だから世界よ、どうか。 許さないで。 俺を許さないで。 『英二』 優しい声にいざなわれる。 『英二、起きて――見てごらん』 どこまでもどこまでも――遠くまで眺めやっても、そこはごつごつと荒れた峰だけがひたすらに続いている。街から出たことのない英二はただただ目を丸くして眺めるしかないような、険しい、そして雄大な光景だった。 なにをどうしたものやら自分たちはいつの間にか高い山の頂にいる。 僅かな草木があるばかりでうら寂しい地表だったが、そんなことはこの高い場所から見える雄々しい大地の隆起の前には、たいして気になるものでもないだろう。 そうしてまたそんな荒れた厳しい場所であったが、いったいどうしたものか要塞のような建物が、威風堂々その頂に建てられていた。この山の頂を削ったか何かして、相当な広さの平坦な土地を創り出し、その上に建築されたものだとあとで教えられた。 それにしてもこんな人も通わぬ山中に何故と思うような、いささかいかめしすぎ、立派過ぎる建築物だった。己がこの光景の中心であり主であるのだと言わんばかりにそびえ立っている。 幾度も墜落と上昇を繰り返すような眩暈のあいだに、自分はどこか知らない場所へと連れてこられたようだ、と英二は悟った。 それでも目の前に突然現れた光景に夢でもみているのかと身をよじったが、未だ厳然と存在する手錠の感覚が、そうでないことを思い知らせる。 サイレンの鳴り響く、あの闇。 『寒かったろう。もう大丈夫だ』 自分を抱きあげたままの人物は、相変わらず優しげな声色と表情で、けれどその腕の中から自分を逃そうとは決してしないで、鋼鉄の黒城へと足を踏みいれる。 広い範囲にぐるりと巡らされた分厚い鉄の城壁を越えてゆくと、外観からたやすく連想できる、やはり要塞じみた鋼の巨大な建造物が現れた。 『此処は、ちょっと前に失脚した軍の指導者が、秘密裏に造らせていた場所だ』 頭の上から優しげな声が響いてくる。自分はぼんやりとそれに聞き入っているしかない。 『外国との戦がいよいよ激しくなるかもしれないときに、自分だけは安全な場所に隠れて、それでも政治に関わっていたいものだからこんな場所を造らせていたんだ』 国が焦土と化しても、人々が戦いと餓えに疲弊し苦しみ喘いでも、自分だけはここで安全に隠れ、戦局を弄び、美食と酒と女に明け暮れて命をまっとうするつもりだったのだ、と『彼』は言う。 当時のその国外の勢力との衝突は穏健派のごく常識的な交渉によって避けられたが、結果その指導者は失脚し先年極秘裏に銃殺されたという。 『それでも此処が破壊されずにすんでいるのは、この場所の存在を知っている何人かが、同じ立場になったときにいつか自分が利用してやろうと思っているからだ』 そんなことを言いながら彼は冷笑しつつ、足をすすめた。 誰かいるのかと思ったが、この建物はまったくの無人のようだ。 外観のいかつさに違わず、内部も鋼鉄と何やら小難しい機械に埋まったいかにもな場所であった。 決して短くない期間無人であったにも関わらず内部は清潔で、荒れた様子はなかった。人がいなくなってどれほどの時間が経ったのかは知らないが、空調や清掃のシステムは愚直なほど几帳面に作動し続け、いるはずのない人間のための気配りが行き届いている、ということだろう。 微かな機械の唸りや、空調の音がいやに耳につく。 しかし人の気配はない。この静けさは、墓所に似ている。 その中を『彼』に抱かれたままゆっくりと移動していた自分は、特別あちこちを物珍しそうに見回したり、もっとよく見ようと頭をあれこれ巡らせたりはしなかった。あの研究所のサイレンの中から立て続けにことが起こって、それを理解しようとしても頭が正常に動かなかったのだ。 ぼんやりしたまま自分の意志に寄らない移動をつづけていると、『彼』が自分の頭の上で苦笑を漏らしたので、ふと彼の視線が向かうとおぼしき方向をみやった。 そこはこのような鋼鉄と機械の中にあって、非常に懐古的――または前時代的な嗜好と作為をもって造られた場所だった。 天井は高く、まるで何かのホールのような広々とした空間である。もっとも奥まった位置には数段高くつくられた仰々しい舞台のような箇所があり、その背後には美しいドレープを持たせたエンジ色の天鵞絨を高く天井からかけ巡らせている。 その高い位置には王者のように豪奢な、これみよがしに金箔の張られた巨大な椅子がひとつ置かれている念の入れようだ。 ひと昔前の、偉大な王の謁見室に似せたその場。『彼』は心底それを冷笑していたようだったが、自分がそのときに考えたことはまったく違っていた。 人の血に濡れた深紅のマントを翻して、黒き死の玉座に登る。 鋼鉄の奥津城の王。 己をかたく抱く青年を見上げ、そうであったらなんと似合いだろうと、そんなことを思っていたのだ。 しかし『彼』は、玉座にふざけてでも座ることはそのときはせず、その隣に重たく垂らされた天鵞絨のカーテンをくぐっていった。 壁かと思われたそこには、別の部屋に続く通路があり、それをくぐっていった先こそ、もっともこの鋼鉄の要塞には似つかわしくない場所であったろう。 別の意味で非常にクラシックな装飾の部屋がいくつかあり、青年はひとつひとつを素っ気なく検分して回ったが特に心に惹かれるものはなかったらしい。ベッドルームだの食堂だの居間だのなんだの、どちらかと言えば古典的な洋館にあったほうがよく似合うだろうと言うつくりの、生活空間である。 贅を凝らしたその場所を、青年は非常に下らないとさげすんでいたようだった。 『大げさで無駄な飾りものばかりだ』 しかしまた、彼はこうも言う。 『だが外よりは暖かい。――英二が凍えずにすむ』 巨大な天蓋付きの寝台が据え付けられた寝室に足を踏みいれ、青年は英二をいかにもいとおしいと抱きしめた。 ダークグリーンのべルベットのカバーがかけられた寝台は、豪奢で美しくはある。しかしどこかなまめかしい雰囲気でもあった。おそらく純粋な睡眠のためだけのベッドではないのだろうが、その上にそっと気遣われて英二は横たえられた。 ベルベットは、ただひんやりとしていて冷たかったが、それでもようやく体から力を抜くことが出来る。 青年の腕の中に抱えられ、抱きしめられ続けて、どこか体のほうも不自然な体勢に緊張していたのだろう。ほうと息をつくと、途端に後ろ手になったままの両腕が痛み出した。 青年は英二を下ろしたベッドにそのまま腰掛け、布の具合をそろりと撫でて確かめている。 『柔らかくて暖かい。それに広い。英二がゆっくり眠るのにはいい』 相変わらず優しい表情だった。 彼はもともと非常によく整った美しい顔だちをしていたが、それがこれほどおだやかな、まるで見つめる相手を包み込むような柔らかい色合いをたたえているのもはじめて見る。 あれほど無表情で、いつも何かに怒っているような顔つきが嘘のようだった。 けれど笑ってはいても、英二を慰撫する手は優しくとも、今まで以上につかみどころはない。その表情のおだやかな美しさと、彼からたちのぼる血の匂いが英二を戸惑わせているのだ。 その英二はまだあの布にくるまれたままの状態だった。 青年が手を伸ばし、英二の髪を撫でてくるさまを見やっていたが、どうしてもそこから英二を解放するという考えには至らないらしいことに気づいて、やがてかすれた声で必死に哀願する。 ――おねがい。 『英二』 かすかな声に、彼は目を上げてこちらを見る。 ――大石、おねがい。 『どうした、英二』 ――腕が ――腕が、痛いの。 まだ手錠がかけられたままだ。その上から布でぐるりと巻かれている。盗み出されてきた宝のような状態で、英二は彼の前になすすべなく横たわっているばかりだ。 ――お願い、手錠を ――腕を 青年はああ、というように優しく笑った。 英二の体を片手で抱き上げるとそろりと布を外す。 しかしそのやりようはことさらゆっくりで、徐々に現れる英二の体を楽しそうに眺めやりながらのことだった。英二の腕や肩に少しだけ残っていた服の残骸は丁寧にむしり取ってくれたが、しかしいつまで経っても手錠を外してくれようとはしない。 背の中程を青年の手が支える。すくい上げられたような姿勢で、英二は彼の腕の力強さだけを頼りになんとか膝立ちできている状態だ。 がくりと喉はのけぞり、後ろ手に繋がれたままの両腕はだらりと下がったままだ。 彼への捧げもののような無力な自分の姿を、そのときに青年がどんな表情をして見ていたのか、英二は知らない。 顔をあげて確かめるだけの気力はなかったのだ。 ただ彼の吐息が英二の喉にかかり、頸動脈のあたりの皮膚を噛みつくように唇でくわえられて、かすかな悲鳴をあげただけだった。 血の匂いが色濃く残る、ざらざらした手触りの布ごと彼にのしかかられ、敷かれたベルベットの冷たさはすぐに判らなくなる。 それは――。 どんな男より優しく抱かれた夜だった。 しかし誰よりも――それまでの青年自身よりも、容赦なく屈服させられた情交のひとときでもあった。 懇願も哀願もなにひとつ彼に届かず、ただ翻弄されて、その甘さに狂った夜。 覚えているのは、熱い皮膚にからみつく、冷たく澄んだ――けれど、深い場所におぞましいよどみを残した空気。 つくりものの豪奢の、深いみどりいろ。 汗に混じる、血の匂い。 彼の声。 『英二』 それは世界の黄昏が始まった、最初の夜。 ひゅう、と耳元をかすめた音で目が覚めた。 風の音だ――乾いた土と砂埃、そして何年たっても消えぬ、焼かれた町の匂いを含んでいる。 覚醒と共にゆっくりと開けていく視界には、薄汚れて古ぼけたスニーカーとジーンズをはいた足が映り、つづいて白く乾いた大地が。さらに目を上げると、どこまでも続く白い瓦礫の転がる、じつに荒れ果てた光景が広がっていた。 砂埃の匂いが少年の鼻についた。 この町が滅ぼされ、焼き尽くされたのは3年も前だというのに、未だに煙臭い。理不尽に焼かれた町と人々の断末魔が、いついつまでも恨みがましく響いているようだった。 どうやら自分は夢を見ていたようだ、と少年は頭をふりふり起きあがる。 座り込んでもたれる形でうとうとしていたのだろう、不自然な姿勢でいたせいで首が少し痛んだ。 傍らに愛用のサブマシンガンを見つけて安堵すると、側に立っていた男を睨みつけた。 「あ、起きました?」 睨みつけられたほうはのんびりしたもので、逆にのほほんと聞いてくる。 「俺、寝てた?」 「少しだけです、5分ほど」 「なんだよ、起こせよ、桃」 不機嫌そうに言うと、少年は立ち上がった。ジーンズとスニーカーと、そうして額にくるりとバンダナを細く巻いた姿である。 やや大きめの紺のTシャツの上に濃いベージュのベストを羽織っているが、そのベストにはあちこち意味深なホルダーや隠しポケットがついていて、裏には防弾用の薄い金板まで忍ばせてあるものだ。 少年がこれを着込んでいるのは、決してデザインを気に入ったからではなく、実戦で十分に使いこなせて便利であったからだが、そのどこか幼いあどけない顔立ちには少々痛々しくもあった。 「もうちょっとしたらそうするつもりでしたよ。英二先輩よく寝てたから、なんかかわいそうでさ」 歯を見せて屈託無く笑う男をもういちど睨んでやったが、相手のほうは仔猫にじゃれつかれたがごとくで、気にもしていないようだ。 少年は彼をもうひと睨みすると、愛用のマシンガンの具合や予備の弾倉を確認しながら腕時計を確認する。 どうやらうとうとしていたのは5分ほどのようだ。 大きな瓦礫に身を隠すようにしてもたれかかり、予定時刻まで待機していたつもりだが、少しそこで寝入ってしまったのだろう。 瓦礫の影から身を起こし、そっとその向こうを見やる。 かつて町の中心部で、なかなかのにぎわいを見せていた場所のようだったが今は見る影もない。 自分たちは僅かに小高い丘の上のところから、瓦礫に隠れてそのかつてのメインストリートを眺め下ろしているのだ。 ここは「悪夢の二年間」のあいだに、『死の英雄』によって破壊された町のひとつであったが、早い時期に政府主導による復興の手が入った。 と言っても政府は、町を建て直して逃れ出た僅かな人々を支援しようと言う心づもりはさらさらなく、町の真ん中を縦断する道路を使える状態に戻しただけであった。 この町は周囲に山々や深い森を抱え込む険しい地形に囲まれていたが、かつて長い時間をかけて道路を整備し、地方からの情報や交通の便を飛躍的に向上させた経緯がある。 中央の政府の帝都もその利便さを買っていたのだろう、今までならば見向きもしない地方都市の――道路だけであったが――復興に、早い時期に着手したのだ。 瓦礫をどけ、隆起を平らにして奇妙にそこだけが整然とした道を見おろしながら、男は言った。 「疲れてんだったら、今日無理しないでよかったんスよ、英二先輩」 「ガキ扱いすんな」 そっけなく言ったが、相手は飄然としたものだ。 少年が『桃』と呼んだこの青年は、本名を桃城武という。 明るく、くったくのない性格の男だ。元気のよさと魅力に満ちた、良くも悪くも男性的なパワーに満ち満ちた人間である。 少年より年上で、けれど自分よりあとに『組織』に入ってきたものだから、少年のことをセンパイとからかうように呼ぶのだ。 精悍な顔つきであったが、大きく口を開けて笑うと子供のような顔になる。 「センパイ、子供でしょ。俺より」 「じゃセンパイって呼ぶなよ」 「俺、後輩だから」 相変わらず飄々と軽口をたたいている桃城だったが、彼は彼で少年のことを少々案じているのである。 少年の名を『英二』という。 今年で19歳だというが、その見た目は幼いものだ。14、5歳ぐらいで通るだろう。鮮やかな深紅の髪やそれが可愛らしく跳ねている様子や、ときおり見せる仔猫のような仕草はどうしてもあどけなく見える。 少女のようにまろみのある大きな目や愛らしい顔立ちのせいで、桃城などからすればよけいに『英二』は頼りなく、か細く思えるのだ。 『英二』には、その見た目の不思議も含めて少々の事情があるようだったが、まだ『組織』へ入って日の浅い桃城は、気になりつつもなかなか詳しいことを聞けないでいる。 「そろそろ時間ッスかね」 「今、1408」 「じゃあ、あと5分少々ってとこか」 桃城の呟きを、『あと4分30秒』と英二は冷たく訂正する。 「乾の予想だとそれぐらいだろ」 「ほんとにあのひとの予想って当たるんすかねえ、そんなに」 桃城は首をひねっているが、英二はもう既に体勢を低くして、マシンガンを構えている。 「30秒が命とりになることもあるんだから、あんまりなめてかかるな。たぶん今日のもロボットだとは思うけど」 「そうなんスか」 「人間相手より撃つのは気が楽だけどな。逆に機械だから、相手は人より容赦ないし間違いも少ないんだ。一歩間違えりゃこっちがやられる」 「――」 「姿が見えればまず俺が確認する。それまで出んなよ」 「へいっ、了解ッス」 「――……ホント大丈夫かよ、おまえ」 続けて何か文句を言おうとした英二だったが、桃城が英二センパイ、と鋭く呼んで顎をしゃくったので、英二も慌ててそちらのほうに目を凝らす。 地平線の遠くに黄色い土埃を上げて走るなにかがある。 予想通りだ。このままだと後4分少々で、メインストリートにさしかかる。 そちらを見やって、英二は再びマシンガンを構えなおした。早くなる呼吸を落ち着かせる。乾く唇を舌で湿らせる。 足止めをする。 データを奪う。 言ってみればただそれだけのことだが、銃撃戦は避けられないだろう。 いつもこのときは恐ろしい。怖くて緊張して、誰にも見えないのだろうが指先は小刻みに震えている。 けれど、これを乗り越えなければ。 乗り越えて生きなければ、自分は目的の場所にたどり着けない。『彼』のところへは、ゆくことができない。 だから歯を食いしばって、銃を持つ。 銃身が手に馴染んでも、弾を撃つ感覚は本当はいつも嫌いで仕方ない。 『英二』 夢の中の『彼』の声が一瞬頭をよぎったが、目を閉じてやりすごす。 うたた寝に見ていたあの夢のことは、ひととき忘れていなければいけない。そんなことをして気を抜けば、死ぬかも知れない。 夢の甘さに酔うのは今ではないのだ。 あの夢。甘く狂おしいひと夜の夢。 けれどあれを甘い夢というなら――そう、思ってしまうならば。 己は夢を見ることすら、罪になる。 あれは、世界が破滅へと向かう最初の夜。 己の甘い夢は、世界がみる悪夢のはじまり。 だから世界よ、どうか。 許さないで。 ――俺を許さないで。 |
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