら寝台に誘おうとも榊はしなかったし、少年もまた自ら動こうとしなかったので、結局彼への最初の愛撫はその豪奢なソファの上で行われることになった。
 男の手は悪辣に、彼の肌の上に伸ばされ、戦利品の価値を確かめるようにゆっくりとなで回した。
 幾度も、幾度も、しつこいほど繰り返し。
 まるで彼の肌の下には、なにかとても貴重なものが眠っていて、それを掘り起こさないことにはどうしようもないのだというように。
 男の手は優しく、あくどいまでに優しく、彼の肌をたどる。しかしその優美な指先には確かに見えぬかぎ爪が付いていて、慈愛をもって引き裂き続けているのだ。
「君は可愛い子だね」
 榊はそう呟いた。
 何かにたまらなくなったのかほんの少し仰け反らせた彼の喉元に、そう囁いた。
「愚かで幼くて、本当になんて可愛いんだろうね」
「――」
「潔くて素晴らしいが。それでも、まだ君は本当に、自分のしようとしていることを判っていない。いたみでない苦痛も世の中にはあるからね。――せっかくだ、この機会に知るといい」
「――」
「夜は、長いからね」







 
 







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