それは本当に偶然だった――としか言いようがない。 他人に言わせれば、また悪巧みをしているだのなんだのと、どうもよくない方向にばかり取られがちな己の行動であったが、その日だけは本当に偶然であったのだ。 たいして激しい勢いでもないが、ズボンの裾の汚れを気にしなければならないほどには降り続いていた雨。 秋の日の、雨。 朝から――その日の朝から、もうずっと。 いつもならそんな盛り場になど用のない男であったが、久しぶりに会った知人と軽く食事を、と言う話になったときにそこへ連れてゆかれたのだ。 人の手から手へ渡されてはすぐに捨てられるピンクチラシが、汚れ破れて道路のあちこちにべたりと張り付いている。安っぽいモールで飾った立て看板を持つ、やる気のなさそうなホームレス。ゲームセンターの耳障りな電子音。 雨はずっと降り続く。若い男女の嬌声。客引きの男の、馬鹿のように明るい声。 賑やかではあるがどうも薄汚れた、すえた匂いのする感じが拭いきれないその通り。そこからちょっと入った端にある小さな居酒屋は、確かに主の愛想も腕も良く、食い道楽の男も満足した。店構えも高級でこそなかったが、清潔で気配りが行き届いていて、やってくる客も、目も当てられない酔客などはひとりもいなかった。 だから久々に心地よい、気の置けない、よい晩餐であったように思う。男は日付が変わる頃、知人とはそこで別れた。雨はまだ降っている。 喧噪で満たされた盛り場は夜が更けてさらに遠慮がなくなっているかのようだ。 確かに食事は美味で、男の気分もそれに関しては悪くなかったが、こういう場所は彼の美学とはもっとも対極にある。客引きの男達を無視し、差し出されるチラシを避け、男はこの気分を台無しにされるまいと足早に通りを突っ切ろうとした。 雨が降り続く。 通りにはアーケードがあるので直接濡れたりはしないが、行き交う人々の靴が泥混じりの汚らしい水を運んでくるせいで、足下はぞっとするような汚れだ。 その水分も手伝ってか、足下から結構冷えてくる。 この雨が止めば、本格的に冬だろうか。今男が着ている薄手のコートでも、そろそろ寒さを防げなくなっている。 雨は、まだ降り続く。 少し離れた場所に止めてある車に早く戻ろうと考え、男がもう少しでその通りを抜けてしまう、というときのことだ。 ふと流した視線の先で、彼を見つけた。 ――偶然にも。 本当に、偶然に。 どれほどの男女が着飾っていてもどうもだらしない印象が拭えないその場所で、男の姿の良さ、精悍な顔立ち、身なりの良さはそれだけで違和感のあるものであったけれど。 ある意味男と『同郷』であろう彼は、きっちりと着込んだ学生服という清潔ないでたちであったものだから目立った。これがけばけばしい光に満ちた通りのど真ん中であったなら、さらによく目立ち――ありていに言えば、浮いていただろう。 しかし学生服のその少年がいたのは、通りから少し横にそれたところ――薄暗い、道の端であった。 何かの倉庫なのだろう、小さなプレハブ建ての平屋の前に、彼はいた。 薄暗い、と言っても様子はよく見える。この通りからのあかりと、薄闇の向こうに立ち並ぶラブホテル街からの安っぽいピンクのネオンで、よく照らされているからだ。 学生服の彼は少しうつむいたままだ。 その少年の顔を覗き込みながら、あきらかに酔っぱらっているとおぼしき男が聞くに堪えない声で絡んでいた。 少年は何も言わない。 雨がまだ降り続く中で、彼は傘も差していない。 男は足を止めたまま、思わず息を潜めてその様子を伺う。 やがて酔漢は指を二本、三本と出して少年の目の前で振ってみせた。それだけでなく、よれた背広のポケットから何やら紙幣らしきものを取り出して、くしゃくしゃのまま少年の学生服の胸ポケットに突っ込む。 それでも少年は何も言わなかった。 少しうつむき、瞼を半ば伏せた綺麗な顔立ちを酔漢からは背けていたものの、決して逃げようとはしていなかった。 しかしその横顔には確かに覚えがある。 どこでだったか、と男は記憶を探りながら、一歩を踏み出した。 酔漢は少年の答えを待つつもりもなかったのだろう、少年の手を引いてそのラブホテルの並ぶ方向へと歩き出した。自分から歩く意志はなく、けれど抵抗する気もないらしい少年が、少しよろけながら酔漢に従ってゆく。 ゆかせまいとして、少年の手を自分は掴んだ。 冷えきってつめたい、か細い手だった。 「――また悪巧みかよ」 携帯電話を切ったとたん男の背後からそんな声が聞こえたので、男はつい、珍しく苦笑を漏らしてしまった。 ひろびろとしたリビングの真ん中、王者然としてソファに座る男の後ろに、少年はいつの間にか立っていた。 「気持ちワリィ猫なで声出してた」 「猫なで声ね。――ふむ、あながち間違ってはおらんか」 確かに撫でてみたくなる可愛い仔猫だ、と自分で呟いておいて、何がそんなに楽しいのか含み笑う男の上機嫌さに、跡部景吾はその綺麗な形の眉を顰めた。 「つっついて遊ぶのはかまわねえけど、ややこしいことにすんなよ」 「ややこしいこと、とは?」 「アンタ、大石にもちょっかいかけてんだろ」 「そんな浮ついたものではないよ。彼は特別だからね」 その言葉を聞いたとき、一瞬跡部の表情が揺れる。悲しげな――しかし、嫉妬や情のまったく混じらぬ、普段の彼からは想像も出来ぬような幼い顔だった。 叱られたまま慰められもせず、親の腕から放られた子供のようなその顔を、実は跡部自身すら自覚していないのだったが。 「――もちろんお前も特別だよ、景吾」 絶妙のタイミングで男は振り返り、滅多に向けぬほほえみで少年を見やる。 そのときには既に跡部からその儚い悲しい表情は失せていて、いつもの驕慢な女帝がやや機嫌をそこねて男を見おろしていた。 「宿題は済んだのかな」 「――終わったよ」 「それならいいがな。……そうそう、このあいだの数学のテストの採点を見たぞ。80点を切るとはどういうことだ」 「――」 「もう少し気を入れて勉強しなさい。お前らしくない」 「うるせえよ」 言うなり、少年はソファの背もたれをくるりと乗り越えて、男の膝の上にそのまま寝転がった。 「甘えてみても駄目だ」 「そんなんじゃねーよ。見たい番組あんだよ――リモコンは?」 男が手渡してくれたものを、つまらなさげに操るとそのまま寝転がって動こうとしない。 「テレビはかまわないが、膝からどきなさい。着替えてくる」 「――」 「景吾」 まるで意地のようになって、少年は動こうとしない。巨大な画面に映し出されたらちもない番組を、まるで怒ったように睨みつけているだけだ。 男はため息をつくと、わざとらしいほど優しい手つきで少年の髪を撫でる。 「景吾。どきなさい」 「――……」 「景吾」 声が少し厳しくなったので、少年は不承不承身体を起こした。唇を尖らせてそっぽを向いた少年の頭を、男は優しく撫でてやる。 「よし、いい子だ」 「――」 そのまま少年の頭を軽く抱き寄せ、額のあたりに小さく唇で触れる。親が子にするようなその仕草の間にも、少年は向こうをむいたままだった。 今にも泣きだしそうな、ほうりだされたままの子供の顔。頭を撫でられて安心する子供の顔。お菓子で宥められてしまうことを納得できない子供の顔。 ――けれどそのお菓子の甘さに安心せずにはいられない、幼い顔。 少年は男のその仕草に我知らずうっとりと眼を閉じかけた。 が、それを見透かしたように男は少年から離れ、さっと立っていってしまう。 思わず振り返った先で、男の背中はもはやドアの向こうに消えようとしていた。 「……」 取り残された少年の耳に届くのは、大仰なわざとらしい音楽と、白々しい笑い声。 まるでそれが現在彼を苛つかせている原因の全てだとでも言うように、少年――跡部景吾は必要以上に力をこめてテレビの電源を切り、リモコンをその画面に投げつけようとして――。 止めた。 振り上げられた手は行き場もなく、だらりと下げられたまま彼はソファに座り込む。 そのまま、興味も失せたというふうにリモコンを放り出すと、憔悴しきったような顔でリビングの窓を見やる。 と、言っても、地上45階のこの窓から見えるのは、遠い遠いビル街の血の通わぬ冷たい白い明滅だけであるが。 それがぼんやりとにじみはじめている。 「あ」 少年は、存外あどけなく呟いた。 「雨――」 雨は降り続いていた。 秋の雨。激しくはなく、けれどけっして優しくも暖かくもない。 えんえんと続く秋の雨。 驚いて男を見上げた少年の、血の気の失せた端正な顔が印象的だった。 「なんだあ、てめえ」 酔漢は、せっかく捕まえた獲物を突然手からひったくられ、ろれつのまわらない舌で叫んだ。男と同じくらいの年だろうか。 「何しやがんだ、ああ!? 誰だ、てめえ!」 「教職者だ」 男のいらえは簡潔で、そっけなかった。 突然のことでぽかんとしたのは酔漢だけでなく、少年もである。ふいに手を掴まれ、引き戻され、背の高い男に庇われたのだ。 少年を自分の身体のそばに寄せると、有無を言わせぬ口調で言った。 「一部始終を見ていた。未成年相手にどういうつもりかは知らないが、立派な犯罪行為だぞ」 「なにい」 「なんならこのまま警察に行ってもかまわんが」 そう言いながら、少年の胸ポケットからべたりといやな濡れかたをした紙幣を引き抜き、汚らわしいと言わんばかりにぱらりと足下に落とす。 「どうするね」 酔漢はまだ何か言おうとしていたが男の隙のなさと迫力とにおされたのか、引き下がることに決めたようだ。誰もいない空中に向かってなにやら品性下劣な罵りを繰り返し、紙幣を拾うこともなく、そのままひとりでホテル街の方へ消えていく。 やれやれ、と肩を竦めて男は少年を振り返ったが、彼は居心地悪そうな顔をするでもなく、かと言って媚びへつらうような素振りも見せなかった。 ただ先刻とおなじように、何か思い詰めた、悲壮な顔つきのままだった。 「大丈夫か」 「――」 「こんな夜更けに、こんな場所で中学生のひとり歩きは感心しないな。……さっきの男は、君をどうしようとしていたのか判っているか?」 「――」 その場に、少年は力なく座り込んだ。 「――俺は」 「立ちなさい。そんなところに座り込んでいては風邪を引く」 男は、少年に傘を差しかけてそう言った。 「恥じることがないなら堂々としていたまえ」 「――」 「大石秀一郎君」 少年は、ふと顔をあげた。 誰だ、というようにその黒い美しい眼が瞬いた。 「もう忘れたかな。このあいだ練習試合で、うちの生徒がそちらに行っただろう」 「――」 「私は氷帝のテニス部顧問だ。榊と言う」 「――……ああ」 思い出したのか、少年はゆっくりと眼を伏せた。 男が――榊が名乗っても、だからどうした、という程度の事のようだった。 半ば以上睫毛で隠れたその双眸は、あいかわらずぼんやりと、けれど今にも身を投げそうな思いつめた色で、しとしとと濡れる地面と、放られたままの汚い紙幣を見ている。 このような時間帯にこのような盛り場で、他校とは言え教師に見つかったことも、たいして彼にとっては重要なことではなさそうだった。 「とにかく」 動こうとしない少年の手を引き、立ち上がらせる。 「こんなところにいてもどうしようもないだろう。もう遅いし、一緒に来なさい」 「――あ……」 「心配しなくとも、別に警察や君達の学校に突き出したりしないから、安心するといい」 「――」 少年は、やはり気のない態度で榊が手を引くのに任せてあとをついてきた。通報しない、と言った榊の言葉に安堵したから、というわけでもなさそうだ。 このまま学校に連れていくと言っても、同じような態度だったに違いない。 そのままその通りを後にし、少し離れた場所に止めてあった車のそばに連れて行く。 「乗りなさい」 「――」 そこで初めて、少年は躊躇したようだった。 単に自分のずぶぬれのありさまと、車内にちりひとつおちていない豪勢な外車とを見比べた結果のことだったのだが、男は少し笑って彼を促した。 「別に汚れてもかまわない。いいから乗りなさい」 少年は、小さく頷いて助手席に乗り込んだ。毛足の長い、白いムートンにおそるおそると言った風に身体を預ける。 その仕草に男は小さく笑って、自分も運転席へと乗り込んだのだった。 |
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