静かな――本当に静かな空間だった。
 白と、緑。
 白は、この温室をぐるりと囲うガラスの屋根や壁を支える瀟洒な柱の色である。無骨な鉄製ながらそうと判らぬ具合に白く染められ、随所に美しい幾何学模様を遊ばせながら巨大な鳥籠の形に編み上げられている。
 あるいは、その中央に置かれた小さな噴水の石の白。そしてその側に置かれたベンチの白だった。
 その中にあふれかえる緑は生き生きとした若葉やあまり背の高くない常緑樹であり、爛漫と咲き乱れるとりどりの花々とともに見る者の目を優しく和ませる。
 静かな、本当に静かな――そして優しい空間だった。
 遠目からは巨大な鳥籠の形に見えるこの温室に置いては、匂いのきつかったり色の鮮やか過ぎたりする花はすべて注意深く避けられた。
 五感全てを絹のように柔らかく包み込む空間に仕上げられたその小世界のまんなかに、美しい主がゆったりと座す。
 少しうつむいた顔に柔らかい黒髪がかかっているが、どうやら彼は目を閉じているようだ。膝の上に置かれた濃緑の表紙の詩集は真ん中あたりで開かれたまま、ほっそりした指先を重しに、もうずいぶん長い時間頁を繰られていない。
 白いベンチの上には、天鵞絨の布や大きめのクッションなどが実にいい具合にレイアウトされている。長時間ここにいても苦にならないように気遣われたものだが、それが此処に座る者に穏やかな睡魔を呼んだらしい。
 ほんの少し身体を傾けて眠り続けている。
白くて裾の長いガウンのようなものを着ているせいか、どこか賢者のような印象があったが、一見したなら誰もがなんと美しい女性かと見入るだろう。
 たしかに妙齢ではあったが、そこで眠っているのは紛れもなく青年だった。
 優雅に座した姿のまま顔を僅かに横に傾け、彼は今、穏やかな午睡の中にいるようだ。



「ゆき!」
 静寂の鳥籠を、少年の声が乱した。
 唐突に響いた声だったが、それでも青年の眠りからの覚醒はゆるやかで、世にも美しい、どこか濡れたような黒目で声の主を捜した。
「ゆき、ここにいたんだ」
 きょろりと首を巡らせた少年は、すぐ青年の姿をみつけて駆け寄ってくる。
 ゆき、と呼んだのはこの青年のことのようで、まるで幼子が母親に駆け寄るがごとくとびついてくる。15歳ほどの少年だったが、その年頃の子供にしてはずいぶんストレートに、他人に対する愛着を見せるものだ。
 黒い綺麗な光沢の半袖シャツと洗い晒しのジーンズで、どこにでもいるような少年だった。目は大きく、少しつり上がり気味だ。成長すればなかなかの美形になるだろうが、今はまだ幼さが幅を利かせて、その顔立ちを愛らしい仔猫の印象に似せている。
「どうしたの、リョーマ」
 青年は柔らかな微笑でもって少年を迎えた。勢いよく飛びつかれたせいで、座った姿勢でも少し身体がゆらいだ。
「カウンセリングの時間じゃなかったの?」
「いいの」
「――いいって、真田が今朝も来て、くれぐれも遅れないようにって念を押していったのに」
「いいんだってば」
「怒られるよ。あいつ時間に遅れるのが一番嫌いなんだから」
「怒らせとけばいいんだ。俺、行きたくないもん」
「またそんなことを言って」
 ゆき、と呼ばれた青年は少し苦笑したが、この少年が約束ごとを守らないことを積極的に咎め立てる気はないようだった。
「本当にリョーマは、カウンセリングの時間がきらいだね」
「俺、会いたくないんだもん」
「――今日の先生は優しい女の先生だよ」
「女でも男でも一緒だ。上辺だけ笑ってて気持ち悪い」
 そういうと、少年はさらに『ゆき』にしがみついた。まだ細い腕の手首あたりには、銀色のプレートがぐるりと巻き付いていた。
 こまったこと、と苦笑しながら、『ゆき』が少年の頭を撫でていると、ふたたび茂みが揺れる。
 先ほど少年がくぐって現れた茂みの中から、今度は一回り背の高い若い男が現れた。小柄な少年にはなんともないその細道が、彼にはなかなかの隘路だったと見えて、白衣のあちこちに葉っぱや小枝を引っかけている。
「ほら、真田が来たよ」
「こなくていいってば」
 少年は『ゆき』にしがみついたまま、歯をむき出して真田とやらを威嚇する。
「やっぱりここにいたのか、越前」
 低い、怒ったような声で真田は少年を睨みつけた。
「幸村は実験がおわったところで、疲れているのだから邪魔をしないようにとあれほど言い聞かせたのに――すまんな、幸村」
 真田は、思わぬ柔らかい口調になってその美青年にちょっと会釈らしきものまでしてみせた。
「俺は別にかまわないけど」
「まったく、今朝もあれほど部屋で待つように言い聞かせたのに。さ、越前、あまり時間がないんだ。いくぞ」
「やだ」
 少年の返答は実に簡潔だった。
「こら、越前」
「やだよ」
「やだ、じゃないだろう」
「やだったら、俺いかない」
「何をまた、らちもない我が儘を」
 真田はたちまち眉を険しくした。
「今日は必ずカウンセリングを受けると約束しただろう」
「そんなの柳と真田が勝手に言ってきただけじゃん。俺、受けるなんて言った覚えない」
「あらかじめ申し渡しておいたことに、今更いやだもなにもないたろうが」
「やだって。俺、ゆきとここにいたいの」
「どうしておまえは、いつもいつも幸村を隠れ蓑にして、そうやって我を通そうとするんだ」
 言葉だけではらちがあかないと思ったのか、真田は足早に青年――『ゆき』こと幸村の側へより、少々強引ながら少年の手を取る。
「やだっ」
「ほら、もういい加減にしろ」
「やだって、やだっ! ここにいる、誰とも会いたくない、やだったらやだ!」
「越前!」
「真田なんか嫌い、だいっきらい、向こういけ! 俺にさわんな、やだっ」
 このなりゆきを幸村は相変わらず静かに見守っていたが、やがて自分にしがみついて動こうとしない少年の背をそっと撫でると、いかにもしとやかに真田の腕にその手を乗せた。
「真田」
「――駄目だ、幸村」
 真田はにべもなく言い放った。
「こんなことをくりかえしていては、ますますこれがつけあがるだろう。きちんとした日程もこなせないようでは、どちらにしたって最終的に越前に不利なことになってしまうんだ」
「お願い、真田、俺がよく言い聞かせるから」
 幸村は切なそうな目で、彼を見上げて来る。
「今日の処は、俺が代わりにちゃんと課題をこなさせるから。こんなに嫌がっているものを、無理に強いたら可哀想だろう?」
「しかし、幸村」
 真田はまだ少年の腕を離そうとしない。
「お前だってようやく起き出せるようになった処だ。身体の具合のよくない、お前のほうが気遣われるべき処だろうが」
「俺なら大丈夫だから――お願いだから、真田」
「――」
「この子がこれほどカウンセラーを嫌がるのだって、もとをただせば君たちのせいだろうに」
 幸村は悲しげに言った。
「可哀想にね、リョーマ」
 そういうとさも愛しげに、少年の髪を撫でさする。
 少年はまるでそれが当然の権利と言わんばかりに、彼にぎゅっとしがみついて離れようとしなかった。
 真田は少年をぎろりと睨みつけたが、幸村の腕の中でよしよしと宥められているとまるで愛らしい猫の子だ。
 もちろんこの光景を誰が見ているわけでもないが、それでも傍目には真田の方が人でなしの鬼に見えることだろう。
 なにより悲しそうな幸村にすがられては、真田に勝ち目はないのだ。
 真田は、まるで自分に何かを言い聞かせているかのように目を閉じると、小さな連絡用端末を取り出して数字を幾度か選んで押した。
 それにはすぐ某かの応答が在ったようだ。
「真田だ。今日のコード『Loki』のプログラムを変更。カウンセリングは中止。『Friggjar』と共に待機とする」
 何か聞き返されたらしい真田はちらりと二人のほうを見たが、相変わらず泣き濡れたような美しい黒目の幸村と、それにきっちりしがみついている少年とに、ふたたびため息をついた。
 ところが幸村に抱えられた腕の中か少年がじつにうれしそうに、小悪魔とは斯くありやと思わせるような挑戦的な微笑で真田を見やっているのと目が合う。
 気づいた真田は思わず一歩を踏み出したのだが、少年の表情になど気づかない幸村がよしよしと彼を抱え込んで背を撫でたりするものだから、真田はもう何も言えなくなってしまった。
 この上ここで彼のことを責め立てたりしたら、きっと明日から幸村には口も聞いてもらえなくなる。
 そうこうしている間に、返答を促す声が端末の向こうから聞こえたので、真田は煮えくりかえるはらわたをなんとか宥めながら、できるだけ平静を装って伝えた。
「『Loki』の情緒不安定な為、カウンセラーの安全を考慮してのことだ。代わりの日程は改めて連絡する――ああそうだ、たいしたことじゃない、疳の虫だ。ちょっと放っておけばいい」
 だれが疳の虫だ、と言いたげな少年の視線は無視して真田は連絡用端末を切った。
この程度の意趣返しくらい許されていい。
「幸村」
「判っているよ。ちゃんと言い聞かせて、あとで部屋へ移動するから。必要な資料を俺の部屋の端末に送っておいてくれる」
「――ああ、そうしよう」
「ごめんね、わがままを聞いてくれて。……柳はまだ会議中?」
「もうじき終わるだろう。毎度毎度老人たち相手にご苦労なことだが」
「そう。あとで柳にも、俺からよく言っておくから」
「それは必要ない。あいつがいない間は俺が責任者なのだから、弁明も責任も俺ひとりの範疇だ。お前には何の責任もない」
「本当にごめん、真田」
「いや」
 まだ何か言いたげな真田だったが、幸村はそのまま少年を宥めるほうに気を向けてしまったので、しばらくそこで途方に暮れたようにいた後は、大人しくこの鳥籠の温室から出ていくことにしたようだった。
 草を踏み分けるかすかな音が遠ざかる。
 ふたたびの沈黙を取り戻した鳥籠の中で、幸村は小さな声で少年に囁いた。
「リョーマ」
「――」
「リョーマ、真田なら行ってしまったよ」
「――」
「もう泣き真似はいいから」
 ぴく、と少年の身体が揺らいだ。
くるりとした双眸が幸村を見上げてくる。
「――……バレてた」
「バレずにすむわけがないだろう」
 おかしそうに幸村はわらう。
「真田も気づいていたよ、きっとね」
「――……別にいいもん」
 リョーマは身体を起こすと、そのくるくるした目で幸村を覗きこむ。
 自分が幸村に咎められることなどあり得ないと信じ込んでいるようで、驕慢な態度で再び幸村の胸の中に身を投げ込んだ。
「俺、真田も柳もきらいだもん。ゆきが好き」
「おやおや」
「ゆきがいい。ゆきはいい匂いするし綺麗だから」
「君の嫌う真田もいい人間だよ。俺達のことを案じてくれている」
「……」
「でもまあ、人間だからねえ、所詮は」
 幸村はかすかに笑う。
「リョーマの言いたいことも、たぶん俺の方がよく判ると思うよ。――真田には悪いけどね」
「それは」
 無邪気に顔をあげた少年は、目前の美貌を覗き込んだ。
「ゆきもドールだから?」
「まあそれもあるだろうけど」
 おかしそうに幸村は笑った。
「俺達の本当に言いたいこと、伝えたいことはたぶん真田には、一番だいじなところで伝わらない気がするんだ。――気がする、だけだけどね」
「――……?」
「逆もまたしかりだよ。真田が言おうとしていることの、本当の意味が俺達にはきっと分からない」
「ゆきにもわからないの」
「たぶんね」
 少し意味を掴みかねている少年の頬に、幸村はまるで母親のようなキスをする。
「でも心配しなくていいよ。真田なんかはともかく、俺は側にいるから」
「――」
「できたら死ぬときもいっしょがいいね、リョーマ」
「――」
「どんな死に方させられるのかは判らないけど。……無茶な実験で責め殺されるか、老人達の生命維持の為にバラバラにされるか、それとも戦場に送られるか」
「……」
「でもどんなことになったって、そばにいてあげるから大丈夫だよ」
 くすっと幸村は笑って、少年の髪を撫でた。
「さ、ちょっとだけお昼寝しておゆき、リョーマ」
「いいの? 課題は?」
「かまうもんか。真田のせいで無茶なおっかけっこさせられて、リョーマも疲れているんだから。少し眠って休んだほうが効率もいいんだよ」
 促されるまま、少年はベンチの上に身体を横たえて幸村の膝に頭を乗せる。布をかけてくれる手の優しさにうっとりとなりながら、少年は目を閉じた。
「でも、ゆき」
「ん?」
 彼の美しい手に髪をすかれ、うとうとしはじめた少年はぼんやりと呟いた。
 本当は彼自身、そんなことを口にするつもりはなかったかもしれないのだが、幸村の言葉が、彼の中の何かを思い出させたようだった。
「あいつもそう言ってたんだよ」
「――あいつ?」
「ずっといてやっから心配すんな、って。……ばかみたいにでっかい口あけて笑って」
「――」
「なのに」
「リョーマ?」
「――……うそつき」
「……」
 少年はそのまま、すやすやと寝入ってしまった。
 彼の言葉を聞き取った幸村も、そのことで少年を慰めようとは思わなかったようだった。
 ここで自分があれこれと言うよりも、睡魔の手に彼の精神を委ねた方が余程いい。
 幸村の膝の上で、安心したように寝息をたて始めた少年の髪を撫でながら、彼はその黒目でぼんやりと空を見上げた。
 いつもたそがれたような、疲弊した空。
 あれが青いのが本当だと、聞いたことがある。
 それはそれは美しい、どこまでも澄み渡る、空の青。
「青い空、なんてね。そんなもの見ることがあるのかな――死ぬまでに」
 唄うように彼は呟く。
 遠い場所でどれほどの街が瓦礫となっていようと、人々が死傷しようと。またそのほとんどは復旧が追いつかず、手つかずのまま放置された形になっていようとも。
 この緑と白の鳥籠の中は穏やかで、贅沢な静謐に満たされている。
 彼らの嘆きも悲劇も、ここまでは届いてこない。
 幸村のつぶやきは、その静寂にやがて熔けて消えるだろう。

「ドールの目にも、それは綺麗だと思えるんだろうか」
 




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