「不二」

 誰かが呼ぶ――呼んでいる。

「不二。……不二、しっかりしろ。苦しいか」

 苦しいに決まっている――そういいかけたが言葉にならず、枯れた風のような息が唇から漏れただけだった。


 唇に何か、柔らかいものが当たった。不二の地獄のような渇きを察したかのように、ゆっくりと水が注ぎ込まれる。それを嚥下していると、不思議と痛みが遠ざかり始めた。
「大丈夫のようだ、手塚。思ったより顔色がよくなってきている。――これだけ吐血すればもう息絶えていてもおかしくないが――しかし、呼吸も悪くない。案ずることもあるまい」
 もうひとり。聞きなれた声がする。
「しかし、なんとか騒ぎにならずにすんでくれればいいが。――あとは桃城に期待するしかないか」
「――」
「無傷、とまではいかなくともあのふたりさえ帰ってくれれば、なんとか言いぬけられる。さもなきゃ君たちの立場が悪くなるだけだからな。いや、それだけ、というわけではないか」
「――そうだな。俺たちのことはともかく、村の中に無用の混乱が起こることは避けたい……不二、ああ不二、気がついたか」
 うっすらと目を開けると、目の前に手塚の端正な顔立ちが見える。
 彼は本当に嬉しそうに、ふだんの仏頂面からは想像もつかないような優しい顔で不二を覗き込んでいた。自分はその彼の腕にしっかりと抱え込まれていて、どうやら先ほどの水は彼が含ませてくれたようだ。
「て……」
「もう大丈夫だ、不二」
 彼の手は、多少不器用ながらも優しく不二の髪を撫でた。
「まだ苦しいか。水ならここにある。もう少し」
「英二は何処だ、不二」
 手塚のいたわるようなささやき声に厳しい声音が重なった。
 乾だ。

「英二は何処に行った。――それから、お前たちを追ってきた越前は」
「……」
「答えろ。――事と次第によっては容赦しない」
「乾」
 手塚が顔を険しくした。だが乾は一蹴した。
「村の命運がかかっている。君の感情よりも、俺にはそちらを優先する義務がある。答えろ不二。英二はどこだ。そして君たちはどこへ行くつもりだった」
「――……」
 不二は、乾に応じようと口を動かしたがやはり喉がひりついて言葉にならない。手塚があわてて口元に水を差し出してくれ、それでようやくかすれながらも声が出た。
「英二――は」
「ああ」
「オアシスに」
「そうか。では越前もそちらへ向かったか。桃城の読みどおりだな」
 手塚は優しく答えたが、乾はまだ沈黙を保ったままだ。彼にはまだ許す気がないと見た不二は、必死に声を振り絞った。
「にげた、のは」
「――」
「まきこまない、ため」
「――……巻き込む……?」
 手塚は訝しそうに眉を潜めた。しかし腕の中の不二がさらになにか言おうとして咳き込み、さきほど呑んだ水と、また多少の血を吐き出したためにあわてて彼を抱えなおした。
「もういいだろう、乾」
「――」
「お前の言うことももっともだ。だがこれ以上はもう無理だ。お前の見立てが正確なら不二の体の中は毒か何かで焼け爛れているということだろう。もう十分だ、この上しゃべらせることなど出来ない」
「――」
「不二には――不二たちには何か事情がある。巻き込まないためだと言うのなら、それはきっと俺たちを慮ってのことで、それさえ判ればもう十分なのではないか」
「……」
「それともこれ以上不二に無理を強いるというのか」
 それならば自分も黙ってはいない、と手塚は乾を睨む。
「君ともあろうものがね」
 乾は揶揄の声色さえ混ぜず、淡々と言い放った。
「手塚国光ともあろうものが。その名を知られた青き剣聖ともあろう男が」
「――」
「たいした骨の抜かれっぷりだ。本当にその子を妻にでも迎えかねないな」
「……」
「まあいい。確かに君の言うとおり、これ以上はどうしようもないな」
 手塚の顔がますます険しくなりはじめたので、乾はようやく口元を緩めた。まだ冷笑の域を出ていなかったかもしれないが、確かにそれ以上不二を追求しようと言うつもりはないようだった。
「とにかく、まず不二は無事に――とは言いがたいが保護できた。これはこれでよしとしよう。あとはなんとか桃城が首尾よく、彼らを連れ戻してくれれば……」
「――」
「手塚?」
 乾は、手塚が不二を抱えたまま、自分のはるか背後の空を凝視しているのに気づいて、その視線を追う。

 いちめんの空――砂漠の夜空。
 闇にちりばめられた宝石のような星が、ちらちらと瞬く。
 その中の見慣れぬ物に、乾も気づいた。

「あれは……」
 夜空に、一筋の細いもやが立っている。
 それは何某かの煙に似ている。細くたなびき、今宵は風もない砂漠の中でひと筋にまっすぐ空へと駆け上っていく。
「なんだ、あれは」
「狼煙だ」
 低い声で手塚が答えた。
「――……狼煙?」
「ああ」
 答えた手塚は、知らず知らず腕の中の不二を抱きしめる。
「西の国の騎士たちがよく使う――合図だ」








「バカだ。あいつ絶対バカだ」
「そういう言い方ないんじゃない、おチビ」
 ぶつぶつと呟き続けるリョーマに、英二は小さな声でたしなめる。おたがい同じ馬上に乗せられて、きっちりと絹紐で両手を結わえられたままだ。
「せっかく助けにきてくれたのに」
「だからバカだって言うんだよ、この状況で『助け』られると思ってる、その思考回路が救いようのないバカなんだからっ」
 吐き捨てるように言う、その言葉に英二も黙った。
 夜の砂漠。
 月の灯りで不思議な明るさに満ちている砂の海。
 漆黒と白銀に塗り分けられた鎧に身を固めた騎士団は、みな不気味な沈黙を保って、突然の闖入者を半円に囲んでいる。
「てめぇらっ、俺んちのをどうしようってんだっ!」
 勇ましい馬の嘶きとともにこれまた猛々しく叫び上げた桃城に、騎士団の誰もがひとことも返さなかった。
「――おい、なんとか言えっ! ……って、おい、越前! 英二センパイもっ! なに捕まってんだよっ」
「いいから早く逃げてよっ」
 リョーマがたまらず叫び返したが、桃城はきびすを返す気配もない。
「ああ? なんの為におまえ、ここまで走ってきたと思ってんだよっ! お前ら連れ戻してこいって言われてんだからなっ」
「無理だよっ、俺たちのことはどうにでもなるから、桃センパイは早く逃げてっ」
「そこで逃げちゃあ、男がすたるってもんだろ」
 片手で器用に馬の手綱を引き、桃城は背中の曲刀をすらりと抜いた。
「おい、おまえら。何処の連中かしらねえが、人様んちのもんに手を出すたあいい度胸だぜ。とっとと返しやがれっ」
「――盗賊の言う台詞か、それ」
 リョーマはぼそっと呟いたが、どちらにしても桃城の身が危ないことには変わりない。ひとりふたりならどうにでもなるかもしれないが、これではまさに多勢に無勢だ。
 騎士団の陣形は半円で、まだ完全に背後まで囲まれていないのだから逃げ出そうと思えば逃げ出せる。
 そう思って、リョーマが再度叫ぼうとしたときだった。


「あっれー、キミこないだの」
 場違いなほど、のんびりした声がした。
 千石、と名乗った先ほどの――おそらくはこの騎士団の統率者。
「どっかで見たなあと思ったら、へええ、偶然だねえ」
「ああ?」
「ほらほら。俺のこと忘れたー? あっちのほうの交易都市でさ」
「知らねえよ、おまえなんか」
「んなことないよー、俺覚えてるもん。君のその、青い房飾りのついた曲刀。――ほらほら、俺とキミとで、仔猫おっかけまわしたの、覚えてなーい?」
「仔猫……?」
「キミ、かみさんの機嫌取りにいいとかなんとかで、俺と仔猫一匹ずつわけっこしたでしょ。溝の中泥だらけで這い回ってさあ」
「――……あ」
 それで、ようやく桃城は何かを思い出したらしい。
 ぽかんとした顔つきで、目の前の男を指差した。
「あんた……あん時の」
「そうそう。いやー、偶然だねえ」
 ひらひらと手を振ってみせる男に、桃城は一瞬気を緩めかけた。――が、それも、本当に一瞬のことだ。彼の目には、縛り上げられて連れ去られようとしている、二人の少年が見えていないわけがない。
「偶然はともかく。――そいつ、うちのなんだよ。返してくれないか」
「そいつ? ああ、えーと、金瞳ちゃんじゃないほう。こっちの子だよね。へえ、キミの大事な可愛い子ちゃんはこの子だったの。うん、なーるほど」
 千石は何が嬉しいのかにこにこしている。
「確かに可愛いもんね。――うんうん、手放しがたくなるのはよーく判る。ちょっと生意気そうな顔つきがいいよね。どうやって可愛がってやろうかとか、ちょっといじめっちゃおうかなー、とか思うもんねえ。うん、やっぱ俺がもらうことにするわ、この子」
「……おい」
 桃城が険しい声で言うのに、千石は飄々とした表情を崩さず――。
 うっすらと、その目だけを見開いた。

 その――凶光。

 穏やかな目の光に、いつの間にとって変わったか。
 物柔らかな、つかみどころのない飄然とした眼差しであったからこそ、その変貌は鬼気迫るものがあった。にこにこと笑う口元も、その眼光の風合いが入れ替わっただけで、悪魔の笑みにも似ている。
 さすがに、桃城が一瞬気おされた。

「そう。――そうだったよな、俺としたことが」
 千石は、ゆったりと言い放った。
「――青の房飾りのついた曲刀。それで気づかなきゃだめだったよ」
「――」
「悪名高い砂漠の盗賊団。――はは、そうか」
 千石は馬を数歩進めた。
 一対一で、桃城と対峙する。
「じゃあ、遠慮はいらないな」
「……」
「ここで死んでもらおうかな」
 千石の手が。
 ゆっくりと剣の柄にかかる。
 桃城も抜き放った曲刀を、構えなおそうとしたときだった。


「おふざけはそこまでにしてもらえますか」
 今の今まで、一声も発しなかった騎士団の奥のほうから、そんな声が聞こえる。低い、まだ年若い青年のような声だ。
「――おふざけじゃないよ」
「じゅうぶんふざけてます。アンタが出るほどのことじゃない、たかが盗賊ひとりに」
「盗賊、ったってさ」
 千石は、自分の背後を見やってそう応じた。
 同じような鎧の騎士たちばかりで、しかも兜の面覆いをみな降ろしてしまっているものだから、千石が誰に話しかけているものか、また騎士たちの誰から言葉が発せられているのか、桃城はもちろん、すぐ近くにいるリョーマや英二たちにもわからない。
「あの盗賊団って、剛の者が多いってうわさでしょ? 俺、一度戦ってみたかったんだよ。せっかくだし水ささないでー」
「なんにでも首つっこみたがるのはアンタの悪い癖です。総団長代理が軽々しく出てちゃあ、また大和さんに説教くらいますよ」
「黙ってたらわかんないじゃん」
「そういうことじゃないっス。――いいから、お前ら、行け」
 声の主の指示もまた、騎士たちにとっては絶対のようだ。
 何人かが馬を操って前に進み出、桃城の正面、そして左右に陣どる。
「早く片付けろ」
 不機嫌そうな、低い声が命じた。
 と、それまでほとんど人がましい動きを見せなかった騎士たちが、驚くべき速さで剣を抜き、ほぼ同時に桃城に切りかかる。
 騎士たちと違い桃城は身を護るべき楯を装備していない。どちらかは剣で応じられても、いずれかの剣を体に食らう羽目になる。
 その場に居たほとんどの人間がそう思ったろう――リョーマと千石、そして桃城自身を除いては。
 剣が振りかぶられた瞬間、桃城の左手はこれまた恐るべき速さで剣の鞘を引き抜き、左側から切り込んできた騎士の刃を跳ね除けた。右方は、相手との間合いをちらりと見た一瞬にもう勝負が決まっていたようなものだ。
 左手の鞘で刀を跳ね除ける。右手の曲刀については、それ以上に単純な、前方から右後方へと薙ぎ払うひと動作だけであった。
 だが刮目すべきは桃城の豪腕である。常なら、そのあまりにも単純な一の太刀などあっと言う間に受けられ、流され、返されるだろう。事実、騎士たちもそのつもりであったのだが、彼らは三騎ともあっと言う間に、馬上からさえはじき飛ばされた。
 受けることもできずに押し切られてしまう桁外れの力の太刀筋など、騎士たちの日々の鍛錬の中でも、範疇外、予想外だったのだ。
 気合の大音声とともに一瞬して決まってしまった勝負に、騎士団の中から微かなどよめきがもれた。桃城は馬上から、少しの息も切らさず、まだ呆然とした騎士たちを傲然と眺め回す。

(――本当は)
 本当は斬って捨てるつもりだったが。 
 鎧を着込まれていては、そうもいかない。今のように叩き落すのがせいぜいだ。桃城の愛刀は相当に作りこまれ、また鍛えられてはいるものの、鉄鎧を相手にしてはどこまで刃こぼれせずにいられるものか。
 確かにこの場をなんとかして切り抜け――二人の少年を連れて無事戻るというのは、なかなか難題のような気がしてきた。
 千石は相変わらずにこにこしている。桃城は内心の焦りを隠し、精一杯の強がりで言った。
「いい加減にへらへら笑うのやめて、来るんだったらアンタでもいいんだぜ」
 やっぱりねー、そうだよねえ、などと言いながら、千石は今度こそ剣の柄に手をかけ、すらりと抜き放った。月の光によく似合う、死の銀色だ。
「千石サン、いい加減にしてください」
 また先ほどの声がする。相当苛立っているようだ。
「だって、今の見たでしょう」
「見ましたよ」
「やっぱ此処は、俺が行かなきゃだめなんじゃなーい? 部下たちの手前さ。やっぱりこういうの、団長は自分から率先していくもんだよ」
「――ああ、判ってますよ。だから」
 かちゃ、と鎧のこすれる音がする。
「俺が行きましょう」
 騎士たちが無言で道を開ける。
 そこへ、一人の青年がゆったりと馬を進め出てきた。
 漆黒の鎧を身にまとい――そして千石と同じように、たいそうな装飾のついた肩布を長く翻らせている。兜はつけていなかったので、その顔立ちが月の光にはっきりと浮かんで見えた。
 きつい眼差しの青年である。笑うことなど知らぬのではないかと言うような顔立ちは、整ってはいたがずいぶん何かに怒っているようでもあった。
「それこそキミがいくほどのことじゃないんじゃない?」
「……だったらなおさら、アンタの出る幕じゃない」
「うわー、なにそれ」
「俺で十分だって言ったんです。――おい、そこのおまえ」
 青年は、ぞんざいに桃城に言い放った。
「――なんだよ」
「馬から下りろ」
「なんだと、てめ……!」
「俺も降りる」
 そういうと、彼はさっさと己の馬から飛び降り、手綱を部下らしいひとりの騎士にあずけた。
「おいおい、騎士さんよ。なんの真似だよ」
「盗賊ごときに、俺の馬を傷つけられるわけにはいかないからな」
「――ああ?」
「地に足をつけて戦うほうが俺の好みだ。……それとも、お前はずっと馬に乗っておくか。そうだな、そのほうが、いざというときにさっさと逃げられるか」
「なんだと、てめえ」
 挑発にいとも簡単に乗り、馬から飛び降りた桃城の耳に、リョーマが何か叫ぶ声が聞こえた。「逃げろ」か、「バカ」か、どちらかであろうと、妙に冷静に桃城は考えた。
 青年は黙って剣を抜いた。その印象からは少し意外な感もする、細い、そしてやや長い刃渡りの剣であった。
 そして――その剣の刃は、黒い。
 月光の具合かと目を見張ったが、確かに漆黒の刃だ。
 だが月の光をはじいてきらめくさまは、それがまさしく人を殺傷するためのものだという証のようである。
「さっさと終わらせるぞ、盗賊。お前にのんびり付き合っているヒマはない」
「盗賊盗賊とうるせえぞ。桃城、っつーいい名前があんだよ、俺には」
 減らず口を叩いてにやりと笑って見せたが、対峙する青年はまったく、何の感情も見せなかった。
 表情も変えない。


「――西の国、第二騎士団長」
 ややあって、青年は低い声でそう言った。
「海堂薫」



 それで名乗りのつもりだったのだろう。青年――海堂薫と名乗った青年は、ゆっくりと黒い刃をかざしながら、桃城の前に立ちはだかったのだった。






 



 
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