車はそのまま夜の街中へと走り出し、すんなりと景色になじんだ。
 繁華街とはいえ、洗練されたショーウインドーのブティックなどが立ち並ぶこのあたりは、賑やかさもどこか上品だ。同じように足下が濡れていて人々の靴裏に踏みしだかれているとしても、通りそのものが随分清潔な感じがする。
 降り続く雨の中、いつもよりは人出が少ないのかも知れないが、それでも傘の量を見ていると、夜の街には雨などものともしない人間の方が多いのだろうか。
「送っていこう。家は何処だね」
 車が道の流れに乗って間もなく、男はそう聞いた。
 しかし少年は少しうつむいたまま答えない。
 ずいぶんまつげの長い、綺麗な顔だちをしているとそのときに気づいた。薄暗い車内のせいもあるのかもしれないが、黒い双眸はとても印象的だ。
 品の良い、すっきりとした涼やかな容貌によく似合っている。とてもではないが、先刻のような――あんな、汚らしい場所においておくにはもったいない。
「大石君」
 答えない彼を再度促すと、少年は視線を落として小さく言った。
「いえ、今日は友人の処に泊まると……家族には」
「――」
「どのみち家族も、叔父の……親戚の家に泊まっているはずですし、だから帰らなくてもいいんです」
 男は眉を顰めた。
 気難しい貌を造ってはいたが、この凛とした少年に似つかわしい、低い大人びた物言いに内心とても満足した。
「だからと言っても、あんな場所であんな酔っぱらいの言うなりになる理由にはなっていない」
「――」
「とにかく君の安全なように、私が心配しないでいいようにしたいのだがね。自宅に送るなり、それこそ、君の言う友人の家に送り届けるなり」
「ご迷惑をかけて本当に申し訳ありませんが、どこかそのあたりで下ろしていただければ」
「そういうわけにはいかない」
 男はわざと怒ったように言った。
「また先ほどと同じことをしかねないからね、今の君は」
「……」
「判っていて、そのあたりに君を放っていくことは出来ないな。いいから家に帰りたまえ」
「――」
「私としても、別に君を補導するつもりであんなところにいたわけではないのだ。君は真面目な生徒のようだし、君達ぐらいの年頃ならいろいろと悩むところもあるのだろう。一時期の気の迷いをあげつらうつもりはない。家でひとりになるのがいやなら、誰か、今からでも泊めてくれるような友人とか、親戚の方とかはいないのか」
「いません」
 少年はきっぱりと言った。
「いても、いくつもりはありません――先生の都合のいいところで下ろしてください」
「大石君」
「俺のことは見なかったことにでもしてください。先生の良心が痛まないように」
「君はね」
 信号待ちで車が停まった。少年が助手席のドアをあけて飛び出していくのではないかと警戒もしたが、そのそぶりはない。
「あまり聞き分けがないようだと、このまま君をしかるべき公的機関へ届けなければならないのだよ? 君の学校なり警察なりにね。そうなったら、君が困るだろう」
「――」
「別に威しているわけじゃない。気の迷いというのもあるだろうからね、大げさにするほどのことでもない場合だってある。……君はとても優秀なプレイヤーだし、私も君のことは評価している。このまま青学に通えなくなってはご両親だって悲しむし」
 ずいぶんそらぞらしいことを口にする、と言うのは――これは少年でなく、榊本人の内心の感想だった。沈痛なおももちのその少年のことを心配する素振りの一方で、これは自分に引き寄せるよいきっかけになりはしないか、と探っている。
 ひょっとすればこれは結構な――そう、なかなかたいした『ひろいもの』であるかもしれない。そういう予感がしている。
「君のチームメイトも悲しむのではないかね。君は、たしかこの夏、ダブルスでとてもよい成績を残していたじゃないか。君のパートナーの子だって、君がいなくなったらどれほど悲しむか」
 それまで、黙って榊の言葉を聞いていた(ほとんど耳に入っていなかったに違いないが)少年が、ようやくそれに反応らしいものを返した。
 眉が顰められ、瞼が伏せられ――睫毛の落とす影の美しさに、男が思わず見入ってしまった、その直後に少年は呟いた。
「そうなってもいい」
 ほとんど、ちいさな――消え入りそうな声だったので、これほど近距離にいる榊でさえも危うく聞き逃すところだった。
「どうなっても、いい――そのほうが、いいに決まってる」
 それは、男に返した言葉ではないのかも知れない。
 どこか遠くを見やる双眸で、少年はぽつんと言った。
 己に言い聞かせてでもいるように。
「もう俺なんかと会わない方が、いいのかもしれないんだ」





「入りなさい」
「――」
「今のところの、私の仮住まいだがね」
 少年は男に促されるまま、薄暗い部屋に足を踏みいれた。
 このくらいの年頃の少年ならまだなじみがないであろう、シティホテルのスイートルームの豪奢な様子にも、特段気後れしたすがたを見せない。
 どうしても帰りたくない、警察なり学校なりに突き出したいなら自由に、という態度を少年は崩そうとしなかった。
 決して感情にまかせて喚き散らしたりはしない少年のその静かな、揺るぎない意志に根負けしたのは、榊の方だった。
 かと行って放り出すわけにも行かない、それぐらいなら自分のところに泊まりなさいと連れて来たのが、このホテルの一室だ。
 別に意図したわけではない。本当にそのとき、榊は此処を一ヶ月ほどの生活の拠点にしていたのだ。
「いま家に少し手を入れていてね。工事が終わるまでこんなところに住んでいる。味気ないが、慣れれば快適なものだ」
 機嫌をとるためか、それとも少年の緊張をほぐそうと思ったのか、榊は軽い調子でそんなふうに言った。
 が、少年はまだ黙っている。榊は気を悪くしたふうもなく、少し笑った。
「まずはシャワーでも浴びてきなさい。そのままだと風邪を引く」
 少年は諾々と従った。
 どうして自分をこんなところへ連れてきたのか、またどういうつもりなのか、などということは一切口にしなかった。
 変におどおどしたり、見慣れない贅沢な部屋をあちこち面白半分に検分して回ったり、夜半にこのような場所に連れてこられたことをいぶかしんで男に下らない質問をしたり、ということもない。
そ の落ち着き払ったようすは榊をことのほか喜ばせた。
 この少年がいったい何事でそれほど、傍目には自暴自棄と見える行動に及ぼうとしていたのかは知らないが、本来は理知的な、おとなびた少年であることだけは確かのようだ。
 正直に言って、最初に彼を見かけたとき――今夜のことでなく、少し前に部活動の顧問として、生徒達を引率して青春学園へ訪れたとき――特にどう、という印象は持たなかった。
 副部長になりたてだという彼はごく礼儀正しく、自校の顧問や榊にもはきはきとした物の受け答えをし、見るからに健全で理想的な学生のように思えた。
 だが、それだけであった。
 もちろんそのような学生に対して、不快なことなどあるはずはない。不快ではないが、特に印象には残らなかった。
 彼の名を覚えていたのも、他の青学の生徒より少しばかり多めに自分と会話する機会があった、というだけの話だ。
「それにしても」
 思わず知らず、口に出して榊は呟いた。
「それにしても――まだまだ」
 自分も見る目がない、と榊は自嘲する。
 ひんやりとしたあの薄闇の中で見るまで、彼が美しいことにすら気づかなかった。そういうほのぐらい中でこそ引き立つ存在なのかもしれないが、見逃していたのはずいぶんな迂闊だ。
 きっと面白い夜になる――煙草に火をつけながら、榊はそう確信した。
 決して忘れられない、特別な一夜であるはずだと。


 らちもないことを考えている間に、少年が浴室から出てくる。
 バスローブ姿で、それでも榊と目が合うとどこか所在なげな様子だったが、榊に手招きされるまま彼に近寄ってきた。
 言われるまま窓際のソファにこしかけた少年の前に、湯気の立つカップが置かれた。ついさっき、よいタイミングで届いたルームサービスの品だった。
「暖まるから、ゆっくり飲みなさい。ホットミルクだ」
「いえ――あの」
「何だね。ああ、ハニーポットならこっちだよ」
「いえ、違うんです。俺の服は」
「ランドリーに出しておいた。あのびしょぬれをそのまま着直す訳にはいかないだろう。明日の朝には、一式クリーニングされて出来上がってくるから心配しなくていい。さめないうちにのみなさい」
 すすめられるまま手に取り、中身に口をつける。ほんの少し洋酒の香りがする。
「ああ、少しだけ酒が入っているが酔うほどのことじゃない。――そのほうが暖まると思ったものだから、君の好みを聞く前に勝手に入れてしまったのは、すまなかったね」
「……」
「酒の匂いが駄目なようなら、新しいのをもらおう」
「いえ。大丈夫です」
 そのまま彼が気乗りしなさそうにミルクを半分ほど口にする間、榊は彼の向かいに座ってその様子を見ていた。もちろん榊のことであるから、少年に気づかれないようにその睫毛の長さや、よく整った顔立ちや、さらにはバスローブの胸や裾の合わせ目あたりまでを心ゆくまで鑑賞していたのだったが、なにやらに非常に満足してから、そしらぬ顔でこう言った。
「落ち着いたかね」
「――なにも」
 少年は、小さく言った。
「俺はなにも、取り乱したりはしていませんが」
「だが自棄にはなっていた。違うかな」
 それには直接答えず、お世話をかけました、とだけ少年は小さく言った。『自棄』は図星だったらしい。
「まあ、教師という立場を考えれば、ここで君の悩みや行動の理由を問いただすべきなのかもしれないがね。そう根ほり葉ほり尋ねられるのも嬉しいことではあるまい。私も別にそんなことで君を連れてきたわけでもない」
「――」
「ただ、その――君の悩みのいきつく先が、何故ああいうことなのか、と言うことは聞いてみたいね。いや、これは多少興味が混じっているが」
「――ああいう、とは」
「君はあの汚らしい男と寝るつもりだったね」
 言葉を濁さずまったく直球に聞いてきた男に、少年はぴくりとも動じなかった。
「何か君が今の生活に不満を持って、反抗しようとしたなら他にやりようがいくらでもある。不登校になったり、勉強をしなくなったり、非行――まあ、万引きとか夜遊びとか、そういうたぐいのことだとか。普通は、いきなり売春行為などとは考えないだろう……ああ、今は君達の言葉で援助交際というのだったか? ――もちろん、これは私の行きすぎた考えかも知れないがね」
 榊がゆっくりと話す間、少年はひとことも口を差し挟まなかった。
 ある程度の経験のある女なら、男のその声の響きの良さ、心地よい低さ、そして洒落たなまめかしさなどに聞き惚れるところだったろう。そのような声でいったいどんな風に教鞭を執っているのか、想像もつかないに違いない。
「それとも、あれはゆきがかり上のことだったのかな。君があのあたりで、あまり慣れない夜遊びなどをして、少しぼんやりして正常な判断が出来ていなかったのだとか」
 答えない少年に、フォローのつもりなのか榊はごく軽い口調でそう言った。
 こんなことを尋ねてはいるが、決して責めているつもりではないのだ、と言う意味合いと――恐らく、何事かを非常に思い詰めた彼の本心を少しでも垣間見ようとする、小狡い会話のやりかた。
「――それだとしても何故その相手が男性だったのか、と言うだけのことだけれどね。君のような子なら、商売っけ抜きにしてもかまいたがる女性はいるだろう」
「……」
「要らぬことを言ったかもしれないが。君は、わざとああいう男のほうへ近寄っていったように見えたものだから」
 まだ少年は押し黙っている。
 榊は決してあせらない。少年が、榊の全ての言葉を礼儀正しく無視し続けている、というわけでもなかったからだ。
 言おうか言うまいか。
目の前の男をもう一歩己に近寄らせようかやめておこうか。
 それは悩みをうちあけられる大人として榊を見ている訳ではなく、秘密をあかしたとしてどこまで相手がそれに関して口を閉ざしてくれるか、また引き替えに有益な情報を寄越すものなのか、と冷たく値踏みしているようだ。
 やがて、少年の中の葛藤が何か折り合いをつけたのか、彼は重い口を開いた。
「馬鹿な、下らないことを聞きます、先生」
 決してその当人は馬鹿でも愚かでもないのだろうが、いまこのときにそんなことで茶化して、せっかくの機会を無にすることもないだろう。
 榊は黙って、少年の次の言葉を待つ。
 少年の口調は沈痛でこそあったが、腹をくくったのか言葉によどみはなかった。
「――同性の友人に恋愛対象にされたとしたら、どんな気持ちなのでしょう」
 焦りも、そして恥じらいも無かった。
 普通ならそのようなことを、たいした知り合いでもない相手に語る少年ではないのだろう。
 にもかかわらず、そこまであからさまに口にしたのは――相手の男の中に、同種の匂いをかぎつけたせいかもしれない。
 同性に対する云々ではなく、同じ氷の性を持つ人種として。
 冷徹で残酷な裏の顔と、それを隠し、騙し通す狡猾さ。
 己と同じ世界に生きる一族であると。





 
 







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