夜の砂漠には音がある。 どこか遠くから響くような――耳を澄ませば聞き取れるようなそうでないような。 韻々と響く弦の震える余韻だけがあるような。 ――だから砂漠の夜は美しい。 彼は――『兄様』はそう言った。 ――でも、それは「死」が奏でる音楽に似ている。 ただ一弦のみの神の竪琴。 世にも美しくものがなしく、「静寂」なる楽を奏でる。 人は、生を渇望すると同じぐらい死を望む瞬間があるものだが、それがこれほど絶対的な抗いようのない美しさで迫ってきたなら、それを断ち切るにどれほどの勇気が要るものか。 月光が満ちる砂漠、夢の中の黄金の国に続いてゆくような、美しい死の女神の国。 兄様、じゃあ此処にいたら取り込まれてしまうの? と聞いた自分に、背の高い彼はにいっと笑ってこう言った。 「そういうときはな、目ェつぶって大好きな奴の顔でも考えとき。死ぬのが怖うなるから、こんなもんは、きれいともなんとも思われへんなる。――お前も、はようそういうヤツが作れたらええな」 髪を撫でた大きな手。それはやがて自分の髪から離れ、兄自身の腰布のあたりにそっとあてられる。そこには赤い宝玉を組み込んだ美剣クリスナーガがしまわれている。 なにかにつけ兄はその剣を愛で、くちづけ、大事にしていたことを覚えている。 「血反吐はいても、コイツのために生きておらなアカン。そういうふうに思ってくれて、おまえも思えるような、そういう人間が出てきてくれたらいいのになあ。そしたら俺も安心や」 兄の片腕には、すやすやと眠る赤い髪の子供が抱き上げられている。自分も抱き上げて欲しかったが、我が儘はよくないと言わずにおいていたが、兄はそんな自分の葛藤を見抜いて、そのときもいかにも軽々と空いた片手に抱き上げてくれたのだった。 あのとき自分は、なんと言ったのだったか。 僕、英二のこと好きよ、と一生懸命『兄』に訴えて、「うーん、ちょっとそれとは違うな」と首を傾げられてしまったりしたかもしれない。 ただ、兄の、その遠くを見るような横顔だけが印象に残っている。 抗いがたい月光の砂漠。音なき死の旋律。 それをも越えてゆく相手を捜せと笑う彼。 彼には――『兄様』にはそういう相手がいたのだ。 いたからこそ幼い子供ふたりを連れて砂漠を生き抜いた。炎の中で非業の死を遂げるまで、彼は彼の生き方には忠実だった。 彼の死の瞬間を自分たちは知らない。 炎に隔てられた向こうで彼の最後の言葉がどうであったか、どんな死に様であったのか、見届けることは出来なかった。 彼は幸福だったろうか? 彼は最後のその瞬間まで彼自身の生き方に満足であったのだろうか。 なにひとつ、後悔などしなかったというのだろうか。 夜の砂漠に冷たい鉄の音が響き渡る。 人も、そして馬すらも一糸乱れない。 西の国の騎士団。 黒と銀で色分けされた、それは仰々しく、固く、ぞっとするほど乱れぬ行軍を続ける騎士達。 「おい、ちびネコ」 そちらをみやっていた跡部がふいと英二を振り向くと、無遠慮に手を伸ばしてきた。 「なにすんだよっ」 「いいから、ちょっと見せてみろ」 跡部の目的はどうやら英二の耳飾りらしかった。シャラシャラと音を立てる、コイン型の不二と揃いのものだ。 「さすが忍足だな、いい仕事してやがる。――おい、ブレスレットのほうはどうしたよ」 「不二に渡してきたよ。不二の耳飾り、かたっぽ壊れちゃったんだ」 「ふーん。ま、いい。ちょっとばかしだが、俺の守護をいれといてやるよ」 跡部は指先でコインの飾りをちょんちょんとつつくと、もうそのままゆっくりと姿を薄れさせはじめた。 「とりあえず、なにかあっても不二のヤツとある程度の連絡は取れるようにしてやる。俺はお前にはついていけない。マスターじゃないからな」 「ええっ? ねえっちょっとっ、跡部っ」 「心配しねえでも、命がヤバけりゃ手助けはしてやるよ。言っとくが、ぐだぐだつまらんことぬかして、逃げるタイミング逃したのはお前のせいだからな。まーせいぜい、うまく逃げてみろ」 「そんな無責任なっ」 「ばーか、俺に責任なんぞあるか」 言い捨てて跡部は消え失せた。 間近まで迫った騎士団たちには、英二の真ん前で炎が突然立ち上って消えた、としか見えなかっただろう。 それよりなにより彼らは、まずこんな砂漠のど真ん中で、荷物も何も持たず、それより馬にすら乗らずに座り込んでいる少年の存在そのものが幻にでも見えていたのではあるまいか。 今更逃げてもまず無駄だ。逃げること自体が相手の不審を招くだろうし、だが通りすがりの旅の者だと言って、果たして通じるような状況だろうか。 ごくり、と喉を鳴らして、英二がふらふらと立ち上がろうとしたときだった。 「英二先輩っ!」 振り返った英二は、いつの間二やら猛スピードで彼の背後まで迫っていただろう馬が、前足を振り上げているのを見た。それは唐突に立ち止まらされて勢い余ってのことだったらしく、馬が落ち着くと同時に馬の背からは見慣れた少年が飛び降りてきたのだ。 飛び降りる、というよりほとんど転がり落ちる勢いで、少年は英二の元にこけつまろびつ、取りすがるようにして駆け寄った。 「よかった、英二先輩……っ!」 「おチビ、お前」 「追いつけた――どっかいっちゃってたらどうしようかと思った」 ほぁ、と仔猫が鳴いて、ぴょんとリョーマの肩に飛び乗る。 「どうして、おチビ……」 「こっちに来てるから、早く追いかけろって」 「だ、だれに……」 「それは……ま、あとでね。それより、不二先輩なら大丈夫だよ。途中の岩場にいたでしょ。俺、ちゃんと目印おいてきたから」 桃城があの直後に行動をおこしてくれていたなら、たぶん誰かの手によって保護されているはずだ。 手塚か大石か――どちらでもいい、とにかく誰かに。 血を吐き、苦しんだ痕のある不二のことは気になったが、とにかく自分はもっと大きな危険と鉢合わせしそうになっている、彼のことを助けに来たのだ。 あの謎の青年のことは気になったが、それよりこうして英二に追いつけ、合流できたのだ。少しでも疑ってかかったことは謝っておくべきかも知れない、とリョーマは、彼にしては殊勝なことを考えてみたりした。 もっとも。 この状況を鑑みれば、それも差し引いてあまりあるか。 「俺達逃げなきゃいけなかったかなあ」 「いや、たぶん逃げても無理だったと思うよ」 リョーマはさらりと言った。 黒と銀の騎士団は、いつの間にかぐるりと彼らの周囲を取り巻いて――時折鎧のこすれあう、がちゃがちゃという音の他は、何一つ声を発せず、不気味な沈黙を保っていたのだ。 「うわー、こりゃまたカワイコちゃんたち」 その黒と銀の騎士団の中で、ひとりだけ違う姿の男がそんなことを言いながら、にこにこと馬を下りた。鎧や肩布の具合からして、身分の高い者だろう。まだ年若く、どこか飄々としていて憎めない。 「魔道師なんて眉ツバもんだと思ったけどねえ。当たるもんだよねー」 彼はどうしたというのかひとりで頷いて、にこにことしている。 「こんなにたくさん部下つれてきて、占いとやら通りに金瞳ちゃんがいなかったらどうしようかと思ったよ。やー、よかったよかった。無駄足になんなくてすんだ」 そういうと何が嬉しいのかまた笑った。どうやら相手には、どういうわけだかは知らないが英二の正体は最初からお見通しらしい。 人好きのする優しい笑顔ではあったが、こういう状況で取り囲まれて笑いかけられても、裏に何か隠し持っているかのような剣呑なものにしか見えない。 「初めまして、北の国の金瞳殿。――西の国の騎士団長代理、千石と申します」 そうやって貴婦人に対する礼を取ってみせるのも、どこかおどけた感じがする。少年達ふたりは、もちろんこの油断のならない相手に威嚇するように身構えているのを忘れなかったが。 「北の国の王陛下がお探しです。北の帝国の奥宮より、幼い頃にならず者に連れ出されたとか。――……貴方を攫って逃げたという、もうひとりも王陛下は大変気に病んでおいででしたが」 「……」 「今は貴方おひとりでしょうか、金瞳殿?」 「……」 「貴方と一緒にいた者は?」 千石の目が瞬間鋭くなった。 「その者の行方――ご存じないわけはないでしょうから、どうぞゆっくりお聞かせ願いたい。まずは西の国にて、賓客としておもてなしいたしましょう」 「……」 「んじゃ、お連れしてくれる? 大事に、大事にね。髪一筋損なわないようにとのご命令だから」 千石が言うが早いか、銀色の甲冑の騎士達が二人、英二に近寄った。 英二はもちろんなすすべもない。黙して語らぬ銀の騎士が英二に伸ばした手を、リョーマが止めた。騎士は、何事かとこの華奢な少年を見やる。 はたから見れば、もう抵抗しようのないか弱い者のせめてもの懇願と見えただろうか。 しかし。 次の瞬間。 はっ、と鋭く息を吐き出す音がした。 リョーマは甲冑に覆われた太い腕を軽く外側に捻り、銅あてを少し押しただけのような、ほんの僅かの動作をしただけに過ぎない。 しかし銀色の騎士のひとりはまるで何かの手妻のようにくるりと宙を返り、背中から無様に砂に埋まった。 唖然としている英二に慌ててもうひとりの騎士が手を伸ばしてくるのを避け、足をかけるとよろけた背を手で押す。これもまた、少年と比べたら巨躯の男がやすやすと地面に伏した。 「おー……おいおいおい」 千石は目をぱちくりさせる。 「英二センパイにさわんないでくれる」 騎士達二人をあっさりいなして、リョーマは腰からひとふりの短刀を抜く。 銀色の騎士は、甲冑をがちゃがちゃ言わせながら慌てたように起きあがり、腰の剣に手をかけた。 千石はそれを手の一振りで止めると、感心したように言う。 「なんだよ、ちっさいのに強いねえ」 「――うるさい」 「今の、古武柔術だけど……どこで習ったの?」 「……」 「いや、それって西の国の伝統的な古代武術なんだけどさ、出来る人が少ないんだよねー。西の国にも凄腕はいたんだけど、もう死んじゃったしさ。君がどこで覚えてきたのか、ほんと気になるし」 「――」 「――てか、どっかで会った?」 「ベタな口説き文句だね」 リョーマに冷たく言いかえされたが、千石はどうしたことか存外真剣な表情でリョーマのそのきつい眼を見おろした。 「いや……」 「――」 「ほんとマジで、どっかで」 「――」 「キミのこと見たような気がする……んだけどね」 「もうその年でボケてんの。それともあんたって若作り上手い人?」 「あいた。きついなあ、君」 片目を瞑ってみせたその男は、また再び笑った。 「どっちにしたって、君がいくら強くてもさすがにこれだけ囲まれると辛いんじゃない?」 「……」 「それに、金瞳の仔猫ちゃんには、北の国の黒羽殿から伝言があるんだよ」 「なんだよっ」 英二が言い返す。 「もしも金瞳ちゃんが見つかったら、こう伝えといてってさ」 にこにことしていた千石の目がすいと細められた。 多分に相手を値踏みするような――けれど、同時に、これを聞き逃せばお前達にあとはないぞと言いたげな、冷酷な目。 「『カワムラはまだ生きている』」 「――っ」 「『この先も生き続けられるかどうかは、お前達次第だ』だってさ。――誰、カワムラって」 「……」 「英二先輩」 心配げに覗き込むリョーマのことを見ると、英二は今にも泣きそうな顔をした。 じっと俯いて何事かを考える英二であったが、周囲の騎士団の人垣と、自分たちのことをよくよく考えたのだろう。 やがて顔を上げると健気にこう言った。 「この子に手出し、しないでくれる?」 「んー?」 千石はにっこりと笑って聞き直した。 「俺、あんたたちについてく」 「英二センパイっ!?」 リョーマは慌てて腰を浮かした。しかし英二はそれを制して必死に訴えかける。 「でも、この子は逃がしてやって。俺を心配しておっかけてきただけだし、何にも知らないんだ――俺、ちゃんとついてくから、おとなしくするから、この子は」 「それはだめー」 千石は相変わらずにこにこ笑いながら、あっさりと言った。 「だって、あとでなに口にするか判ったもんじゃないでしょ。そういうの俺達困るからさ、悪いけど」 「――」 「第一、こんなにまわり取り囲まれて、きみたち条件提示したり逆らえたり出来る立場じゃないじゃない? ね。その子には悪いけど、運が悪かったと思ってあきらめてもらうしかないなあ」 出来るだけ苦しまないようにね、と千石が傍らの側近に物騒な指示をしているのを聞いた英二は、それまでのしおらしさは何処へやら、逆上したようにばっと立ち上がり、リョーマの手から短刀を奪うと己の喉に押しあて、高らかにこう叫んだ。 「死んでやるっ!」 そんな短絡的な脅しを、とリョーマのほうが唖然としたが、けっこう相手には効いたようで、千石などはぽかっと口をあけてしまった。 「えええ!?」 少し慌てたような彼を睨みつけながら、英二は叫ぶ。 「見てくれがなよっちいと思って俺をなめんな! たしかにお前達はやっつけられないけど、俺だってこれくらいは出来るんだからな! 言っておくけど、脅しじゃないから!」 白い優しい皮膚に、切っ先が少し食い込んだ。 「この子殺したら、俺もすぐ死んでやる。どうせ俺は北の国に連れて帰られたら死ななきゃいけないんだよ、今だっておんなじだ」 「――……」 「それに、タカさんを脅しにつかって何とか出来るって思ってんのかもしれないけど、不二の居場所が俺から聞き出せないと、本当に困るのはそっちだ。あいつは俺じゃなくて、不二のほうが目当てなんだからな。俺が死んだら……それこそこんなに大げさにまわり取り囲んでおいて、みすみす俺を死なせたら、あんただって後々困るんじゃないの」 「いや、まあ――それはそうだけど」 うーん、と千石は腕組みをしてみせた。 目の中には面白がるような光がきらめいていたが――口調だけは困ったような調子だ。 「死ななきゃいけないって――北の国じゃ金瞳ちゃんは神様の子でしょ? 大事にしておいといてもらえるって聞いたけど」 「そんなのおまえらが勝手に言ってるだけだろ!」 「君の勘違いとかじゃないのー? ほら、君、なんかたぶらかされて連れて出られたって聞いたよ、俺」 「うるさいっ、なんにも知らないくせにっ」 「おいおい、危ない。危ないって。そんなもん捨てて、こっちおいで」 「やだ!」 英二は相変わらず肩をいからせている。 千石は困ったように、これは対照的に肩を落とした。 「いや、あのさ。どのみち俺的には、その子逃がしたって悪いことになるんだけどねえ」 「――」 「連れてくにしたってさあ、金瞳ちゃんのオマケー、なんて言っても誰も納得しないと思うしねえ……あ、そだ」 「……?」 「俺の奴隷にしよ」 「――え」 「あー、それいい。うん、いい考えいい考え」 うんうんと頷いた千石は、なにが嬉しいのか隣にいた騎士に何事かを指示した。それも、満面の笑みをたたえて。 「ちょっ……!」 リョーマが抗議の声を上げた。 重たい鎧をつけているであろうによくもそれだけと思うような、恐ろしいほど機敏な動きで黒色の騎士の二人が少年の腕を取ったのだ。 がちゃ、と鈍い音だけがする。 ひとこえも発さず、また一糸乱れぬ動作のその鎧の中身は、人間ではないのかと思ってしまって英二はぞっとした。 「待てよっ、おチビにさわんなっ」 「英二先輩っ」 二人の少年が喚いたが、千石はどこ吹く風だ。 「この子、俺が拾って帰るよ」 「はあ!? ちょっと、アンタ、千石とか言ったっけ、何勝手にっ……!」 「あー、うん、よく見ればすごい可愛いわ。俺の好みだ、俺んちの奴隷にしちゃおう。うん、決めた。それでいろいろ俺の世話させよう。特に寝室ん中で。それがいいや」 「てめっ、ちょっとっ、何考えてんだ、おチビは離せっ」 「それが一番いいんじゃん」 自分も取り押さえられ、さらに喚く英二をさらりといなして、千石は言った。 「いまんとこ、それしかその子を生かしとく手段がないんだ。それともやっぱり、目の前でこの子の首飛ばされたほうがいいの、仔猫ちゃん」 「……っ」 英二があきらかに動揺する。 「英二センパイっ」 リョーマも、今度は英二を気にしてかあっさりと捕らえられてしまった。 何が楽しいのかにこにことしている千石によって、ふたりはあっというまに手首を前に揃えて縛りあげられてしまった。 「痕つかないから、心配しなくていいからね」 二人の手首を縛り上げたのは白い美しい手触りの絹だった。英二を捕らえたら暴れるだろうが、縛り上げておくにしても傷はつけないようにとの配慮により、世にも優雅な絹での拘束とあいなったらしい。 「予備の馬、あるでしょ。ふたりそこに乗っけてあげなよ。喉かわいたら水とかあるからさ、遠慮なく言ってねー」 相変わらず、いったいこの男の頭の中はどうなっているのかとリョーマも英二も問いたくなるぐらいにのほほんとした物言いの千石のもとに、黒い甲冑の男が馬で寄ってきて何か告げる。 「なに?」 何かを言われて千石はそちらを向く。ついつい英二とリョーマも、そちらの方へ視線をやった。 皆が目を向けたのは、暗い砂漠の向こうで――しかし、その闇の砂漠の中にもはっきりと判るほどの砂埃が舞い上がっている。 何かが猛烈な勢いでこちらへやってきているのだ。 それが馬に騎乗した人間だ、と知れるまでにはもう少しかかった。 が、その騎乗した人物が何事かを大声で喚いているのを耳にしたリョーマは、いかにもいやそうな顔をした。舌打ちでもしたかったに違いない。 「何でこういうとこにくんだよ、バカ亭主」 |
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