砂漠に吹きすさぶ夜の嵐をある程度は予想し、そのためのぬかりない準備もしていたのだが、今回の旅については幸いにと言うべきか、天候はしじゅうおだやかなままだった。 と言っても、寒暖差の激しい砂漠の中のことだ。 昼の熱気が嘘のように夜は冷え込み、彼はたどりついた小さなオアシスで凍えながら火をおこして、ようやく落ち着くことが出来た。 連れの青年も、やれやれと言った様子で駱駝の頭を撫で、一日砂の海を歩き続けた身体をさすってやる。 「予定通り到着できてよかったっスね、乾先輩」 「ああ」 彼らが到着したところは、ぱっと見たところでは『オアシス』とは思えなかったかも知れない。確かに岩が入り組んでいてちょっとしたテントのようになっているが、草ひとつ生えていない。 しかし奥まったところにある入りくんだ岩のひとつを外すと、僅かながらその奥から水がわき出ているのだ。苔のつき具合から、ごく最近にわき出した水であろうと乾は見当をつけている。 身体に浴びるほどではないが、水の補給ならばこれで十分だ。 町へ出て必要なものを買い込んで帰るときには、いつも行き帰りにここで一夜過ごす。 従者に選んだ若い男とふたり、乾はしばらくはものも言わずに荷物を下ろしたり駱駝をつないだりと作業にいそしんでいた。 「しかし大騒ぎだったっスねえ、街は」 「まあ最近ちょっと見ない大事件だからね」 「結局のところ王位簒奪が目当てだったんでしょうかね、その西の国の軍部によるクーデター騒ぎってのは」 「どうだろうかなあ」 乾は相変わらずの口調でのほほんと応じる。 「しかし今度のことで幼い女王を守って名をあげたのも、結局宮廷騎士団の総団長だったわけだから、結局どっちに転んでも軍部主導になるのは変わらなかったのじゃないかな。今度のことで彼は少なくとも、女王の有力な後見者の一人になるだろうからね」 「総団長ったってまだ若かったっスよね」 「大和佑大……だったかな。なかなかのくわせものだって言うよ。今度のことだって張本人の騎士隊長ふたりはどうやら企みを実行に移す前に、先回りをされて殺されたって言うじゃないか。本当に謀反があったかどうかはあやしいもんだよ」 「は? っていーますと?」 「聞いた限りじゃ手際が良すぎるね」 そこから乾は此処へ来るまでにいろいろと巡らせていた考えを話そうとしたが、やめた。 どちらにしろ遠い西の国の話だ。 今日耳にした交易都市での噂――西の国で、国王不予に乗じた王家転覆の騒ぎがあったこと、それをすばやくおさめて幼女王のもっとも強力な後見人の一人に名をあげるであろう騎士総団長のこと、クーデターを計画していたという騎士隊長のふたりが、発覚と同時に粛正されたこと。 乾でなくともほんの少し各国の事情に通じていれば、本当に謀反であったのかどうか疑わしいような話もちらちらと耳にする。 しかし何を言うにも乾や、まして桃城などにも関係はない。 考えを巡らせるのは自分の勝手だろうが口に出して賛同者を募ったところで何にもならない。それどころか、ややこしい事態を引き寄せることもあり得る。 他国の情勢など砂漠の民のひとりに過ぎない自分には関係ないのは事実だが、それでも乾はこうやってあれこれと考えを巡らせ、事態を想定し、仮定し、修正を入れ、そのたびに結果をいく通りも導き出すことをやめられない。 単純に面白いのだ。 我ながら悪癖だと自嘲しながら、乾はもうその話題はやめにするつもりで、ことさら明るく声をかけた。 「桃城。とりあえず」 駱駝に水をやってくれ、と乾が言おうとしたときだ。 喉にひたりと冷たい感触が押し当てられた。 「乾先輩、しかし今回は、っつーか今回もよく買い込みましたねえ」 「桃」 「いや、それが俺もさ、実は弟に頼まれてちっさいナイフ買ってやったんスよ、まあおもちゃみたいなもんスけどね」 「桃、おい」 「あの年頃くらいになるとそーいうの欲しいんですよね。俺もオヤジにねだっちゃ、『まだ早い! 棒きれでじゅうぶんだ、クソガキ!』って怒られたりして」 「おい、桃」 「ああ、はい。駱駝に水っしょ? ちーと待ってくださいよ、皮袋にたまるまで時間かかるんス」 「いやそうじゃないんだ」 「なんすかあ?」 「とりあえず俺の方を見て、状況を確認してくれないか」 はあ? と笑って、桃城はそれでもしばらく背後の乾を振り向かなかった。 また大きすぎる荷物をひとりで運ぼうとして、にっちもさっちもいかなくなっているか。それとも駱駝の口にマントのフードをなつこくくわえられて、離してもらえなくなっているのか。 そんなふうにのんびりとした桃城の考えは、かちゃ、と小さく金属音が聞こえたときにたちまち吹き飛んでしまった。若いとはいえそれなりの場数を踏んでいる桃城にすれば、それが鎧のこすれる音だとすぐ判断できたからだ。 「乾先輩!?」 「――だからさっきから呼んでたのに」 喉元に小刀の刃先を押しつけられ、どこかのんびりと言う乾は両手をあげ、微動だにしない。できないのだ。 乾の背後にいるのは黒ずんだ鎧らしきものをまとった男だった。 印象は若い。乾や桃城とそう変わらないだろう。 たいそうな鎧を着込んでいるが、少しうつむき加減で人相はよく見えなかった。 「てめえ、なにしやがる!」 「――動かないでくれ」 すずやかな、品のいい青年の声が聞こえた。 「大人しくしてくれれば危害を加えるつもりはない。……すまないが、水と、傷薬があれば、わけてもらえないか」 「はあ? てめえ、なに抜かしてやがんだ、人様にカタナ突きつけといて!」 桃城は怒鳴った。 その鎧の背年はどこか疲れたようにうつむき、桃城のほうなど見ていないように思えた。だからだろうか、桃城もいけると踏んで腰に手をやりながら(そこには彼愛用の曲刀が下げられている)油断なく一歩踏み出した。 「――」 「桃!!」 乾が叫ぶ。 「……っ!」 桃城は一歩踏み出したが、そこで固まってしまった。 別に乾に言われたからではない。 ささやかな篝火程度では追い払えない砂漠の夜闇の中、一瞬銀の光が閃いて桃城に向けられた。 乾の背後の青年はものも言わず、ややうつむき加減の顔をあげることもせず、まるで何かの手妻のように長剣を桃城に向かって突きだしたのだ。 まるで闇の中からほとばしりでた鋭い光のようだった。 乾につきつけられた小刀を持つのとは逆の手で突き出され、桃城の動きをとめたそれはとても美しい直剣で、ところどころ人脂と血でくすんでいる。 青年がごくごく静かで、また物言いも穏やかですらあったので、余計にその刃の凄惨な様子が乾の背を冷たくする。 「すまない。――こちらも急いている」 「――てめ……!」 「盗賊まがいのことをしてすまない。しかし持ち合わせがないんだ。このままだと俺の友人が死ぬかもしれない」 「――」 「頼む。――薬をくれ」 青年の物言いだけを聞いていると、さほど切羽詰まったようにもとれなかったかもしれない。彼の喋り方は低く淡々としていて時折押さえた息づかいだけが聞こえた。 しかし剣がからっきしな乾はともかくも、腕のいい桃城すらも動けない。 この青年の押し殺したような、迫力――決してぎらぎらとした殺人狂、と言うわけではないが、油断の出来ぬぴりぴりとした空気が感じられる。 これは下手に逆上させると逆に危ないかも知れない、と乾は考える。 鎧の青年に刃を突きつけられたまま乾はしばらく黙っていたが、すぐに目の前の桃城にこう言った。 「桃。俺の黒い小さな麻袋を持ってきてくれ。まだ駱駝にくくりつけたままなんだ」 「……乾先輩……」 「蓋つきの木箱があるからそれを出して、水と一緒に持ってきてくれ」 「乾先輩!?」 桃城の抗議めいた声を聞き流して、乾はどこか飄々として両手をあげたまま、背後の青年に尋ねた。 「君のご友人とやらはどこにいるのかな」 「――」 「傷薬はあるが、傷の種類にもよる。よかったら、ご友人の具合を見せてもらえないか」 そう尋ねると、少しうろたえたように青年は言った。 「……いや……そこまでしてもらっては悪いし……薬だけもらえれば……」 「俺は医者だよ。信用するしないは別として、たぶん君よりも薬や病人けが人の扱いは慣れているつもりだけど――どうだろう?」 「……」 「それに、そんなに重傷の人間がいるのなら、ほうっていくわけにはいかないしね」 「……」 「どうする。信用してみるかい」 青年はそれでもしばらく迷っていたようだったが、やがてとまどいながらこう言った。 「ほんとうに俺の友人を診てくれるのか」 「君がこの物騒なものを退けて、俺達に危害を加えないと約束してくれたらね――必要があれば少し食べるものも都合してあげられるし。こちらもいったん言ったことは守るよ」 「――」 青年はしばらく沈黙していたが、やがて他にどうしようもないと思ったのか、ゆっくりと刃を引いた。 「約束する。……驚かせてすまなかった、許してくれ」 乾がおそるおそる青年から離れ、ゆっくりと振り向いたときも青年は動かない。剣を持ったそれぞれの両手はだらりとさげられたままだった。 少しうつむきかげんのその顔はやはり若い。なかなかに綺麗な顔だちの、好青年と言った感じだ。 「……こンの野郎……!」 乾からとりあえずの危機が去ったところで、桃城はたちまち気色ばんで今度こそ剣の柄に手をかける。 しかし乾がとめる。 「先輩!?」 「薬の木箱と水。今、頼んだろう」 「だ、だけど先輩……!」 「いいから」 それでもまだ桃城は何か言いたげに、乾と、その背後に佇む若い男を見比べていたが、やがて舌打ちをしてすぐそばにいた駱駝の荷に手を伸ばした。しかし桃城の視線が、まだるどく乾の背後に向けられているのに気づいて乾は苦笑する。 「大丈夫だよ、桃」 「……って」 「どうやら彼は、どこかの騎士団の人のようだからね」 乾は肩越しに背後を見やって言う。 青年は――乾の言うとおりだったとすれば、若いその『騎士』は――少し驚いて身体を揺らしたようだった。 「騎士なら約束はたがえまい。……そうだろう」 「――すまない」 「いいさ。こういうのも縁だ。……桃」 乾はもう一度、まだ何か納得のいっていない顔をしている桃城を促す。桃城は不承不承、念のため篝火に燃料をいくつか足して、乾の言うとおり道具箱を取り出し始めた。少し振り返った若い『騎士』は切れ長の綺麗な目を桃城に流したがそれ以上動こうとはしない。 がちゃ、と重たそうな鎧の音がする。 なるほど、こうして闇に慣れた目で見れば、それは確かになかなか立派な造りの鎧のようだった。 「君のご友人は何処にいるんだい」 「この岩場の……ちょうど反対だ」 「なんだ。すぐそこか。――じゃあ、とりあえずこっちの、焚き火のある明るい方へ連れてきてもらった方がいいかも知れないな」 「ああ、そう……したほうがいいと俺も思う。ただ、熱がひどくて、俺じゃ動かしていいものかどうか判らないんだ」 「どのあたりの傷が酷いんだい」 「たぶん――背中の太刀傷が」 「へ。騎士のくせに背中に傷くらったのかよ」 まだなにやらおさまらない桃城が揶揄する。 「尻尾巻いて逃げるときに、どーせばっさりやられたんだろうよ」 「桃」 乾は静かにたしなめた。 確かに、「正々堂々と戦う」ことを信条にしている騎士団なら、背に受ける傷はそれだけで恥だ。敗走したのか、おそれて逃げたか、囲まれるほど状況も判断できなかったのか。 乾にしてみれば、自分たちの手段として不意打ちだまし討ちは常套であったから、そんなものかと思うくらいで、別にこの青年騎士の友人の背に傷があったといっても別にどうということもない。 桃城の言葉にしかし若い騎士はひとことも言い返さなかった。 代わりに乾が謝る。 「すまないな。あいつも悪い奴じゃないんだが口が過ぎる。気にしないでくれ――桃」 「なんスか」 「月があの岩場のてっぺんにかかっても俺が帰ってこなければ、様子を見に来てくれ。人間が身をひそめられそうな場所は、あの尖った岩の下くらいだと思うんだ」 「君の言っているのは、細い岩が上を向いて三つ並んでいる場所のことか」 騎士がそう問いかけるのに、乾は黙って頷いた。 「さ、桃。その革袋をとってくれ、水もたまったろう」 「乾先輩……」 「心配するな。大丈夫だよ」 口元だけで笑う乾に、桃城はまだ不安のようだった。今からでも、乾さえ許せばその騎士に斬りかかりたいのだろう。 「焚き火を大きくして寝床の用意をしておいてくれ。――頼んだぞ」 そういって乾はたいまつをひとつ用意して掲げ持つと、自分から騎士の青年を促して歩き始めた。 ここは大小さまざまの巨岩が組み合わさって、ちょっとした小山のようになっている場所だ。その黒い岩にゆらゆらとした炎の色が反射する。 騎士の足取りにあわせて、がちゃ、がちゃと鎧の音がする。静かな砂漠の夜に、それは少し重苦しく響いた。 時折、傍らを歩く長身の乾に問いかけるように目を向けたが、乾は特に気負う風もなく騎士と同じ速度でゆっくりと歩く。 「――その……すまなかった」 騎士は、突然こう言った。 「どうしていいか判らなくて……君達が追っ手じゃなかっただけでも安心するべきなのに、ひどいことをしてしまった」 「いや。気にしていないから」 「すまない。落ち着けばどうにかして礼を考えたいと思う。……ここだ」 そこは乾の予想したとおりの場所だった。 大きな岩が複雑に重なってちょっとした洞窟のような場所がいくつか存在する。乾はつい最近ここを発見したときに、あれこれと役に立ちそうな場所、身をひそめられそうな岩陰などをせっせと検分としていたのだ。 偶然岩の間に流れる清水を発見したもので、乾が身を休める場所はこちらと反対側の岩の窪みだが、騎士が乾を案内していったその場所も十分一夜の宿として、夜露をしのぐのに使えそうなくぼみだった。 「手塚」 若い騎士はその岩陰に足を踏みいれて呼びかけた。岩の重なった奥、ちょっとした空洞に布に包まれた細長い物体が横たえられていた。 乾は騎士の呼びかけたその名にかすかに反応したが、できるだけなんでもない風を装う。 「手塚。……俺だ、大石だ」 布にくるまれた身体は動かない。 いや、まだ命のあることを示して苦しい呼吸に揺らいではいたが、若い騎士――大石とやらの問いかけには反応しなかった。 その傍らには、ぼろぼろになった鎧が放り出されている。 「手塚。苦しいのか……もう大丈夫だからな。この人がお前を助けてくれるよ」 「――とりあえず、傷の具合を診てもいいかな」 「ああ。頼む」 大石、と言う名らしいその騎士は、とても大事なものをあつかうようにそろりと布をめくった。 月明かりにも端正な美しい青年の顔が現れる。 目を閉じ、苦しそうな呼吸ばかりが聞こえているが、どうやら意識はないようだった。 上半身は裸であちこちに血の黒く変化した切り傷が出来ている。注意深く背中の方にまわって傷を見てみると、なるほど確かに酷い。 「……これは……」 「どうだろうか」 「――傷を受けたのは、いつ?」 「……昨日の……夜だ」 「――」 「傷を負ったあと結構動いた。囲まれたんで斬り抜けてきたんだ。砂漠まで逃れてきて、馬が途中で倒れた。そのあとは歩いていたんだが、彼は途中で……」 「そうだろうね。――この傷だと、縫うしかないよ」 「……縫う?」 「傷口をね。もう彼は意識を失っているから多少はやりやすいだろうけど、とりあえずさっきの場所まで彼を連れて戻るよ。戻ったらすぐに傷口を縫い合わせるから、君とさっきの桃城とで彼を押さえておいてくれ。意識はなくとも激痛だ、たぶん身体が暴れるだろう」 「――」 「そうしたら、君の手当もしたほうがいいな」 「え?」 「右の脇腹に何か傷を受けているだろう」 「――……」 「歩くときにかばっていたよ」 青年はそれでも一瞬とまどうような、少し警戒するような微妙な表情をしたが、すぐにそれは苦笑にかわった。 「すごいな。よく判るもんだ」 「いや、そんなにたいしたことじゃないよ」 話しているうちに乾は、この青年にどこか親近感めいた興味を持ち始めていた。 丁寧な、おそらく貴族の出だろうと判る口調や、立派な鎧。冴えた剣のふるいかたと――その、名。 (『手塚』、と……『大石』。……ふーん。これはまた) 大石がけが人を抱え上げて、再び乾とともに歩き出す。乾も一応手伝おうと申し出たが、大石に丁寧に断られたのだ。よほど大事な『ご友人』らしい。 たいまつで足下を照らしてやりながら、これはなかなか面白い話が聞けそうだと乾は思い始めた。 ――その為にはなにがどうしても命を助けてやらねばならない。 隠れ住む砂漠の民には少しばかり荷が重そうな秘密を、彼ら二人は持っている。その危険性を察せられないでもなかったが、それ以上の好奇心を満足させてくれる誘惑の方が強かった。 こういっては不謹慎ながら、乾はその夜、久しぶりに「わくわくしていた」のだ。 瀕死のふたりの騎士を拾ったその夜。 砂漠の民、隠れた村に暮らす医者。黄色い砂埃の中で始まり、その中でひっそり終えてゆくはずの乾の一生は、この夜、この邂逅によって大きく方向を変えたのだったが、それはあまりに遠大であるがため彼はそれをまだ知らない。 まだ遠い西国に在る彼の運命。 それによってもたらされる変革も、まだあずかり知らぬ。 変革の始まりを告げる使者は、美しい踊り子の姿をしていることも。 |
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