あのとき。 自分はあの銀色の小さな鍵をどうしたろう。 怒りにまかせてあの男に叩き返したか、何処かへ放りなげてしまったか。 そう思ってポケットを探ると、小さな金属のひんやりした感触が指先に当たった。掴みだしてみれば、はたしてそれは彼の手の中にすまして忠実に、あるいはこれみよがしにおさまった。 『そら、やはりこれが必要だろう?』 あの男が、唇の端だけをあげて笑っているような気がしたが、今はそんなことにいちいち苛ついても仕方がない。 その鍵を握りしめ、通い慣れてしまったエントランスをくぐる。コンシェルジュの男がちらりと彼を見たが、何も言わなかった。 エレベーターが45階にたどり着くまでの間、彼は静かだった。足を踏みならしたり、いらいらと手を噛んだり、思わず品の悪い言葉を吐き捨てたりと言うことはなかったが、その顔は傍目にも判るほど凶暴であった。 顔立ちが端正であったから、なおのことそれが際だつ。 実に静かに、そして45階という高層階にもかかわらず10数秒のみを要してエレベーターが止まる。 本物の大理石を張り巡らせた広いエレベータホールで、レストランのウエイターのような黒服の男達がからからと銀色のワゴンを押していくのとすれ違ったが、彼は気にも留めなかった。 「英二」 彼は――大石秀一郎は低く、ただひとことだけを呟いて、その重苦しいドアの前に立つ。 幾度か通った、はからずも通い慣れてしまったその場所に。 贅をこらした豪華な、けれど彼にとっては寝室以外なにひとつ用のない、うつろなその場所に。 呼び鈴も鳴らさずに入ってくる無礼な人間を、その部屋の主は二人ばかり知っていた。 ――そのどちらもが、ちょうどそれぞれ同じ年齢の少年である。男がそのとき頭に描いた突然の訪問者は、あだめいて美しい、どこか人を小馬鹿にしたような口の利き方をする教え子の方であった。 呼び鈴をならさないのはもう言って聞かせるのも諦めた。好き勝手に使うのも別段構わないが、しかし此処へくるのに連絡だけは事前に寄越すようにと言いつけたのに、とその形のいい眉をしかめる。 どうも最近は悪戯の度が越すようだ。そろそろ少し叱ってやらないといけないな、と男は思う。 どのみち男にとってあの少年のやらかすことは、親に関心を示されない寂しい子供のやるような、たあいない悪戯に過ぎないのだが。 叱られ、言い聞かされると反抗期の少年らしくふてくされるが、憎々しい言いようの中に少し安心した様子がうかがえる。咎められ、かまってもらえると嬉しいのだ。 どれほど大人びてすれて見せようとも、もうその年頃でどこかくるおしい甘い芳香を放つ身体をしていても。 またたとえばもうひとりの彼のように、冷酷さをひとあたりのよい顔の下に押し隠すことを覚え、大人顔負けの恐ろしい謀略家の片鱗を見せていようとも。 総じてあれくらいの年頃の少年達は、同世代の少女達よりよほどいじらしく可愛いものだった――少なくとも男にとっては。 大輪の赤い官能的な薔薇も、冷たく透きとおる氷の花も、まだその奥に何かを秘め隠して、やがてまったく新たな、いっそうあでやかな姿に咲こうとしている。男はそれを見逃すわけにはいかない。 それを目の当たりにするのが至上の喜びだ。それこそが彼がその年頃の少年達をことさら愛でる理由なのだ。 そう。 彼らがこの上どれほど美しくなるのかを見届けるまでは、男は彼らを手放すわけにはいかないのだった。 「景吾、来るときは連絡をしなさいと言ったろう」 男は――榊はわざと低い、不機嫌な声を出しながら玄関ホールに向かった。 普通の家のようにリビングから数歩でたどりつけるような短い廊下でもないので、男が訪問者の正体を知ったのは、その台詞のしばらく後だった。 「――」 おや、と言うように男の柳眉がかすかに動いた。 突然の訪問者は現れた男を見るでもなく、じっと俯いている。約束無しの訪問が決まり悪かったとか、そういう殊勝なものではなさそうだった。彼の綺麗な黒い目は、大理石張りの豪華な玄関ホールにころんと置かれた、少し汚れたスニーカーを睨みつけているのだ。 このようなところには場違いなそれの持ち主を確信したのか、彼がきっと顔をあげたとき、さしもの榊も一瞬ひるんだ。 その気迫は怒りどころではない。 もはや殺意ですらあった。 この目にまともに見据えられて、身の危険を覚えない人間などいないだろう。 「――どうしたかね」 榊はゆっくりと言った。その台詞の間に、傲岸な自分の性格、ふるまいを思い出そうとするかのように。 「もう、来ないのではなかったのかな。――いや、いつでも歓迎だよ」 君のことはね、と言った男の言葉に、少年の冷たい言葉が被さった。 「英二がいますね。連れて帰ります」 男は大石秀一郎がやってきた時点で、もちろん彼の目的を察していた。しかし、純粋な疑問があったので、彼が玄関にあがるまでは許した。そのまま居間に通ろうとするのを留めて尋ねる。 「誰から聞いたのかな」 「俺と英二の共通の友人から。英二が、貴方に呼び出されたと」 「ほう」 面白そうに榊は目を細めた。 「君に、あの子が私のところに来るのはいろいろと危なそうだからと、そのご友人は注進に及んだわけかな。それはそれは」 「すぐに帰りますから。彼は何処ですか」 「そう急くこともないだろう」 勝手知ったるなんとやらで上がり込もうとした大石のことを身体で阻んで、榊は彼の耳元に低くささやきかけた。 「君のような賢い子が、下らない女みたいに妬くものではないよ」 「――どいてください」 「何も心配することはない。あの子とは楽しく話をしていたんだよ。とても平和的、かつ友好的にね」 「――」 「思った通り、素直でとてもいい子だった。でも」 「――」 「素直すぎて少しばかり拍子ぬけもしたがね。どうしてあんな他愛のない子がいいものかな……まあ、たしかに」 「――」 「寝顔は、とても可愛いけれどね」 瞬間。 大石の、それまで押し殺されていた殺意が、一気に爆発したようだった。 あくまで彼の目は冷たかったが、ほとばしった殺意は氷の鋭さを持つ炎であり、ひと睨みで命を奪うゴーゴンのそれであった。 その爆発のまま、他校の教師に向かって彼は拳を振り上げたのだ。 勿論そのまま殴らせるような無様な真似を榊はしなかったし、暴力沙汰でこの優秀な生徒の経歴に疵をつけることもよしとしなかった。 彼の親切は大石の手を見事に受け流し、掴みとめて、彼を抱きよせることだった。 「――英二になにをした!」 「よくもまあそれだけ、簡単に冷静さを失えるものだよ、仮にも君と言う人間が」 榊は嘲笑った。 「あの子のことになると、そうなる――と言うわけかい」 「離せ」 大石は抵抗したが相手の上背があるのと力の差とで、どうにもならない。拳をつくった腕は受け流されて己の背に捻られ、残る腕に抱きこまれて身動きも取れなかった。 逃れようと足踏みする間に男の足が割り込んでくる。唯一空いた左手で男の肩を押しやろうとするが、それもうまくいかなかった。 「はなせ!」 大石は不快感にたまりかねて大声で叫んだ。 榊が、もちろんそんなものにひるむことはない。 慈愛に満ちた顔で、その唇だけがあくどく大石の言葉を奪う。 「――う」 まだ諦めきれず、大石は何事か男を罵ろうともがいた。息つく暇も許さぬ、食いちぎろうとするかのような接吻に、大石の身体の方が先になにかを思い出したようだった。 膝からかくり、と力が抜けようとする。 それをたたき起こして抵抗する。すがろうとする左腕に無理矢理に力を込め、触れる範囲の男の身体をめったやたらに叩いた。 「うう、う……」 噛みついてやろうとする大石の先回りをして、男の舌が蠢く。このまま抱かれても不思議でないような情の色を隠しもしない。 深い、けれど戦いのようなくちづけに、どうにかして相手に一矢報いてやろうとして大石ははからずも夢中になっていた。 しかし。 ――…。 小さな物音で、大石は我に返る。 なにかを、揺らす音。軋ませる音。 (英二?) それは寝室に置かれた、あの大きなベッドの上で人が寝返りをうった音ではないのか。その上に人がいて、いま目覚めたところなのではないのか。 それは「彼」ではないのか。かわいい、いとしいあの子ではないのか。 この男に騙されて、惨く傷つけられたあの子の姿が、そこにあるのではないのか。 押さえつけられ、陵辱され、泣きじゃくった後の、あの子がいるのではないのだろうか。 「英二!」 大石は唇をもぎはなし、叫ぶといっそうの力をこめて男を振りほどこうとした。 しかし、男も恋人達を引き裂く魔王さながらにいっそうの力で彼を抱きしめ、再び口づけようとする。 「離せ、バカヤロウ!」 大石らしくない、乱暴な言葉が飛び出た。 榊は、素晴らしい、とでも言いたげに目を細め、残酷に口づけを繰り返す。 「離せ!!」 「――このまま、こうしていようか」 「うるさい!」 「あの子に見せてやればいいだろう」 「離せ! 殺してやる!」 大石の耳に、ぺたん、ぺたんと、歩く足音が聞こえる。もちろんこの男にも届いているはずだ。 しかし男は大石を抱きしめることも、口づけを執拗に繰り返すこともやめはしない。 もがく大石の視界の端で、廊下の向こうのドアノブがゆっくりと回る。 大石は今度こそ、全身で暴れ始めた。 しかし手はゆるまない。それどころか呑気にも、ふたたびのくちづけを仕掛けてこようとしている。 罵倒の言葉を男の唇に奪われながら、大石は血の気の引く思いで寝室のドアを見つめる。 ――かちゃ。 ノブが回りきった。 「――大石? あれ? なんで?」 ぽかん、と突っ立っていたのは。 ドアをあけ、廊下に出たところでこちらを振り向き――その大きな愛くるしい目をまんまるくしているのは。 誰在ろう菊丸英二その人であった。 「どしたの、大石。……なんで大石がここにいるの?」 英二は学校指定のカッターシャツと、黒ズボンと言う出で立ちだ。少しばかり髪が乱れていたが、服装や彼自身の様子になにもかわったところはない。 英二は、この部屋の持ち主と、その側で肩で息をしているチームメイトとを見比べて、状況がよく飲み込めないように瞬きを繰り返した。 「気分はどうかな、菊丸君」 「あ、はい。休ませてもらったらだいぶよくなりました」 英二は思いだしたようにとことこと無邪気にやってくる。 「どうもすみません。俺、勝手に飲んで勝手にぶっ倒れて」 「いやいや。これは私の不行き届きだよ。話に夢中になっていて、こちらこそ、すまなかったね」 「いえほんとに。せっかくいろいろ用意してもらったのに、結局迷惑かけちゃって」 ぺこりと英二は頭を下げる。 「英二」 呆然と呼んだ大石に、英二は可愛らしく再度小首を傾げてみせた。 「大石は、どして?」 「不二に聞いたら……此処だって言うから」 「ああ、不二? なに、結局大石に連絡したの? 心配性なんだからなあ、もお」 英二はちょっと唇をとがらせる。 そうして、ちらりと榊をたずねるように伺い見、榊はその英二に笑って、かまわないよと言う風に頷きかける。その無言の会話がまた、大石の気に入らなかった。 「大石、携帯落としたでしょ?」 「――携帯?」 「榊先生が拾ってくれたんだよ。俺が大石の携帯にかけたんで、気づいて連絡してくれたの」 「……」 「大石、なんだか先生のこと誤解して怒ってたじゃん? だから先生が気を使ってくれてさ。俺が携帯、受け取りに来たんだよ」 大石は、それで合点がいった。 不二周助が自分に連絡を寄越したとき、彼ももう相当あわてていて、『英二が氷帝の監督の家に呼び出された』としか言わなかった。不二なりに、この男に何やら危ないものを感じ取っていたのだろう。どうにかして自分の叔父宅の電話番号を調べて、連絡をとろうとしてくれていたのだ。 多分、自分は何かの折りに――おそらくは、あの最後の情事のときに――携帯電話を落としてしまっていたのだろう。なるほど後日に探しに来ても、見つからなかったはずだ。 この男がこんな企みをもって、わざと大石の目に付かないように隠し持っていたに違いないのだ。 英二を手元近くで、じっくりと観察するために。 今日、たとえば大石がこの場にいなかったとしても、そうしたことを後日嬉々として大石に告げただろう。 大石の目の前で、これみよがしに英二を抱きあげ。 喉もとをくすぐるふりをして、牙を一瞬かすめさせるような、ことを。 「先生がね、部活あとでおなかすいてるだろうから、ってご飯食べさせてくれたんだ」 無邪気に英二が言う。 「すっごく美味しかった! それがさ、俺、ミネラルウォーターと間違えちゃって先生のワイン一気飲み!! もうふらっふらになっちゃってさあ」 「――」 「で、先生の部屋で休ませてもらってたの。ベッドすんげー広かったよ」 ね? と言いたげに見上げてくる英二を、榊は優しい顔で見おろす。 その瞳がたちの悪い楽しみにきらめいたことを、大石は見逃したりはしない。 (――この男は) 大石は、怒鳴りつけたいのをようようこらえた。 (自分や、跡部景吾や、何処の誰とも知れない女達を抱いた場所に、英二を寝かせるなんて) 「英二」 そのまま榊と何か喋ろうとしていた英二の手を、大石は掴む。 「英二、帰ろう」 「大石」 英二はたちまち不快な顔をした。 「大石、あのさ、おまえさ」 「荷物、どこだ」 「大石!」 英二が話そうとするのを、無理矢理ひっぱる。 「ちょ……ちょっとまてよ、こら、お前、何失礼なことやってんだよ! お前、絶対変だ!」 「いいから!」 「大石!」 有無を言わせず引っ張っていこうとする大石に叫んで、英二はあわてて傍らの男を見上げる。 大きな目をくるりとさせ、とても可愛い様子で困ったように視線ですがってくるので、榊は心から微笑して頷いてやった。 「ちょっと待っていなさい。――ああ、ほら、ここだ。居間の入口に置いていたろう」 「あ、スイマセン」 英二が頭を下げるのに、大石はつかつかと男に寄っていって乱暴にその手からテニスバッグを奪い取った。英二は大石のそのとんでもない行動に仰天しているばかりで、大石と榊が一瞬、それぞれなにやら物言いたげに――片方は怒りに満ち、もう片方はひどく甘い流し目で――視線を合わせたのも気づかなかった。 「大石!」 「――帰るぞ」 「大石、おまえいい加減にしろよ! ――榊先生、ごめんなさい、俺ちゃんと後で、こいつ怒っとくから」 「いや、かまわないよ」 榊は懐の広いところを見せて、玄関にひっぱられていく英二ににこにことして言った。 「大石君の携帯は、バッグの中にいれておいたからね。気をつけて帰るんだよ、ふたりとも。もう遅いからね――くれぐれも危ないことの、ないように」 一言も発さず、英二の荷物を持ったまま大石が駅に向かうのかと思っていたら、彼は英二の手を掴んだまま、手近のタクシーに乗り込んだ。 大石が怒っているのはありありと判るのだが、英二が何を言っても「うるさい」「黙ってろ」と低く言うばかりで、英二は乗り慣れないタクシーの中で居心地の悪い思いをするばかりだった。大石のその言葉や態度に、英二がようやく反抗でき始めたのは、彼らを乗せたタクシーが大石の家の近くでとまり、ふたりを下ろして走り去ってのちだったのだ。 大石は、英二や榊にはあれほど酷い態度でありながら、タクシーの運転手にはいつものように礼儀正しく、降りるときにも少年らしく「ありがとうございました」と礼を言うのも忘れなかった――そう言って彼が運転手に手渡したのは綺麗な1万円札だった。大石の財布の中にはまだ結構な数のその紙幣があったので、ちらりと見た英二は目を丸くしていたのだが。 「なあ、ちょっと、大石」 「――」 英二は、遠くなっていくエンジンの音を聞きながら、ようやく言った。 「あのさ。お前、いったい」 「――家には」 「……え?」 「英二。家の人にはなんて言ってきたの」 「友達の忘れ物取りに行くって。ちゃんと先生が電話に出て兄ちゃんに説明してくれたよ」 「――」 「大石」 「……俺んちから電話かけて、誰かに迎えに来てもらえ」 「え?」 「二度と行くな、あんなやつのところ」 言うなり、大石は英二の手を掴んで物凄い勢いで歩き出した。 「もう二度といくな! あんなヤツと絶対会うな! 危ないのは英二なんだぞ」 「大石!」 英二もさすがに今までのこととあわせて、今度ばかりは腹に据えかねたと見えて、これまた物凄い力で大石の腕を振りほどいた。 「いったいなんなんだよ! 理由、言ってみろよ、俺のすることにいちいち文句つける、その理由!」 「理由なんかない。英二が、俺に黙ってあんなヤツのトコ行ったから、怒ってる」 大石もいらいらと彼を振り返った。 「俺はこないだ、もうあいつと会うな、って言っただろ! 英二が知らないだけで、あいつとても癖が悪いんだ!」 しんとした住宅街の中、どなりあう二人の少年の声に、あちこちの家の窓のカーテンが怖々と動く。 「お前なんか勘違いしてる、大石。榊先生は、お前の携帯拾ったけどなんだか嫌われてるみたいだから俺から返しといてくれ、ってわざわざ連絡いれてくれたんだぞ。来週になったら手が空くから青学まで返しにいってもいいって。それじゃあんまり悪いから、俺が受け取りにいっただけじゃないか」 「そんなの、こじつけだ」 「大石、おい」 「もう良いから俺の言うとおりにしてろよ! 二度とふたりで会うな」 「大石!」 英二は癇癪もちのようにどんと足を踏みならした。 「おまえ、絶対おかしいよ、大石。そんなもんで俺が言うこと聞く、って本当に思ってんなら、それお前すっげー勘違いしてる」 「英二」 「理由があるなら話しゃいいじゃん。これこれ、こういうことで、だから榊先生のとこに行くな、って言うんだったら、俺ちゃんと納得もするよ。いつも、そうしてくれたじゃないか」 「――」 「俺はバカだから、時々変なことして大石を怒らせたけど、大石は何か悪かったのかとか、ちゃんと教えてくれただろ。だから、俺、大石に怒られても逆ギレとかしたことないだろ。ちゃんといっつも言うこと聞いてるじゃないか。大石の言うことは正しくて、ああそうだなあ、って俺も納得できたから」 「英二」 「でも、今のお前のいうことって滅茶苦茶だ。することもめっちゃくっちゃだ」 「英二――英二」 「お前の言うことが正しくて、俺に言うとおりにしてほしかったら、ちゃんとわけ話せ」 「……」 「でないと、聞けない」 今回に関しては、英二のいうことはいちいち正しかった。 それを大石としても認めないわけにはいかないだろう。英二に本当のことを話せないのは、自分がしていることがやはり彼に対して後ろめたいからだ。 金と引き替えに男の、それも他校の教師の慰みものになっていると言う、唾棄すべき事実。なによりもその愚かな行動の理由に、同性の友人への叶わぬ想いのうさをはらす意味が少なからずあること。 大石秀一郎の場合、その相手が菊丸英二であること。 もちろんそれは、英二に関係はない。 こんなふうにひそかに想っているのも、その憂さ晴らしであの男の部屋にいくのも、全部大石ひとりのことだ。 説明に困り、大石が黙り込んだのはほんの数秒だったろう。 その数秒間の大石の煩悶を英二が知っているはずもなかったが、けれどその沈黙を機として、彼はもっとも効果的に、もっとも重要なことを大石に問うことができたのだった。 「なに隠してんだよ」 英二の低く言った言葉に、大石は血の気がすっとひいた。しかしできるだけ平静を装って、答える。 「隠してる、って。俺は別に、そんなこと、ひとつも」 「だいいちどうして大石は、榊先生のマンションがあそこだって知ってたの」 「英二」 大石はぎくりとなる。 「俺、不二に駅の名前は言ったけど、マンションの場所までは話してない。結構あのあたり、なんやかんやとマンションあるのに、どうしてあそこに来たんだよ。――通りすがりが普通に入れるところにポストもないし、表札も出てないのに、よく判ったよな」 「――」 「俺に、何を、隠してんだよ」 大石は苦しそうに息をした。 「榊先生となんか、あったのかよ」 「……」 「榊先生に俺が近づいたら、どうしてそんなに怒るんだよ。……怒るようなことがあったんだ、大石」 「それは……」 大石は、しばらくどう言おうかと迷っていたが、結局口から出たのはごまかしにもならない台詞だった。 「英二には関係ないだろ」 「そういうと思った」 英二は顔をゆがめ、吐き捨てる。 「俺に話す気ないんだろ。でも、俺に大事なことは聞かせないで、黙っていて、それでよく『いいから俺のいうとおりにしろ』なんて言えるよな、大石」 「――英二」 「俺、そんなに信用ないんだ、大石に」 「英二、違う」 「何が違うんだよ」 「俺は」 確かに大石は、満たされぬ想いをごまかすために、あの男と会っていた。 そうやって自分の身体を他人に任せることで英二に対するあらゆる欲望を一応発散してはいたものの、しかし決してそれは英二に手を出すまいとする健気な意志のあらわれ、というわけではないのだった。 大石としても別段、正義の味方を気取ってあの男のマンションにかけつけたわけではない。あの男なら、どんなことでもやりかねないからだ。たとえば、大石の気を引くためだけに英二を籠絡しても、なんの不思議もない。優雅を装いながら必要以上に自分に執着してくるあの男の残酷な稚気に、英二を晒すわけにはいかなかった。 だから、英二から見れば、確かに自分の行動は矛盾だらけだろう。英二が怒るのも、本当は無理もない。 けれど大石は自分の恋心以上に、あの男とのことを英二に知られるわけにはいかなかった。 「大石」 「――」 「もう、いいよ」 らちがあかない、と思ったのだろう。 英二は、彼にしては珍しく悄然として、こう言い放った。 「俺、帰る」 「――英二」 唇を噛む英二の目の端に、小さな涙が浮かんでいる。 「帰る。しばらく、電話とかしないで」 「英二」 「おまえとは話せない」 「――」 「今の、なんかごまかそうとしてるようなお前は嫌いだ」 「――英二」 「今の大石はきらい」 それだけを言うと、英二はどこかよろよろとした足取りで大石の傍らへ寄ってきて、その腕から自分のバッグを取り戻そうとした。 ほかならぬ英二の、憔悴したような悲しそうなその顔を見て、心の痛まない大石ではない。滅多に言い争いなどしない、してもこれほど頑なに拒否されたことのない相手に突き放されたのが、そうとうこたえているようだった。 悲しそうに俯き、泣き出したいのをぐっと耐えている。 今すぐに抱きしめて謝りたいのをこらえて、大石は英二の手にバッグをすぐに引き渡さず、精一杯穏やかに言った。 「英二」 「――」 「頼むから、もうあの人と会わないでくれ」 「――」 英二は答えない。ぐいと大石の手からバッグを奪おうとしたが、大石もこれだけは譲るつもりもなかった。 しばらく本当に子供じみたバッグの引っ張り合いをしていたが、あまりにも英二が聞き分けないので、大石はたまりかねてもう一度言った。 「英二」 「――」 「もう、あの人とは会わないよな」 「――」 英二は小さく俯いたままだったが、きっと顔をあげて毅然として言い放った。 「やだ」 「――英二!」 「そんなの俺の勝手だ! 俺がどうしようと、誰と会おうと、そんなの大石に関係ないだろ!」 「英二。英二、頼むから」 「やだ! 離せよ、バカ!」 もがく英二の視線が、なんとか彼を宥めようとする大石のそれと合う。 大きな目。愛らしい、かわいい、夜毎に彼が焦がれてやまない綺麗な瞳。 そこからぽろりと落ちる涙が、大石の中の何かに触れる。 隠しつづけていた、心の奥の――ひどく凶暴な、何かに。 英二に嫌いと言われ関係ないと叫ばれては、さしもの大石秀一郎も激しく動揺している。その上、あれだけ言い争いをして、いつもの冷静さを欠いている。 そうして。 そうして自分の手には。 英二が捕らえられたままだ。 (いけない。手を離せ) 大石の中で僅かに残った理性が、そう叫んだ。 (手を離せ。その子から離れろ。――でないと) でないと。 「英二」 「いやだ」 「英二」 「大石! 離して!」 滅茶苦茶にもがく英二の腕を引きとめて、もう一度大石はその顔を覗き込んだ。 先ほどの名残の涙が、ふたたびぽとりと落ちた。 英二はそのまま大石に引き寄せられ、彼の両手で頬を挟まれる。離せ、と彼は言いかけたが、大石が自分の唇でそれを塞いでしまった。 「――お」 触れて、大石はすぐに唇を離した。 しかし呆然と大石を呼ぼうとする英二の表情に突き動かされたかのように、今度は激しく唇を重ねてくる。 英二も、驚いて硬直していたのはほんの少しの間で、すぐにもがき出す。 「おっ……おお、いし」 暗がりで、大石の表情は見えない。ただ離した唇から漏れる彼の呼吸が速く、熱く、おどろくほど情の匂いを感じさせることに、英二は急に怖くなった。 「大石……は、離して」 「――英二」 「離して……いやだ」 弱々しい、心底怯えたような声音や顔つきが、またいけなかったのだろう。逃げ出すひまもなく、英二の腕は大石にぐいと引き寄せられた。 そうして大石はそのまま、暗がりの住宅街を自宅の方へ向けて有無を言わせず歩き出したのだ。 「大石!」 「――」 「大石、痛い!」 「――」 「大石!」 英二が本気で悲鳴をあげる。 「大石、手!」 どうにか転ばないでいることができたが、大石の手は凄まじく容赦がなかった。 ほとんど引きずるように英二を家の前まで連れてくると、そのまま振り返りもせず門をくぐり、英二が玄関の階段でつまづいても気遣うこともしなかった。 「大石、イタイ! 痛い、痛いって!」 大石の家は電気もついておらず真っ暗だった。誰もいないのだろう。 家族全員で叔父の家に泊まりに行く予定だったのを、大石秀一郎ひとりが不二からの連絡を受けてあわてて帰ってきたことを、勿論英二は知らない。 「痛い! 大石、痛い、離せよっ」 大石はドアを片手で開けると、掴んでいた英二を引き寄せ、そのまま玄関の中に突き飛ばす。 真っ暗な、誰もいない家。 闇一色の玄関に倒れ込み、冷たい石畳にしたたかに身体を打ち付けた英二は、混乱した意識の片隅でドアの閉じる音を聞く。 冷たい、重い、鍵のかかる音も。 |
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