月はいよいよ照り映える。 いかに砂漠が荒涼として、また先も見えぬほど広大であろうとも、地上に存在するひとつの場に過ぎぬ。だというのに、どうしてこうも人の世ならぬ、なにかしらまったくの別世界を目の当たりにしているような感覚にとらわれるのだろう。 月光に満ちる砂漠は美しい。――かつて渇きに苦しみながら彷徨ったのも、こんな月の夜の砂漠だったか、とリョーマは思い出す。 逃げて。 逃げて。 逃げろ、早く。 ――おまえだけでも。 あの声を背に、ただひとり砂漠に迷い出た。 飛び交う悲鳴や怒号の中、炎をかいくぐりながら逃れでた先の砂漠は――月の光に満たされたその世界はあまりに美しく。 その世界に満ちた死と静謐はあまりに安らかで。 こんなに美しい世界ならば、死の国も悪くはないのかもしれない、と。 此処ならば。 此処でならば、と。 あえなく虜となった二人の少年は、絹紐で固く縛り上げられ馬上にいる。その周囲は黒と銀の鎧に包まれた騎士たちが、これも無言のまま取り囲んでいた。どうあっても二人を――特に『金瞳』である英二のほうを、逃すつもりはないらしい。 ひとつところにこれだけの人数が集まっておきながら、そういうとき独特の――押し殺した息遣いだの、なんとはなくに湿った、人の体温に似た生ぬるい空気だの、また遠慮がちに交わされる低いささやき声などがまったく感じられないのは、不思議であり不気味であった。 この鎧の騎士達が、それこそ死の国の住人のようで。 「おチビ、顔色悪い」 英二がそっとささやいて来た。 ほとんどふたりいっぺんに括りつけられているようなもので、小さな声でもよく聞こえるのだ。 「大丈夫? ――気分悪いの」 「この状況でいい気分でいられる奴が居たら、お目にかかりたいもんだけど」 リョーマは相変わらずの憎まれ口をたたいた。 「でも」 「嘘だよ。別に、なんともないよ」 「なんともなくないだろ。……気持ち悪そうだよ」 「月の光のせいでしょ。青く見えるんだよ」 そう言って、リョーマは英二からふいと目をそらした。 そうして見つめる先は、騎士たちがぐるり囲んだ砂漠の中の即席の闘技場だ。 そこには漆黒の鎧の騎士、そしていかにも砂漠の民らしい良い体躯の青年が、剣戟を交わしている真っ最中だった。 鋭く、甲高く。 あるいは鈍い。 聞こえてくる音はどれも金属質で、間違いなく剣と剣とが激しく打ち付け合ってたてられる音だ。 ――嗚呼、戦いの音。 だからか、とリョーマは思った。 妙に冷静な、自分の頭の中が妙におかしかった。 戦いの匂い、血の流れる予兆。 死の迫る音。 リョーマが過去の記憶に引きずられたのは、思い出すことも少なくなっていたそれに気を取られたのは、そのせいだったのか。 まだどこかぼうとした思考を断ち切ることが出来ず、リョーマは二人の戦うさまを見つめている。 打ち合い始めてどれほど経つのか。 どうやら青年二人は互いに相手を侮っていたらしい。 所詮野にある盗賊風情――どうせ型通りの行儀の良いなまくら。お互いに抱いていた印象がまるで誤りであったと、互いに気づいてから、さてどれほどになるのか。 数度打ち合い、ひいてはまた踏み込んだ後に、お互いにそれと判るほど顔色が変わり、仕切りなおしてまた数合。 「おーら、どうしたよ、騎士さんよっ」 桃城が悪党面をして挑発する。 「やっぱ馬から下りないほうがよかったんじゃねえ?」 「うるせえよ」 騎士の青年も――ずいぶんと騎士らしくない、よろしくない言葉遣いで応じる。 「貴様こそ足下ふらついてんぞ。とっとと尻尾巻いて帰ってたほうがよかったんじゃねえかよ」 「そりゃあこっちの台詞だぜ、お坊ちゃんよ」 桃城は、もうそうとうに乱れた息をもうひとつ吸い込み――いかにも余裕のある人間のようににやりと笑って見せた。 「お利口さん剣法じゃあ、俺には勝てねえぞ」 「力任せの、アタマのわるそうな太刀筋よりよっぽどマシだ」 「なんだと、この……!!」 もう相当にふたりとも疲れているはずだ。 しかし、分が悪いのはどう見ても桃城のほうであろう。 あの海堂という青年に比べて腕は決して遜色はない。が、周囲をこれだけ敵(少なくとも非好意的である)に取り囲まれていては、たとえ海堂に勝ったとしてもその先のことなど、考えるに恐ろしい。 しかし確かに目の前の彼に勝たねば、わずかの時間さえもないのが事実だ。 固唾を呑んで見守る少年たちや騎士団の前で――直後わずかに均衡が崩れた。 低い叫び声がして、海堂の黒い刃が彼の手から離れた。 桃城が振りかぶられた一撃をすんででかわして刀で押さえ込み、直後弾いたのだ。 海堂が相当疲れていなければこんな失敗はしなかっただろうが、それでも彼は彼である。剣を飛ばされた次の瞬間には、桃城の右手首をめがけて目にも留まらぬ足蹴りを繰り出して、同じように彼の手から剣を飛ばした。 刹那の違いはあれども互いに獲物を飛ばされ、素手で向かい合う。 このまま素手勝負か、あるいは剣に飛びつくか――距離はさほど変わらない。 互いの目線が、剣と、そして相手との間で忙しく行きかい、そしてふたりともほぼ同時に己の愛刀に向かって駆けた。 駆け出すのも、剣を手に構えなおすのもほぼ同時。 ――やはり互角。 仕切りなおしか、と誰もが思った。 そのときだ。 「あーららら」 リョーマの横で声がした。 「やっぱあんがい強かったんだ、彼」 千石、と名乗ったあの男である。ふたりの勝負の行方を食い入るように見ていた騎士たちも、いささかぎょっとして千石を振り返った。 千石は相変わらず飄然とした表情を崩さず、突然馬を下りた。 「だーから俺がいきたかったのになあ、薫ちゃん言うこと聞いてくんないし」 いかにも困った困った、とでも言うように、彼は頭をぽりぽり掻きさえしながら、二人の前へと進み出た。 「やっぱキミ強かったねえ。――えーと桃城クン?」 「まだ勝負ついてませんよ、千石さん」 海堂、と言ったあの青年は、肩で息をしながらぎろりと背後を睨む。 「余計な手出し無用っス」 「いや、そうしたいんだけどさあ。もう時間切れ」 「あァ!?」 「睨まないでってばー。薫ちゃんのギロ目迫力あんだよー? 部下にも怖がられてんの知ってるでしょー?」 「いいから下がっててくださいっ、アンタ邪魔ですっ」 「そうだよ、邪魔なんだよてめえっ」 海堂と桃城、双方から邪魔者扱いされた千石は、肩をすくめて苦笑いする。 「なんだよー、キミたちけっこう気が合うじゃん」 「いいから邪魔っつってんだろっ」 桃城が叫ぶのに、まあまあまあ、と千石は手をあげてみせた。 「いやいや、だからさ」 ふたりの殺気をものともせずその間に割って入り、特に構えるでもなく、ただ何か剣の具合でも点検しようかとでもいうようにすらりと鞘を払い、そして。 「言ったじゃん」 次の瞬間――何が。 起こったか。 「時間切れだって」 彼はただ、海堂と言う名のその騎士の肩を叩き。 何か言おうとする桃城とのあいだに割って入って。 左手で海堂を背後に押しやるように、そして桃城のほうに、何気なく体を向けたように見えた――少なくともそう見えていた。 次の瞬間。 そう見えた次の瞬間には。 千石は、剣を薙ぎ「終わって」いたのだ。 「あれ?」 千石が一瞬納得のいかないような顔をしたのを、海堂は見逃さなかった。なんでこうなったのかわからない、と言いたげな、得心の行かない顔だ。 しかし、何が起こったのかわからなかったのは、桃城も同じだったろう。 「桃……っ!!」 悲鳴をあげたのは、英二だけだった。 「……」 リョーマの唇はかすかに動いた。 それは確かに、呆然とした表情のまま血飛沫を上げて、次には砂の上にどうと倒れた男の名だったか。 「おチビ」 「――」 「おチビ、桃が」 「――」 「おい、おチビってば」 リョーマは唇を食いしばるでもなく、叫んだり泣いたりするのを堪えているふうでもなかった。 ただじっと――じっと、倒れた桃城のほうを凝視している。 さっきまで其処にあった恐ろしいような殺気と緊張はひといきに消えうせ、ひとり残された青年はその気のもっていきどころがないのか、凄まじい目で千石を睨みつけていた。 「千石さん」 「ほんとにカンベンしてってばー。もう帰らないと間に合わないよ。朝に遅れたら総団長ネチネチネチネチうるさいんだからさ」 「――」 「でもあのままだったら、薫ちゃんも怪我してたでしょ。俺戦力削ぎたくないし」 「俺はこんな奴に負けませんでしたよ」 「――本当にそう思う?」 千石の一言に、海堂は反論できず詰まる。そんな彼を見ながら、千石はにこにこと笑って言った。 「ごめんごめん。イジワル言っちゃったねー。俺も総団長の口癖ついちゃったかもだねえ」 その背後に桃城が倒れていることなど――たった今、千石自身が斬った男が、生々しく血を流していることなど、もう忘れてしまったかのようだ。 英二は縛られた不自由な体勢ながら、桃城の様子を見ようと伸び上がったりもしていたのだが、あっという間に丈高い騎士団の鎧の群れに囲まれてしまう。 そのまま騎士たちはゆっくりと、元来た方向へと動き出した。もうここに用はない、ということだろう。 騎士たちはご丁寧に、英二たちが乗せられた馬を真ん中に囲むようにしているものだから、周囲の様子などなにも見えない。まして倒れたままの桃城がどうなっているのかも、うかがい知ることが出来ない。 (不二は――だいじょうぶだったかな) 彼を置いてきた場所からも、これでもうどうしようもないほど遠ざかる。 かと言って自分ではどうすることもできず、離れていく英二は悔しさに唇をかんだが、傍らのリョーマは逆に一言も発しない。 少し俯いていたが――やはり、泣くのを堪えている風でも、ショックを受けているふうにも見えない。 「ねえ、金瞳ちゃん。その子、だいじょうぶそう?」 能天気ともいえる声は、千石だ。 いつの間にか英二たちの隣へとやってきていたらしい。 「ごめんね。キミの大事な人だったと思うんだけど、これも仕事でね」 「――」 「あれ、泣いてないの? もっとべそかいてるかと思ったのに」 英二はぎっとそっちを睨む。答えないリョーマの代わりに、噛み付かん勢いで叫んだ。 「うるさいっ、話しかけんなっ」 「でもま、これからは俺がちゃーんと大事にしてあげるから、身の振り方は心配しないでいいよ。西の国に着くまでよく慰めてあげてよね、金瞳ちゃん」 「うるさいってば、あっちいけっ」 「はいはい、わかりましたわかりました――あれ、薫ちゃんは?」 傍らの騎士が心得て応じた。 「後始末をしてから、しんがりに来られるそうです」 「ふーん。……うん、薫ちゃんのおかげで、ちょっと面目保てたところもあるかな」 「――は。どうか」 千石のひとりごとを聞きつけ、何か命じられるのかと部下のひとりが畏まって馬を寄せる。 それを手で下がらせておいて、千石は胸のうちで呟いた。 最初からまともにあの青年と、同じ条件でたちあっていたら判らなかったな、と。 見ていただけだが太刀筋は見事だった。確かに荒れた、実戦本位のものであったが――何か正式な剣技に倣ったところが垣間見えた。 そのあたりも興味深かったし、なによりも初めてであったときの、あの豪快さと快活さがとても印象に残っている。 こんな立場でなければ、ゆっくり酒でも酌み交わしたい相手だったかもしれない。 そんなことを考えながら、ちらりと千石は少年たちを見やった。 金瞳の少年はもうひとりの少年を気遣っているらしいが、かける言葉が見つからないのか、じっと心配そうに顔を覗き込んでいるばかりだ。 当の案じられているほうはといえば、ただじっと俯いたままで、泣き声のひとつもあげていない。 (本当にどこかで見たような――あの子) 千石が、知らずじっと見つめていたその少年――リョーマは、ふと呟いた。 無論千石にも、周囲の騎士たちにも届かないような微かな声だ。傍らの英二でさえ聞き取りにくい。 「西の、国」 心配そうに身を寄せてくる英二のことに気づいているのか、彼はそう言った。 「行ってやるよ」 少しうつむいているせいで、眼差しは長い前髪に隠れて見えない。 「――後悔すんな、俺を」 ――俺を、「連れ戻した」ことを。 「――……おチビ?」 英二が少年の表情を覗き込もうとしたが、リョーマはただ俯いているだけで、英二の呼びかけにもそのままこたえなかった。 それきり、彼はじっと目を閉じてしまった――月光満ちる砂漠を、まるで見るまいとするかのように。 そうして。 後は死を待つばかりの桃城と――彼を見下ろして一人たたずむ海堂青年が残る。 桃城はもう虫の息だ。本来なら即死していてもおかしくない斬りこまれようだったが、桃城の驚異的な身体能力が紙一重の差で致命傷を避けたのだ。 だから千石は、あのとき微妙な表情をした。確かに体を真っ二つにするつもりで斬り込んだのに、と。 手当てをすれば助かるが――自分にそんな義理はない。 「時間切れ――か」 海堂はそのまま、それこそあとも見ずに立ち去らねばならぬはずであったが、どういうわけかその場を動きがたい。 本来ならばここで相手にとどめを刺してから行くべきなのかもしれない。千石ならそうするだろうし、大和もそう命じるだろう。 しかし先刻の一戦のこともある。あれほど高揚した戦いの、その相手をこんな形で倒したくない。 なにより無抵抗な相手に刃を向けるのは騎士としてためらわれる。 「あとはおまえの運しだいだな、盗賊」 彼は桃城を横目に見ながら、懐から何か小さな筒のようなものを取り出して砂に刺した。中には丸薬のようなものが詰め込まれていて、これには黒い特殊な石を数回打ち付け、その散った火花で燃やす仕組みになっている。 燃やすといっても、炎が起つわけではない。じりじりと熾火のように時間をかけてその丸薬は焼かれ、大量の煙を出して狼煙の役割を果たす。 それを存外几帳面な手つきで仕掛けたのち、彼は落ちていた桃城の曲刀を拾い上げ、横たわる彼のすぐ隣に置いてやった。彼なりの情け、または敬意であるのだろう。 去り際、その柄に下げられた房の、見事な青に彼はふと目を留め――こう言った。 「いい色だ」 何かを思い出しているのか――彼はわずかに目を伏せる。 「だがな、盗賊なんかにこんな色が似合うもんじゃねえよ。こういうのは」 「あの人の色だ」 |
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