かがり火の勢いはまだまだ衰えない。

 火の粉を天に吹き上げ、時折どさりと派手な音を立てて組んだ木が崩れ落ちるが、そのそばから若い者がまた新しい木をくべてゆく。
 一年にたった一度の、そうしてこの貧しい村の人々のたったひとつの娯楽といっていいほどの祭りの夜だ。
 桃城武は村の娘とおっかなびっくりで踊り出した少年を仲間とはやし立てながら、篝火をぐるりと取り囲む輪の中でさんざんに酒をくらっていたが、そのうち衣服を引っ張られて何事かと後ろを向いた。
「お、越前」
「桃先輩、そっとこっちにきて」
「なんだあ、やっと一緒に飲む気になったかあ」
 その小さな身体を酒の勢いに任せて抱き寄せようとすると、リョーマはするりと身をかわす。
「なんだなんだ、せっかく祭りだろ、飲めよって、おまえも」
「いいから、こっちに来て」
「かてえこと言うなよう、今日を逃したら、また来年まで祭りはないんだぜえ」
「ああ、もう。祭りだろうがなんだろうが理由つけて飲むくせに」
 ぺし、とそのおでこを軽く叩いて、少年は桃城に顔を寄せた。
「緊急事態。――他の連中に気づかれないようにこっちにきて」
 桃城は一瞬眉を顰めたが、やがて大きな口を開けてがははと笑った。
「なんだなんだあ、ひとりで寂しかったのか、そーかそーかよしよし」
 言うなり少年の身体をひょいと肩に担いだ彼に、周辺の仲間から少々下品な野次が飛ぶ。
「ばっ……こ、この酔っぱらい!」
「おーおー、照れなくていいっていいって。――おーい、邪魔すんなよおめーら」
 回りの人間をぐるりと指さして、桃城はふらふらとしながらこう言った。
「今夜俺んちに来やがったら、承知しねーぞ。覗きてえ気持ちはよーく分かるが」
 野次だか喝采だか判らない囃しの中を、桃城は豪快にずかずかと歩いて抜けた。
「俺の家の回りで足音ひとつさせてみやがれ、生きて明日の朝日が拝めねえと思えよ!」
 相変わらずぱたぱたと可愛く暴れる少年の身体を肩に担ぎ上げたまま、桃城は豪快に笑って祭りの輪を抜けた。

「で、なんだって」
「いーから下ろせよ、このバカ!」
 彼らふたりがその会話を交わしたのは、狭苦しい泥レンガ造りの我が家ではなく、祭りの喧噪からやや離れた、小さな暗がりでのことだ。
「いて。そうぺしぺし殴んなって」
「酔いは醒めたの、このバカ亭主」
 相変わらずこのちいさな少年は口が悪く手が早く、愛想笑いのひとつも見せないが、『バカ亭主』のほうは全然気にもとめていないらしい。
「不二先輩と英二先輩がいなくなった」
「――んあ?」
 真剣な顔をしたリョーマに呼ばれてきたものの、そうすぐには酒が抜けきらず、あくびしながらそれを聞いた桃城はまたしても尻にひとつ蹴りを食らった。




 それは祭りの騒ぎの中。
 例の踊り子達による、舞の直後のことである。
「カルピン。――カル」
 リョーマはひとりで家に戻ってきていた。
 祭りのために、朝からなにかとざわめいていた村の中であったが、その空気の違いを察してか、この家の飼い猫は朝からどこか不安定になってそわそわと落ち着きがなかった。
 まだちいさな仔猫のことである。いつもと違う雰囲気、様子は、それだけで何かとても不安になってしまうものらしく、朝からあまり餌も食べていなかった。リョーマはそれを案じて、祭りのメインイベントだけにつき合って後はすぐに家に戻ってきていたのだ。
 埃っぽい家の端に置かれた木箱の中、干し草のベッドの中に仔猫のカルピンはうずくまっていたが、飼い主の帰宅を察して、ほあ、と独特の鳴き声をあげた。
「カル。……ああ、ちょっとご飯食べてる」
 よかった、と呟きながら干し草と同じ香りのする仔猫を抱き上げ、何気なく窓から外を見やった――そのときのことである。
 粗末な麻の布に身をくるみ、あたりを伺いながら――あきらかに、誰にも見つかるまいと周囲を気にしながら――闇に紛れて走るふたつの人影を見たのだ。
 灯りは遠く小さな村の路地は暗い。
 しかし目深に被ったフードがふわりと浮き、その一瞬、月光に照らし出された世にも美しい金色の目。
 つまずきかけた金色の瞳の少年のことを、気遣うように振り向いた琥珀色の髪の彼。
 琥珀色の髪をした少年は転びかけた少年を手助けしてやりながら、それでも今のささやかな物音が誰かに届かなかったかと、警戒して回りを見やる。
 リョーマがいるところは本当に真っ暗な場所なので、それこそ猫の目でも持っていない限り見分けるのは無理だろう。
 闇の中から彼ら二人を見ている存在があるとも知らず、踊り子達は彼ららしい軽やかな身のこなしで、闇の中に消えていったのだ。
 どうもこれはおかしい、と異常事態を悟ったリョーマは手塚の姿を探したが、彼は村の警備担当の青年達にぐるりと囲まれて何やら話し込んでいて、どうもこっそりと引っ張ってこられそうにない。
 大石はどこかに行っているのか姿が見えない。
 仕方なく、広場の真ん中で酒をかっくらっている桃城に手伝わせて、少しでも事態の収集をはかろうとしたのだが。

「誰がいないってぇ?」
 なんとも情けないことに桃城はまだ酒精に勝てない。
「いいから、早く。手塚先輩達に知らせてきて、まわりに知れないように。俺が行くとあやしまれるし。そのあいだ俺は大石先輩を捜すから!」
 真剣な顔をして目をつり上げている少年に桃城は一瞬たじろいだが、ふたたび酒精に負けてへらりとだらしない気分になる。
「ああ、英二先輩と不二先輩ね、どーせアレだろ、アレ。あんな格好して踊ったんじゃ、さすがに部長も大石先輩も、なんかぷちっと切れるトコ切れて、どっかにしけこんでるんだって」
「――そうじゃなくて、俺ね」
「ほんとにマジで、ふたりに手ェ出してなかったのかなあ。乾先輩が言うにゃそういう話だけど、あんなのと一緒に暮らしてたら俺だったら一日もたねえなあ、もたねえよ」
「そんなこと言ってんじゃなくて、俺、見たんだってば」
「お前が来たときみたいに、その日のうちに手ェつけようとしてボコボコにされたとかってんなら話別だけどさ。あれかな、あのふたりも、見てくれによらず強いんかなー、なんてさ」
「ああ、もう!」
 次の瞬間、桃城の世界に派手な火花が飛び散った。
 今も昔も遠慮という言葉を知らない目の前の彼が、身長差をものともせずに桃城を殴りつけたのだ。
「もういい! 俺ひとりで追いかける!」
「お、おい、えちぜ……」
「部長、あっちの見張り台の処で警備役の人たちと話してたよ! 大石先輩が何処にいるかまでわかんないけど。俺が見たのは反対方向へ、まるで人目を避けるように走っていった不二先輩と英二先輩だ!」
「……え?」
「あっちは砂漠へ繋がる道がある。村の厩からは馬が一頭いなくなってるし」
 長期間の移動に強いがスピードのでない駱駝ではなく、砂に強い独特の蹄と灼熱の太陽にも負けない厚い毛並を持ち、砂漠最速を誇る馬を選んだ。
 たぶん、あのふたりは一刻も早くこの村から逃れようとしているのではないだろうか。
 夜陰に乗じ、祭りの喧噪に紛れて。
 このような日だからこそ、警備を厳重にしておかなければと言うのが手塚の考えであったが、祭りの夜に浮かれるのは皆同じだ。
 決して全てに隙がないとは限らない。
「馬で逃げるつもりなら、今から追わないと間に合わない。俺、一頭連れて行くから、桃先輩は騒ぎにならないように、二人に知らせてよ。じゃなきゃ乾先輩に!」
「逃げる……逃げる、って誰が」
「このバカ!」
 血相を変えたリョーマの顔つきに、ようやく桃城の酒精もなりをひそめはじめたようだったが、そのときには少年は踵をかえして、村の入口のほうへと駆け出していくところだった。
「お、おい、待てよっ」
 桃城が呼んだが、時既に遅く。
 カルピンは家にいろ、と叱咤する少年の声と、ほあ、と言う猫の気の抜けるような鳴き声が、遠くの闇の中から聞こえてきただけだった。









 リョーマが辿り着いたとき、案の定村と外界とを繋ぐ例の洞窟の入口は、ぽかりと開いたままだった。
 見張り数人が居たはずなのに、と周囲を見渡せば、どれもこれもみごとに伸びている。
「案外やるじゃん、不二先輩も英二先輩も」
 ここでやはり手塚達を待つべきか、とリョーマは一瞬迷ったのだが、そんなことをしていてあのふたりとの距離がますます開いてしまっては元も子もない。
 そもそも彼らに追いつかねば意味がない。
 自分があのふたりに追いつき、引き留め、何か説得――と、いうほどではないが、なんとか話をしてその気持ちをかえられる可能性だってあるだろう。
 リョーマは馬を引いて、そののちはもうためらわずに洞穴の中へ歩き始めた。馬の方も、盗賊仕事のおりに何度となくここを行き来しているせいか、狭い暗い場所に引っ張られてもいやがる素振りは見せず、おとなしく付いてきている。
 ほどなく彼は洞穴の向こう、一面の砂の海、死の砂漠へと到達することが出来た。



 夜の砂漠は美しい。

 闇の天蓋はびっしりと星々をかざり、憂える姫君のような青白い月が、埃っぽい黄砂の海をひととき幻の黄金の大地に見せる。どこまでもどこまでも渡りゆけば、やがて昔話に聞く黄金造りの国へと辿りつけるかもしれない。

 確かにそれは愚にも付かぬ幻想で、時間かが経てばやはりそこは乾きと熱に満ちた死の大地へとふたたび変貌する。しかし夜と月光というものはまことに不思議なもので、そのような愚かな夢をすら、真実であるかもしれぬと思わせる何かがあるのだ。



 その幻想的な砂漠の中に走り出た少年は、目前の美しい光景にばかり気を取られることはなく、ぐるりと周囲を見回している。
 馬の足跡らしきものを途中までは追ってきたのだが、この夜には珍しく少し風がふいていたせいで、途中から蹄のあとは砂に埋もれてしまっていたのだ。
「まいったな……」
 つぶやく少年の肩の上で、結局付いてきてしまった仔猫がほあっと鳴く。
「カルピン。お前、英二先輩達の行った方向判る?」
 冗談で聞いてみたのだが、カルピンは存外真面目にふんふんと鼻を鳴らし、きょろきょろと視線を動かした。
 が、しかし、ひょうと風が吹いた拍子にくしゃみをひとつしたかと思うと、困ったような、すまなそうな小さな鳴き声を上げただけだった。
「――そりゃ、判るわけないよなあ」
 悪かった、と言うつもりで、少年は仔猫の喉をくすぐってやる。
 どちらだろう。
 どの方向へ、あの綺麗な踊り子達は逃れ出たのか。
 騎乗する人間のあせる気持ちを察してか、ぶるる、と馬は落ちつきなく首をふった。
 そのときである。

「どこ行くんだ」

 ふいに声がかけられ、リョーマはぎくりとそちらを振り返った。
 砂漠の中。
 四方八方、誰もいない月の砂漠のただ中だ。
 リョーマの村を隠す巨大な岩山も、遙かに遠くなっている。
 遮るものとてない砂漠の中、その声は唐突に響いた。
「どこ行くんだっつって聞いてんだよ、ったく、どこ向いてやがんだ、ああ?」
 どこか人を小馬鹿にした、なんだか奇妙に色気のある声だ。他人を斜めに見下し、ふんぞりかえって話しかければ、こんな声の調子になるだろうか。
 それでも声の正体がつかめず――と、言うより周囲には何も、そんな言葉を発する人影どころか草一本の影さえない。
巨大な月の照らす砂漠の中で、リョーマは油断なく馬をおり、懐に隠した短刀にそっと手を伸ばす。
 と。
 ぽう、と。
 砂漠の中に、華が咲いた。
 いや、それが巨大な華と見えたのは一瞬だけである。
 深紅の薔薇のようなそれは、月光の空間を切り裂く勢いで現れ、巨大に花開き、ゆらりと妖しく揺らめいた。
 そう。それは、人の背丈ほどもある、巨大な火柱だった。
 オレンジの明るさや、白く飛び散る火の粉などとはまったく無縁のような――ただ赤い、血のような赤の焔。
 唐突に現れたそれがほんの少し色を薄れさせたと思うと、ひときわ大きく揺れ、そしてまた、唐突に小さくなった。
 炎はたしかにその一瞬にしぼんだのだが、どうしたことかいまのいままでその炎があった場所に、一人の青年が立っている。
「よう、チビ。どこ行く気だ」
 すらりと長身のその青年は、傲岸に腕組みし、驕慢に肩をそびやかせ、そして、世にもあだな色香を振りまきながら、佇んでいる。
 薄紫のうすものをふわふわさせながら身体にまとい、見事な黄金色の布を片方の肩からかけ下ろして身体全体に巻き付けている。腕飾り首飾り額飾りは全て、細かい細工の為された深紅のもので統一されていて――ひとことで言ってしまえば、場違いなほど「派手」であった。
 確かにその青年は素晴らしい美形で、目元の泣きぼくろが何やら妙な色気を醸し出していたが、それにしても。
「突然現れて、そんなこと尋ねられても」
 リョーマはその愛くるしい双眸を少し見開いた以外はさして動じていない表情で、しかし内心は相当面食らいながら、まったく当然であろう感想を率直に言った。
 ふん、と鼻で笑ったその青年の足下には、まだ赤い炎がゆらゆらとしている。どうもこれは普通の人間ではないかも知れない、とリョーマはますます警戒心を強める。
「それより以前にアンタ誰」
「名乗る必要はねえ」
 ふてぶてしく腕組みをするとその美しい青年は小馬鹿にしたように笑った。
「それよりおまえ、ガキども追いかけてんだろ。片方は、金目の」
「――なんで知ってんだよ、あんた何者」
「どうでもいいだろ、そんなことは」
 青年は下らないことを聞くなと言うように、さらに肩をそびやかした。
「金目のチビならこっちだ。北極星の方向」
「――」
「オアシスがその方向にある。不二はその途中の、ちょっとした岩場でヘタってる。他に間違うようなトコもないから、さっさと行ってやれ」
「だから」
 リョーマはぎっと青年を睨む。
「アンタは誰だって聞いてんのに」
「うるせえぞ、チビ。この俺様が珍しく親切に助言してやってんのに」
 いきなり奇天烈な現れ方をして助言も何もないだろうに、と言いたげな少年のことを、面白そうに見やっていた青年だったが、彼はふと笑むのをやめた。
「おい。早く行ったほうがいいぞ」
 彼自身が指し示した北極星の方向を、遠くに見はるかすような目をして。
「どっかの騎士隊が近づいてる」
 ぎょっとしたようなリョーマの表情を見やりながら青年は真面目に言った。
「このままだと金目のガキと鉢合わせする。そうしたら、まずいことになるんじゃねえか」
「――英二先輩……」
 リョーマは思わず青年の視線の方向を凝視した。
 そこは静寂の砂漠だ。人影もなく、人の声もしない。
 星は天を飾り、月は青白いおもてでこの大地を見つめている。
「――」
 どうしたものか、とリョーマは悩み、もう一度青年の方を振り返ったが――しかし、もうそのときには青年の姿は消えていた。
 現れたときと同じように、唐突に。
 突然に。
「……なんだよ、あれ……」
 たちの悪い魔物にでもひっかかったか、と目を瞬いて、もう一度周囲をあれこれと見回してみたが、そこはやはり美しい死の砂漠の光景しかなかった。
 あの、いかにもあやしい青年の姿など、もう何処を探してもなかった。










「いたた……」
「不二、不二、大丈夫?」
 リョーマが不思議の美青年と遭遇する、少し前のことだ。
 砂漠の村から逃げ出した踊り子の二人は、砂に投げ出された身体のあちこちをさすりながら月光の中ようやく身を起こしたところだった。
「いた。もう、あの馬、何なの」
「あんなに強い馬、初めてだねえ」
 呑気に言う英二の側で不二はようよう立ち上がった。
 あの村から連れ出した馬を操ってここまで来たのは良いのだが、馬は普段おのれに乗り付けない、乗り慣れない人物、そうしてその人物の妙なあせりを見抜いたのか、二人を乗せたまま走り続けるのを途中で拒んだのだ。
 目印の岩を発見したことで安堵したのか、少し力を抜いた二人の少年のことをたやすく見計らって馬は彼らを振り落とし、もと来た道を駆けて行ってしまった。
 砂漠の中の小さな岩場を目印にやってきていたふたりは、そのすぐ近くで放り出されたことをせめてもの僥倖として、とりあえずそこに移動することにしたのだ。
 こんな小さな、人間の背丈くらいの岩が七つ八つ重なっているだけの岩場でも、そちらのほうが、砂の海のただなかよりも休憩場所として相応しいように思えるから不思議なものである。
「あーあ、荷物持っていかれちゃったね」
「まあ、仕方ないよ。もう少し行けばオアシスがあるっていうし、そこでどうにかしよう」
 不二は無意識のうちに、腰のサッシュの中にしまい込んである例の美剣の存在を確かめながら、そう言った。
「ほんの少しなら食べるものもあるし。水だけの問題ならオアシスに辿り着けばいい」
「うん」
 英二は返事をしながら、まだ馬の逃げ去った方向を見つめている。
 いや。
 彼が気になるのは、馬ではないだろう。
「英二」
「――」
「英二、仕方ないことなんだよ」
「――」
「僕たちのことに、あのひとたちを巻き込むわけにはいかないんだ」
「――……」
「英二が寂しいの、よく判ってるよ。でも考えてみて。兄様のときでもうよく思い知ったじゃないか。大石を同じ目にあわせたくないなら」
「わかってるよっ!」
 英二は、大きな声で不二の言葉を遮った。
「――よく判ってる。……言わなくていいから」
 英二は不二に背を向けたままだ。
 小さな肩が震えているし、手は固く握りしめられている。
 しかしその手がふっとゆるんで彼は今度は胸元の何かを握りしめているようだった。
「俺ちゃんとわかってるから……」
 英二、と呼びかけようとした不二は、しかし口をつぐんだ。
 彼が握りしめているのは大石が彼に贈った象牙のネックレスだろう。
 英二はそれだけは持ってきたがったのだ。
 舞の対価としての金銭と、最低限の衣服以外は、持ち出すことを不二は良しとしない。今まで僅かに滞在した場所でも、このような贈り物の類などは持たずに旅に出たものだし、英二もその通りにしてきた。
 しかし今回だけは英二は頑として譲らなかった。
 よほど大石から離れがたく、別れが辛かったのだろうと不二は察して、その素朴な象牙の首飾りについては彼の好きにさせた。
 それ以上我が儘も言わず、不二についてきた彼のことは可哀想で仕方なかったが、それでもあれ以上同じ場所で暮らして、そこの住人に迷惑をかけるわけにはいかない。
(あいつに殺させるわけにはいかないんだ)
 不二は自分にも言い聞かせるように軽く首を振る。どうしても思い出してしまう青年の面影を振り払うように。
「英二、とにかく少し大変だけど、せめて温度が上がる前に、水のある場所に移動しよう」
「――ん……」
「さ。早く。ちょっとでも」
 遠くに、と言いかけた不二の動きが。
 唐突に止まった。

「不二?」
「――」
「不二。どうしたの」
 不二は応えず、さりとて動きもせず。
 何事かと息をのんで見守る英二の耳に、次の瞬間、ぱきん、と固いものが割れる音が届いた。
 それは不二の耳飾りの片方が、唐突にひび割れた音だった。
「不二っ!?」
 英二が叫ぶと同時に不二は冷えた砂の上にどさりと倒れた。
 不二は倒れた直後、びくびくと身体を震わせるとまた硬直し、そうして次の瞬間、口から大量に血を吐いたのだった。
「不二……っ!!」
「い、痛い……いたいっ」
 英二が慌てて取りすがると、不二は己の胸をかきむしるような仕草をして身体を突っ張らせ、また小さく丸まって、苦しげにのたうち回った。
「不二、不二っ!!」
「あ……あ、あ、ああ……っ!!」
「不二、あいつ!? またあいつなの!?」
 びっしりと脂汗を額に張り付かせ、不二はようやくこくりと頷いた。しかしまた次に、激烈な苦痛が彼を襲ったと見え、いやな泡音をたててまた血を吐き出す。
「あいつ……あいつっ!!」
 不二は白い片手で砂をかきむしり、もう片方で自分の喉や胸元を叩きながら、あまりの激痛に涙を流して叫ぶ。
「あいつ……自分で……っ!」
「不二!」
 英二はなんとか不二の症状をおさめようとしたが、もがく彼にすがりつく以外、どうにもできない。
 ひゅうひゅうと風のような音をだして喘ぐ彼に、せめて水を含ませてやろうと思うのだが、その肝心な水はここにはない。
 出来るだけ身軽にと言うつもりだったから、かさばるほど食料も水も持ってきていなかった上、そのほとんどはさっき逃げ出した馬にくくりつけてあったのだ。
 ここから北極星の方向に半日行けばオアシスがあるのだ、ということを、英二は大石に聞いて知っていたし、自分たちもそこへ向かうつもりでいる。
 彼のことを思い出すとまだ胸がずきずきと痛んだが、今はそれにかまけている場合ではない。
「不二、待ってて」
 英二は何事かを決意して立ち上がる。
「俺、水持ってくる。走っていくから、明日の朝までには帰るから」
 いけない、と不二は言おうとしたが、さらに血泡を吐き出しただけだった。
「走っていくから、大丈夫。待ってて」
「英二」
「すぐ帰る。ほんとにすぐ帰ってくるから、待っててね」
「だめ、英二」
「大丈夫だよ」
 英二は自分の手首からコイン飾りのブレスレットを外すと、不二に持たせる。
「気休めぐらいだけど、これ持ってて。ちょっとはマシになるかも知れない」
「え」
 英二、と呼びかけようとしたが、また激烈な痛みが身を焼いて不二は引きつった。
 それを見た英二はますます一刻の猶予もならないと思ったのだろう、不二の髪を幼い手つきでひと撫ですると、さっと離れる気配がした。
 さくさくさく、と身軽に砂を踏む音が遠ざかっていく。
 英二が自分の身体から外したブレスレットを握りしめると、確かに一瞬痛みは和らいだが、すぐ波のように強烈な痛みがうねりとなって襲ってくる。
 痛みのせいで、動くこともままならない。
 大丈夫だからとあの子を引き留めることも出来ない。


「どうしてなの」
 激痛の合間に不二は呟く。
 吐息も、その言葉さえも、血の匂いがする。
「どうしてこんなに僕を苦しめるの」
 答えの代わりのようにやってきたさらなる激痛に身を引きつらせ、不二は苦し紛れに砂の地面を叩き、かきむしり、岩に拳を打ち付けて血を流しながら、悲痛に叫んだ。

「どうしてそんなに僕が憎いの、佐伯……っ!!」


 そのまま彼の意識はふっと遠くなる。
 この激痛のことを思えば、素晴らしい福音のようなその無意識の闇に完全に陥る前に、不二は遠くから自分を呼ぶ声を聞いた。









「北極星、北極星……」
 ひとりごとのように呟きながら、英二は夜の砂漠の中をよろよろと走っていた。
 昼間の焼け付くような暑さがないだけこうしていても体力の消耗はましなのかもしれなかったが、それでも砂漠の夜は恐ろしく冷え込む。
 踊り子の衣装のまま、あとは粗末な麻のマントをまとっただけの身体には、少し過酷であったが、それでも彼は不二の為に走る。
「こっちで……いいのかな、いいんだよね」
 首から下げられた白い象牙のネックレスをぎゅっと握りしめながら、英二はひとりごとを言った。
 今頃、大石は自分がいなくなったことに気づいているだろうか。
 どんなに驚いていることだろう、と考えると、それだけで何か涙がにじんできそうだ。
(俺には、優しかったのに)
 不二は、『彼は本当は恐ろしい人間だと思うよ』と意味ありげに言ったことがあったが、それでもそんなことは信じられない。
(俺にはほんとうに優しかった)
 不二の言うとおり本当に大石が恐ろしい人間だと言うなら、自分を追ってきて強引にでも捕まえてくれればいいのに、と思う。そのまま犯されたり殺されたりしたとしても、その相手が大石なら、よっぽどそちらのほうがいい。
(どうせあのまま北の国にいたとしたって、俺、殺されるんだったし)
 それならいっそ、と考えていると、結局涙はじわりとにじみ、たちまち溢れた。
 しかし今はそんなことを考えている場合ではないのだ、と自分に再度言い聞かせて英二は健気に砂を踏みしめる。
 そのときだった。

 突然、英二の目の前に火柱が立った。
 人間の背丈ぐらいの深紅の焔。
「よーう、金目の仔猫ちゃん」
 炎の中から現れ出たのは――そう、先刻、リョーマの前に唐突に現れ、ふたりの踊り子の逃れ去った方向を教えた派手派手しい青年である。
「跡部!! 何しに来たんだよっ!」
 英二は怒れる仔猫そのままに金色のまなこをつり上げると、普段の彼からは想像も付かないような激しさで彼を罵り、砂を掴んで投げつけた。
 砂粒は青年に届く前にふっと消える。
「おーおー、相変わらず手癖の悪ィガキだな」
「うるっさい、いっつもいっつも肝心なときに来やしないくせにっ!」
「おいおい。おまえ、あの大石とかいう男の前ではしおらしくカワイコぶってたくせに、俺んときはずいぶん跳ねっ返りじゃねえかよ」
「お前にだけだ、バカヤロ! 不二はこういう言葉遣いしたら怒るからしないだけだっつーの!」
「ほんっと色気もクソもねえ」
 ふふん、と鼻で笑って怒れる仔猫をいなし、『跡部』は言った。
「そんなんだから不二が一人で、お前の分も引き受ける羽目になったんだよ」
 再度、砂をぶつけようとした英二の手がぴたりと止まる。
「そうだ、不二……! 跡部、不二を助けてよ、すごく苦しんでるんだ、きっとまた佐伯に……っ!」
「その名を口に出すな」
 『跡部』は静かに、しかし厳しく言い放った。
「金瞳があれの名を口走るな。――わかってんのかクソガキ。お前がそういうふうにいつもいつもバカみてぇに迂闊だから、こっちまで苦労すんだ」
「いいから不二を助けてよ! お前ならなんとか出来るだろっ!」
「マスターでもねえ奴の言うことなんか聞く義理はねえな」
「そのマスターの言うことだって聞かない奴が、ふざけんなっ! 不二が死んだら困るんじゃないのっ」
「まあ、待て。――心配しなくても不二は死にやしねえよ。腹ん中焼けただれてるだろうが、まあ一時的なもんだ、あっという間に治る」
「で、でも……」
「あいつがご寵愛の不二を死なせるわけねえだろ。ま、ちょっとした悪戯……っつうか、ちょっかいのつもりなんじゃねえの」
「ちょっとした、って!」
 英二は再びきりきりと眉をつり上げた。
「血ィ吐かせて苦しませてんのが、ちょっとした悪戯かよっ!」
「ああ、もう、マジでうるせえ。ちっとは見られる顔になったと思ったのに、中身はガキんちょのまんまかよ。せっかく、いいこと教えてやろうと思ってきたのに」
 少し苛々したように『跡部』は言ったが、ふいと逸らした視線が地平線の向こうを睨みつけた。
「――おい、金目のチビ」
「うるさいってば」
「くだらんこと言ってる間に来ちまったぞ。人がせっかくお膳立てしてやろうと思ったのに、お前が喚き散らすからパアだ。知らねえぞ、ったく」
 何のことだ、と文句のひとつも言おうとしながら、英二の視線もまた『跡部』にしたがってそのあとを追う。
「――なんだよ、なんも見えないし」
「もうすぐだ。――ほら、来ちまった」
 そう言う『跡部』には、彼らの背後から近づく一騎のことも十分見えていただろう。
 自分がここへ導いた、仔猫を肩に乗せたあのちいさな少年。
 距離としてはちょうど半々。
 あの少年が此処に辿り着く頃には、地平線の向こうからやってくるそれらも、この金瞳の少年の元に到着しているだろう。
 鎧をがちゃがちゃ言わせ、馬の足取りも見事に揃った、その一隊。隊によって銀の鎧と黒の鎧で分けられているが、色は違えども素晴らしいまでにその足並みは乱れない。
「何――何が、来るの」
 地平線に現れた不吉な黒い一隊をようやく目にすることが出来た英二が、不安そうに『跡部』を見る。
 彼は厳しくそちらを睨んでこう答えた。

「西の国の騎士団だ」





 



 
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