北の国。
 それは、この大陸でもっとも北方に位置し、もっとも富裕なる王国である。
 豊富な鉱脈資源にめぐまれたこの土地では金銀の様々な鉱石を加工する技術が発達し、また同じように鉄鋼産業にも力をいれている。富める北の国から産出され、その地で加工された刀剣は何処へいっても高値で取り引きされるのだ。
 雪に閉ざされた極寒の地ながら、国民の暮らしは総じて豊かだ。東の草原で取れた獣の毛皮を敷き、西の国から取り寄せた黒地に金の唐草模様の不思議な食器で夕食を楽しむのも、一般家庭でさえざらだ。南の国のあざやかな果物や各地の珍しい酒なども、普通に店先で買える。
 ひとつには、この大陸のほぼ中央に位置する交易都市との行き来がたやすく出来るよう、北の国は早くからその豊富な財を使って街道と関所を整えたためもあるだろう。
 しかし。
 豊かな財源に裏打ちされ、それ相応の強大な軍事力をも保有する「北の国」ではあったが、人々がその名を口にするとき、何故か、不思議な感覚に襲われるのは――。
 強力な軍隊を持ち、実質的にこの大陸の覇者でありながら、何故か不思議の魔法の国のように、人々に噂されるのは――。
 かの雪に閉ざされた王国が、現実の剣の力とは全く相反する性質のものに支配されていたからであろう。
 北の国。
 雪に閉ざされた、豊かなれども神秘の国。
 堅固な城壁に囲まれ贅を尽くした宮殿の隣には、同じだけの大がかりな神殿がそろって建っている。王の傍らにある王妃の如く、それらは切り離しては考えられぬものだ。北の国の王は祭祀をかね、この百年、代替わりをすることなくその治世を保っていると伝えられる。
 そう。
 軍事力と、あやかしの魔道とが共存する北の国。
 その神秘をもっとも顕著に、もっとも妖しく体現するのは、北の国の『不老王』。
 少年の姿のまま決して年取らぬと言われる、謎めいた支配者の存在であった。

 吹雪は、明け方からその勢いを弱めた。
 朝日の昇る時間に合わせるかのように、徐々に、徐々に風も雪もやんで、大陽が顔を覗かせる頃にはすっかりと重たい灰色雲は消え失せていた。
 久しぶりに、良い天気になりそうだ。春も近いのだろう。
 長年雪と氷に悩まされてきたこの国の街並みは、それらに十分耐えうるような石造りだ。
 ぱっと見には黒く沈んだ建物の延々続く、なんの面白みもない光景だったが、それでもその街並みに白い雪の積もる様子、きらきらと朝日に照り映える姿はなかなかに美しい。
 厳しい冬と長いこと戦わねばならないこの国では、建物の外観を飾り立てても無駄なことを皆良く知っている。その分、ごく一般の家庭でも家の内装は豪奢なものであったし、 王城などは、その傾向がさらに顕著だ。
 外見は堅固でいかめしい要塞のような建物であっても、重たい跳ね橋を渡って城門をくぐり、王族の暮らす宮殿の方へ一歩足を踏みいれれば、まるで別世界のような豪奢が溢れている。
 石造りの壁が冷たい印象を与えぬようタペストリがかけめぐらされ、足下は柔らかい絨毯が幾重にも敷かれ、南国の鮮やかな花も毎日取り替えられている。北の国、冬の長い国だからと言って、決して調度の数々が重たい印象を与えぬように、工夫もされている。各部屋には暖をとるための火があるが、専用の火の番人がそれぞれ窓を開けたり締めたりの空調もしっかとおおせつかっているので、宮殿の何処にいようと、いつでも適度に暖かい過ごしやすい空気であった。
 そうすると保温を優先するような衣服でなくともよいので、王族達はじめ、王宮に仕える者たちは自然、ごく軽やかな布地の衣装で快適に過ごすことが出来るのだった。
 さて。
 その、王城から見おろす町は、先述の如く朝日にきらきらと雪がきらめいて、何とも美しい様子であった。
 そろそろ、町のものたちも起き出して今日一日の仕事のために眠い頭をたたき起こしていることだろう。炊の火もたち始めているはずだ。
 町の様子はどうだろうかと見おろす者がいる場所は、この王城の中でももっとも眺めのよい部屋だった。
「――いい天気になりそうだなあ」
 美しい水晶の板が嵌められた窓を全開にし、そこに行儀悪く足を投げ出して座っている。
 それは、ひとりの少年だ。
 なかなかに綺麗な、意志の強そうな顔立ちをしている。十五か、もう少し上か。
 悪戯好きの子供のような、どこか油断のならない表情をしている。彼の容貌が鋭く美しいので、不思議にあだめいたようにも見えるが、それでも常に何かを面白がるような、斜に構えた雰囲気があるのは否めない。
 布を多く使った、ゆったりとした足首までの衣に、赤地に金銀の刺繍を施した袖無しの長い上衣を重ね着している。腰のあたりに飾り帯をゆったり巻いて一応の小刀らしきものを差している。裸足なのは、かれがつい今し方、隣の部屋の寝台から這い出してきたばかりだからだ。
 失礼いたします、と小さく声がかかって、ドアの向こうから女官が数人現れた。
「お召し替えでございます、陛下。どうぞ湯殿のほうへ」
「うん」
 答えたものの、少年はまだぼんやりと窓の外を見ている。
 女官達は促しもせずに、彼の次の言葉をじっとかしこまって待っていたが、ふと彼がこう尋ねた。
「ね。バネさんたち、帰ってきたって話、聞いた?」
「――聖騎士候閣下、でございますか? ………いいえ」
 女官のうち、一番年かさの女が落ち着いて答えた。
「ご帰還の触れがございましたら、もっとも最初に陛下に――虎次郎様に申し上げるよう、わたくしどもも申しつかっておりますが、今のところは。ご心配でありましたら、関所に使いをやりましょうか」
「いや。いいよ」
 聞いてみただけ、と、彼は大きく伸びをした。
「無駄足でないことを祈るよ………ああ、それにしても今朝はいい天気だね」
「さようでございますね。――陛下、天根さまがさいぜんからお待ちです。朝食後にお時間があればお茶でもとの仰せです」
「ああ、そっか、あいつ泊まったっけ。いいよ、朝ご飯に呼んどいて。一緒に食べようって」
「かしこまりました――では、陛下、湯殿に」
「青の部屋のほうだよね」
「はい。さようでございます」
「先いっといて、ちょっと忘れ物した」
 女官達は一言も聞き返さず、湯殿にすぐにやってこようとしない主に不満げな顔をするでもなく、言われたとおりに大人しく退室していった。
「………」
 少年は彼女らに一瞥もせず、かと言って忘れ物とやらをとりにゆくでもなく、窓枠に腰掛けたままぼんやりとしている。
「――もう、四年以上にも、なるんだよあ」
 はあ、とため息をつくと、腰から小刀を引き抜いた。
 黄金細工のそれは、装飾用ではあるがれっきとした小刀だ。鞘から抜けもするし、ものを切ることも出来る。
 少年は、その刃先のきらきらとした美しさをしばらく見るともなしに眺めていたが、おもむろに左の袖をぐいとまくって、腕を露わにする。
 北の国の人間特有の、真っ白な肌。
 彼は特段なんの感慨もなさそうに、左腕の中程に先刻の小刀を押し当てると、ぐいと勢いよく引いた。
 少年の左腕の肘近くから手首あたりまで、一筋の赤い線が走る。
 飾り刀とは言え切れ味は立派なもので、細くはあったが深い傷からは、たちまち血が溢れ始めた。
 白い肌には、いっそまがまがしいほど美しい、鮮血。
 もっとも肌に映える宝玉。
 それが白磁の肌を伝い、ぽとりぽとりと床に滴って上等の絹の服や高価な絨毯を汚していく間も、少年はどこかつまらなさそうな、気の晴れる悪戯を思いつかない子供のような顔をして、また小さく呟くのだった。
「どこに、いるのかなあ」








「いたっ………!!」
 裏庭から小さく叫び声が聞こえたので、手塚はあわてて席を立った。
 さして広くない、石と泥レンガを組み合わせた小さな家だ。居間も兼ねた小さな食堂からほんの数歩ばかりで裏庭に続く木戸を開けることが出来る。
 煉瓦で造られた塀に囲まれる裏庭には、小さな井戸と少しばかりの畑がある。数本生えた木に縄を渡して、洗濯した衣類を干していた人物の姿が見えない。
「不二!?」
 手塚はあわてて、晴天に気持ちよくひるがえる白い布をまくり上げた。
 そこに、ひとりの少年がしゃがみ込んでいる。
 洗濯物をいれた籠を取り落とし、左腕をかかえてうずくまっているのだ。
「不二、どうした! どこか痛いのか」
「な、なんでもな………」
「――どうしたんだ、この腕は!」
 不二があわてて取り繕う前に、手塚は彼の異常に気づいていた。
「あの、大丈夫だから………」
「そんなはずないだろう! こんなに血が出ている!」
 不二の左腕。
 肘近くから手首あたりまでが、鋭利な刃物で傷つけられたようにすっぱりと切れているのだ。傷そのものは細いがずいぶん深くまで切れている。大事にはならないだろうが、出血の量は多かった。
 肌が白いせいで、その血の多さと鮮やかさが痛々しい。
「早く血止めをしよう。さ、家に入れ」
「で、でも………君の服、血をつけちゃって………」
「そんなものどうでもいい。早く」
「――」
「さあ」
 せきたてる手塚に逆らえず、不二は仕方なくそこから立ち上がった。
 シャラ、と綺麗な、細い音がする。
 不二の手首に通された金細工のブレスレットの、うすいコイン型の飾りがふれあってたてる涼やかな音だ。
 シャラ、シャラと綺麗な音を立てて歩く不二を、手塚は過保護な親鳥のように腕で抱き寄せ、家の中に連れてゆく。
 不二がこの家に――砂漠の端にある、小さな村に連れてこられてから、ひと月ほどが経っていた。

「乾!」
 けたたましく開いた扉に動じることもなく、その男は手元の紙から顔をあげることもなく、やあ、とだけ言った。
「乾、不二を診てくれ。大変なんだ、血が――!」
「サボテンのトゲで指先を刺したのかい。それとも、朝食の用意していた火で髪の先でも焼いたかな。でなけりゃ指でも切ったか。しかし血止めはこないだ君に渡したろう」
「冗談を言っている場合か!」
「きみがいつもそんな冗談みたいな理由で不二を連れて来るからだろうが」
「いいから、早く。もらった血止めでは足りないんだ」
 手塚に急かされておっとりと席を立ち上がった乾だが、目の前に突き出された不二の腕の状態を見るなり眉を顰めた。
「こりゃひどい」
「だろう、早く!」
「いけないな、不二、そこに座ってくれ」
 乾は今まで自分が座っていた椅子を不二に示すと、あわただしく隣の部屋へ入っていった。
「不二、それだけ出血していたらふらふらしないかい。もっと詳しく見なけりゃわからないがな。しかし、たぶん縫うほどじゃないとは思うんだ」
「縫う!?」
 声を上げたのは手塚だった。
「縫う、縫うって、傷口をか!」
「なんで君がそこで喚くんだ――ほら、そこでおたおたしているくらいなら、そこの壷から水を汲んでくれ」
 小さな壷や乾いた草や、細く裂いた布などを抱えて戻ってきた乾は、あきれて言った。
「君だって、その手の傷くらいは見慣れているはずだろう」
「し、しかし」
 手塚は、彼らしくなく非常にうろたえているようだった。だが乾に言われた仕事はきっちりとこなし、家の隅においてある壷の中から水を器にくみあげる。この水には何やらの薬草がつけ込んであり、温度の高いこの村の中でも腐敗せず、またそのまま消毒液の役割を果たすのだ。
「あ、ああいう手当をすると、傷跡が残るだろう」
「ああ、残るね」
 手塚から器を受け取りつつ、乾はあっさりと言う。
「桃の脇腹や君の背中みたいなのが」
「ふ、不二のこの腕に、そんな傷が………」
「だから、縫うほどじゃないと言ってるだろう、俺は。何を聞いているんだ、君らしくもない」
 そんなふうに言う間にも、てきぱきと不二の傷口を布で拭い、傷口の具合を検分していく。
「これは――刃物の傷だな」
「――」
「何をしていて、こんなに切ったんだ。不二」
「――」
 不二は黙ってしまっている。
 その固い表情から、その質問には答えるつもりがないのであろうことは手塚も乾も察した。
「不二、言いたくなければ………」
「――手塚」
 乾が手塚の言葉を遮った。
「彼のことは、きみが責任を持つんだったよね」
「あ、ああ」
「覚えているならなら結構」
 乾は手当をすすめながら、淡々といつもの口調でこう話した。
「手塚。君はもういいよ」
「え?」
「彼の手当には、もう少しかかる。君がいたって手伝えることは何もない。邪魔になるだけだ」
「し、しかし………」
「心配しなくても」
 乾はくいと眼鏡を押し上げると、ため息混じりにこう言った。
「君のいない間に彼を虐めたり、ましてよからぬことをしようなんて思っちゃいないから安心するといい。手当が終わったら薬を持たせて帰らせるから」
「手塚」
 何かをさらに言おうとした手塚を遮ったのは、ほかならぬ不二であった。
「いいよ、僕は大丈夫だから」
「――不二」
「君はもうそろそろ、若い人たちの訓練に行かなきゃいけない時間でしょう。今日は朝から特訓するって言ってたじゃないの」
「それは………そうだが」
「心配なら英二を迎えによこして」
 不二は振り返りもしないでそう言った。
「あの子も今日は大石が出かけるからひとりでしょう。君達が帰ってくるまで、二人でいるようにするから。何かあればあの子に面倒見てもらうし」
「そ、そうか」
 手塚はまだ何か納得がいかないようだったが、しかしこのままひとりで乾の家、または自分の家に置くよりは安心だと思ったのだろう。
「わかった。じゃあそのようにする。すぐにこちらへ来てもらうようにするから、よく手当をしてもらっておけ」
「うん」
「君はそんなに心配性だったかな」
 唇の端をあげて、乾がからかった。
 手塚が言い返せずにいると、乾は再度彼をこううながすのだった。
「さ。さっさと行ってきなよ。若い子は力が有り余っているからね。新婚ボケした君なら、下手をすると簡単にやられるかもしれないよ。まあせいぜい気をつけて、気合いをいれて行くんだね」



 乾の家は、村の少し奥まったところにある。
 この村の実質的な統括者であり、腕のいい医師でもある彼の家は、いつも何やら相談事や急病人、疳の虫の収まらない子供の母親までが入れ替わり立ち替わり、訪れている。
 村の長と言っても一人暮らしで家も他の村人と変わらない。泥煉瓦と石を積み上げた質素なものだったし、手塚の家がそうであるように、台所と居間兼食堂と、眠るための部屋ぐらいしかない。乾の場合はそれに薬品などを保存する小部屋が一室よけいについているだけで、何も他と変わらないのだ。
 最初にこの村にやってきたとき、不二は内心驚いた。
 もっと盗賊稼業で潤っている町かと思いきや、ごくごく質素で素朴な、砂漠の村なのだ。
 奪ってきたものは、実際に働いた男達にそれぞれの取り分が与えられ、残りは一端村の倉庫に保管される。どうするのかと不二が聞くと、町で生活必需品や保存食と取り替え、老人や子供の多い家、病気で働けない者のいる家などを優先して配られるのだと、手塚が教えてくれた。
 飢餓やそれから来る病気に苦しんでいる様子もないし、オアシスの側でそれなりに緑もある、他の砂漠の村に比べればまだ豊かな方だろう。
 それらを取り仕切っているのがこの乾という長で、どこか飄々とした男だ。ぼそぼそとした話し方をするが、実はなかなかどうして頭が切れるらしい。
「新婚ボケ、ってなにさ」
 手塚が出ていったあとで、不二は早速そんな風に抗議した。
「手塚は否定しなかったよ?」
「ふざけないでよ。――別に、僕はそんなんじゃないよ」
「おや」
 乾は微かに驚いたふうをした。
「じゃあ、君に手出しはしていないのかい、手塚は」
「手出しってなんだよ。――おあいにくさまだけど、君の期待しているようなことはしてないよ。ここへ来てから、一度だってね」
「これは驚いた」
 乾は肩を竦めると、とりあえずは、と思ったのか、不二の腕の手当の仕上げをした。
 傷口に乾いた葉をあて、細い布でくるくると巻いていく。
 まだじんわりと血が滲んできていたが、すぐにとまるだろう。
「ずいぶん鋭利な刃物で――それも上等のもので切った傷だね」
「――」
 相変わらず不二は答えようとしない。乾はしばらく探るように不二を見ていたが、突然こう言った。
「………ところで、よく似合うね、そのブレスレットと耳飾り」
「――え?」
「それは、君のものかい」
「う、うん………」

 このブレスレットと、揃いの耳飾りだけは彼は変わらずつけている。踊り子の衣装を脱ぎ、砂漠の民の愛用する裾の長い木綿の服にかえても彼は十分美しかったし、その容姿が為に、質素なその服とアンバランスな感じのする装飾品でも違和感なく身につけておけるのだろう。
 質素と言ってもその衣装の裾や袖口には村の熟練の女の手による凝った刺繍が入っていた。三色ほどの糸を器用に布にくぐらせて施されたそれは、素朴で愛らしいものだ。手塚の心尽くしだったが、これを村の女に頼むとき、あの仏頂面がいったいどんな顔をしていたのかと不二は今でも思うのだ。
 ぼんやりとそんなことを思い出していると、急に乾の腕が自分の顔のほうに伸びてきた。
 不二は驚いて顔を揺らした。ブレスレットと、同じ意匠の耳飾りがシャラシャラと涼しい音を立てた。
 乾の手は不二の耳飾りを掴むと、にっと笑った。
「うん。とてもいい細工だ」
「――」
 不二が何も言えないでいると、乾はぱっと飾りから手を離して何事もなかったようにこう言った。
「不二。ここは秘密の村だ。君も知ってのとおり」
「――」
「君達も見たよね。ここへ来るときに大きな断崖絶壁があったのを。………人間の足では絶対に越えられない、越えようとしてもそのあたりの猛鳥につつかれて、落ちて死ぬのが関の山の、あの絶壁。――君達はその絶壁のなか、村人しか知らない洞窟を抜けてここへやってきた」
「――うん」
 その話は、手塚から聞かされた。彼はもともと口数の多い方ではなかったのだが、そのときは結構長く話していたことを、不二は思い出す。
 だからと言って、乾の言葉を遮るようなことはしなかった。
「ここは昔、どこやらの町が軍隊に襲われて、やっとのことで逃げ出した生き残りの人々が造った村なんだそうだ。追いつめられてこの絶壁まで逃げてきて、もう行き止まりだと思ったら、偶然、ほら穴を見つけた。軍隊をやり過ごす為に奥へ奥へと入ってきたら、手つかずの大きなオアシスに行き着いた、というわけだよ。――そら、君達が通ってきた、あの洞窟ね」
「――」
「まあ確かに水はそこそこ豊かだし、植物もそれなりに生えている。作物を育てていけないこともないが、やはり人間の食べるものをこのあたりで人数分育てようとしたら、結構骨が折れる。だからみんなで砂漠の毒虫を捕って毒から薬を造ったり、このあたりの草で薬草になりそうなものを育てていく工夫をしたりしている。そういうものは、都市で珍重されるからね――でも、そうしても、やっぱり村人みんなが食べていくには困るときもある」
「――」
「だから時々、手塚達にああいうことをしてもらっている。盗賊まがいの軍隊から逃げ出した人間の子孫が、同じようなことをしているのは大変にこっけいなことだと思うけどね。……少し腕を伸ばして」
「……こう?」
「うん、そうそう……ああ、ほら、血も止まった。傷自体は綺麗なものだから、この先化膿しなければ跡ものこらないだろう」
「そう……ありがとう」
「ん? ああ、いや、かまいやしないよ。俺の役目だからね」
 乾は治療に使った布の余りや薬壷などを片づけながら、変わらぬ淡々とした口調で言った。
「それで、なにが言いたかったかと言うと……うん、そうそう。この場所のことを、知られるわけにはいかない」
「……」
「豊かすぎるというほどじゃないにしろ、砂漠でこれだけの水があるオアシスは貴重なんだ。知れれば、よからぬ輩が場を奪おうとやってくるだろう。俺達だけならまだ戦えるが、村には女も、子供も老人もいる」
「……」
「もっと村を堅固なものにする必要がある。男達はすべて戦えるようにして、何かあったときの避難場所のことや女子供が逃れられるような場所……そういうものを用意して。なにより、この村の中だけでやっていけるように、このあたりをもっと開拓しようと思っている。それが軌道に乗るまでは、手塚達に時々ああいうことをしてもらわないことにはね」
「……」
「だからね、不二」
 乾は、突然それまでの一人語りのような口調から一転、不二をきっちりと向き直って言った。
「君が誰でも、何者でも、俺が君と言う存在に願うのはただひとつだ――この村のことを、よそに漏らさないでくれ、とね」
「どうして僕がそんなことをすると思うの」
「君は隠し事が多いようだから」
 乾はにやりと笑った。
「こんな辺境の村をどうこうと言うような、そんなチンケな隠し事じゃないようだからね、君も。……あの子も」
「――」
「正直、俺はこの村の皆が餓えずに、よりよく暮らしていけるように考えるので精一杯だ。君にどんな隠し事モメごとがあってもかまわないが、罪なき村人を巻き込むようなことだけはやめてくれ」
「乾。君の言うことや……村のためにしてることは立派だと思うけど」
 不二は少し顔を背けた。内心の動揺を悟られないためだった。
「本当に村の助けのためだけの盗賊稼業なら、なんで僕たちが此処にいるわけ」
「――ん?」
「人間を攫ったりもしてるんだろ。僕たちがされそうになったようなことをして、そのまま売り飛ばしたり――殺しちゃったりさ」
「それはやっぱり盗賊だから」
 どうしてもずり落ちてくるらしい眼鏡をなおしながら、乾はあっさりと言い切った。
「危ない目にもあうしね。誰もが大人しく財を奪わせてくれるわけじゃないし、斬り合いにもなる。死ぬかもしれない。その危険をおかしてみんな出かけてゆくんだから、出先で女を好きに犯すくらいは、楽しみがないとね」
「――楽しみ、だって」
 不二はいやそうに顔をゆがめた。
「犯されるほうはたまったもんじゃない」
「そりゃあ、理不尽だろう」
 乾はあっさりと不二に応じた。
「俺もそう思うよ。弱いものから死んでいくのは砂漠の不文律だけどね。だから、できれば盗賊稼業は、俺達の代で終わらせられればと思っているけど」
「――じゃあまだ当分人を殺して金品を奪うわけだね」
「殺さずにすむなら殺さないけどね。……気に入らない?」
「だからってどうこう言える身分じゃないよ、今の僕たちは」
 不二はさして苛々した様子もなく、ため息をついた。
「そう? 手塚も大石もずいぶん君たちを気に入ってるようだけどね」
「とらわれの身には違いないし、それに――それに、そう」
 不二はもう一度ため息をつくと、何やら不思議に物思う顔つきになって――そうすると、とても美しかったので、さすがの乾も一瞬彼に見入る。
「別に弱いものから餌食にされるのは、砂漠に限ったことじゃない」
 それが何故か不思議に悲しく、寂しくひびくような物言いだったので、乾はじっと彼を見ていた。
「どんなに豊かな国だって、満たされていたって、やっぱり弱いものは死ぬんだ。捕まえられて、なぶりものにされて、逃げることも出来ないで」
「――」
「ものが満たされても豊かな生活が送れても、やっぱり人を殺す奴は殺すと思うよ、乾。――それは、僕が考えることじゃないのかも知れないけどね」
「……」
 乾はそのまま黙っていた。
 別段不二の言葉に何か感慨を抱いたとかそう言うことではなかったが、唇の端を上げて僅かに微笑みながら、眼鏡の向こうの鋭い目は不二を油断なく観察している。
「どのみち君のことは手塚が責任をとる」
 ややあって乾は淡々と言った。
「君が何か騒ぎや問題を起こしたら、手塚がとがを受けるよ。一応君は、手塚の持ちものって事になってるからね――ああ、持ちものって言い方もイヤだったかな」
「いやだよ」
 即答した不二に乾はおかしそうに声を立てて笑った。
「でも手塚が君の保護をしているから、君に夜這いをかける奴も出ないですんでいるんだよ。このあいだ村の若い奴が、『手塚さんからあの踊り子を譲ってもらうにはどうしたらいいだろう』って、真剣な顔をして相談しにきた」
「なんでそんなことを君に聞くのさ」
「手塚に面と向かって聞けないからじゃないか。殺されかねない」
 あっさりと言ってのけた乾は、飲み物を用意すると言って席を立つ。
「いや、いいよ、僕は」
「あの子が君を迎えに来るまで、もう少しかかるだろうからね」
「……」
「手塚のこと話してあげる」
「え?」
「あいつと大石は、行き倒れてるところを俺が砂漠でひろったの」
「……ひろった?」
「そ」
 戸棚に手を伸ばしてがさごそとやりながら、乾はいつもの調子で――どこか掴みどころのない飄々とした口調でこう言ったのだった。
「あいつらは西の国の出身なんだよ」





 
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