初めて抱かれた夜はどうだったか、と思い返す。

 雨に打たれて冷え切った体をあの男の前に投げ出したとき――その瞬間にあったのは、雨の中をさまよい疲れきった末のなげやりな気持ちでも、まして恐れでもなかった。
 相手があの男であったことは、そのとき別に何の意味も持たなかったはずだ。
 そう。
相手なんか誰でもよかったのだ。
 あの男に雨の街で拾われる前には、通りすがりの、もっと下卑た汚らしい酔漢にしわくちゃの万札数枚でついてゆこうとしていたのだし、場所と相手がどうであろうが、することに代わり映えはしない。
 どろどろとした欲に支配されつつある体を痛みで打てば、少しは目も覚めるか。
 自分が望んでいることが、どれほどの苦痛を相手に与えるものなのか、身をもって知ればこの浅ましい望みを抱くことをやめるだろうか――少なくともあのときの自分はそんなふうだったのに。
 雄の性の愚かしさよ。欲望は凝って渦巻き、吐き出しても吐き出してもすぐにあふれてくる。まるで自分の底知れぬ汚さが、そのままもっとも醜い姿を見せつけているようだ。情欲は慈愛をいともたやすく凌駕し、見るのは彼を引き裂く夢ばかり。
 祈るように苦痛に向けて己を差し出したあの苦悩さえ、目的のためには狡猾に押さえ込んでしまうのだ。彼をいとしくかばおうと思う、心に誓うそのそばから、彼をどうやって籠絡したものか謀る自分がいる。
 呼ぶ声に、髪を悪戯する手に、向ける笑顔に隠れるもの。

――俺の中の秘密。

――君のことを夢に見るとき、いつも俺は君を壊してる。



 真っ暗な、重みさえ感じられる闇の中で、彼を捕まえ、可愛くてたまらない顔を幾度も平手打ちにして、そのきれいな、いくらでも伸びる若木のような体をむき出しにさせる。
 引きずり倒して叫ばせ、泣きわめかせる。
 腕を折れる寸前まで縛って、首輪をつけて鎖に繋いで。
 いつも自分は、そんな夢ばかりを見ていた。
 こんな闇の中ではどれが夢だか現実だか、もう判らない。
 いつもなら、明るい家族の笑い声で満たされた家の中が、こんなふう重たい闇に満たされている。
 これはきっと夢だろう。
 夢の続きなんだろう。
 いとわしく、汚らしく、けれどその瞬間になにより歓喜している自分を思い知らされる、あの夢。
 きっと夢だ、夢の続きだ。

――今、俺が、君を捕まえたのも、きっと。

 ああ、だから。
 今夜もいつものようにふるまっていいのだ、甘い悪夢に酔って狂おう。
 後悔も、嫌悪も、懺悔も夜が明けてから。
 いまは夢の中なのだから。
 



 がちゃん、と重たい、痛いような音を立てて鍵がかけられたとき、英二は何か非常に恐ろしいものを聞いたようにはっと顔を上げた。
 大石秀一郎が玄関をあがる英二の後ろで、そんなふうに鍵をかけることはいつものことだ。不用心だから、と彼は笑う。自分だって、彼が遊びに来たときはそうする。
 今日に限ってどうしてそんなにも鍵の音が重たく、妙に耳に残るものだろうか。
「おお……いし……」
 英二は、ふと不安になって振り返った。
 何度となく遊びに来ていて、とてもよく見慣れた大石家の中。誰もいないのだろう、しんと静まり返り、暗い闇に満たされているその場所がへんに寒々としている。
 玄関の石畳に打ちつけられた体は痛く、真っ暗な中に放り出されて竦んでいる。

――唇だけが熱く、疼くように痺れている。

「大石」
 突き飛ばされ、玄関の石畳に倒れ込んだままの自分が見上げる彼の顔は、闇に馴染みすぎて表情はよくわからない。英二は、大石にひどく突き飛ばされたという事実よりも、倒れ込む自分に手をさしのべてくれない彼のほうをいぶかしんでまた名を呼んだ。
 一歩。
 大石が踏み出す。
「大石――」
 ようやく、ほんの少しではあるが闇に目が慣れてきた英二の顔を覗き込もうとしてか、大石が身をかがめてきた。闇に沈んで見えない彼の表情をもっとよく確かめようと、無防備にそちらへ体を伸ばした英二の顔は、強い力で大石の両手に掴まれる。
 痛い、と叫ぼうとしたが、ひどく乱暴な口づけがそれを遮った。
「ちょ……ちょっと、やめろっ!」
 英二は叫んで、なんとか大石をふりほどいた。
 ふりほどいて立ち上がったところまではよかったのだが、玄関の上がりどころの段差につまづいて派手に背後に転ぶ。ごつん、と鈍い音がする。
 頭をしたたかに打ったせいで眩暈がし、ぐらぐらする世界に耐えることに必死になっていた英二は、かすかに布のこすれる音とともに大きな、湿った熱をはなつ人影が覆い被さってきてもそれを退けることは出来なかった。
 頭を抱え込むように丸くなろうとする英二の両手を、人影はそれぞれに無理に押し開き、自分の手で床に縫い止めた。
 哀れな標本のように自由を奪われてしまった英二は、痛みに耐えるために荒くなった呼吸の中からようやく大石の名を絞り出す。
「大石」
「――」
「なにしてんだよ、離せよ」
 懇願と言うにはつっけんどんで、脅しと言うには弱々しすぎる英二の言葉を、しかし大石は聞き入れようとはしない。
 じっと黙って、なにやら深く物思いながら英二を見おろしてくる。
 その綺麗な――半分以上闇に溶け込んではいるけれど、とても整った顔立ちがゆっくりと下ろされ、英二の唇にまた近づいてきたので、英二はあわてて顔を逸らした。しかし、大石の目的は今度は唇ではなかったらしい。
 貝殻のような可愛らしい形の耳にふっと息がかかって、英二は途端にびくりと体中ではねた。大石の唇と吐息が産む、奇妙にむずがゆいような心地良いような、それでいて体の奥から何かを引きずり出されそうな感覚。
 身を縮めてそれに耐えている英二に油断したのか、大石の手からわずかに力が抜ける。
 英二はさんざんに腕を振り回して大石を手こずらせ、彼を突き飛ばしてその体の下からはいずるように逃れ出た。立ち上がったほうが体勢的にも、次に大石に何かされたときに抗うためにはよかったのだろうが、混乱してしまった英二にはそんなことまで考えつく余裕などない。
 大石家のよく磨かれた廊下を、みっともなく数メートルほど手と足でいざってみただけだ。
 ようやく、それこそやっとのことで体を起こしかけたところを大石に足首を掴まれ、体を捻るように仰向けにされた。元の木阿弥だ。
 言葉にかえ、鋭い呼吸音がいきかう。
 英二のスニーカーを脱がせてそのあたりに放り出した大石を睨んではみたものの、殴るには少し距離があるし、それならばせめてもと掴まれた方とは逆の足首で大石の脇腹を蹴り飛ばそうとしたが、それもうまく押さえ込まれてしまう。
 力まかせの反撃を全て、腹が立つほど綺麗に受け流され英二はもうそれだけしか自由のない口をさんざんに動かして彼を罵倒し始めた。
「いやだ、ばか! 離せ、このバカヤロウ!」
「――」
「何してんだよ、さわんなっ」
 英二が力の限りでもがくのを、奇妙に冷静な、冷ややかとさえ言えるような視線で大石は見おろしていた。その物静かな表情とは裏腹に相当強引に上着の前をはだけられ、シャツはボタンを飛ばされ、ズボンのベルトにまで手をかけられて、英二の混乱は頂点に達しつつあった。
「大石――!」
「静かにしてろよ」
「な……!」
「そうしたら酷いことしないから。――ほら、英二、暴れるからボタン取れちゃったんだよ。後でつけなおしてあげるけど」
 裁縫の腕には自信がないなあ、とのんびり言う大石に、英二はごくりと喉を鳴らす。
 その物の言い様があまりにもいつもと変わりない――少しばかり非難めかした、英二の過ぎた悪戯をたしなめるいつもの調子であったせいだ。
 そのあまりの、言ってみれば普段通りの彼に、一瞬「これほど騒ぎ立てている自分の方がおかしいのではないのか」とさえ思えてしまったのだが、考えてみればこんなところでこんなふうに、衣服を引き剥がされて押さえ込まれるいわれはなにもないのだ。
 哀れな力無い――強者に犯される、娘の如く。
 それを考えると、さらに英二はぞっとした。
 英二のその一瞬の竦みを見抜いて、大石はあくどく口づける。
 痺れはいっそう、大きくなる。
(――誰か)
 英二はだんだん力の抜けていく自分の体を呪いながら、ほとんど絶望的に祈ったりした。
 家の中は暗い。
 真っ暗だ。
 いや、目が慣れれば少しばかりは視界もききはするのだろうが、今はそれが出来ない。自分がされていることが、おかれている状況が、まだよく理解できない。
 パニック、とはこういうことをいうのだろうか、と英二はぼんやり考えた。
 視界すらふさがれてしまうような。
 声さえ出せないような。
 助けを求めようと開いた唇が、呼び慣れた名を音にしようとしてぐっとつまる。
無理矢理開かせた胸元を無遠慮になで回し、あろうことかあちこちを唇でねぶったりしている当の相手に、助けを求めて何になるというのだろう。
「大石……っ」
 やめてくれ、と再度懇願して、しかし英二はそれが失敗であったことをすぐさま思い知る。
 英二が弱々しく願えば願うほど、抗えば抗うほど、相手は残虐な喜びをかきたてられるようで、無垢な肌をなぶる手はいっそう激しさと熱を増した。
 自己本位でなく、英二の体にも何かを思い出させようと、あだに動き回るのが憎らしい。まるで英二にも共犯の罪を背負わせようとするかのようだ。
 体の奥にひそむそれがひとたび顕現したならば、否応なしにそれのとりこになりそうな気がする。
 逆らいがたいほど甘い、たちの悪い、そうしてひどく魅惑的な――いっそ悪魔的と言ってよい。
 絶望に英二はうめいた。そうしてどうしても押さえがたい体の欲求に身を任せてしまうか、と自分でも観念し始めたときだった。


 ピリリリリリリリリ――――。


 突然の電子音。
 英二も、そして昏い夢に酔っているような大石も、期せずしてはっと顔をあげた。
 それは、大石家の玄関に放り出されたままのバッグの中から聞こえている音だった。
 突然鳴り響いた無機質な電子音、それはつまり大石の携帯の呼び出し音だったのだが、暗闇の中で響いたそれに、一瞬であっても気を取られた大石の隙を英二は逃すはずはなかった。
 腹に力を入れふんわりと身を起こし、思い切り体にひねりをきかせて。
 気が付いたときには、大石の体は横様にふっとばされていた。
「……っ!」
 英二は、一瞬自分がしたことに驚いたようだったが、大石が殴られた頬を手で覆って体を起こそうとするのを見た瞬間、跳ねるように飛び起きる。今度は案外と上手く、手も足も動いてくれた。
 いまにも破裂する爆弾を遠ざけるように、英二はあわてて大石から出来るだけ距離を取りつつ――実際は酷く無様に廊下の壁に背中をすりつけながら、彼から離れた。
 大石は起きあがって、なにか呼びかけたようだったが、勿論そんなもので振り返ったり、まかり間違っても引きとめられたりはしない。
 あわただしく、相当無駄な動作で玄関の鍵を外すと、英二はそのまま、自分の荷物もお気に入りのスニーカーも見向きもしないで走り出す。
 なま暖かく固まった闇のような大石家から逃れでた先も、また深い闇の中であったけれど。




 しばらく英二は走り続けていたが、すぐに足の裏が痛くなってスピードを緩めた。
 後ろを振り返り誰もついてきていないこと――特に大石が追ってきていないことを確認したが、それでもまだびくびくとしながら住宅街の端、人気のない公園の中に逃げ込んだ。
 小さな、本当に小さな公園だ。遊具も背の低い、ちゃちで色あせたものしかない。走り回る小学生ぐらいの子供達ならこの公園では少々物足りないだろう。ときおりこの公園で見かけるのは、よちよち歩きの赤ん坊やせいぜい幼稚園ぐらいの幼児ぐらいなものだった。もちろんあまりに小さすぎて、茂みに隠れて不埒をしようという不心得者も、ねぐらとして目を付ける路上生活者もいない。
 その小さな小さな公園の端、申し訳に植えられた大きな木の幹にもたれ、道路側から身を隠すようにしてようやく英二はしゃがみ込んだ。
 見上げると、空は相変わらず静かでちかちかと星などまたたいていたりしている。
 今の今まで自分が、あのおそろしい闇の中で受けていた仕打ちがなんなのか、自分を押さえ込んだ、大石秀一郎の姿をしたものはいったいなんだったのかと思う。
 そうして、ようやく落ち着いていると、めちゃくちゃにされた自分のシャツの前あわせやら、肩からずり落ちてしまった学生服、ベルトが半分引き抜かれたみっともない様子などを改めて思い知らされてしまい、よけいに泣きたくなってきた。
 しかも裸足で、鞄は大石の家においてきたままで。
 どうして自分がこんな目に、と情けないやら悔しいやらで縮こまった英二の胸元が、微かに揺れた。
 機械的にその振動の源を探っていた手が、携帯電話を掴み出す。
 そう言えば、先生の家に行ったときロビーでマナーモードにしたんだった、と今更ながら思い出す。
 着信を見てみると、「不二」と出ている。
 震えながら英二は携帯電話のボタンを、あぶなかしく操った。
『英二!?』
 ワンコールで相手が出た。
『英二、英二なの?』
 不二周助だ。
『英二、ねえ英二でしょ? 全然電話にも出てくれなくて、どうしたの? 大石にかけても出ないし、心配してたんだよ、無事だった?――英二?』
「――」
『英二……なんでしょう?』
 英二はようやく、小さな声で不二、と呼びかけた。
『ああよかった。――やっぱり英二だったね。どうしたの。今どこにいるの?』
 あわただしいけれど優しい、気遣わしげな友人の声。
『どうしたの。どうかしたの? なにかあったの』
「不二」
 優しい声が、真っ暗な公園の中、ぼろぼろの服と裸足で途方に暮れていた英二に暖かく、優しく染み渡る。
 迎えに来てくれ、と言おうとして、喉がむせび泣きに詰まった。
 迷子の末にようやく親に見つけてもらった子供のように、かすれた声をあげて泣き始めた英二を、電話の向こうで不二が根気強く呼び続けていたのだった。






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