不二周助、と言う人間について、第一印象というものはそれぞれに分かれるようだ。
 一見しただけならばその顔立ちはとても綺麗で、少年であるか少女であるか学生服を着ていても皆一様に判断に困るらしい。クラスメイト達、ことに男子たちはもちろん普通の友人に対するように不二に接していたが、それでも何人かは時折その中性的な容姿に奇妙にときめかされて、己の性癖について真剣に悩んだりすることもあるようだった。
 繊細でどこか日本人離れした容貌と、良い育ちであることが伺い知れる上品な立ち居振る舞いなどで、夢見がちな幼い少女達などにはまるで綺麗な王子様のように見えるのだろう。
 実際に「不二先輩は私の王子様」などと、よく言えば多感な時期の少女らしい、悪く言えばありもしない妄想と空想に凝り固まった手紙などをもらったりして、「あと数年もすれば僕にも髭生えるだろうし、朝の忙しいときに剃り残ししてるの見たら、こういう子たちはなんて言うのやら」などとぼやいてみせ、赤毛の友人を爆笑させた。
 基本的には誰にもむらなく接することが出来る不二周助であるので、学校生活の一環である部活動においても、ことさら威張ったり先輩風をふかせたりと言うことはなかった。
 今日もいつもと変わらず練習の始まる少し前にはきちんと来ていたし、準備にもたつく一年生に手を貸してネットの用意をしたり、なんとか形になってきた彼らの素振りの具合を見てやったりもしている。
 かと思うと一方で、すずしい顔をしてハードなメニューをさらりとこなしてみたり、謎の「栄養ドリンク」とやらを真夏のソーダ水の如く爽やかに飲み干して、同じものを飲んで失神寸前のチームメイトににっこりと美しく微笑んでみせたり、なんとかレギュラーにと追いすがる後輩達を笑顔のまま完膚無きまでに叩きのめしてみたり、ということもやっていた。
 いつものこと、と言えばいつものことだし、不二周助が一見綺麗で優しいけれどもなかなか一筋縄ではいきそうもない性格をしていることも、もう皆承知している。
 彼がやってきてすぐ、部長代理に「今日は菊丸英二は体調が悪く休みます」と告げたときも、そうそう変わった様子は見受けられなかった。いつも賑やかで、お調子者だけど憎めない3年生の欠席を、何人かはつまらなく思って内心肩を落としたろうがそれはそれだけだった。
 土曜の午後から始まった部活動は、だらけがちな空気をなんとか引き締めながらつつがなく終了した。
 不二周助は前述の如くいつも通りであったし、部長代理をつとめる大石秀一郎の頬が僅かに腫れているのに気づいた後輩が無邪気にもその原因を尋ねたりしていたが、その他は特に変わった様子もなかった。
 翌日の日曜日まる一日を休日と言い渡された部員達は嬉々として帰路に就いた。部室の鍵を預かる部長代理は彼らを穏やかに見送り、部誌をていねいに記入し仕上げたあとで、たったひとり残っていたチームメイトの不二周助にそろそろ退室してくれるよう促そうとした。

 そのとき。




 乾いた音がして、同時に大石秀一郎は僅かに顔を逸らした。
 椅子から立ち上がったばかりで、容赦ない平手を受けた勢いに体が少し仰け反ってしまったが、倒れるような無様な真似はしない。
 平手の主は、不二周助だった。
 どうしてそんなたおやかな白い手でそこまでの力が出せるものか、と、こんなときではあったが、大石は純粋に疑問に感じる。
「――ひっぱたかれた理由を、説明した方がいい?」
 低いが十分に凄みのきいた声で、不二周助はゆっくりとそう言った。
「いや」
 昨夜の英二に続いて、二度も同じ場所に拳を受けるとさすがに痛いなと、大石はぼんやり思った。
「ゆうべ、君の携帯にかけたのに出なかったのはそういうことだったのかい」
「――ああ、あれは不二だったのか」
 見事に水をさしてくれて、と大石は小さく呟いた。が、聞こえなかったのか、不二は淡々と続ける。
「英二の鞄、どこにあるのかな。君んち?」
「一応、返そうと思って持ってきてるよ」
「そ。じゃ僕が預かって帰るよ」
「英二はそっち?」
「家に帰せる状態じゃないんでね」
「……」
 無言の大石をじろりと睨みつけると、不二はとっくにすませていた帰り支度の仕上げとばかりに、英二の荷物は何処かと口早に聞いてきた。
「俺のロッカーの中」
「悪いけど勝手に開けるよ」
 その言葉が終わる前に、不二は大石のロッカーを無遠慮に開け放ち、中に大切そうに置かれていたテニスバッグを取り出した。
「英二はどうしてるの」
「聞けた立場かい、君が」
 吐き捨てて、不二は空いた手にその鞄を持つ。
 そのまま出ていこうとしたがふと何かに気づいたように、不二は足を止めた。
「ひとつ聞くけど、大石」
「――何」
 しらじらしいくらい平然とし、机の上を片づけている大石のようすにまた怒りがこみあげたのか、視線にその力があるなら射殺しかねないほど鋭く、不二は肩越しに大石を睨みつけた。
「君は昨日、氷帝の顧問の家に行ったんだよね。英二を迎えに」
「そうだよ」
「君と、あの監督と、どういう関係」
「――」
 ノートやプリントの類をとりまとめてとんとんと揃えながら、大石はうっすらと笑んだ。
「聞いてどうする?」
「――興味だよ」
 不二はその大石の微笑に何故かぞっとしながら、口調だけは冷たく、動じずに言い返す。
「不二らしくないな。他人のプライベートに興味あるだなんて」
「君だけのことなら首つっこんだりしないよ」
「じゃあ、教えてあげようか」
 憎々しげに言う不二に、大石はその時点ではじめてちらりと視線を寄越してきた。
 どこかなまめかしい、どきりとするような色香が一瞬垣間見えたが――それは本当に一瞬であった。
 しかしその瞬間に、なんとなく異様な――こればかりはどうしても立ち入ることが出来ないであろうと、不二周助にさえ直感で思わせる何かを垣間見たのは確かだった。
 次に不二がその一瞬の眩惑から立ち直ったときには、相手はいつもの彼らしく、穏やかに笑っているばかりだ。
「学校の違う教師と生徒だ。それだけだよ」
「家の場所まで知っているのに?」
「別におかしいことじゃないだろ。なにかの弾みで、家の場所も偶然知ってた、なんてことはよくあるじゃないか――英二みたいに」
「今の君に、英二の名前を出してほしくないんだけどね」
 忌々しそうに不二は吐き捨てた。
「聞いた僕が馬鹿だったよ。時間をとらせたね。じゃ」
 怒鳴ろうとするのをすんでのところで堪えたのか、不二の言葉の語尾がかすかに震えた。しかしそんなものは大石に何の感銘も抱かせなかったのだろう、彼は本当にただ淡々と――体調不良で欠席したチームメイトを案ずるように、しかしそれ以外のなにものでもないように、もう一度、菊丸英二の具合を尋ねただけだった。
 月曜日には出てこられそうかと大石が聞いたが、不二はその言葉をドアを力任せに閉じる大音声に紛らせて聞かなかったようだった。
「――やれやれ。不二らしくない。英二のこととなると」
 わざとそうしたのだろう、彼らしくない乱暴な仕草に、大石は苦笑して遠ざかる彼の足音を聞くともなしに聞いている。
 美しい、しかし世にも凄惨な笑みを口元に浮かべたままで、大石は呟いた。

「――人のことを言えた義理じゃないけれどな」





 遠慮がちにドアがノックされる音がして、英二はそっと布団の間から顔を出した。
「――英二サン? 起きてる?」
 顔を覗かせたのは不二裕太だ。
「あ……うん」
「何か食えます? 姉貴が……なんか、おかゆみたいなの作ってマスから」
 それはリゾットって言うの、と階下から不二由美子の声がする。
「あ? なんだよ、米だろ、米! 一緒じゃんかよ」
「全然違うわよ、このバカ!」
 罵倒の言葉とともに階段をあがってきた由美子は、まだ何か言い返す裕太を一蹴して、にこやかに顔を覗かせる。どこの家でも弟というものは姉には勝てないものかと、英二は自分の立場を連想してしまった。
「うるさくしてごめんね、英二くん。少しだけご飯食べてみる? 無理ならいいのよ」
「アネキのメシなんか食ったりしたら、腹下してよけい具合悪くなったりして」
「うるさいわね、くそガキ!」
 いまケリが入ったよな、と英二が引きつっていると、由美子はドアを開けて入ってくる。その向こうでは床にへばりついている哀れな不二裕太の姿が目に入った。
「……」
「味は悪くないと思うんだけどね。……とりあえず、もうちょっとしたら周助帰ってくると思うわ。これ食べて、ちょっとでも元気になっていてね」
「……スミマセン」
「いいのいいの。――ちょっと裕太、そんなとこでいつまでもいないで、下に行ってオレンジ搾ってきなさいよ。英二くんに飲んでもらうんだからね」
 ひとことも抗さずしおしおと階段に向かっていった裕太の姿に、英二は不二由美子にはこれから先何があってもさからうまいと心に決めた。同じ末弟の立場にある英二には、長姉という存在がどんなものか、身に染みてよくわかっているからだ。
 英二の密かな誓いはともかくとして、今の不二由美子は上の弟とよく似て非常に優しく、弟のベッドに頼りなげに横たわっている少年に綺麗な顔でほほえみかけている。
「さ、ちょっと起きてみてね。……無理して食べなくてもいいからね。人がいると食べにくいだろうから、私は少し出ているけど」
「――はい、あの……」
「ん?」
「ごめんなさい」
「なあに。何を言うかと思ったら」
 由美子はくすくすと綺麗に笑った。しかしその目にはいたわりと、とてもいたましげな、悲しそうな色が浮かんでいる。
「ね。気にしないで、早く元気になって。――大丈夫、誰も英二くんを悪く言ったりしないし、私も裕太も、勿論周助も、誰にもなんにも言いやしないから」
「――」
 そういうと由美子は、洒落た皿に丁寧に手製のリゾットを盛ってくれた。猫舌な英二のことを慮ってか、皿はほんの少し深みがあって、このような食べ物をふうふうと吹いて冷ますにはちょうどいい具合だ。
 布団の中からゆっくりと起きあがりながら、英二はもう一度由美子にありがとう、と小さく頭を下げた。


 英二は、夜の住宅街の端――最近の生意気な子供なら見向きもしないような寂れた公園の隅っこの木陰にいるところを、不二周助に迎えに来てもらった。状況的には「保護された」と言ってもいい。
 電話越しに、言葉にならない様子で助けを求める英二にただごとではないと悟ったのか、不二は英二の居場所を聞き出すと、ただちに姉に頼んで車で駆けつけたのだ。もちろんその間、携帯電話を切らずあれこれと話し続けていてくれたせいで、英二がさらにパニックになるようなことは避けられた。
 不二の部屋でふたりにしてもらってようやく、英二は自分の身に起きようとしたことが何だったのかを改めて考えることが出来たらしく、恐ろしさに眠ることもままならなかった。
 ようやくうとうとし始めたのは明け方だったがその英二につき合ってほとんど睡眠をとらなかった不二は、英二を宥めすかし、落ち着かせながら事の一部始終を聞き出すと、その日の部活動を休むようにと告げて、自分のベッドをそのまま友人に貸した。
『君のことは、姉さんと裕太に言ってあるから』
 出がけに不二がそう言った。
『その……変質者に絡まれた、って言ってある。ゴメンね、もっといい言い訳をすれば良かったんだけど、どうも、その、普通の喧嘩には見えなかったみたいで』
 答えない英二を抱きしめて、不二は小さく、噛んで含めるように言い聞かせてくれた。
『未遂だったけどショックだったみたいだから、そっとしといてやってくれ、って言ってあるんだ。ごめんね、英二の了解も取らずにこんなこと言って。……でも、母さん達にはうまくごまかしてくれるみたいだし、ふたりとも口は堅いから。それに……それに、その、あんまり何もかも隠し通してしまうと、余計に詮索しないとも限らないから。これ以上君を傷つけたくないんだ。ごめんね』
 その気遣いは嬉しかったし、彼の言うことももっともだった。
 迎えの車の中に落ち着いた途端ひとことも口を開かなくなった弟の友人を、さすがに不二由美子は不審に思ったのだろう。なにやら大変な、取り返しのつかぬ事ではと案じて、弟を詰問したことは想像に難くない。
 涙の跡の残った顔や変に乱された服装のことを加味するまでもなく、快活で明るい菊丸英二のその様子ははたから見れば十分異常だったのだ。
 
 そうして不二家におちついて、もうそろそろ夕刻だ。
 夕べほとんど眠れなかった分を取り戻すように、出がけに不二と言葉を交わしてからあとはひたすら眠り続けた。どうやらこの分だと、もう一晩泊まっていけ、と言うことになりそうだ。
(迷惑、かけちゃったな……)
 それでも、連絡がとれたのか不二で良かった、と思う。
 あの格好で町中をふらつくわけにもいかなかったろうし、家に帰ったら帰ったでいろいろとややこしいことになっていただろう。あれだけ混乱していた自分なら、大石が自分に何をしようとしていたのかをあらいざらい話してしまうだろうし、そうなったら。
 そうなったら。
「どう……なったんだろうなあ……」
 英二は、膝の上にリゾットの皿をのせたまま、ぽつんと呟いた。
 想像するのも恐ろしい――そんな、男に、しかも同級生に乱暴されそうになった、などということを周囲が信じるかどうかは別にして。
 教師達は自分と彼なら、たぶん大石秀一郎の方を信じるだろう。自他共に認める優等生だ。同級生下級生からの人望も厚い。
 けれど菊丸家の人間は、そんなことがあったとしたなら彼を許さないだろうし、周囲がその事実を認める認めないは別にして、もう決して彼とは会わせてもらえないに違いない。
 それを考えれば、あのとき不二が自分を案じて連絡をくれたのは幸いだった――そう思うのもおかしなことかもしれないけれども。
 あんなことをされそうになったのに、それでもまだ彼と会えなくなるほうがつらい、などと。
 きっとあれば何かの間違いで、自分とあんなふうに言い争いをしていたから、大石も頭に血が上っていたのだ、と思えなくもない。
 それでどうして、彼が英二を暴行などと言う振る舞いに繋がるのかはわからないが。
(なにを隠してるんだろう)
 大石の何かに触れ彼の怒りを招いたのは、あの教師のことだ。
 たぶん彼のことで、大石は英二の知らない何かを知っているのだろう。
 英二には知らせたくない、知られたくない何か――。
 考えてみたところで、今の英二には見当もつかない。


「……あち」
 リゾットをひとくち運ぶ。舌になじんで、とても美味しい。
 夕べ榊の処でご馳走を食べさせてもらってそれきりだ。ほとんどまる一日近く何も食べていなかったことになる。
 急に空腹が感じられてきて、英二は二口、三口とスプーンを動かした。
 銀のスプーンが四度目にリゾットに差し込まれたとき、奇妙な振動音が静かな部屋に響いて、英二は思わずスプーンをそのまま取り落としそうになった。
 その正体が、不二の机の上に置かれた赤い携帯電話だと知って、ようやく胸をなで下ろす。
 マナーモードのままの、自分の携帯電話だった。ごそごそとベッドを這いだし、英二はそれを手に取る。
 小さな画面に、着信相手の名前が出ている。
 『センセイ』と少しふざけて名前登録した――夕べ会ったばかりの、男だった。







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